五 「おかあさん」
佐伯教授は、湊川神社の宝物殿に籠っていた。荒山宗楽の依頼で古文書を調べているのである。一旦没頭すると、寝食を忘れてしまう性格だ。宗楽が心配して、たまに様子を見に行くと、それにも気付くことなく佐伯は文書に夢中になっていた。
「あの先生、大丈夫なのか?」
宗楽は父親の荒山宮司に不安そうに尋ねられた。イライラした様子が、荒山の顔色に酷く出てしまっている。
「変わり者の先生だから、いつものことでしょう」
「そう言うが、あれは変わり者の度が過ぎているぞ」
もうすぐ日が変わろうとする深夜になっても、佐伯は宝物殿から出てくる気配がなかった。
「大学の教授って、あんなものだよ」
宗楽は父親の心配を取り合わないようにしている。どうせ佐伯の心配を少しもしていないのは分かっている。体調不良で倒れられでもしたら、神社の体裁として堪ったものではないと考えているのだろう。
「迷惑に思っているなら、今からでもお断わりすればいいじゃない」
「今更、そんなことが言えるものか」
荒山は娘の顔を憎々しげに睨んだ。宗楽がいつも反感を買う物言いをするのが気に入らなかった。
「ところで、お前は四条畷神社に行ったのか」
突然の荒山の言葉に、宗楽は少しうろたえたが、別に断わるべきことだとも思っていない。
「それが何?」
「那珂さんから、お詫びの電話があったのだ。折角祈祷に来てくれていたのに、不在にしていて申し訳なかったと言われていたぞ」
「小楠公さんの神社に行ったって、別にいいじゃない。ウチは大楠公さんなんだから」
「お前はもう立派な大人だ。失礼がないようにしてくれれば、それでいい」
言うべきことが違うのではないかと、宗楽は思った。何をしに行ったのだと尋ねるのならまだしも、体裁ばかり言うこの父親が大嫌いなのだ。
「お父さんは四条畷の町が嫌いだよね」
「何のことだ」
荒山は意表を突かれて戸惑っている。
「前に行きたいって言った時は、絶対に連れて行ってくれなかった」
「中学生の時のことか。あの時はまだその時期ではなかった」
「じゃあ、今は違っているってことなの」
「大人の事情が理解できる年齢になったからな」
「やっぱり前のお母さんのことなのね」
「そうだ。四条畷の実家に戻ったらしいが、その後はどうしているのか知らん」
この男らしい冷たい返答だった。父の中では、何もなかったことにしたということなのか。離婚したとは言え、こんなも無関心に人はなれるものなのだろうか。
「どんな人なの?」
「桐村香寿美。お前の弟もそこにいる。稔宗だ」
「私に弟がいたの!」
宗楽は驚愕した。そして、母は何故弟だけを連れて行ったのかと、疑問に思った。こんな父親だと知っているのに、何故自分は残されてしまったのだろうか。
「お前の五歳下だ」
自室に戻った宗楽は、茫然自失としている。ベッドに潜り込んだまま、暗闇の中で眼だけが異様な輝きを放っていた。
十六歳の桐村稔宗が黒い影になって、宗楽の脳裏に突如として現れた。まるで悪夢を見ているような恐怖が襲い掛かってくる。何故そんな風に感じてしまうのか、宗楽には分らない。
そして、心の奥底では、幼い宗楽が泣いている姿があった。母が捨てたのは父だけではない。幼い宗楽自身も捨てられてしまったのだ。だから母の記憶をすべて失くしていたのだろうか。幼心に堪え切れなくなって、自分を捨てた母を消去してしまったのだろうか。
翌朝の食卓で、宗楽は継母の里美から紙切れを渡された。父親の筆跡で、四条畷市の住所が書かれていた。桐村香寿美の実家なのだろう。
「お父さんが、これは宗楽が自分で決めることだって言っていたわ」
この継母は父には絶対に逆らわないことを、宗楽は知っている。それが継母の里美にとっては、この家で暮らしていくことの最善策になってしまった。しかしそれは誰にも気付かれないように封じ込めていることだった。
「おかあさん」
蒼い顔をして、宗楽は里美を見詰めている。昨夜の事情をすべて承知してくれているようだった。
実母と別れたのは、五歳の時である。何か一つでも思い出を覚えていても不思議ではない年齢だ。それなのに完全に記憶が欠落している。幼少の記憶は失ってしまうものと言われているが、幼稚園での出来事なら、宗楽は幾つも覚えていることがある。だが、母は思い出には登場してくれなかった。
「おかあさん」
目の前の里美を呼んだ時、宗楽は気付いてしまった。
宗楽は口では、「おかあさん」と発音しているが、本当は「お継母さん」と呼んでいるのだ。宗楽を心配して見詰める里美を、深層意識下で差別してしまっていたのだ。
これでは父のしていることと同じではないか。あれほど毛嫌いしている父と同じことを、宗楽は知らず知らずにしていたことになる。
「お継母さん」
すがり付くような宗楽の悲しみが伝わってくる
「お継母さん。私はお実母さんに捨てられたから、今度は私がお継母さんを捨てていたのかな」
里美には宗楽が言っている言葉が理解できない。
「私はおかあさんに捨てられたから、今度は私がおかあさんを捨てていたのかな」
二つのおかあさんが別人で誰を差しているのかを、この時の里美には判別できなかった。
しばらくの無言が続いた後、宗楽の口が開いた。
「お母さん」
しっかりと里美の目を見詰めていた。もう宗楽は里美を「お継母さん」とは呼んではいない。
「お母さん。私、この家を出ていい?」
