逃げるお嬢様
荘厳な音楽と共に、まず現れたのは望月さんでした。ダンス対決の時と同じ様にきちんと髪を撫でつけた燕尾服で姿を見せると、女性陣のざわめく声が聞こえ出します。
やはり王子と称されるほどの方ですから、その纏う空気、歩く仕草のどれをとっても人目を惹かれるのでしょう。
彼が大広間の真ん中へとたどり着くと上座にあるもう一つの扉が開かれました。
そこからは、純白のレースに彩られた美しいウエディングドレス姿が見て取れました。幾重にも重ねられた長いベールですっぽりと上半身を覆われているお陰で、表情どころかお顔が全くというほど見えませんが、あの見事なレースのロングトレーンドレスは紛れもなく、あのアロウズのサロンで見かけたドレスだったのです。
「蝶湖さん……」
ゆっくりと、一歩ずつ、望月さんに近づいて行くと、ざわめいた声も遠くなるように、空気までもが静まっていくようです。
そうして二人が手を取り合うと、可愛らしい小さな子供たちが近寄り、さっとドレスのロングトレーンを取り外しました。
「見てな。今から一曲だけ二人でダンスを踊る。そしたら月詠蝶湖は退場して、『月』に帰るんだ」
隣に立っていた三日月さんが、そっと私の耳打ちされました。
それでは、ダンスを踊り終わって大広間を出ていかれるまでの短い時間が、蝶湖様と私が接触できる最後のチャンスなのでしょう。きっと、その後では蝶湖様と会話をするどころか、見つけることすら叶わない気がします。
ぎゅっと手のひらに力を込め深呼吸をしました。
たった一つの所作も見逃さないようにと、静かにお二人のダンスを見守るのです。
そして、ゆったりとしたワルツの音楽が流れてくると、ドレスのベールも上げることなく、そのまま二人踊り始めました。
お二人の息の合った優雅なステップに、周りの皆さんが息をのみます。ほうっというため息がいたるところから漏れ聞こえてきます。確かにうっとりするほど美しいダンスですが、あれは――――
蝶湖様のダンスではありません。
蝶湖様は今まで一度もダンスを踊ったことがないと、望月さんは言っていました。私も約束はしたものの、結局ダンスを一緒に踊ることはなく、その踊る姿を拝見したことはありません。
それでも断言できます。あれは、蝶湖様のダンスではないのです。
ステップのタイミング、溜めの長さ、私の目の前で実際に踊ったダンス。あれは、絶対に、
「うららっ、ねえ、終わっちゃう!いいの?」
雫さんの慌てた声に我に返ると、丁度ダンスの最後のステップが踏み終わったところでした。
あまりの幽玄さに、誰もがその余韻に浸っています。
そして二人の手が静かに離され、その真っ白なウエディングドレスが望月さんに背を向けると、ゆっくりと下手の扉に向かい歩いていくのです。
その間、何度でも声をかけるチャンスはありました。雫さんが、私の肩に手を置き、うららと呼びかけます。
それでも私は動きません。
だって、蝶湖様ではないのです。
あの方は、新明さんなのですから。
顔を完全に隠し、蝶湖様の代わりにウエディングドレスを着た新明さんが、大きく放たれた下手の扉から退場しようとしたその時、何故か驚きの歓声が上がりました。
皆さんの視線を追うようにのぞき込むと、燕尾服に身を包んだ一人の男性がその同じ扉からすれ違うようにして姿を現したのです。
その男性は、蝶湖様と同じ顔をして、同じ様な気品を纏い、そして全く違う名前で挨拶されました。
「この帰月の儀式を持ちまして、月詠蝶湖は月に帰りました。当主代理、月詠湖月の名において、今後の望月、月詠の両家、及び皆様方の発展を祈り、儀式の納めの言葉と代えさせていただきます」
そう、美しい声が朗々と儀式の終わりを謳い上げると、一瞬の沈黙の後、割れんばかりの拍手が響き渡りました。
何が起こっているのかわからない私と雫さんは、周りをきょろきょろと見回します。すると、ああ、あれが嫡男のとか、お帰りになられたなど、皆さん口々に歓迎の言葉を口にされていました。
全く様子がわからず、この説明が欲しいのですと、三日月さんへ顔を向けると、後の方から大変良く通る声で私の名が呼ばれました。
「うらら!」
「っ……蝶湖さん」
寄る人波を大雑把にかき分け、私の方に微笑みかけながら近寄ってこられるその方は、紛れもなく私の知っている蝶湖様です。
けれども、私の知らない蝶湖様でもあるのです。
燕尾服をきっちりと着こなし周りの大人たちをあしらうこの人は誰ですか?
若い女性の熱い視線を一斉に浴びるほど美しいあなたは誰なのですか?
私の方から会いたいと、無理をお願いしてここまで来たというのに、ようやくここで会うことが叶ったというのに、あまりにも変わられてしまったその姿が、何故か急激に怖くなってしまいました。
「会いたかった、うらら」
私もです。毎日取って貰えることのない電話をかけるほどに、会いたかったのです。
けれども、どうしてもその一言が口から出てくれません。
「うらら?」
返事の出来ない私の様子に、怪訝な面もちでもう一度名前を呼ばれます。
なんと答えればいいのでしょうか。
湖月さん?きっとその名が正しいのでしょうが、まだ私の中ではあなたは蝶湖様なのです。
思いがけない方向からの、思いもよらない格好での再会に、酸欠の金魚のようにぱくぱくと口を開くだけで、息が出来なくなりそうでした。
ですから、
「ごめんなさい!」
なんとかそう言い捨て、形だけのお辞儀をすると、足早にその場を逃げ出してしまったのです。




