気がつけば
しばらくの間、俺は休憩室の椅子に項垂れるように腰をかけていた。
……やっと正気を取り戻した。
『何時間も戦っていた気がしたが……』
寝起きの気怠さを全身に感じながら、虚しさにも似た脱力感に襲われていた。
俺は、ゲームを始める前、この休憩室で《グリフ王国》の情報誌を何度も読み返し、期待で胸が一杯だったことを思い出した。
休憩室の壁掛け時計は、AM六時四十一分を示している。
実際は三十分間の体験だった。
2045年現在、十年前、二十年前と比べて脳に関する技術が大きく進歩した。特に記憶や思考を操作する技術発展は凄まじい。その技術が近年、ゲームに応用され、脳の動きをリアルタイムに読み取り、そしてリアルタイムに脳へ感覚を送るゲーム《グリフ王国》が登場した。
このゲーム《グリフ王国》のアルゴリズムを考案したのは中村和夫、日本人だ。いや、元日本人だったというべきだろう、中村は数年前、勤務していた会社と特許権で争い、「日本の司法は腐っている」と啖呵を切って日本を出て行ってしまった人物である。
その後、中村はアメリカで永住権を取得しベンチャー起業家として成功した、フルダイブ型VRマシンの第一人者として世界に名を轟かせた。
以前から、断片的な情報を脳から読み取ったり、単純な情報を脳に送ることには成功していたが、複雑な脳の動きに合わせて、現実世界と錯覚するようなリアルな映像や皮膚の感触を脳に送れるようになったのは、つい最近の出来事なのだ。
中村の奇抜な発想の賜。
それは、脳とのリアルタイム同期、膨大な情報の瞬時転送。
これらのアルゴリズムがつい最近開発され、フルダイブ型VRマシン・商品名《グリフ王国への道(グリフロード)》が制作され、公開に至った。
「なぜ、アメリカに渡った中村さんが日本に《グリフロード》を作ろうと思ったのですか?」
という雑誌のインタービューに、中村は、こう答えている。
「脳の伝達経路は、文化や生活習慣によって変化するため、私、中村が日本人ということもあり日本語で考える頭脳と相性がよく、そのため、世界に先駆け、ここ秋葉原にグリフ王国への道(グリフロード)を建設しました」
雑誌には、フルダイブ型VRマシン・グリフロードが掲載されている。
三帖ほどの小部屋に一人用のリクライニングシードが置かれ、その奥には、いくつもの太いケーブルとつながった巨大なコンピュータがある。巨大といっても程度があるが、このコンピュータはビルが丸々必要になる巨大なものになっている。
そのグリフロードを設置するために立てられたビルの見取り図も紹介されている。
今、俺が居る場所。地上十五階・地下三階、デパートほどの広さがあるこのビル全体で百二十八台|(百二十八人分)しかグリフロードにアクセスできない。
この百二十八台とは別に一階と二階には、普及目的として、演算能力が一%にも見たない簡易装置が置いてあり、この装置で、グリフロードの使い心地を実際にユーザが体感できるようになっている。
俺がさっき体験した攻城シナリオがそれにあたる。
大きな箱も、一緒にいた少女も、俺の脳に送りこまれた単なる電気信号でしかない。
『あの少女も電気信号だということが、信じられない』
画期的なゲームであるだけに、厳しい意見もある、雑誌もいくつかの問題点を掲載している。
遊びで脳を弄る。
人によっては、ぞーっと寒気がするだろうが、病院などで使用する医療機器をそのまま使っているため健康面での問題はない。しかし、インターネット上には、このゲームが脳に深刻なダメージを与えると問題視する書き込みが多いこと。
そして、もう一つ大きな問題として、処理演算が膨大なため、巨大なコンピュータと大量の電気を消費する。それに医療機器を使うとなれば、必然的に利用料が極端に高くなる。
利用料は一時間六万円もする。
お金に余裕がある人しか、利用できない娯楽であること。
どちらかといえば、俺は働く貧困層寄りなのだが、特に趣味もなく、独身だから、このゲームにお金が使える。
今日の体験版でも三十分五千円と、俺にとっては十分高く感じる。
いきなり六万円を出す勇気がなかったので、今日は、体験版をプレーした。
