弐 「黒結晶かぁ」
兵庫県神戸市に湊川神社がある。
地元では、『楠公さん』と親しまれている。別格官幣社で、主祭神は楠木正成。あの『大楠公』であった。
荒山宗楽は、漸く遅い昼食を摂っていた。宮司の娘として、巫女の剣舞を奉納していたのだ。神職に就くことに固執しているわけではない。家系というものが、長女に将来を決定させようとしているだけで、本人の執着心というものは皆無だった。ただこのままでは、大学を卒業後に決められた将来を歩むことになるのは間違いがなかった。
しかし、不満はない。神に仕える神職を受け継ぐことは、名誉なことである。奉職して祈祷を行うことが、幼い頃は当たり前だと理解していた。この考え方が、成長して社会に出ていくと、少し疑問を持つようになった。
宗楽は、大学で自由に就職先を検討している学生たちが羨ましかった。未知なる可能性に挑戦できることが許されている。家系を思うと、それができない自分は、この大学で一体何の為に勉学をしているのだろうかと、虚しくなることさえあった。
それを友人に打ち明けると、贅沢な悩みだなと一蹴されてしまう。有名で由緒ある神社なのは分かっているが、宗楽の自己というものが、無視されていることに我慢がならなかった。
昼食を摂りながら、そんなことばかりを考えていると、味気ない食事になってしまった。折角作ってくれた継母に申し訳なかった。
傍ら置いている奉納の剣がある。祈祷や舞いのためだけに作られたものだ。拵えの鞘・柄・鍔がすべて白。まさに汚れを祓う剣に相応しいものだ。
だが、刀身を抜くと、その様相はガラリと変わる。漆黒の抜き身である。鋼ではない。石のような刀身だ。一点の傷も曇りもない。古代より使用されてきた剣であると聞いている。この湊川神社の歴史よりも、ずっと古いものらしいのだ。それにも拘らず、輝き続ける刀身は、決して金属ではあり得ないものだった。
明治期の晩年に、この刀身を調べられたことがある。もちろん材質についてである。明治政府の機関の調査で、純粋のボロンであることが判明した。ボロンとは、硼素のことである。半金属で、黒色の個体の希少元素だ。高融点で高沸点な非常に硬い物質で、ダイヤモンドに次ぐ硬度を有している。
これを古代に製作した方法が不明となった。不純物をボロンから取り除くことは、まず不可能なのだ。加工することでさえ、硬過ぎるはずだった。従って製造年代は判明出来なかった。
古代技術で単結晶化したボロンは、「黒結晶」と称されて報告された。元々は「倭祷神器」と呼ばれていたが、より分かりやすい名前に改められてしまった。明治天皇によって創建された湊川神社であるために、由緒ある宝のことであっても、明治政府には逆らえなかった。
「黒結晶・・・かぁ」
宗楽が呟いた。先祖からの伝承では、邪馬台国の女王から受け継いでいるものだという。邪馬台国といえば、二世紀から三世紀の伝説のような国だ。幼い頃に、祖父から何度も聞かされた話である。宗楽は子供ながらに、こんな大事な宝に素手で触れて良いのだろうかと気を使っていた。
しかし、中学生になる頃には、そのような話を信じ続けられるほど、宗楽は単純ではなくなっていた。何故なら、湊川神社は明治時代に始まっているのだ。一千八百年前の宝が継承される筈がないと考えるのが当然だった。
だから、湊川神社と同じく別格官幣社で、主祭神を楠木正行としている四条畷神社を調べてみたくなった。『大楠公』と『小楠公』で繋がりのある神社同士である。伝承通りならば、同じ宝が存在しているかもしれない。否、存在しているべきであろう。そうでなければ、この伝承は偽物である可能性が大きくなる。
