49.黒猫ツインテイル
「いい天気ですねー……」
「ぽえー……」
ベランダから声がして、そちらへと目を向ける。
そこにはハナとメアリーが二人揃って座っていた。
何とものどかな光景である。
「あー……蟻さんが……羽虫を運んでいます……」
メアリーが遠くを見つめてお茶をすする。
「そーなんですかー……」
ハナもぼんやりとそれに答えた。
メアリーは続けて少し首を傾ける。
「あー……ねずみさんがお芋をかじっています……」
「そーなんですかー……ええ!? どこの!?」
ハナが勢い良く立ち上がる。
「あっちの畑ですねー」
メアリーが東の方を向いて指を指す。
「むむ……うちの物ではなさそうですが、気になりますね」
「……人が増えて餌も増えたせいか、ねずみも増えてきちゃったね」
僕は後ろから二人に話しかけた。
「主様。……そうですね。あまり増えてしまうと流行病の原因にもなってしまうので、何か対策しないと……」
ハナは困ったように顔に手を当てた。
ねずみが瘴気を媒介として病を流行らせてしまうこともあるようだ。
そうでなくとも食物や建物への被害は見過ごせない。
「とはいえ、対策と言ってもな……」
ネズミ捕りを仕掛けたり、倉庫の床を高くしてねずみ返しを付けたり……?
僕が頭を捻っているとメアリーが人差し指を立てる。
「あー、ねずみの天敵と言ったら……」
ぽんやりと言った彼女の言葉に、ハナが続いた。
「……猫、でしょうか」
猫。
大陸の南の地域ではよく生息している、小さな動物だ。ニャー。
街ではよく見かけるが、この辺りではあまり見ない。
街の野良猫を何匹か連れてくるのも手か……?
……いや、待てよ。
僕は自室に戻り、契約の本を取ってくる。
「……猫……ネコ……あった」
ハナとメアリーの前でそのページを開いた。
「ああ……猫又」
ハナがその名を呟く。
「うん。猫の妖怪なら、そんなに凶悪でもないかなって」
まあ少なくとも、村が滅ぶほどの災害にはならないだろう。
ハナは少し考える素振りを見せた。
「……おそらく……たぶん?」
ハナも面識が無いのだろうか。
ただどちらにせよユキのように知り合いとは別の個体が召喚されることもあるようだし、考えても仕方がないことではある。
「……まあ、きっとハナの幸運があれば大丈夫じゃないかな」
「……うーん、わたしの力は確定事象にはあまり効果がないんですよね。無作為にめくるとかの不確定要素がないと……」
ハナはそう言って首を傾げる。
……とはいえ、ハナが側についていてくれるならきっと大丈夫だろう。
「頼りにしてるよ、ハナ」
僕は彼女に向かって笑いかけた後、本の上に手をかざして精神を集中した。
「――彼の地よりいでよ」
青白い光が本の隙間から漏れ出る。
「――猫又!」
その本から黒い闇が溢れ出た。
闇は目の前の空間に猫の頭を模したような影を作る。
それは猫の鳴き声と共に形を変え、一人の少女の姿を象った。
「……にゃあ」
少女は鳴く。
彼女はそのスラリとした身体の線がわかる薄手の毛皮に身を包んでおり、その頭には二房の黒髪と獣の耳。
人間の耳の分は髪に覆われているが、果たしてその表面はどうなっているのだろうか。
その臀部からは二本の尻尾が生えていて、その先は二本ともピンと上を向いていた。
彼女は指を舐める仕草を見せる。
人型の姿なら言葉も通じるかもしれない。
僕は彼女に話しかけようと口を開いた。
「どうも、僕は――」
ドン、と。
言葉を遮るように僕は一瞬で押し倒された。
彼女が顔を近付ける。
その鋭い瞳の瞳孔が縮まり、野生の吐息を感じた。
「あ――」
――喰われる。
直感的にそう感じた。
同時に、彼女の顔が迫る。
ちぅ。
「んんんんっ!?」
口付け。
と同時に彼女の体を押し付けられ、全身からくすぐったいような虚脱感。
続けてぢぅぅう! とその柔らかな感触を感じる間もなく、僕の唇が激しく吸われた。
――ドレインタッチ。
どんどんと魔力が吸われていく。
こ、このままだと――!
