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六 「泣いてはダメだよ」


「おや、夜月ちゃん。今朝は随分と楽しそうじゃないか」

 伊勢屋の女将が、二の鳥居前で人待ち顔をしている那珂夜月に声を掛けた。近頃は夜月の表情が急激に優しくなっている。どこがどう変わったから、そう感じるのかを女将も説明するのは難しいだろう。夜月の雰囲気が違っている。それが女将には嬉しかった。

「うん。今日はね、友達が来るんだよ」

「へぇ、友達かい。どんな人なんだろうね」

 女将は、夜月が友達と言うのを初めて聞いた気がした。

「巫女舞いの練習を一緒にするんだよ。巫女衣装も一緒に着るんだ」

「そうなのかい。楽しそうだねぇ」

 にこにこ笑って答える夜月が、女将には眩しかった。

「おや、おはよう。稔宗くん」

 ライトブルーのリュックサックを背負って、鳥居を潜ってきた姿を見つけて、女将が声を掛けた。四条畷神社の背後にある飯盛山は、ここからも登山道になっている。拝殿でお参りをしてから、清々しい気持ちで山頂を目指していくのは、何よりも気持ちの良い行いだった。

「おはようございます」

 女将に挨拶をする青年は、いつも老人を介助して石階段を昇る桐村稔宗だ。夜月が素敵な景色として大事にしている中に存在する人物である。その名前は何時しか知るようになったが、言葉を交わしたことが一度もない。ただ軽く会釈を交わすのが精一杯の夜月の筈だったが。

「おはようございます」

 挨拶を返す夜月に、稔宗も女将も一瞬戸惑った。

「あっ、おはよう」

 稔宗は、すぐに笑顔で応じだ。もちろん稔宗も夜月を見知っている。まだ中学生で、巫女であることも知っていた。

 しかし、そこにはいつもとは違う夜月がいた。微笑む夜月が、稔宗には魅力的に見えた。無表情で何を考えているのか分からない夜月だったのに、この日に限ってはこんなにも可愛い女の子なんだと感じてしまった稔宗は、妙な緊張感にうろたえてしまった。

「今日は、弁当持ちなんで、ゆっくり登山を楽しんできます」

 顔が引き攣っているのがばれないように、稔宗はつるりと顔を撫でた。

「気を付けて行っといで」

 良い子供たちに囲まれて、女将は幸せだ。いつの間にか、小楠公さんに感謝をして手を合わせていた。


 藤波愛真が登場するなり、神社の石階段は賑やかになった。愛真は少し興奮している。巫女になれるというのだ。初めて見た巫女姿の夜月が忘れられない。感動して泣いてしまったあの巫女にしてくれると、夜月は言ってくれたからだった。

 夜月と並んでお喋りをしながら、長い石階段を昇って行く。嬉しくて笑い声がついつい大きくなってしまって、愛真は慌てて口を手で押さえた。

「えへへへ」

 神聖な神社なのにごめんねと、愛真は夜月に照れ笑いをしていた。

 可愛い愛真。夜月はこんな愛真が大好きだ。何故なのだろうか。愛真はずっと愛真で変わらずにいてくれるからなのだろうか。

 意識していないのに、夜月は愛真と手を繋いでしまった。一緒にいたい。もっと傍にいたい。触れ合いたい。そんな心の欲望が、夜月に生じたからだった。

「ミツキッ」

 手を繋がれて、愛真は一瞬驚いたが、その後の行動は大胆だった。夜月と腕を組んでいったのだ。

「エッ」

 それに戸惑ったのは、夜月のほうだった。女の子同士が手を繋いでいるのは、普段よく見かける。今までは、夜月にはそれが理解不能な行動に思えていた。しかし今の感情の現れが、自然の成り行きだったのだと分かった。

 それなのに愛真は大胆過ぎる。腕を組むなんて考えられなかった。

「えへへへ」

 愛真の柔らかい体の感触が伝わってくる。それが何だか落ち着くと共に、安心感を与えてくれた。

 触れ合っていると、愛真の好意がわかりやすく夜月に伝わってくる。そして、夜月の好意も、愛真にはっきりと伝わっていった。

 夜月は、共感してくれているという安心感を初めて経験した。心地良い気分になれることが、こんなにも幸せなんだと実感していた。


 玉砂利が敷かれた境内を、夜月と愛真は掃き清めていた。幾人もの女性たちが社務所に入って行く。高校生や大学生の御奉仕の巫女たちだ。日曜日の午前は、巫女舞いの練習にやって来るのである。