「四条畷神社に行きたい」
中学生だった頃の宗楽は、父親で宮司を務める荒山隆宗に再三要求している。しかし、何故かいつも拒絶されていた。理由も言わず、駄目だの一点張りだった。
荒山にとっては、四条畷市に行きたくない理由がある。前妻で宗楽の母親が、そこに住んでいるからだ。離婚当時に生まれたばかりの長男を連れて、実家に戻っていた。
そのような事を、我が子に言える筈がない。長女の宗楽が幼稚園に行く前のことだから、生まれたばかりの弟を覚えていないことだけが、荒山には唯一の救いだった。
「四条畷神社に行きたい」
いつの間にか宗楽のこの思いは、忘却されていた。父親に逆らってまで追求することでもないし、興味もさほど湧かなかったのだ。そして何よりの理由は、宗楽は父を信用していないからだった。
神職を第一に考えている父は、家庭を全く顧みなかった。だから宗楽を産んでくれた母と離婚したのだと思っている。後妻もそれを覚悟で添うことになったが、いつも寂しい姿を宗楽はずっと見続けてきたのだった。
しかし今日の宗楽に限って、黒結晶が妙に気掛かりになってしまった。
「何だったかなぁ・・・・」
宗楽は記憶を引き出そうとしている。祖父が幼い頃に教えてくれた黒結晶の名前である。
「火の刃と・・・水の洞、それから・・・」
四つあることは、はっきりと覚えている。だが、思い出せなかった。父親に聞けば、簡単なことだろう。しかし、そんな事を聞く気になれなかった。
宗楽は、そのままバイクを疾走させていた。行く先は勿論、四条畷神社である。神社の駐輪場に着くと、黒のフルフェイスヘルメットを脱いだ。
「石階段か」
鳥居に続く長い階段を見上げて、宗楽は呟いた。
湊川神社とは違う造りの境内である。鳥居の横に宿屋がある。一見すると、お茶屋さんのようだが、安物の民宿みたいだ。このような何もないところに泊る人間がいるのかと、不思議な気がした。
その宿屋の縁台に、女の子が座っている。大人っぽい雰囲気だが、中学生くらいだろう。何故か、こちらを睨んでいるのが気になった。
階段の途中で、老人と介助をしている青年を追い抜いて、境内へと進んだ。
「何? この神社には、宝物殿はないの?」
初めての訪問では、総てを湊川神社と比べてしまう。宝物殿があれば、黒結晶を簡単に探すことができただろう。それがないとなれば、当てもなく探すしかない。もし公開されていなければ、無駄足になってしまう。宗楽の身分を明かせば、神社関係者として、ここの宮司に頼むことも出来るかもしれない。だが、父に断りも無く来ているとあっては、この手段は使えなかった。
宗楽は、祈祷を申し込むことにした。拝殿から本殿が見通せるが、宝物どころか、何もない。供物の神饌でさえ、この時は置かれてはいなかったからだ。
神職が祝詞を奏上する。神様と参拝者の間を執りもつ大切な儀式だ。さらに、巫女の神楽舞いを神前に奉納された。これによって神様にお慶びして頂き、参拝者のお守りを祈るのである。そして、玉串の榊の枝を神前に奉って拝礼をし、祈祷は終了した。
神職が社務所に戻って行く。その姿を宗楽の視線は追い掛け続けていた。他にも参拝客がいるのに、不注意に拝殿から飛び出して衝突しそうになってしまう。
「すみません」
先に謝って来たのは、相手のほうだった。この場合は宗楽の方に非礼がある。慌てて視線を相手に向けると、石階段で老人といた青年だった。青年と言っても、高校生くらいだ。満面の笑みでいる。
(何だ。こちらの非礼を笑っているのか?)
