参 「カッコいいよね、巫女さん」
陸上競技部に入った藤波愛真は、そこに那珂夜月がいることに驚いていた。
「あら、那珂さんも陸上部だったの?」
熱心に準備運動をしている夜月に声を掛けた。贅肉の少ない、スラリとした四肢をしている。運動をしていない自分とは、大違いだと愛真は感心した。
「ナニ?」
じろじろ見ている愛真は、鋭い声に驚いた。考えてみれば、他人の体を凝視しているのは、失礼だったのだ。
「ごめん」
何だか頬が赤くなった。これじゃあ、まるで恋する乙女だ。愛真は、激しく首を振っていた。
「ヘンな子ね」
夜月が、準備運動を止めずに、呆れた声を上げた。
「アンタも、準備運動したほうがいいんじゃないの」
顎でキャプテンが来る方向を示した。新入部員の体力測定をすると伝えられているからだ。
愛真が、えっと言ったまま、呆然としている。陸上部の準備運動って何。そんな表情をしていた。
「アンタ、、、、もう・・・・ほら、アタシの真似をして」
屈伸、伸脚、前後屈、回旋、跳脚、腱伸ばしと、次々にこなしていった。
「アンタ、ホントに運動が好きなの?」
夜月には、もうばれてしまっている。嘘つきとまでは、まだ思っていないが、呆れた奴だと感じた。
「ありがと。行ってくる」
キャプテンの元に行く愛真に、夜月は手を振った。それは教室で初対面にした時と同じように、少し失望感のあるものだった。
「いつまで、続けられるのかな」
そんな心配をしながら、夜月は自分の訓練に集中していった。全日本中学校陸上競技選手権大会に出場する。一昨年前から開催される大きな大会。それが今の目標である。それだけの実力を持っているから、出場資格を得るために頑張っているのだ。
日が暮れかけた頃、愛真がグラウンドを一人で走っているのを、夜月は見た。ゆっくりした足取りであるが、フラフラになっている。明らかに無理に走っているようだった。キャプテンの命令なのだろうか。
しかし、校庭を見回しても、キャプテンの姿がない。
「ネェ」
夜月は、両手を口に当てて叫んだ。
「ネェ、藤波さん」
必死な形相の愛真が、全く気付かずに走っている。見ていて痛々しかった。
「ッタクもう、仕方ないわね。何なのよ、アイツは」
見るに見かねて、愛真に駆け寄った。
「ネェ、下校時間だよ。いい加減にしなさいよ」
肩を掴んで、こちらを向かせた。
「エッ・・・」
愛真が泣きながら走っていた。戸惑ってしまったのは、夜月のほうだった。新入部員が泣きながら一人で走っているなんて、あり得ないことである。
「どっ、、、、どうしたの?」
二人で、その場にぺたりと座り込んだ。愛真の涙が止まらない。それが夕陽に輝いている。夜月は息を飲んだ。
「走るって、気持ちいいね」
愛真は、他人の心配をよそに、にっこりと笑っている。
「ナニよ、アンタは。いったい何なのょォォォォ」
本気で夜月は絶叫していた。何なのだ、この能天気な転入生は。想像もつかない行動に振り回されてしまった。
しかし、どこか憎めない。何を思っていたにせよ、一生懸命にやっていた姿は美しかった。そして何よりも、夕陽に映える愛真の涙は、どんなものよりも美しかったのだ。
「早くしなさいよ。モウ、帰るわよ」
気付かれないように微笑んでいる夜月は、久しぶりに落ち着いた気分になっていた。どちらかと言えば、敵を作ってしまう性格をしているほうだった。だから、親友と呼べる者はいなかった。誰かを頼ることも、頼られることもなかった。それでいいのだと信じていたのだ。
それが、この愛真に大きく狂わされてしまっている。それなのに、一つも悪い気はしなかったのだ。
「待ってよ、夜月ちゃん。名前で呼んでいいでしょう」
愛真が手を差し出している。立てないと言っているのだ。
「いい加減にしなさいよね・・・・エマ」
躊躇いもなく手を引っ張ると、肌の温もりを感じた。いつから人の肌に触れなくなったのだろうか。しみじみとした思いが、夜月を包んでいったのだった。
土曜日は、半ドンと言って、学校は昼までであった。正午に大砲を撃ったことから、こう呼ばれるようになったらしいが、定かなことは分からない。
「藤波さん。明日、みんなで四条畷神社に行かない?」
