壱拾弐 「幸福な世界に戻して」
見渡す限り大地が無くなり、水が満ちている岸辺に、夜月はいた。ここは、あの四条畷の地から遠く離れた場所だ。関西の土地から何もかも無くなり、その力を以て、悪魔は無に還っていった。
愛真が足元に眠っている。稔宗も無事だった。
「済まぬ。愛真には無理をさせた」
夜月の口から、卑弥呼が言葉を語っている。
卑弥呼が憑依している夜月に対して、愛真は卑弥呼の力の一部を与えられただけだった。それなのに、夜月と互角の力を愛真に使わせていたのである。だから、疲れきって眠っている愛真に、無理をさせたと謝ったのだ。
「夜月には、これを与える。これを使うべき正当な人間だ」
五本の指を胸の前で動かした。
『火の刃』
『水の洞』
『風の扇』
『土の璽』
四つの神器が揃った。それぞれがゆっくりと渦を巻き、輝き始めた。
そして、一つになっていく。
「古代女王が受け継ぐ真の『倭祷神器』だ。どんな望みも叶えてくれる。あとは何事も夜月に任せる」
急激に張り詰めていた雰囲気がかき消えた。卑弥呼が力を失い消滅したのだ。
透明の光を放つ『倭祷神器』が、夜月の前に浮いている。
稔宗が、夜月を見つめる。
何を望むべきか。そんなことは分り切ったことだった。この目の前の惨状を見てみろ。自然豊かな大地が、水だけの土地になってしまっていた。夜月が何を望むのか知っていたから、卑弥呼は持っているすべての力を使って、悪魔と戦ったのだろう。
元通りに返す。それが望むべきであることに間違いがない。だが、元通りとは何だ。何をもって元通りとする。総てを無かったことにすることなのか。夜月は悩んだ。
稔宗と愛真の顔を見つめた。
誰よりも稔宗が気掛かりだった。自分の好きだという感情に、夜月は気付いてしまった。ずっと以前から恋していたのかもしれない。稔宗がいる神社の石階段を、お気に入りの風景の一部だと誤魔化していたのだ。本当は稔宗がいたから、神社から見える景色が好きになったのだ。
だから、夜月には、元通りに戻せば、その想いも無くなってしまうことが怖かった。
そして更に、愛真との友情が無くなってしまうことが怖い。稔宗への恋心よりも、それは夜月を奈落の底に突き落とすかのように思えた。
友達が一人もいなくなる恐怖は、もう二度と夜月には耐えられない。愛真が教えてくれた人の温もりが、あんなにも心地良かった。肌と肌の触れ合いが、本物の絆とは何かを教えてくれた。二人で豊栄舞を舞い、心を通い合わせた幸福な時間も、自分の危険を顧みずにお守りを貸してくれた愛真の友情も、それらすべてを失ってしまうことは耐えられなかった。
元の夜月に戻れない。大人の顔色ばかりを気にして生きている夜月には戻りたくなかった。
悩ませているのは、それだけではない。死んだ佐伯は、どうなるのか。元に戻せば、あの佐伯の狂気が復活するのだろうか。宗楽もただ母親に会いたかっただけなのだ。悪魔を間違えて復活させてしまっただけだ。
だが、そのまま元に戻すだけでは、意味がなくなってしまう。
この世界は、何故あんなことになってしまったのか。それは、神器しか考えられなかった。あれを巡って、すべてが始まっていたのだ。
神器のない世界に戻す。それが夜月の答えだった。
だが、、、、
だが、である。
すべての気持ちに整理がつくものではない。神器があったからこそ、愛真と稔宗に出会えたのかもしれないのだ。否、神器が結び付けてくれたに違いないのだ。それを思うと、卑弥呼が言う願いが望むことが出来なかった。
夜月も愛真も、そして稔宗も、皆の記憶からこれまでの思い出が無くなるかもしれない。そうなれば二度と出会えなくなる。夜月のクラスメイトたちのように、すれ違うだけ関わり方しか出来なくなる。それが怖かった。
そして、最も怖いのは、すれ違うことさえないかもしれないことだ。神器が三人を引き合わせてくれていたのなら、それが無くなれば、どうなるのかさえ分からなかった。
長い時間が過ぎる。その時間の長さが、夜月の苦しさを表していたのだった。
涙が頬を一筋流れた。
「ゴメンネ、稔宗さん。ゴメンネ、エマ。ゴメンネ、アタシ」
夜月は背筋を伸ばした。もう迷わないことにした。何故なら、未来のアタシはきっと自分を褒めてくれると信じたからだ。
「神器のない幸福な世界に戻して」
『倭祷神器』が優しい光で、世界を包み込んだ。