壱拾 「生け贄にされるわ」
那珂夜月と桐村稔宗は、四条畷南中学校まで辿り着いていた。二人が共に見上げる西の空は、黒煙が渦巻いている。大阪市の大変貌で地表の瓦礫が粉塵となって舞い上がっているのだ。二十世紀の文明が消滅し、七世紀の都が出現した。
未来は、夜月の掌にある髪飾りが握っている。『土の璽』である。古代邪馬台国から伝わる神器であった。
「エマの家まで一緒に来て」
荒山宗楽の手下から逃げのびた夜月だったが、愛真の安否が心配で仕方ない。それに、このまま神社に戻るよりも、愛真の家に向かった方が安全と思われた。夜月はさまか愛真が標的になっているとは考えてもいなかったのである。
四条畷高校の横を通り、雁屋北町を横断した。出来るだけ細い道を歩いて、見付からないようにしていた。
「もうすぐです」
夜月は通りの向こうを指示している。愛真に会って、お守りの髪飾りを返してあげなければならない。
雁屋公民館の裏の駐車場を過ぎた時、夜月と稔宗は足を止めた。
「稔宗、探したよ」
宗楽が、行く手の狭い路地を塞いでいた。母親と同じ顔を稔宗に見せることを拒んでいた筈なのに、平然と素顔を晒していた。
「夜月さん。あなたはその神器が何だか知っているの?」
「町を破壊することができるわ」
「まぁ、当たっていなくもないわね。それは佐伯教授が、神器の力を使ってやっているだけ。破壊だけじゃないのよ。いろんなことに使えるわ。その人が望みさえすればね」
「姉さんは、何がしたいんだ。どうせ、その佐伯教授とか言う奴と同じような事をするんだろう」
「嬉しいわ。稔宗は私を姉さんと呼んでくれるのね」
「どんなに憎くても、血の繋がりは変えようがないじゃないか」
「そうね。それが姉弟と言うものね。でも、私は佐伯教授とは違うから、安心しなさい」
「強大な力を持てば、誰だって同じことさ」
「だから男は馬鹿ばかりね。自己満足にしか使おうとしないんだから」
「何が言いたいのか、はっきり言ってくれよ」
「教えてあげるわ。神器が四つ揃えば、お母さんを生き返らせることが出来るのよ。それが四つ目の神器よ。お父さんも優しいお父さんになってもらって、四人一緒に幸せに暮らそうよ」
「お母さんを生き返らせるだって」
「そうよ。私は幸せなお母さんに会いたいわ」
「どうしてだよ。母さんは死んだんだよ」
「四つの神器の力で蘇るのよ」
「そんなのは、母さんの偽物じゃないか。父さんだって、その力で作り変えるつもりなのかい」
「家族が四人で幸せになるためよ」
「そんなことをすれば、佐伯教授と同じじゃないか。力で無理やり町を変えてしまうのと同じだよ」
「違う、違う。私は稔宗に幸せになって欲しいの」
「そんなことを、僕は望んでいない」
「じゃあ。じゃあ、どうすればいいのよ。お母さんを殺したと後悔したまま、私は生きていかなければいけないの」
宗楽は悲痛な叫び声を上げた。母を知らずに育った宗楽が、望むのはそれ以外にはないではないか。稔宗にもそのことは分かっていた。母を慕えば慕うほど、業から解脱することは出来ない。稔宗自身があの陰気な家で暮らしていて、そこから逃げられなくなっていたから分かる。
夜月は稔宗の背後で、この二人の悲劇に動転している。掛ける言葉さえ見つからなかった。だが、愛真が心配だった。一刻も早く愛真の家に行きたかった。
「姉さん。すまないが、今は急ぐんだ。そこを通してくれ」
「待って、夜月さん。藤波愛真さんは、自宅にはいないわよ」
「エッ?」
「佐伯教授に捕まったわ。楠公墓地で人質になっている。その神器を持って行かないと、殺されてしまうわ」
「そんな・・・」
愛真を守ってくれる髪飾りを、夜月は握り締めた。預かるべきではなかったと悔やんだ。お守りのおかげで、夜月たちは助かったのだ。しかし、そのために愛真が犠牲になってしまった。
「私が助け出すわ。こんなことになったのは、私の責任だから」
宗楽が胸に手を当てて誓う。