宗楽は青年の笑顔を歪めて受け取った。それほどまでに笑っているのだ。衝突されていつまでも笑っているのは、却って失礼ではないかと感じた。
「こちらこそ、すみませ――― 」
「大丈夫ですか?」
宗楽が詫びようとしているのを遮って、青年は言葉を続けてきた。しかも手まで差し出してくるので、宗楽は焦ってしまった。
「ありがとう、大丈夫です。今のは、私が悪かったです。ごめんなさい」
こんな相手には、油断なく返事を返すのが最善策だ。隙を見せれば、付け入られてしまう。先ほど一緒にいた老人はどうしたのだろうかと探したが、境内にはいないようだった。青年だけが残って、宗楽の祈祷を見物していたのだろうか。
余計な邪魔が入ってしまって、宗楽は顔をしかめながら青年の前を去った。神職はもうどこにもいない。拝殿には宗楽が奉った玉串だけが残されていた。
宗楽は神職が腰に差していた太刀を注視していた。黒光りしている鞘が疑わしい。もう一度確かめようとしていたのに、青年にぶつかりそうになって、それも出来なくなった、しかし、その他に黒い物はなかった筈だ。
青年の視線は、まだ宗楽を追い掛けている。その表情には先程の笑みはなくなっている。それどころか、宗楽を睨みつけている。まるで憎悪の眼つきだ。宗楽はそんなことには気付かずにいたのだった。
鞘は、湊川神社の剣と一対になっているのかもしれない。剣が『火の刃』で、鞘が『水の洞』だと思われる。剣は間違いなく『刃』だし、鞘も中身がない『洞』だ。そう考えると、伝承の信憑性が、ぐっと高くなった。勿論、鞘が本物ならばである。
「黒結晶『火の刃』に対するもの。黒結晶『水の洞』なのだろうか」
宗楽は興味がないとしながらも、少しずつ関心を持ちだしていた。謎の国・邪馬台国の宝だ。その価値がどれ程のものかを知りたくならない方が異常である。
湊川神社に籠って、神社が所有する古い文献を調べ始めた。だが、学者でもない限り、古文を読むことは不可能である。宝物殿の解説書で、理解するのが精々だった。
元々湊川神社は、大楠公の楠木正成を主祭神として、明治時代に創建された神社である。十四世紀の鎌倉時代以前のことは、解説書には何も記されてはいなかった。
邪馬台国は二世紀から三世紀である。千年以上の差がある。あまりにも時代が懸け離れ過ぎている。だが、この時代のことが書かれた文献が宝物館に残されているのなら、黒結晶に関わることが何か解るかもしれなかった。
「どうにもならないのかな」
諦めの声が、宗楽の口から洩れていた。『火の刃』の刀身を抜いて、漆黒の輝きを見詰めた。
「大学で調べてくれないかな」
佐伯教授なら喜んで調べてくれるかもしれないと、宗楽は思いが行き着いた。大学では変人で通っているが、佐伯教授は考古学の権威であった。一度興味を持てば、周囲の状況も構わずに研究に没頭する性分である。多少の障害があっても、怯むことがなかった。
宗楽は、そんな佐伯の性格を利用して、黒結晶を調査させるように仕向ける画策を開始した。それは簡単なことだった。黒結晶の存在と明治政府の調査書を餌にすればいい。
「つまりは、明治政府が調べ切れなかった湊川神社の宝剣を、私に調査しろということかね?」
「佐伯教授なら、これが邪馬台国の宝剣であると証明して頂けるはずです」
「邪馬台国がボロンを精製したとなると、大発見になるね」
「これと対を成す鞘が、四条畷神社にあります。この二つが揃えば、さらに大発見になりますよ」
宗楽は豪語した。何とかして佐伯の興味を惹かなければならないからだ。
だが、佐伯はあまり信じてはいない。ボロン、つまり硼素の融点は二千度以上なのだ。青銅器や鉄器の時代では、一千度程度の炉を造ることしか出来ない。鉄の融点が、一千五百度なのに、鉄器という鋼が作れたのは、鍛造技術によるものである。鉄を赤く熱してハンマーで叩く。これによって不純物を取り除き、炭素量を調整して鉄を鋼に変えるのである。これならば、青銅器のように溶かして作る必要もなくなる。鉄の融点よりも低い温度で、鋼が作れたカラクリだった。
鉄器のようにボロンが精製できるのか。そして、硬いボロンを、どのようにして研削加工するのか。鋼のように砥石で磨いても、ボロンを剣にすることは出来ない。ダイヤモンドを使えば出来るだろうが、鉄器がやっと登場した時代に、そんなことは不可能と考えるしかなかった。
「いいでしょう。湊川神社の文献を見せてもらいましょう。調査をするかしないかは、それ次第でいいかね?」
宗楽は、それだけで十分だと思った。自分一人では理解できない文献が、邪馬台国に無関係ならば、それで諦めがつく。伝承に惑わされた笑い話として、忘れてしまうだけのことだった。