混乱のお嬢様
はると君の剣道の試合は何度か見学したことはありましたが、こんなに胸がドキドキする勝負は今まで一度もありませんでした。
ただでさえお相手が蝶湖様ということに加え、はると君の剣先にも、いつも以上の緊張感が走っているように見えます。
お互いの強い打ち合いに、格子にかけた私の手にも力が入りました。
負けないで。
不意にその言葉が浮かびます。
え?今の、私……?
一体どちらに向けた言葉なのでしょうかと、自問自答しようと下を向いたその時、ダダンッと激しい踏み込みの音が聞こえました。
あっと思う間もなく決まったらしいその勝負の行方は、どちらが何を取ったのかも見えませんでした。
けれども今、蝶湖様が仰向けになり倒れているということだけはわかります。
「蝶湖さん!」
慌てて玄関に向かうと、そこには少し苦々しい顔をされた新明さんが道場の扉の前に立っていました。先ほどまで中で審判をされていたようにみえましたが、素早いのですね。もしかしたら私が外で見ていたのに気づかれていたのかもしれません。
けれどもそんなことはどうでもいいから、早く蝶湖様の所へと向かわなければと、玄関で靴を脱いだ所で新明さんに声をかけられたのです。
「今は行かない方がいい」
「どうしてですか?蝶湖さん、怪我をなさってるかもしれないのですよ?」
「大したことはない。それよりも、君はこのまま帰りたまえ」
勝負の際、防具はきっちりとつけていらっしゃいましたが、あんなひっくり返り方をしていて、何もないとはいえないでしょう。せめて、ちゃんと無事な姿を確認するまでは帰れません。
「嫌です。それにもし、はると君が蝶湖さんへ怪我をさせたとしたなら、余計に帰るわけにはいきません」
新明さん相手にそう言い切るのと同時に、玄関横に手洗い場を見つけたので、急ぎ手持ちのハンカチを濡らします。
「どうしても?」
「当たり前です」
この人は何を言っているのでしょうかという思いと、早くどいて下さいと焦る気持ちで、つい言葉がキツくなりました。
私の態度が変わることないと理解していただいたのか、小さなため息とともに扉からようやく一歩引いて下さいます。
「自分は、これ以上君に立ち入って欲しくない。それだけは覚えておいて欲しい」
その押し殺したような声で付け足された言葉を聞き流し、道場の扉を開け、二人の名前を呼んだのです。
「蝶湖さんっ!はると君!」
私の声に、とても驚いたように目を丸くする二人の顔がありました。
はると君はまだ面を外しただけでしたが、蝶湖様は防具も面手拭いも全て取り外し、道着だけの姿で床に座っています。
「……姉ちゃん、何でここに?」
「何で、じゃありません。それは私の方が知りたいくらいです」
私にとっての一番の疑問は、何故はると君が、蝶湖様と剣道で勝負をしているのか?ということにつきます。
けれども今はそんなことよりも、蝶湖様が怪我されていないかどうかの方が最優先なのです。
近づきながら、座る蝶湖様を見下ろせば、道着の合わせを解き大きく開かせた胸元の上、喉のすぐ下の辺りが赤くなっていました。
ああ、もう。やっぱり怪我をされてるではないですか。
慌てて蝶湖様の前に座り込み、濡らしたハンカチをそこに当てました。
「いっつ……」
「痛みますか?それとも冷たいですか?けれども少し我慢して下さいね。早く冷やした方がいいと思いますので」
「う、うらら?あの……」
いつもよりかなり掠れた声で、私の名前を遠慮がちに呼ばれる蝶湖様です。
はい?と答え、顔を覗き込むと、何故か挙動不審になり、目を逸らされました。
不思議に思っていると、後ろから躊躇いがちな声がかかります。
「あ、あのさ……姉ちゃん?」
「何かしら?はると君」
「いや、そのー。えっと、今日の、こと……だけどさ」
はっきりとしない言葉で、ぐだぐだと何かを言いかけているはると君にひどく腹が立ちました。
自分でも、滅多に怒る方ではないと自覚していますが、今日ばかりはそうもいきません。
「はると君……」
「っ、はいっ!」
「お姉ちゃんが、怒ってるのわかるわよね?」
「あっ、や……っはい」
無断でこんな勝負をしでかしたこと、そして怪我をさせてしまったこと、言いたいことはいっぱいあるのですが、私が一番怒っているのは、
「どうして、蝶湖さんのこと知っているって教えてくれなかったの?」
「へ?」
「お友達だと紹介したでしょ?どうして勝手にこんなことするの?」
「えっと……その、ゴメン。けど……」
普段ほとんど怒気をあらわにすることのない私の勢いに押されたのか、訳も分からないまま、ただ謝っているように見えます。
そんな態度のはると君に、ついカッとなり、振り向きざま大きな声で言い放ちました。
「ゴメンじゃないわ!こんな……女の子にこんな怪我までさせて。はると君、何考えてるのっ!?」
シンッ……と、空気が一瞬で冷え固まる音が聞こえた気がしました。
そして、何かがおかしいと、悟ったのです。
先ほど、蝶湖様の喉下に濡らしたハンカチを当てた時のことです。
今まで隠れていることが多かったそこに、何だか少し出っ張りがなかったでしょうか。
そして、開いた胸元には逆に、かすかなふくらみすら何も見当たりませんでした。
「ちょ、蝶湖様?……道着の下はTシャツを身につけられた、方が……よろしいかと?」
はると君の方を向いたまま、そう私が蝶湖様へと伝えると、冷やすためにハンカチを当てた喉の下が、グッと何かを飲み込んだように動きました。
「姉ちゃん、ちょっ。それ……あの……」
焦ったようなはると君の声が、妙に頭に響きます。
ギギギと、まるで玩具のように首を動かし、蝶湖様の方へ顔を向けました。
「うらら……」
「蝶湖、さ……ん?」
そこには、確かに私の知っている蝶湖様の顔がありましたが、何だかとても辛そうな表情をしています。
嫌だわ、そんな顔しないでください。そう言いたかったのに、気持ちが言葉になって出てきませんでした。
それどころか、混乱した頭の中の単語が、ぐるぐる渦を巻いたままこぼれ落ちてしまいました。
「………………は、男の、方?」
真正面にいらっしゃる方には、うっすらですが確かに喉仏が見当たります。そして、胸元は完全に女性のものではありません。
突然の事実を突きつけられ、狼狽えた私はその一言だけを残し、その場を離れたのです。
後ろから、私の名前を呼ぶ声が聞こえましたが、それも無視して、ただひたすらに逃げるように――――