「おはようございます」

 夜月は女性たちが境内を通る度に、丁寧に挨拶をしてお辞儀をした。宮司の娘として、そのように厳しく躾けられている。

 普段着姿の巫女たちが集まる広間は、空気が張り詰めている。夜月の母親の宮司夫人が、巫女舞いの練習を取り仕切っている。神に奉納する舞いは、神聖なものだ。決して失礼があってはならないものだった。

「おはようございます。本日は見学者が一人います。皆様、宜しくお願い致します」

 夜月は広間の隅で、巫女たちに言上した。宮司の娘であっても、ここでは夜月が一番の下っ端になる。高校生や大学生のお姉様たちに対して、どれ程巫女舞いに精通していようとも、年齢の上下関係を守らねばならないのだった。

 愛真はこの張り詰めた広間の雰囲気に、圧倒されてしまっている。気軽な気持ちで巫女になれると喜んでやって来たのだが、それはとんでもない世界であった。先程ふざけ合っていた夜月が厳しい表情で申し述べた言葉は、愛真には絶対に真似できないことだと驚いていた。だからクラスメイト達とは違う夜月が誕生したのかと思ってしまった。

 (怖い)

 そう思うと、愛真は全身を震わせた。あの時の巫女舞いの夜月をカッコイイと感じた裏には、厳しい訓練を受けて来たのだろうと直感した。

 巫女たちの練習が始まった。浦安の舞である。前半の扇舞と後半の鈴舞で構成される巫女舞いだった。

「大丈夫だよ」

 震える愛真に気付いて、夜月が手を握ってくれた。優しさが伝わってくる。

「ちゃんと見てあげて。優雅で美しいものだから、怖くなんかないよ」

 舞人の扇を持つ右手のゆっくりした動き。両手を広げ、ゆったりと羽ばたくような動作。そして、鈴に持ち替え、五色布を上手にさばきながら、鈴の音を鳴らしていた。

「天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」

 昭和天皇が詠まれた歌詞があり、平和を祈る舞いである。

 次第に愛真は惹き込まれていくのだった。


 昼食を済ませると、御奉仕の巫女たちは帰ってしまうのであるが、愛真が巫女装束になると聞きつけて、大勢が残っていた。小柄な愛真の変身を見たくなったのであろう。

 夜月が化粧の支度をしている。小部屋で、愛真と夜月が入れば一杯であった。そして、そこにはワザと鏡を置いていなかった。愛真には変身を完成するまで、見せない夜月の企みであった。