「稔宗が、それで許してくれるなら、私は何でもするわ」
「僕はっ・・・」
稔宗は言葉に詰まってしまった。許すとか、許されるとか、そんなことではないのだ。稔宗は自分の心の内が分らなかった。
宗楽がそのために犠牲になると言っている。それでいいのか。必ず後悔するのではないのか。稔宗は悩んだ。
「お願いだ。愛真さんを救ってやってくれ」
それは、稔宗の本心とは正反対の言葉だった。
愛真は遥か遠くから誰かが呼び起こす声に困惑していた。意識がはっきりしない。呼び声が続いているのに、起きたくても起きられない。遥か遠くの声が、近くから聞こえている。矛盾しているが、不思議にも感じなかった。
「助けて」
声は、そう言っているようだった。
「助けて」
「お願い、助けて」
何度も何度も聞こえる。愛真は漸く意識を取り戻した。
「お願い、助けて」
広田杏香は楠公墓地の楠の大樹にいた。自由を奪われている。太い枝に両手首を縛られ、吊るされていたのである。
「ねぇ、お願いだから、助けて頂戴。私はこんな所で殺されたくない」
杏香は地面に倒れている愛真に呼び掛け続けていた。愛真だけが縛られていないからだ。
「あなたしかいないの。私たちを助けられるのは、あなたしかいないの。勇気を出して。お願いだから、助けて」
愛真はぼんやりしながら、周りを見回した。助けを求めている杏香の他に、九人の女たちがいた。白い布切れを素肌にまとった姿で、全員が同様に吊るされている。愛真は何が起こっているのかも理解できない。
確か、夜月と別れて一人で逃げていた。自宅へ戻るつもりで、四条畷駅を通過して、懸命に走っていたのだ。愛真の記憶はそこまでで終わっていた。たぶんそこで捕らえられてしまったのだろう。
「あなた、しっかりして。早く助けて。私はまだ中学二年生なのよ。死にたくないの」
愛真は自分と同い年の女の子が縛られていることに驚いた。殺される。死にたくない。そう懇願する見ず知らずの杏香の言葉に、愛真は正気を取り戻した。
「何があったの?」
「私たちは、生け贄にされるわ」
「いけにえ!」
愛真は辺りを警戒した。楠公墓地の楠の大樹の横は、広場になっている。夜月が巫女舞いをする社殿は、その広場の正面だ。その何処にも人影はなかった。
急いで枝に縛りつけている綱を解こうとしたが、愛真の身長では結び目には手が届かなかった。こうなれば、楠に登って綱を切るしかない。
「いけにえ」
愛真は大樹の幹を見詰めながら呟いた。どこから登ればいいのか探しながら、生け贄と言う言葉を考えていた。愛真のお守りの髪飾りが、夜月の描いた紋章で輝いた。それが神楽鈴と同じものだと夜月が言った。そして、それを使って町を壊しているとも言っていた。
「私の髪飾りを使う為の、いけにえ」
全くもって嫌な結論に辿り着いてしまった。幹にしがみ付きながら、愛真は激しく首を振っていた。
「何をしているのかね、藤波愛真君」
突如、愛真の頭上で声がした。
「君は数には入っていないのだ。大人しくしていれば、殺したりはしない」
男の声に愛真は首をねじると、空中に浮いている人物がいた。葡萄色に輝く剣を持っている。そして、夜月が描いた紋章と同じようなものが、黒く光っている。
男が剣の先を少し動かすと、愛真は弾かれたように幹から飛ばされて、地面に叩きつけられてしまった。
「そこで、じっとしていたまえ。いずれにしろ、ここには結界を張ってある。誰も入れないし、出ることも出来ないのだ」
クククッ、と笑う男は気味が悪かった。
愛真は生け贄の女たちを振り返った。まるでミノムシのように吊るされている。杏香が泣き叫んでいる。会ったばかりで名前さえ知らない同い年の女の子。こんな目に会うために生まれてきたのではない。未来に夢見る人生を送ると信じていた筈だ。
愛真は絶望する。愛真が余りに無力だからだ。
男が動いた。一人の女を結界の中に入れていた。それは愛真の見覚えのある人物だった。荒山宗楽。その人だった。