慌てて彼女の体をどかそうとするが、強い力で押さえつけられ身動きが取れない。
……そんな僕の視界を、白い光景が覆った。
――太もも?
「――ぎにゃぁっ!?」
僕の唇に吸い付いていた猫又が声をあげて弾き飛ばされる。
空気を求めて僕は息を吸った。
「――ぷはっ!」
「――このっ……!」
声のした方を見ると、僕の上の猫又に膝蹴りを繰り出したハナの姿がそこにはあった。
ハナはぷるぷるとその肩を震わせている。
「――泥棒猫っ!」
ビシッ! とハナは猫又を指差した。
当の猫又はこめかみを抑えつつその場に起き上がる。
「ったた……。猫に猫ってそのまんまにゃあ。わちきのことは愛情を込めてイセって呼んで欲しいにゃあ」
そんな二人の様子をベランダのメアリーはあわあわと交互に見つめる。
……どうやら、猫又はあまり友好的な妖怪ではないのかもしれない。
イセと名乗った彼女は頭を押さえつつもこちらの様子を一瞥すると、にやりと笑みを浮かべた。
「――にゃあん。だけれどここは多勢に無勢。弱い者いじめはよくないにゃん」
彼女は跳躍し、一飛びでベランダの柵の上へと跳び移る。
「というわけで、じゃーねーん!」
彼女は笑顔で手を振ると、そのまま外へと飛び出した。
慌ててベランダの柵へと駆け寄るが、彼女は難なく地面に着地して村の方へと駆けていく。
「うーん、さすが猫だ……二階からでも余裕の着地」
「主様! 感心している場合ではありません!」
ハナの声と同時にメアリーも外を見る。
「どんどん村の方へ走って行きますね……。あと三十秒ほどで村人に接触……」
「あのメス猫、早く捕まえないと……!」
語気が荒くなるハナとは対照的に、僕は落ち着いてレメゲトンを開いた。
こんな風に使うことになるなんて……。
気を取り直して、精神を集中して本に手をかざす。
「――我が前にいでよ」
本から光が漏れ出た。
「――猫又!」
その声と共に、僕の前の廊下に今しがた外へと飛び出ていった彼女の後ろ姿が出現した。
「っにゃあ!?」
彼女は慌てて周囲を見回して自身の置かれた状況を確認する。
「――せやっ!」
今度は僕が彼女に覆いかぶさるように、背中にタックルを仕掛けてその体を床に押し付けた。
「くくく、僕からは逃げられないぞ……!」
まるで悪役ストーカーのような僕のセリフに、彼女は瞳を潤ませて声をあげた。
「いやん、積極的……! 観念しますにゃあ……だから――」
彼女は組み敷かれた体勢から器用にその両足を僕の腰に回すと、股間を押し付けてがっちりとホールドする。
「――好きにしてくれてもいいんだけどにゃぁ……?」
彼女の蠱惑的な視線と共に、ぐらんと頭が揺れた。
途端にその姿が魅力的に見えだす。
甘い匂いが鼻を付き、彼女の身体に触れたいという欲求が湧き上がっていく。
このまま欲望に身を任せて――。
「……煩悩退散」
ポカリ、と僕の後頭部が叩かれた。
途端に頭の中がクリアになって、血の気が引いていく。
「――あ、あれ!? 僕……?」
「うるさいと思って来てみれば、また厄介な妖怪を喚び出しやがって君ってやつは」
横を振り向けば、そこにはサグメの姿。
「まったく。発情猫なんかに惑わされたら、干からびるまで搾り取られるぞ」
そう言って彼女はポケットから藁を取り出した。
その先端を結わえ、小さな塊を作る。
「にゃ……!?」
イセは目を見開きそれを凝視した。
「ほーれ」
サグメが左右にそれをぴょこぴょこ振ると、彼女はそれに合わせて顔を動かす。
「にゃっ!? にゃっ!?」
「そーら飛んでいっちゃうぞー」
「ふにゃあ!?」
サグメがぴょーんと大きく藁の先を動かすと、イセはそれを奪い取ろうとするように腕を伸ばして飛び跳ねた。