「それはお父さんが許さないことですよ。宗楽はこの家の後継ぎなのです」
「分かっているわ。でも、少しだけ。一週間だけでもいいの」
夫に何も逆らえない里美は、宗楽の悲しみが痛いほどに分かる。このままでは気持ちの整理も出来ない筈だ。たったいま交わした言葉も、継母である里美では、到底理解出来ないことなのかもしれない。血が繋がっていないことが、こんなにも遠い隔たりになってしまうものなのかと、恨めしくさえ感じてしまう。
「必ず毎日連絡しなさい。お父さんは、うまく誤魔化しておきます」
宗楽は深く頭を下げた。里美が父を誤魔化すことが出来るわけがない。父の仕打ちが恐ろしくもあるが、今は里美の言葉に甘えたかった。
バイクに詰められるだけの荷物を積んで、宗楽は無心に疾走していた。そして気が付くと、大学の前にいる自分がいた。
講義中の学内は閑散としていた。ベンチでお喋りをしている女子学生たちや居眠りをしている男子学生、登校してきた学生、帰って行く学生。みんな自由に生きている。悩むことも無く、楽しい未来が待っているのだ。
それに較べて、自分はどうなのか。父に縛られ、出生の謎が未来を粉々にしてしまったような気がしていた。
誰かに聞いて欲しい。自分一人だけの心の中で、複雑に絡んでしまった気持ちを解きほぐすのは、とても出来ない気がしたのだ。幼い時からの実母への思いと、父への反抗。そして、継母への親愛をひとつずつ取り出して、整理していかなければならなかった。
「あら、今日は彼氏と一緒じゃないの?」
相川七海が昼食を摂りに食堂へ向かっていて、宗楽に捕まってしまった。
「相談に乗って欲しいんだけど」
深刻な雰囲気の宗楽に、七海は普段とは違うものを感じた。
「食堂へ行く? でも、その様子だと、人がいないところがいいみたいね」
七海は下宿に戻ることにした。途中で昼食の食材を調達するので、バイクの宗楽を先に部屋へ行ってもらった。七海が、宗楽と一旦別れたのは、何の相談なのかと考えるためだった。彼氏とでも喧嘩をしたのかと、簡単に考えたが、宗楽の性格からしてそれはないと思った。そんなに弱い宗楽ではない筈だ。
「一体何だろう?」
スーパーマーケットで食材を手に取りながら、急いで帰ることにした。
「ごめん、遅くなって。あなたも食べるでしょ?」
七海は午後の講義を欠席させられたことに、宗楽には何も文句を言わなかった。思い詰めた宗楽には、他人に配慮できる余裕がなくなっているのが分かるからだ。
七海は大学一回生の時に、宗楽と知り合った。理系女子で、論理的に物事を考える。宗楽にもそんな面があって共感していたのではあるが、気が許せて心が通うほどには今一歩至ってはいないと、七海は宗楽に感じていた。簡単にいえば、宗楽が遠慮をしているような感じである。
「随分深刻そうだね」
何も話し始めない宗楽に、七海は切り出した。
「うん」
弱々しい返事だった。いつも怜悧な宗楽がらしくなかった。
それでも互いに無言でいると、少しずつ話し始めた。それは宗楽の生い立ちから始まった。長い長い話が、ゆっくりと続けられた。
「ふーん。で、私にどうしてほしいの?」
宗楽の悩みを総て聞いて、七海は今まで閉じていた瞳を開けて言った。
「あなたが思ったことを聞きたい。飾りのない言葉で、はっきりと言って欲しいの」
「本当にそれでいいの?」
宗楽は頷いている。そのために、ここに来たのだ。
七海は深呼吸をして、口を開いた。
「興味無いね」
「えっ?」
宗楽は言われた意味が分らないでいる。キョトンとした表情をしている。
「興味が無いって言ったのよ」
再び繰り返す七海の返答に、宗楽は怒りさえ感じた。
「どうして? 私たちは友達だよね。それって、随分酷い言い方だよね」
「そうね、友達だね。私は親友だと思っているよ。だから、私ははっきりと言ったんだけど」
「だったら、もっと他に言い方ってあるじゃない」
「じゃあ、どうして欲しかったの。慰めて欲しかった? 悲しんで欲しかった? それとも、救って欲しかった?」
「それは・・・」
宗楽には返答できなかった。どうして七海に会いに来たのだろうか。
「慰めて欲しいのなら、優しい理沙のところへ行けばいい。悲しんで欲しいのなら、泣き虫の和美のところへ行けばいい。救って欲しければ、彼氏のところへ行きなさい」
七海は真剣に言っている。少しも視線を逸らさずにいた。
「こんな相談をするのに、私を選んだのは、もう宗楽の中で答えが出ていたからなんじゃないの。どうしなければいけないのかは、分かっている筈だよね。だから、私の答えは、興味が無いだよ。他人に何と言われたって、結局は自分で答えを出さなきゃいけないことだよ」
宗楽は頬に平手打ちを食らった気がした。その通りだ。何をするべきかを知っている。既に継母を「お母さん」と呼んできた。その時に答えが出ていた筈ではなかったのか。
「ありがとう。七海は最高の答えをくれたよ」
「当たり前じゃない。私たちは親友同士でしょう」
宗楽と七海。そう、二人は空と海だ。青い空と青い海。夕焼けの赤い空と赤い海。曇りの空では、海も暗い。いつも同じ色だ。お互いの気持ちが通じ合っているからこそだった。
しかし、血の絆の強烈な繋がりを、宗楽は考えていない。絶対に切れない繋がりだ。今の宗楽の答えが覆された時、第二の答えが宗楽の望み通りのものであるかどうか。それはまだ分からない。