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七 「いつから知っていたの」


「お母さん、心配掛けて御免ね。まだあの家には行く勇気がないの。でも必ずお母さんの娘になって帰るから、もう少しだけ我が儘を許して」

 荒山宗楽は電話で、正直な気持ちを継母に話していた。この旅が終われば、ちゃんと心の整理をして帰ると決めていた。思い出のない実母よりも、継母の里美の愛情の深さを知っている。けじめをつける。それだけなのだ。宗楽の気持ちは、旅に出る前から決まっていたし、これからも変わる筈がないと信じていた。

 四条畷神社の茶屋宿・伊勢屋に、宗楽は連泊している。実母が暮らしている街だ。山麓に建つ宿の窓から見える景色の向こうに母がいるかと思うと、見知らぬ街が何故か懐かしく感じた。

 宗楽は父が書いた母の実家の住所を、何度も見返している。まだ行ったことはないが、この近くであることは分かっている。窓から見える一の鳥居の左側にある住宅地だ。すぐそこにいる母は、どんな顔をしているのだろうか。自分は母に似ているのだろうか。そんなことを宗楽は、ずっと考えていた。

 窓の前には、二の鳥居がある。長い石階段と、その一番上の注連柱に掛る注連縄が見える。この町を一番感じ取れる宿で、宗楽はゆっくりと母を感じようとしていた。

 石階段の上から、女の子が二人で降りて来るのが見えた。仲良く一本の竹箒を一緒に持っている。

「夜月さんとお友達ね」

 宗楽は夜月を見るのは、これで二度目だ。睨まれた時の表情とは、まるで別人のようであった。無邪気に笑い合う普通の女の子に見えた。

 窓枠で頬杖を突いていた宗楽は、腕を崩して顔を埋めた。自分の中学時代は、あんなにも楽しかっただろうか。なかなか思い出せなかった。

 腕から目だけを出して、もう一度夜月を見た。まるで恋人同士のように寄り添う二人が微笑ましく思えた。

 宗楽は気持ちが沈んでいくのを感じた。彼氏がここにいてくれたら、どんなに勇気付けられただろうか。しかし、これは宗楽自身の課題だ。解答済みの課題でもある。答えのない答え合わせをしなければならないのは、宗楽だけしかできない。

「夜月さんは掃除なのか。神社の子供だからね」

 宗楽も神社の娘だから、同じことをさせられていた。たくさんの役割を与えられていたが、よくサボっていたことを思い出した。

「真面目なんだね、夜月さんは」

 友達と別れた後、わざわざ石階段を半分昇り直して、夜月は掃除をしている。手際よく落ち葉を集めているので、それほど時間は掛からないように見えた。

 宗楽はくるりと仰向けになると、頭を窓枠に載せたまま天空を仰いだ。間もなく夕暮れになる。少し暗くなりかけた青空には、雲が幾つも浮かんでいる。少し赤く染まっている雲たち。宗楽はぼんやりとそれを眺めていた。

 カシャッ、カシャッ、

 カシャッ、カシャッ、カシャッ、

 突然カメラのシャッター音がしたので、宗楽は鳥居に視線を戻した。そこには石階段に這いつくばるようにしてカメラを構えている男がいた。この男が何をしているのか、宗楽にはすぐに分かった。カメラが狙っている先には、見上げる位置に素足を出している夜月がいるではないか。

「やめなさい」そう叫ぼうとした時、男に気付いた夜月が、大胆な行動をした。猛然と男に突進して、持っていた竹箒を振り上げていたのである。

 これには宗楽も驚いた。大人しいだけの女の子ではない。怒れば、それに応じた行動をする気概を持っていた。

 カメラが飛ばされていく。宗楽は瞬間的に良からぬ事態が起こる気がした。

「何てことをしやがる。高価なカメラなんだぞ」

 案の定、男は夜月に怒鳴りつけている。

「どうしてくれるんだ」

 盗撮をしていた男の蛮行を棚に上げて、夜月を追い詰めていった。

 そこへ青年が駆け降りて来て、男の前に立ちはだかったのには、宗楽も仰天してしまった。まるでヒーローが駆け付けて来てくれたような映画のワンシーンを見ているみたいだった。