下校時間に、クラスメイトたちが部室に押し寄せて来た。
「那珂さん。いいよね?」
ツンとしている夜月は、さっさと着替えて帰って行こうとしている。
「勝手にすれば」
大勢でいるのは、苦手なのだ。愛真が友達と感じるようになったが、まだクラスメイトにまで心を許せるようにはなれない。
翌日、女の子たちが愛真の家に集まった。
「ここが、藤波さんの家?」
新築の建売住宅だ。二戸建て長屋で、この時代には多く建てられている。道を挟んで、同じ家がずらりと並んでいた。
「みんな、自転車で行くの?」
路地から自転車を引っ張り出しながら言った。朝日が髪を束ねている漆黒の珠に輝いている。
歩いたほうが面白いのにと、愛真は思っている。知らない道や歩いてでしか通れない道を行くほうが、楽しいに決まっている。新しい発見やワクワクする出来事に出合えるからだ。
女の子たちの自転車が一列に並んで、豆腐屋の角を曲がると、車道に出る。車道とは言っても、車が対向するには狭い道幅しかない。雁屋公民館を過ぎて、楠公郵便局の信号で右折すると、すぐに『楠公墓地』に出た。
女の子たちは、ここで自転車を降りた。『小楠公』に挨拶をする。それがこの町では当たり前の風習だった。誰もそれが変だとは思っていない。神様なのだから、手を合わせて当然だった。
楠公墓地の境内は静かだった。社殿もしんとしていた。奥にそびえる楠が、時折風になびいて、ざわついていた。
自転車の進路を東に変えると、商店街が続く。町で一番の繁華街になる。すぐ近くにダイエーが出来てからは、少し客足が遠退いていたが、それでも自転車で通り抜けるのは危険で、押して歩いた。
愛真はキョロキョロしていた。魚屋のオヤジのだみ声、饅頭屋の甘い香り。色々なものが混じり合って、素敵な文化を創り出していた。
踏切を渡ったところから、また自転車に乗った。
話から外れるが、ここを線路沿いに南に行けば、国鉄・四条畷駅がある。この駅の住所が四条畷市ではないことに、どれだけの市民が気付いているだろうか。隣の大東市になるのだが、駅創立時の土地の歴史的背景が、駅名になっている。
じっくりと周りを見渡せば、まだ面白いことがある。先ほどのダイエーも四条畷店と名付けられているが、ここも大東市だ。ナワテシネマも駅の裏にあるから、ここも大東市。一体どれだけのものが、四条畷と銘打っているのだろうか。
さて、女の子たちが行く。踏切から真っ直ぐ東の神社への道は、少しずつ上り坂になっている。一の鳥居を過ぎると、小さな墓地があるので、何人かが心の中で手を合わせた。日本人の信仰する宗教は、生まれながらにして、みんなが手を合わせるようになっている。決して信仰心がないというものではない。
段々と急になって行く坂道を、息を切らせながら、二の鳥居にやっと辿り着いた。横手にある茶屋宿・伊勢屋の風情ある家屋で、自転車を慌てて降りた。
「早く早く、もうすぐ始まるよ」
階段を一気に駆け上がると、雅楽の音色が聞こえてくる。
注連柱に架かる注連縄の下で、一列に並んで礼をすると、そこには広い聖域が広がっている。そして拝殿の前には、結界が引かれ舞台を創っていた。宮司が祓串を振って清めを行っている。
「間に合ったね」
「ギリギリだけどね」
女の子たちの小声が弾んでいる。これを見逃したら、本当に悔やまれるからだ。
「ねぇ、男子も来ているよ」
同級生ばかりか、三年生の顔もあった。
「人気者だからね」
皆が感心していた。
「ねぇ、何があるの?」
愛真だけが、この中で取り残されている。何故か急に誘われて、よく分らないうちに、ここに来ていたのだ。
「すぐに分かるからね。きっと驚くよ」
何を隠しているのか、皆は取り合ってくれなかった。
「ちょっと、男子。後で写真ちょうだいよ」
カメラを構えている南中学校の写真部を捕まえて、皆でねだっていた。
「シィーーーー」
いよいよ、始まる。 愛真は、結界の舞台を注目した。
シャン・・・シャン、シャン・・・・
拝殿から、一人の巫女が登場した。巫女衣装は、白い小袖に緋色の袴だ。襟には襦袢の赤が覗いている。上着に千早を羽織って、赤い胸紐を結んでいた。長い後ろ髪は、絵元結にして垂らし、頭に天冠を頂いていた。足は白足袋で、赤い鼻緒の下駄である。手には採り物として、右手に黒柄の神楽鈴と左手に玉串を持っていた。