愛真は愕然とした。夜月たちはどうしてしまったのだろうか。何故、宗楽だけがここに来たのだろうか。夜月は無事に逃げられたのだろうか。それとも想像したくないことが起きたのだろうか。何も出来ない愛真は、自分を呪うしかなかった。
「先生、すぐに『土の璽』を持って、夜月がやって来ますよ」
宗楽は悠然と豪語した。その表情は不気味に笑っていた。
姉を犠牲にしても、愛真を助け出して欲しいと願った稔宗は、後悔していた。姉だけを行かせて、稔宗はじっとしていられる筈がない。一緒に行かなければならない。だが、ここには夜月がいる。中学生の女の子を危険に晒すわけにはいかなかった。
「アタシも行くわ。このお守りの髪飾りをエマに返すの」
夜月は決意している。佐伯教授から神楽鈴を取り返し、大阪市を元に戻さないといけない。その為には、楠公墓地に行くしかない。
「駄目だよ。僕がそれを返しに行く。恐らく、この原因は姉さんなんだと思う。だから、僕が決着をつけないといけないんだ」
夜月は稔宗の手を取り言う。
「エマはアタシのたった一人の親友なの。友達がいなかったアタシを救ってくれた大切な、命よりも大切な人なの。そのエマが大事なこのお守りを、アタシに貸してくれた。アタシを救うために貸してくれたの。自分が危険に遭うかもしれないのによ。だから、アタシは行くわ」
義務とか責任とかではない。親友を助けるのは当たり前ではないか。それは稔宗が、宗楽が姉だから決着をつけに行くと言っているのと同じだった。
「分かったよ。一緒に行こう。僕たちの未来の為だ」
雁屋公民館から、楠公墓地はすぐそばだ。通りに出れば、見える距離だった。
「ほら、先生。私が言った通りに夜月がやって来たでしょ」
宗楽が冷酷に笑いながら、佐伯教授に囁いた。
「荒山君は見事だな。どのようにしたのかを詳しく教えて欲しいものだ」
「そんなのは簡単なことですよ。人には弱点が必ずありますからね」
「ほう。恐ろしいな、荒山君は」
佐伯は結界を解いて、夜月と稔宗を招き入れた。
「稔宗。どうして、ここに来たの。私が助け出すって言ったのに。夜月さんも、ここへ来ては駄目よ」
宗楽の口調が豹変したことに、佐伯は呆気に取られた。他人の危険を心配している声音は、宗楽を信用させてしまうには十分なのだろう。
「もう遅いのだ。ここからは誰も逃げられない」
佐伯は宗楽に合せて、話を進めることにした。その方が面白いと考えたのだ。
「さぁ、『土の璽』を渡したまえ」
夜月は聞いたことも無いものに戸惑った。『つちのしるし』とは、何なのだろうか。
「夜月さん、こうなったら、髪飾りを佐伯教授に渡しなさい。それしか、愛真さんを救う方法がないわ」
夜月は考えもなしに、ここへ来てしまったことを後悔した。感情に呑まれてしまって、想定される状況も予想してはいなかったのだった。
もはや宗楽に従うしかないのだろう。稔宗も頷くしか出来なかった。
「これが『土の璽』か。よし、儀式を執り行うぞ」
佐伯が夜月から髪飾りを受け取った時、漆黒の珠が紋章に共鳴して、葡萄色に輝いた。夜月は意外に思った。輝きの色が違うのだ。四条畷神社では、金色に光った筈だった。
佐伯が楠の大樹へと向かう。十人の女たちがそこに吊るされていた。
「蘇れ、無限の力」
佐伯が『火の刃』を振りかざした。
「受け取り給え、生け贄の血」
広田杏香が悲鳴を上げた。まさに狂気である。佐伯は杏香の胸から腹までをゆっくりと切り裂いていった。そして、次の女へと、一人ずつ剣を突き立てていく。絶叫が楠公墓地を駆け抜ける。
鮮血が楠の大地に浸み込んでいく。女たちの傷口から滝のように、血液が流れ出ている筈なのに、まるで飲み込むように大地は吸い尽していった。
『土の璽』を、佐伯は天に翳して呪文を唱えた。封印が解かれていく。葡萄色の光が、さらに輝きを増した。
『倭祷神器』がすべて揃った。『火の刃』『水の洞』『風の扇』『土の璽』が、紋章を中心にして輝く。