 宗楽は青年に見覚えがあった。祈祷してもらった後に拝殿でぶつかりそうになった青年だ。満面の笑みを向けられていたのが、却って不快に感じてしまった記憶がある。

「何をどうしろって言うんだよ」

 青年は男と対決する気でいるのが分かった。それほどに夜月を大切にしているのだろう。そうでなければ、少しは躊躇するものである。

 宗楽は助けに出た方がいいのか迷ってしまった。宗楽だって怖いのだ。男が暴力を振るってきたらと考えると足が竦んでしまった。

 都合よく伊勢屋の女将が、向いの客間から出てきた。

「外で夜月さんが大変よ。助けてあげて」

 身内同然のつもりでいる女将には、それだけ言えば十分だった。慌てて階段を駆け降りて、はだしで表に出て行こうとした。

「何をする、このガキが。この女が俺のカメラを壊したんだぞ。お前が代わって弁償するのか」

 宗楽が窓辺に戻った時、男がカメラを拾おうとしているのを、青年が素早く奪い取っていたところであった。

「壊された原因は、そっちだろ」

 青年が夜月の元に戻って、男の視線から隠す位置に立っている。これには宗楽は感動した。女の子への心遣いが優しさで溢れている。宗楽はこの青年が気に入ってしまった。不快に勘ぐってしまった満面の笑みを、これで帳消しにしていた。

 女将が飛び出して来たのは、その時だった。まさか男に絡まれているとは考えてもいないことだったのだ。

「稔宗くん、何があったんだい?」

 慌てふためく女将のこの一言が、宗楽に衝撃を与えた。

 ト・シ・ム・ネ・くん・・・・

 父が口にした名前だった。

「お前の弟もそこにいる。稔宗だ」

 五歳年下の弟の桐村稔宗が、この青年だというのだろうか。だから満面の笑みを向けたのか。それならば、稔宗は宗楽を知っていたことになる。

「おばさん、警察を呼んでください」

 宗楽の驚愕をよそに、外では騒ぎが進行している。稔宗が警察と言い出したのだ。

「いいねぇ。警察を呼べ。俺はこの女にカメラを壊されたんだ」

 二度の警察という言葉が、宗楽の混乱していた精神状態に電撃を走らせた。稔宗は、大騒動にするつもりなのだろうか。

 宗楽は心配して、稔宗を見詰めた。震える夜月の手を握って励ましている。その姿は立派に思えたが、考えが稚拙ではないか。警察が味方してくれるとは限らないのだ。カメラを壊したのは、夜月である。稔宗には状況の不利が分かっていないのだろうか。

「痴漢は犯罪ではないのですか。この女の子が何をされたのか。証拠はこの中にあるんだ」

 稔宗がカメラを男に突き付けながら放った言葉に、宗楽は胸がすく思いがした。何という弟だ。まさかの大逆転の言葉ではないか。宗楽は喜びのあまり手を叩いて喜んでいた。

 しかし、それとは裏腹に危険も予想できた。男の逆襲が目に見えている。証拠のカメラを、男がそのままにしておく筈がないだ。

 宗楽は焦った。稔宗を助けなければならない。だが、この場で稔宗の前に出ることができるのか。本当に弟なのかは、まだ分からない。切迫した状況下で、宗楽は決断に迷ってしまった。

「おじさん。あなたの負けだよ。警察に通報されたくなかったら、女の子に謝って、とっとと帰りな」

 余りに咄嗟に出た言葉だった。窓の横に隠れて言った叫び声だった。宗楽は胸がドキドキしている。どうか助かってと、祈りながら手を合わせた。

 窓の外が静寂に変わっている。宗楽は気が抜けたように呆然として、外を盗み見ると、騒動は終わっていた。女将が稔宗と夜月を抱きしめている。

 宗楽はホッとして、腰が抜けてしまった。


 女将が夜月を送って石階段を昇って行く。稔宗は二人とは別れて、神社を去って行った。精悍な顔立ちをしている。夜月を守り抜いたという自信に溢れていた。

 宗楽は、ライトブルーのリュックサックを背負う後を追っている。勇敢で利口な高校一年生だ。もし本当に弟であるなら、こんなに自慢できることはない。

 一の鳥居に続く道は、長い真っ直ぐな道である。稔宗がその左端を歩くのを見ながら、宗楽は右端を歩いている。稔宗が振り向いてしまえば、見つかってしまうのは避けられない。しかし、それでも構わないと宗楽は考えていた。

