壱 「昨日、会ったよね」
昭和五十一年の始業式は、そよ風が気持ちいい日になった。
四条畷の町でも景色が良い飯盛山の麓にある市立四条畷南中学校は、五年前の四月に設立されている。翌年には、三階と四階の各教室に打放しコンクリートのバルコニーがある綺麗な校舎が完成した。
「アンタ、転校生だったの」
見るものが総て目新しい教室で、不安そうにしている女の子は、その声に少し驚いた。
「アタシ、那珂夜月。夜の月でミツキ。昨日、楠公墓地で会ったよね」
初対面なのに、随分と親しげに話し掛けてくるクラスメイトだ。
楠公墓地で会ったと言われて、女の子は、ハッとした。相手の顔に覚えがないのだ。あそこへは、まだ一度きりしか行っていない。楠の大樹の下で、うたた寝をしていたのを見られていたのだろうか。
急に恥ずかしくなって、首を振った。髪を束ねている小さな漆黒の珠が揺れている。
「何だ、覚えてないの。残念」
手を振って、夜月は去って行った。
「ごめんなさい。私、藤波愛真。エマって呼んでね」
慌てて名乗ったが、夜月は気に障ったのか、振り返ってはくれなかった。
愛真は転校生だ。二年生の新学期に合わせるようにして、引っ越してきたばかりである。この南中学校の所在どころか、三十分以上の通学路を自宅まで無事に帰れる自信もなかった。父親が書いてくれた地図だけが、頼みの綱という有様だった。
だから、当然顔見知りのいないこの教室で、不安でないわけがない。折角声を掛けてくれた夜月に、愛真は申し訳なく思った。
しかし、愛真だけがこんな気持ちでいるのではない。その他の生徒たちも、心細さはさほど変わらない。この中学校では、毎年クラス替えをする。だから顔見知りでない者も多い。特に、この中学校は一学年に八クラスもあって、全校生徒数は一千人以上もいるマンモス校だったからだ。
例えば、この学年の生徒たちは、小学生時代には児童数に対して教室が不足してしまって、プレハブ教室で就学してきている。急激な人口増加で、その後も学校数を増やす計画のある四条畷市であった。
「那珂さんは、いつもあんなのだから、気にしないで」
新しいクラスメイトが、転校生を珍しがって群がってくれていた。
「藤波さんは、どこから来たの?」
「クラブ活動は、どこに入るの?」
「家はどこ?」
立て続けの質問漬けにあった。しかし兎にも角にも、藤波愛真の中学二年生の生活が、この四条畷市で始まった。
「ねぇ、この町の楽しい所って、どこ?」と、愛真。
「そうね。ナワテボウルか、ナワテシネマか、・・・山登りってのもあるけど、ねぇ」
山登りは、女子には乗り気のしない答えだった。
「社会科で習ったよ。楠木正成のお城があったんだって」
歴史の教科書にある楠木正成氏を『楠公』という。この四条畷では、『楠公さん』と呼んで、誰もが親しんでいるが、このクラスメイトが言ったことは、少し間違っていた。
『楠公さん』と呼んでいるが、正確には『小楠公』さんだ。楠木正成は、『大楠公』なのである。
では、『小楠公』は誰なのか。それは、正成の嫡男・楠木正行が、その人である。四条畷の戦いで、正行はこの地で、命を落としている。そこが『楠公墓地』となった。また、四条畷神社は、この楠木正行を主祭神としている。
だから、お城というのも正成のものではない。さらに言うなら、正行の時代にはお城と呼べるほどのものは建ってはいなかった。築城されたのは戦国期になるのだが、飯盛山の山頂にある『楠公さん』の銅像を見れば、城があったと誤解してしまうのも当然かもしれない。
「私、ボウリングに行きたい」
言いながら、愛真は投げるポーズをとっている。幼い頃、ボウリングブームで、家族で何時間も並んでボウリングをしていたことを覚えている。
「何だか、大人しそうに見えるのに、意外だね」
「私、運動は得意だよ」
「へぇー。じゃあ、クラブ活動は、もう決めているの?」
「うーん」
愛真は迷っている。新天地のこの中学校では、新しい自分を作り出したいと考えている。今までの自分に不満があるからというわけではない。もっと何かに挑戦したいという思いがあったからだ。自分自身への可能性というものがあるならば、それが何であるのか知りたくなった。
「クラブ活動は、陸上競技部に入るつもりだよ」
愛真が明るい声で言う。どうだ、凄いでしょうと、言いたげな雰囲気であった。
「陸上部!」
群がる女の子たちの後ろが、ざわつきだした。
「早瀬さん、藤波さんが陸上部に入りたいって」
痩身の女子生徒が近付いてきた。群がっている女の子たちが、パッとよけて道をあけている。格が違うというか、威風堂々としていた。
「いいよ。私も陸上部だから、顧問の先生に届けてあげる」