シャン・・・シャン、シャン・・・・
舞台の中央に進み出て、大きく両手を広げる。まるで鳥が大空へ舞い上がるかのようなゆっくりとした動作だ。
「かっこいい」
愛真が思わず呟いていた。巫女をこんなにじっくりと見たのは初めてだ。一目で憧れてしまっていた。
「那珂さん、可愛いよね」
隣で女の子が、キラキラした瞳で言う。
「えっ、那珂さん?」
愛真が疑った。教室での素気ない夜月と、陸上部での強靭な肉体の夜月。目の前の可愛い巫女が、その夜月であるはずがない。
「あの子、この神社の子だよ」
「!」
息が止まるほどの衝撃を、愛真は味わった。
シャン・・・シャン、シャン・・・・
巫女舞いが始まった。優雅な動きが、参拝者を釘付けにする。神楽鈴の漆黒の柄は、中が空洞になっていて、そこから五色の細い帯がひらひら舞っていた。それが実に美しく、可愛い巫女を引き立てていたのだった。
愛真は取り憑かれたようにして、巫女舞いを見入っていた。薄化粧をしている巫女は、確かに夜月である。しかし、まるで別人であった。信じられない出来事に直面すると、人は時として、思考を停止してしまうものだ。
初めての教室で、夜月の言葉を思い出した。
「楠公墓地で会ったよね」
「覚えてないの、残念」
それが何のことだったのか、今わかった。あの楠公墓地の社殿で舞っていた巫女が、夜月だったのだ。ずっと心の内側で、わだかまっていたものが、すっきりと消えて行った。
知らない間に涙を流していた。感動したのか、安心したのか、感情が複雑過ぎて、愛真にも整理できなかった。
「げっ、藤波さんが泣いてる」
隣の子があたふたした。
「えへへへ」と、愛真は舌を出して誤魔化した。
神事が終わると、社務所に戻る夜月を皆が捕まえた。巫女姿の夜月と記念写真を撮らないはずがない。
「写真部ぅ、こっちを撮ってよ」
女の子たちが、代る代る夜月との写真を撮るように要求した。カメラマンの男子は、もうどうにでもしてくれとばかりに、シャッターを押しまくっていた。
数日して、巫女の写真を手にした愛真は、教室で本当の夜月とは、何なのかと悩んでいた。家業が神社だから、巫女をしているけれど、性格が開放的過ぎる。しかし、それよりもまだよく本性が分らなかった。神秘的と言うのかなと、愛真は結論付けようとしていた。
「夜月ちゃんの写真貰ったよ」
放課後の部活で、校庭を一緒に走りながら言った。
「あっ、ソウ」
「カッコいいよね、巫女さん」
「あっ、ソウ」
「でも、神社の子だったなんて、びっくり」
「あっ、ソウ」
愛真は、毎日走り込んでいるので、この頃には夜月の練習にも付いていけていた。それは評価するべきことだと、夜月は考えている。運動をしたことがない愛真なんか、すぐに根をあげて退部してしまうだろうと、高をくくっていたのである。
「もしかして、夜月ちゃんは不機嫌なの」
能天気な愛真である。面と向かって、そんな事を聞く奴がいるのか。夜月は、逆にそれが可笑しくなった。
「アタシに無断で、投稿したんだって」
「えっ、何?」
「写真部が勝手なことをしたのよ」
巫女舞いの夜月の写真が、あまりにも出来が良かったので、写真部で盛り上がってしまい、夜月の許可を取らないで、雑誌社に投稿してしまったのである。神楽鈴を鳴らす神秘的な表情の巫女。写真部渾身の一枚であった。
「あんな写真、恥ずかしいじゃない」
「でも、かっこいいよ」
どうにも話が、夜月の思うようにかみ合わない。不思議ちゃんな愛真である。
夜月の不安は、当たった。巫女の写真が、投稿雑誌の大賞を獲得した。雑誌記事の巻頭に大きく掲載され、夜月の身辺がにわかに騒がしくなってしまった。
連日、神社や学校に押し掛けるファンと称する者たちは、夜月を付け回した。酷いものは盗撮することさえある。
夜月は、喧騒の中を努めて平穏に過ごそうとしていた。アイドルになった夜月のことは、愛真は自身のことのように嬉しいが、陸上部に専念しようとしている姿を見れば、協力してあげなければならないのだった。