 稔宗が宗楽の予想していた角を曲がって、住宅地に入って行った。すぐそこに桐村家の家がある筈だ。また宗楽の胸がドキドキしてきた。母に会える。どんな言葉を交わせばいいのだろうか。どんな顔をしていればいいのだろうか。いろいろな思いが一気に湧き上がってきた。

 庭の無い二階屋が、桐村の家だった。古い木造建てで、手入れが少し行き届いていない。暗い感じがする。そんな第一印象だった。

 稔宗が門から直ぐの玄関の鍵を開けて入って行った。宗楽がそれを見届けている。感慨深げな気持ちのまま、ここで暮らしている母を想像した。

「荒山宗楽さん」

 突然名前を呼ばれて、宗楽は驚いた。稔宗の声だ。家の中から声がした。

「どうぞ、入ってください」

 玄関が開けられた。稔宗は宗楽が後を付けて来ているのを知っていたのだ。それならば、いつから気付いていたのであろうか。

「私のことを知っているの?」

 稔宗は小さく頷いた。

「姉」

 やはり稔宗は知っていたのだ。だから初めて会った時に笑ってくれていたのだ。

「いつから知っていたの?」

 稔宗は答えない。僅かに辛そうな表情になったが、すぐに感情を隠してしまった。

 玄関から見渡せる家の中は、ガランとしていた。掃除はしてあるようだったが、異常に暗い。あちらこちらの窓の雨戸が閉め切られている様子だった。

「母に会いに来たんでしょう。上がってください」

 無表情に言う稔宗が、宗楽には恐ろしく感じた。母親は家の奥にいるのだろうか。それならば、何故こんなにも家の中が暗いのか。病気で寝込んでいるのだろうか。宗楽は心配した。

 廊下の奥に台所がある。中央に粗末なテーブルが置かれている。硝子戸の食器棚もあるが、中身が空だった。食器はと探すと、流し台にうつ伏せにされている茶碗と皿に湯呑だけだった。

