黒沢杏奈がデビューするまで(2)
明日香は3人の高校生に囲まれて歩き始めた。どうやら嫌々ながらも捜査班の仕事を引き受けてくれるようだ。彩那は嬉しくなった。
下校する中学生らがそんな一団に訝しげな視線を投げかけてくる。そんな時、明日香がひとたび睨みを利かせると、誰もが蜘蛛の子を散らすように逃げていった。やはり彼女は学校で怖がられている存在らしい。
3人の誰もが彼女にどんな言葉を掛けたらよいのか分からず、しばらくは無言のままだった。
そんな重苦しい空気を一掃したのは、龍哉だった。
「ひとつ瀬知に訊きたいのだが、黒沢杏奈のダンスはアラセブで通用するかな?」
あまりにもストレートな質問に、彩那は面食らった。
「それは無理です」
明日香も正直に答える。
「やっぱりな」
彩那は何か言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。それは当然の評価に思えたからである。何を言ったところで事実は変わらない。
後輩はそんな先輩の落ち込んだ様子を察してか、
「時間が足りなさすぎます」
と言った。
「明日香ちゃんはそれだけ踊れるようになるまで、どのくらい掛かったの?」
奏絵が興味深げに尋ねた。
「6、7年です」
「こいつの場合、たったの数日だからな。無理もないか」
龍哉は諦め切った口調で言った。
なおも彩那が黙っていると、
「でも、前よりはよくなったと思います」
明日香はぼそっと言った。
デビューを目の前にして、ますます気が重くなってきた。こんな状態で、果たしてアラセブのメンバーとうまくやっていけるのだろうか。
一団が辿り着いたのは官舎内にある小さな公園である。中学生の明日香にとって、ここは自宅と目と鼻の先なので都合がよい。
龍哉がバッグからCDラジカセを取り出して、ベンチの上に置いた。
彩那は制服の上着を脱いだ。明日香もセーラー服を脱いで体操服姿になった。二人の準備が整ったところで、龍哉はアラセブの新曲を流した。
曲に合わせて二人が踊り出す。龍哉と奏絵がそれを見守る。曲が終わる度に、明日香が熱心にアドバイスを与えてくれた。
練習を続けていると、どこからか子どもたちが集まってきた。近所の小学生である。中には学校帰りの子もいて、ランドセルがずらりとベンチに並んだ。
彼らは彩那のぎこちないダンスを見て容赦なく笑ったが、ひとたび明日香が踊り始めると水を打ったように静まり返って、自然と手拍子を打ち始めた。
不良娘は踊っているうちに、心が軽くなってくるのか、時折女の子らしい表情を見せるようになった。父親と死に別れ、不安定だった心が少しずつ落ち着きを取り戻してきたようだった。
彩那はそんな様子を目にして、彼女をダンスのコーチにしたのは案外正解だったかもしれないと思った。
いよいよデビュー前日。
夕方は練習を早目に切り上げ、捜査班のメンバー3人は明日香とともに、バスと地下鉄を乗り継いで都内のある場所へと向かった。警察の官給品であるスマートフォンの道案内を頼りに、迷うことなく到着することができた。
7階建てのマンションである。
周りは高層ビルが競い合って建っていて、それらと比べると古めかしい感じは否めなかった。
「黒沢杏奈とマネージャーには、しばらくここに住んでもらいます」
フィオナが事務的に言った。
「ちょっと待ってよ。もしかして龍哉と二人だけで暮らすの?」
新人アイドルは慌てて専用回線に向かって声を張り上げた。
「はい、そうですが」
指令長は平然と言ってのける。
「学校はどうするのよ?」
「毎日、そこから通うことになります」
「ええっ」
「随分と遠くなっちゃったね」
隣で奏絵がつぶやいた。
「どうして、こんな隠れ家みたいな所に住むわけ?」
「デビュー後は、何が起こるか分かりません。もし犯人に尾行でもされて、本当の自宅を知られる訳にはいかないからです」
「ふうん」
「それに、そこはテレビ局から近いので、何かと便利なのです。ちなみに警視庁本庁舎の近くでもあります」
「ああ、そう」
フィオナに指示されて、4人はエレベーターに乗った。
3階で降りて、廊下を突き当たりまで進むと、ドアの前で菅原刑事が待っていた。
「みなさん、お部屋はこちらですよ」
そう言って鍵を開けてくれた。
高校生3人は我先にと部屋へ雪崩れ込んだ。
2LDKの間取りである。
カーテンを開くと、小さなバルコニーがあった。すぐ隣には高層ビルが建っているので、日当たりはあまりよくない。
「結構、綺麗なところじゃない?」
奏絵がはしゃいだ声を上げた。
「そうねえ、部屋は別々だし、お風呂もちゃんとついてるしね」
彩那は間取りを確認した上で応えた。
「こんな都心で暮らせるなんて、やっぱり芸能人って素敵だわ」
友人は興奮を隠せない様子である。
「フィオ、荷物はどうするの?」
彩那が訊くと、
「明日の昼までに、私が運んでおきますよ」
すぐ目の前で、菅原刑事が答えた。
「二人とも、家に帰ったら必要なものをまとめておきなさい」
とフィオナからの指示。
「炊事や洗濯は?」
「それは、私たちの担当よ」
奏絵が明日香と肩を並べて答えた。
「お母さんも、できるだけ顔を出すから」
梨穂子が回線の向こうで言ってくれた。
家族、友人、そして明日香がサポートしてくれることが嬉しかった。明日からアイドルになるのは荷が重いが、心がほんの少し軽くなった気がした。
「ありがとう、みんな。私、頑張る」