全身を血に染めた佐伯が、狂人の眼つきをしている。もはや人ではなくなってしまっているようだった。
傲慢と虚栄と妬み、嫉み、強欲、噴怒、非道、邪悪、、、、あらゆる悪が空間に満ちている。次第にそれらが渦を巻いて、佐伯に取り憑いた。
「今、ここに ―――― 」
蘇れ。佐伯が、続けてそう叫ぼうとした時、四つの神器が突如光を失った。
「先生。あなたの出番は、ここまでですよ」
宗楽が紋章を断ち切っていたのだ。黒くとぐろを巻いて光っていた紋章が消滅していった。
「何をする。私の邪魔をするな」
再び紋章を描こうとした佐伯の手首を、宗楽は切断した。漆黒に戻った『火の刃』を、いつの間にか奪っていたのだ。
「駄目ですよ。紋章なんて書こうとする先生が悪いんですよ」
宗楽の冷酷な眼つきが、佐伯を恫喝する。
「無限の力を捨てるつもりか」
佐伯には信じられなかった。宗楽は四つの神器で、母親を生き返らせるのではなかったのか。その為に二人は協力してきたのだ。それが今ここで叶おうとしているのに、何故だと理解不能だった。
「ご苦労様でした。先生は、ここでお仕舞いです。後は私がうまくやりますからね」
宗楽は佐伯の心臓を貫いた。
「心配しないで。何もかも終わったら、私が生き返らせてあげますよ、先生」
稔宗と夜月、それに愛真が驚愕の目で見つめていた。宗楽は平然としている。そして、十人の血を吸い込んだ大地に、四つの神器を並べた。
「稔宗。お母さんをここに呼ぶからね。あなたも祈って頂戴ね」
宗楽が神器の中央に紋章を描いた。それは佐伯が書いていたものと同じだった。長い間、それを見ていて覚えたに違いない。
紋章が黒く光る。それに共鳴して、『倭祷神器』が葡萄色に輝きだした。
「姉さん、止めてくれ。母さんは死んだんだ。もう一度自殺させたいのか」
「大丈夫よ。今度は四人で幸せに暮らすんだから。稔宗も、それを願っているよね」
宗楽が母と同じ顔で微笑んでいる。稔宗は否定できなくなった。夢にさえ見る母だ。もう一度母に会いたくない筈がなかった。
「お母さん。蘇って頂戴」
宗楽が全身全霊の祈りを込める。空間が次第に異様な気に満ちて来ている。夜月と愛真は、はらわたをかき毟られるような嫌な感覚に襲われていた。
「うわああああぁぁぁぁ」
宗楽の体から赤紫黒い光が天に延びた。徐々に楠公墓地全体に広がって行く。不気味な光。四条畷市一帯から、これを目撃することができた。
人々は恐れおののいた。遂に四条畷市も破壊される。大阪市のように虚無の地帯になってしまうのだ。どす黒い不気味な光は天に突き刺さり、巨大な渦を巻いている。闇の亡者がそこから出てくるような得体のしれない不安が、人々に恐慌をきたしてしまった。
我先に逃げ惑う男たち。呆然とする女たち。泣き叫ぶ子供たち。観念する老人たち。あらゆる人々が、一気に四条畷の町の中に溢れた。
突如、光が消滅した。
荒い息遣いをしている宗楽が、楠の大樹の前にいた。虚ろな表情ではあるが、眼だけが一途に母を慕う信念を持ったままであった。
その前の鮮血を吸った大地に、人の姿があった。否、人ではない。人のようなものである。生きている。じっと宗楽が気付くのを待っていた。
「お母さんなの?」
宗楽が様子を伺いながら訊いた。
「あなたの娘の宗楽よ、お母さん」
得体の知れぬものが、宗楽を舐め回すように見ている。
「人間よ。我はそのような下等なものではない」
宗楽はたじろぎ、怯えた。自分がとんでもないものを蘇らせてしまったことに気付いたのだ。
「我は悪魔とも鬼とも呼ばれていた者だ。では、蘇らせてくれた礼だ。見せてやろう、我が力」
悪魔がすっと指を向けると、轟音が響き渡った。栄通り商店街から四条畷神社方面へ延びる飯盛山全体が消し飛んだ。消滅してしまったと言っていい。削り取られてしまった断面が、溶岩のように赤く燃えていた。
無限の力を手に入れるどころか、世界が破滅する。宗楽は呆然と消滅してしまった大地を眺めているしかできなかった。