 まだ中学生なので、化粧と言っても必要がないほどである。夜月はそれをよく知っていて、薄く頬紅をふんわりと一塗りした。

「えへへへ、くすぐったいね」

 化粧筆を当てられて、愛真は緊張している。見知らぬ四条畷市に引っ越してきて、今はこんなことになっているなんて想像も出来ないことだった。

 目元は睫毛をカールさせて、マスカラを軽く塗る。そして、口紅も薄く差した。

「顔、近いね」

 黙って夜月が作業しているのに、愛真の口数が多いのは、照れているからだ。親友に安心して肌に触れさせている。信頼しているから許せるのである。

「ソウだね」

 愛真の柔らかい肌に触れているだけで、夜月は心が安らいでいく。顔を近付けて、同じ空気を吸っていると、一体化してしまう気がした。

「巫女衣装だよ。以前アタシが着ていたものなの」

 夜月は小学生の頃につけていた装束を準備していた。赤い襦袢と白い小袖に緋色の袴だ。白足袋や千早まであった。

 愛真の胸はドキドキした。自分はどんな姿に変わっているのだろうか。最後に髪が飾られていく。

「これは外しておくね」

 愛真がいつも付けている大切な髪飾りを、夜月は外した。漆黒の丸い珠だ。お祖母ちゃんから譲り受けたものだと聞かされていた。

 後ろ髪を束ね、熨斗紙・水引・丈長を組み合わせた絵元結が付けられた。額には花飾りの天冠を頂く。

「可愛いよ、エマ」

 微笑みながら夜月に見つめられて、愛真は視線を逸らしてしまう。恥ずかしさの心理で、ソワソワしてしまって、正面から見つめ返すことが出来ない。

「ちょっと待っててね。アタシも準備して来るから」

 そう言って、夜月は小部屋を出て行った。

 一人残された愛真は落ち着かなくなった。遠くから御奉仕巫女のお姉様たちの声が聞こえてくる。場違いなところにいるのではないかと、現実に引き戻されていく。

「夜月ちゃん」と呼ぶお姉様の声が廊下の向こうで聞こえた。何かを話し合っているが、内容を聞き取れなかった。

「分かりました」と答えている夜月の声がした。

 襖が開くと、夜月が再び小部屋に入ってきた。その姿はすっかりと巫女装束になっている。可愛い夜月だ。愛真はこんなに見事な変身が出来ているのだろうかと心配になった。

「エマ、こちらの襖を開けるよ。鏡が置いてあるから、よく見なさいね」

 愛真は固唾を呑んだ。息を押し殺して、襖が開けられるのを待った。

 見事な華麗さを漂わしている夜月の姿の前に、小さな巫女がいる。薄化粧をした顔は、健康的で透き通るように輝いて見える。白と赤の装束が、清楚で慎ましやかな乙女を表現していた。額の花飾りが、天女のように愛真を変えていた。

「どう?」

「えへへへ」

 感動している。夜月のようになれたことが嬉しかった。

「泣いてはダメだよ。エマは感動したら、すぐに泣くからね」

「えへへへ」

 夜月も愛真に見惚れている。二人でこうしているのがまるで夢のようだ。友達がいない夜月だった。それが当たり前だと思っていた。それなのに今では愛真がいないことなんて考えられなくなっていた。

「ゴメンネ、エマ。お姉さんたちが、エマを見たいって言うものだから」

 夜月は先ほどのお姉様との約束を言い出した。

「でも、恥ずかしいよ」

「大丈夫。エマは可愛いから、自信を持ちなさい」

 広間へと進んで行く。お姉様たちが声を潜めて待っているのを感じた。

「さぁ、先に入って」

 愛真は俯いたまま自信なさそうに歩み出た。

「きゃーーー」

 お姉様たちの歓声が上がった。二人の中学生の巫女が現れたのだ。愛真と夜月が二人でいるから、お互いをより魅惑的に引き立てていた。

「おおっ」

 宮司の夜月の父も現れて、お姉様たちと一緒になって見惚れている。「写真、写真」と呟きながら、カメラを取りに行く始末であった。

「夜月。拝殿で写真を撮るぞ」

 命令口調で父が言う。写真を撮ろうとは言ってくれない。これまで内心の奥底では反感を持っていても、夜月は大人の言うことには逆らわなかった。上下関係と言うものがある。絶対的な不可侵のものだと思っていた。

 しかし、親友の愛真が現れてからは、同等というものを知った。それが安らぎを与えてくれ、心に余裕が持てるようになった。そうすると、大人に対しての見方が変わってくる。上下関係は変えることが出来ない。しかし、絶対的不可侵なものだとは思わなくなった。そこに自分というものを加えても良いと考えを改められたのだった。