 宗楽は異常を感じて鳥肌が立っている。

「母は、この奥にいるよ」

 襖の開いた部屋がある。雨戸が閉め切られて真っ暗なのに、部屋の電灯も点けられてはいなかった。

「どうしたの。母に謝りに来たのではないの?」

 謝る? 宗楽には稔宗の言う意味が分からなかった。部屋の中を覗くと、片隅に小さな仏壇があった。

「謝りに来たんでしょう」

 稔宗が抑揚のない声で言っている。

 促されるように仏壇の前に行くと、そこには遺影があった。しかも恐ろしいことに、宗楽の写真が置かれていたのだ。

 戦慄する宗楽。恐怖で悲鳴さえ上げられない。稔宗は宗楽をどうするつもりで、家の中に招き入れたのだろうか。

 部屋の灯りが点された。暗がりで見た遺影が、はっきりと見えた。それは宗楽ではない。瓜二つだが、別人であった。

「お母さんなの?」

 宗楽がそう呟いた途端、稔宗の表情が変わった。まるで鬼のような表情になっている。

「謝りに来たのではなかったの」

「何のことなの?」

 訳が分からないという顔を、宗楽はした。それが稔宗の怒りに触れたのだ。

「あなたが母さんを自殺させたのに、なぜ何も知らないんだ」

「自殺! 私がお母さんを殺した?」

 宗楽は驚愕した。母は自殺したというのか。しかも、なぜ宗楽が自殺させたことになるのだ。両親が離婚して以来、宗楽は母に会っていない。理由が分からない。

「とぼけるのか。母さんがどれだけ苦しんでいたのか分からないのか」

「私は何も覚えていない。お母さんのことも稔宗のことも、つい先日お父さんに聞いたばかりなの」

「何も知らないで幸せに暮らしていたということなのか。母さんと僕を苦しめていたのに」

「訳を教えて」

「出て行ってくれ。二度と来ないでくれ」

「お願い、訳を教えて」

 宗楽は懇願したが、稔宗はもう何も言わなかった。しばらく宗楽は稔宗を見詰めていたが、横を向いたまま見向きもしてはくれなかった。

「何故?」

 立ち去ろうとして、宗楽はこれだけは聞きたくなった。

「何故、初めて会った時、神社で笑ってくれたの?」

 あの時の稔宗の満面の笑みは、本物の笑いだと感じた。宗楽の正体を知っていて憎んでいるなら、あんな笑い方は出来ない筈だ。

「母さんが現れたのかと思ったから。母さんとそっくりな顔をしていたから」

 稔宗の声が震えている。母とそっくりな姉を憎まなければならないのだ。愛おしい母と同じ顔を憎むのは辛過ぎた。その辛さは、宗楽にも伝わった。

「ごめん、稔宗」

 逃げるようにして、宗楽は桐村家を後にした。伊勢屋も宿泊を取り止めて出て行った。バイクを疾駆させ、無我夢中で四条畷を離れた。もはや宗楽には絶望しか残されてはいなかった。


 相川七海は、またしても宗楽に捕まっていた。今回の難問には簡単に答えが出そうにない。前回は興味がないと言って、宗楽を後押ししたが、今回は死んでしまった母親ではどうにもならない。しかも、宗楽が課題の意味すら分からないでいる。何故母親を殺したことになっているのか。自殺をした理由が分からなければ、答えを導き出すことは不可能であった。

「弟くんは、宗楽に謝りに来たのかって言ったんだよね」

「最初はそうだった」

「だったら、謝ってくれれば、許す気でいたんじゃないの」

「私がお母さんを殺したと、稔宗は言ったんだよ。こんなにも苦しめていたのに、それを知らないで、私が幸せにしていたことを憎んでいるのよ。許してくれるはずがないよ」

「初めから憎んでいたのなら、家に入れたりしないと思うな。弟くんに、もう一度会ってみてはどうなの」

「出来ないよ。私の顔を稔宗に見せるのは、残酷だよ。お母さんの顔を憎まなければいけないなんて、私はさせたくない」

「もう確かめようがないってことか。でも、たったの五歳だよ、宗楽がお母さんと別れたのは。その後はずっと会っていないんでしょう。五歳の子供が大人に、死ぬほど憎まれることなんて出来るわけがないよ。弟くんは、お母さんの死を歪めて受け取っていないのかな」

 そうなのだ。何故、宗楽を残して離婚していったのか。乳飲み子の稔宗だけを引き取っていったのか。家族を顧みない父親が、宗楽を引き取るという筈がない。あり得ないことだった。

 しかし、現実には宗楽は父親と暮らしている。母親の思い出を何一つ覚えてはいないのは、何故なのだろうか。

「宗楽がお父さんを選んだと考えてみてはどうなの」

「まさか。あり得ないよ。あんなお父さんだよ。小さかった私も、きっと嫌いだったはずだよ」

「宗楽がお父さんを選んで残ったから、お母さんはずっと苦しんでいた。どうして残してしまったのかと」

「うそ。そんなことない」

「ごめん。一つの可能性だよ。子供の分別をお母さんが鵜呑みにするはずがないよね」

「でも、七海が言うように、稔宗がお母さんの死を歪めて受け取っているのは、確かかもしれない。あの家の雰囲気が稔宗の心の中を映し出しているものだとしたら、あの暗さは異常だった」

「弟くんも、お母さんの死から抜け出せないでいるのね」

「私のことは、どうでもいいよ。稔宗を救ってあげたい」

「宗楽、私たちは親友でしょう。あなたも救われないと意味がないよ」

「うん」

 涙が溢れだすほどに嬉しい言葉だった。

「こんなところに踏み止まっているのは、宗楽らしくないよ。もう残されている道は一つしかないと思うよ」

「うん」

 涙を拭いながら、宗楽も応えた。そうだ。真相を知るには、たった一つしか残されていない。

「お父さんに向き合わないといけない時が来たんだよ」

 七海が導いてくれたヒントは、宗楽に正解を答えさせてくれた。



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