背筋をぴんと伸ばして、胸を張って歩く姿が見事である。女の子と言うよりも、貴女や貴婦人と呼んでしまいそうだった。
「あ・・・ありがと」
愛真が圧倒されていた。早瀬は、先祖が貴族であるらしい。そんな血を受け継いでいたからなのかもしれない。
四条畷南中学校は開校したばかりで、まだ五年である。陸上部をはじめ総てのクラブ活動は、ようやく始まったという段階だった。自分たちで伝統と歴史を作っていくのだと、生徒たちは意気込んでいたのだ。
実はこのとき、愛真は嘘をついている。運動が好きだなんて、とんでもないことだった。しかし、新天地で何かを変えたい。そう望んでいることは確かだし、自分自身にも、これまでに出来なかったことが、出来る筈だと期待していたのだった。
たくさんの生徒たちの夢と希望に満ちた学校生活が、この桜の季節から始まったばかりであった。
中学校から山沿いを南に行くと、四条畷神社がある。
那珂夜月は、ここの二の鳥居から見える街の景色が大好きだ。道路が一直線に続いていて、遥か下の一の鳥居やその先の商店街までが見渡すことができた。そして振り返れば、緑に覆われた神社の石階段がずっと上まで続いている。
天と地の狭間。そんな異次元にいるような空間が、この場所であった。鳥居横の茶屋宿・伊勢屋の前で、いつも休ませてもらっていると、女将さんが気さくに声を掛けてくれた。幼い頃からの顔馴染みで、夜月のことをよく知ってくれていた。
「今日から新学期かい?」と訊く女将に、
「ウン」とだけ、答える夜月である。
いつも大人ぶって振舞っているのが、女将の目には可愛く映っていた。とてもいい子でいる夜月が大好きだった。
無理をして振舞っているのではない。夜月は自分を表現するのが下手なのだ。同世代の子供には、それが理解できない。理解できないから、避けてしまう。だから夜月の視線は、いつしか大人にだけ向けられるようになってしまっていた。大人だけを見ているから、振舞いが大人っぽくなる。当然なことだった。
子供っぽいとは何か。そんなことは夜月には分らない。子供っぽい自我を、ありのままに表現して、駄々をこねる時期もなかった。大人にとっては聞き分けの良い子で、手が掛からないしっかり者として愛されてきたのだった。
それが、夜月をどういう性格に育て上げるのかを、大人たちの誰にも分らなかった。夜月の自分らしさが、本当に育っているのかが分からない。常に大人っぽくして、周りの大人の顔色を気にしていた。子供であるのに子供っぽくしてはいけない。そんな潜在意識が、常に働いている。自分はこうでなければならないという制約を、いつしか持つようになってしまっていた。自我を抑え込んで、大人の考える理想だけを追い掛けている子供だったのだ。
神社の長い階段は、老人にとって大敵であった。杖を突き一段一段、時間を掛けて登っていく。頂上の聖域に達して、お参りすることが老い先短い者にとっては、唯一の慰みでしかない。
そんな老人を助けて階段を登る男の子の姿を、夜月は眺めている。男の子と言っても、夜月よりも二つ年上だ。中学二年生の夜月が、高校生を男の子と感じてしまうのにはわけがある。男の子が園児の時から、ずっとこの光景を見続けていたからである。幼い男の子が、見ず知らずのお爺ちゃんやお婆ちゃんの手を引っ張って、神社の長い階段を登っていく光景は、夜月をとても幸せな感覚にしてくれた。
あの男の子は、誰なのだろうか。そんなことを、夜月は疑問に思ったことがない。伊勢屋の女将が名前を呼んでいた。
「稔宗くん」
きっと近所の子供に違いない。ごく自然に振舞っている男の子は、きっとそれ以上のことを知って欲しいとは思ってはいないだろう。
夜月は自然の一部として、この光景を大好きなものとして大事にしていた。
その光景を、無粋に壊すものがいる。
低く唸るエンジン音が、一の鳥居の向こう側から聞こえてきたのだ。夜月は視線を向けると、バイクが一直線に神社へと疾走している。
折角のいい気分を台無しにされて、夜月は顔をしかめた。バイクは、もう目の前の駐輪場にいる。雷のようなエンジン音が、鼓膜に突き刺さっていた。
黒のフルフェイスヘルメットを取ると、大学生くらいの女の顔が見えた。夜月は、この騒音を撒き散らして登場してきた女の顔を睨みつけてやった。せめてもの抗議のつもりである。
「じゃあね、オバサン」
そう言うと、夜月はさっさと帰って行った。女将の返事を待つこともない。自分は挨拶をしたのだから、それでいい。挨拶を返して欲しいとは思わなかったからだ。
「夜月ちゃん。日曜日の御予約が取れましたって、お父さんに伝えておくれ」
女将が夜月の背中に向かって、伝言を頼んだ。夜月は振り返りもせずに、手だけを振って応えるのだった。