体験版はコンピュータの処理能力が、かなり低い。だから、全身の感覚や視覚を処理できない、あのような箱の中の映像しか再現できないし、皮膚感覚も風や熱といったものが処理できない。
それでも、十分楽しめた。
『あの少女の抱きついた感覚が今でも残っている。あの少女の重みが残っている。あれがコンピュータから脳に送られた情報だとは、今でも信じることができない』
意識がしっかりし、気持ちの整理がついた俺は、
椅子から立ち上がり一階エントランスへと歩く。
二階まで吹き抜けとなっている広いエントランスフロア、建物の割には収容人数が少ないためか、この広いエントランスフロアが、一層広く感じる。
俺は、建物から出る前に、サービスカウンターに置いてある端末装置のディスプレイに向かって話しかけた。
「空き状況は?」
「はい。空き状況を確認いたします。五日後のAM三時に空きがございます」
ディスプレイには、以降の空席状況がリストとなって表示されたが、どれも、二ヶ月以上先ばかり。たぶん、この五日後は、直前に誰かがキャンセルしたのだろう。
俺は迷うこと無く、一時間六万円もするゲームの『申込』ボタンを押した。
『一日も早く、あの少女の笑顔が見たい』
建物の外は十分明るくなっているが、まだ朝の七時。
今日の体験版をプレーするためだけに、始発の電車に乗り、ここ秋葉原に来た。朝六時の時間帯しか予約が取れなかったから。大人気で予約を取るのに苦労する。
もう他にすることがない。こんな早朝では書店もゲームセンターも開いていない。
家路につく。
電車のロングシートに座り、何度も見た《グリフ王国》の情報誌を眺めながら、ゴトンゴトンと揺られていた。
まだ、興奮冷めやらないが、しかし、よくよく考えてみると、非日常的なことがいくつも思い当たる。
『
もう、あの少女と親しく会話してる時点からして、俺には現実離れしている。
あんな親切な少女が現実にいるわけがない。少なくとも俺は会ったことがない。
というか、あそこまで知っていれば、ふつう自分でするはずだ。
それに、現実世界であそこまで親切に教えられたら、もう、アトラクションなのがバレバレだし、現実世界であそこまでおだてられたら、逆にバカにされているようで嫌味に感じるだろ。
』
勇み立つ衝動を抑えるかのように自嘲気味な考えになる。
しかし、
《グリフ王国》は、半分夢の中。
あの少女《IgC》に下心などない。
俺の素直な考えで行動ができる、現実を忘れ、あの世界の住人になりきれる。
《IgC》(Intelligence guide Character:情報案内キャラクター)、《グリフ王国》の世界を案内・誘導してくれるキャラクターに付けられた用語。以前からあるNPCより、段違いに賢い、状況に応じて自分で考え、行動する。まあ、実際は、機械学習を使った条件付けで動くのであって人間のような感情や個性が《IgC》にあるわけではないのだが。
だが、あの少女の感触を思い出すと、自然と笑みが溢れてきた。
『電車の中』
と、ニヤついた顔をもとに戻し、意識を車内に向いた。
『あの少女の名前を知らない』
ふと思った。
スマホを取り出し公式ウェブサイトにログインする。
パートナー《IgC》(一緒に冒険をするキャラクター)の名前欄
は、未登録となっていた。
主人公(ご本人様)のニックネーム
も未登録になっていた。
『だからお兄ちゃんとしか呼ばなかったのか』
俺は、
あの少女に『ラナ』と入力した。
主人公には俺の本名『コウヘイ』と入力した。
いろいろカッコいいニックネームを考えたが、照れくさいが、やはり、あの少女にはコウヘイと呼んで欲しかった。
画面下へスクロールさせるとコースが『魔王』になっている。
そうだ、入会の際、魔王になってすべてを破壊し尽くしてしまおうと『魔王』コースを選んだのだった。
注意書きで、”『グリフ王国』開始後はコースの変更ができません。”となっている。
《グリフ王国》は一人用ゲーム。この世界で、どんな非道なことをしても、誰からも文句は言われない。
しかし、今日、体験版をプレーしてみて、あまりのリアルさに、俺には魔王は無理だ。と思い、『勇者』コースに切り替えた。