 自分の意見を大人に言ってもいいのだ。反抗する為ではなく、納得する為である。

「みんなで一緒に撮ろうよ、お父さん」

「そうだな。一緒に撮ろう。お母さんも呼んでおいで」

 夜月は嬉しくて堪らない。大人に従っているだけではなく、自分がして欲しいことも言い合える。愛真と出会えて、夜月は変わることが出来て本当に嬉しかった。

 拝殿で写真を撮り合った後、夜月はそこにあった榊を手に取った。

「エマ」

 榊を愛真の右手に握らせた。

「アタシの真似をして。ゆっくり舞うからね」

 夜月は、右手を上から左手を下から榊を持って、胸の高さに真っ直ぐに上げた。そして、軽く一礼する。


 一歩下がるよ。   元のところに戻りながら、両手を横に広げるよ。   そうだよ。ゆっくりゆっくりね。     次はまた両手を前に出すの。     そう。 さっきみたいに榊を両手で持ってね。    左手を上げるよ。    体の前で二周回して。ゆっくりね。     そう、上手だよ。    次は上げた左手を右に振り降ろしながら、体を右回りに一周させるよ。     慌てないで、ゆっくりだよ。    上手、上手。   右手を出して、そう。    体を左に向けて、一歩。   うん、そんな感じ。     正面に戻りながら、両手を前に出して両手を広げるよ。    左手を下げて、右手を三周回すよ。     ゆっくり、ゆっくり。     アタシのほうを向いて、右手を回すよ。    そう、そう。   アタシと榊を合わせて。    うん、上手だよ

 

 夜月と愛真は、豊栄の舞を舞っている。通常とは違って、ゆっくりだが、息が揃ってぴったりと舞いが合っていた。

「もう一度しようか」

「うん」

 榊を持って胸の高さに両手を真っ直ぐに上げた。そして、軽く一礼する。一歩下がってから、元に戻りながら両手を横に広げる。二人だけの豊栄の舞がゆっくりと続いていく。

 夜月と愛真の幸福な時間が過ぎて行った。


 普段着に戻った夜月と愛真は、石階段を下っていた。愛真を見送るためだ。

「掃除でもするの?」

 社務所から竹箒を持ち出してきた夜月には、神社の役目が残されている。石階段の落ち葉の清掃だった。

「私も手伝うよ」

「ダメだよ。これはアタシがすることなの。それにエマは疲れているでしょ。いっぱい気を使って、タイヘンだったね」

「でもすごく楽しかったよ。ミツキのお陰だね」

 二の鳥居でお別れになった。ここからは人が暮らしている領域だ。二人は夢のような時間を過ごした神の領域を見上げた。

「えへへへ」

「エヘヘヘ」

 笑い合いながら、二人は手を振って別れた。神社から一の鳥居へと続く道は、一直線の下り坂になっている。その道を愛真の自転車が進んで行った。

 小さくなって行くその後ろ姿を、夜月はいつまでも見送っていた。

「サッ、テッ、トッ」

 夜月は石階段を見上げた。落ち葉掃除が、神社の娘の大事な役目。再び石階段を半分ほど戻って、掃除を開始した。今朝からの楽しい出来事を思い出しながら、丁寧に掃き清めて行く。そうすると辛い作業も、何だか楽しくなった。

 カシャッ、カシャッ、

 カシャッ、カシャッ、カシャッ、

 妙な音に夜月は階段の下を振り返った。男がいる。脂ぎったその顔は、夜月の父親と同年代に見えた。そして、両手には巨大なレンズを取り付けたカメラが握られていた。

 カシャッ、カシャッ、

 視線が低くなるように、男は石階段に膝を突いて、カメラを構えて撮影している。

 それがどういうことであるのか、夜月は直ちに理解した。夜月は丈の短いワンピースを着ている。何を狙って撮影していたのかを考えただけで虫唾が走った。嫌悪感だけではない。吐き気さえ感じてしまう。

 こんな男たちのせいで、夜月は部活が出来ないでいるのだ。全日本中学校陸上競技選手権大会に出場の夢も果たせないかもしれない。

 そう感じた時、夜月は激高した。瞬時に石階段を飛び降りると、男の目前で持っていた竹箒を振り上げていた。

「あっ」と叫んだのは、男のほうだった。

 箒の先でカメラが弾かれて、宙を舞って飛んで行く。大きく弧を描いて、階段の下へと降下して行った。

 巨大なレンズを付けたカメラだ。重量がある。石階段に落下した瞬間に粉砕した。カメラとレンズが見事に分裂して転がって行く。

「何てことをしやがる。高価なカメラなんだぞ」

 男の声に、夜月は戦慄してしまった。こんなことをしようとは思ってもいないことだった。少し腹が立ったので、男を脅かすつもりだったのだ。

「どうしてくれるんだ」

 男が夜月に詰め寄ってくる。怒りで顔色が変わってしまっている。もう謝るだけでは、とても済みそうにない状況に陥っていると、夜月は覚悟した。

 成す術なく立ち尽くしている夜月の視界が、突然ライトブルーのリュックサックに塞がれてしまった。

「何をどうしろって言うんだよ」

 何者かが、夜月と男の間に入って、対峙してくれている。

「何だ、お前は。関係ない奴は、引っ込んでいろ」

 男は下に落ちて行ったカメラ本体を拾おうとした。

「おっと、これは渡せられない」

 素早く横から奪い去った。身のこなしが素早い。

「何をする、このガキが。この女が俺のカメラを壊したんだぞ。お前が代わって弁償するのか」

「壊された原因は、そっちだろ」

 カメラを持ったまま、また夜月の前に戻って立ちはだかり、男の視線から隠した。

 伊勢屋で騒動を聞き付けた女将が、慌てて飛び出してきた。

「稔宗くん、何があったんだい?」

 女将はうろたえている。稔宗と夜月が、男に絡まれていると思ったのだ。

「おばさん、警察を呼んでください」

 登山から帰って来た稔宗が、冷静に指示をしている。

「いいねぇ。警察を呼べ。俺はこの女にカメラを壊されたんだ」

 夜月は驚愕した。警察が来れば、自分が逮捕される。こんなことで犯罪者になってしまうなんて信じられなかった。

「イヤ」

 夜月が硬直しているのを、稔宗は感じ取っている。奈落の底に落ちて行くのを感じている筈だ。

「大丈夫だ。僕を信じてくれ」

 小声で背中の夜月に言って、後ろに手を回した。すると、震える手が握り締めてくる。とても小さな手。稔宗は、そっと握り返した。

「痴漢は犯罪ではないのですか。この女の子が何をされたのか。証拠はこの中にあるんだ」

 壊れたカメラを稔宗は、男に突き付けた。何を撮影していたのかは、フィルムを現像すれば明らかだ。

「チッ。返せ、このガキ」

 男が突進してくる。夜月を守った体勢でいる稔宗には、逃げることが出来なかった。逃げれば、夜月が怪我をする。

「おじさん。あなたの負けだよ。警察に通報されたくなかったら、女の子に謝って、とっとと帰りな」

 伊勢屋の二階から声がした。

 男は二階を凝視したが、人影がない。隠れているようだった。だが、男にとっては、目撃者が多くいては不利になる。本当に通報されれば、逮捕されるのは盗撮の痴漢をした自分であるのは間違いないのだ。

「カメラは返すが、フィルムは貰っておく。いいよね」

 蓋を開けてフィルムを取り出しながら、稔宗は言った。

「ちゃんと謝ってくれ。あなたのせいで、こんなに怖い目に会ったんだから」

 稔宗は少し斜めに立って、夜月から男を確認できるようにした。しかし、男からは夜月の体が隠れるようにしている。絶対に男の視線にさらすことはしなかった。

「済まない」

 怒り狂った表情で、男は謝罪したが、ほんの口先だけである。自分が悪いなんて少しも思ってはいない。声がした二階に何人の人が潜んでいるかも分からない。この場は言われた通りにしている方が利口だと思っただけだった。

 逃げるようにして去って行く男を皆が見送った。

 女将がホッとして、驚嘆の声を張り上げた。

「稔宗くんは、男だねぇ。女の子を立派に守ったじゃないか」

 ずっと握り続けている稔宗の手を、夜月は離せなかった。安心して、女将の胸の中で泣き出してしまっても離せなかった。安心できても、まだ怖い。怖いから離せられないのだ。

「夜月ちゃんも頑張ったねぇ。よく我慢したよ」

 漸く稔宗は泣いてしまった。実は、稔宗が一番怖かったのだ。登山から戻り、石階段を降り始めていて、夜月が痴漢に遭っているのを目撃した。その後は、必死だった。恐怖を忘れて、夜月を助けたい一心だった。

「あらあら、そうだよねぇ。男だって、あれは怖かったよねぇ。大の大人を相手にしたんだ。泣いたっていいさ。恥ずかしいことじゃないよ。稔宗くんは立派に夜月ちゃんを守ったんだからね」

 女将は二人の頭を撫でた。

 恐怖と闘いながら助けてくれた稔宗に、夜月の心は感謝で一杯だった。まともに言葉を交わしたのは、今朝の挨拶の一言だけだった。赤の他人と言ってもいい。それなのに、まさに命懸けで助けてくれたのだ。



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