……猫だ。
紛うことなき猫だ……。
地べたに腹ばいとなり伏せた彼女の背中に、サグメはどしりと座る。
「ぎにゃっ!」
「……そんなにギャーギャー騒いだら近所迷惑だろう?」
彼女はイセを見下しながらその首元へと手を回した。
「ふにゃああぁん!」
サグメが喉を優しく撫でるのに合わせ、イセは嬌声をあげる。
「よーしいい子だ。お前の主人は誰だい? ええ?」
「ふにゃあぁ! 屈しない! わちき屈しないにゃあ!」
「……さて。いつまで耐えられるかな? ほらほらごーろごろ」
「ふにゃああん!」
そうしてサグメがイセを組み伏せる横で、ハナは自身の袖で僕の口を拭った。
「大丈夫ですか、主様……! 大丈夫ですか……!?」
「だ、大丈夫、大丈夫だから……!」
僕はただならぬ形相で寄りかかってくるハナをなだめる。
た、確かにちょっとだけ刺激は強かったけども……。
そうして僕たちは何とか彼女を拘束すると、改めて対話を始めるのであった。
☆
「断固反対、労働義務! わちきは毎日自由にのーんびり、暮らしたいのにゃあ」
サグメの尻に敷かれつつ、イセはその両手足をじたばたと跳ねさせた。
僕はその様子にため息をつく。
「……それはいいんだけれど、言うことは聞いてくれないとね……。村の人達に迷惑をかけられても困るし」
僕の言葉に彼女は尻尾をぶんぶんと横に振った。
「自由と本能はわちきの本分! それを阻害しようなんてお天道様が許しめぇ!」
うーん、困ったな……。
どうやら素直に従ってくれる気はないらしい。
どうやって彼女を従えたものか……。
僕が悩んでいると、ハナがトスンと彼女の前にナイフを突き立てた。
「では皮を剥いで三味線にしてしまいましょう。もしくはとっととお帰り願うか」
……ハナさん、本気の眼をしていらっしゃる……。
彼女を見下ろすハナの言葉に猫又も身の危険を感じたのか、慌てて首を振る。
「あー! ご勘弁! ご勘弁を! ちょいと魔が差したのでありんすえ! わちき保健所送りはご遠慮願いたいですにゃあ!」
「……餞別は多めに差し上げますよ。三途の川を渡れず帰って来られても困りますからね」
「まあまあ、落ち着いてハナ……」
目が据わったままそんなことを言うハナをなだめながら、僕は猫又へと言葉をかけた。
「……僕もべつに、がんじがらめに君を縛り付けたいわけじゃないんだ」
「家猫主義反対! しかしそんな危険な緊縛遊びも、たまにはありかもにゃあ……」
彼女の言葉にハナの表情がますます険しくなっていく。
不用意な発言はご控えくださいお客様……!
「と、とにかく。君は気が向いた時だけ協力してくれればいいから。ごはんもあげるし、のんびり生活してくれればいい。……他の人に危害を加えなければ、だけどね」
僕の言葉に彼女は伸びをする。
「うーん、それはなかなかの高待遇な家猫条件。しかしわちきにもネコ科としての矜持があるにゃあ」
そんな彼女の言葉にサグメが喉元を撫でる。
「ほーれごろごろ」
「んにゃぁぁん……! 卑怯なりぃ……!」
彼女はうねうねと体を捻った。
……その自由な言動はともかく、彼女は一筋縄に従ってくれるわけではないようだ。
となれば、地道に信頼関係を積み重ねていくしかないか。
元の世界に送り返す方法はわからないが、それを考えるのは説得に失敗してからでも遅くはない。
……そうと決まればまずすることは。
「――とりあえず、お腹減ってないかい?」
僕の言葉に彼女は「ふにゃ?」と一鳴き、首を傾げた。
☆
「まずはお芋を煮立たせて……」
ハナと共にキッチンへ立ち、あらかじめ用意しておいた鳥ガラスープを鍋に入れて火をかけた。
細切れにした芋を茹でつつ野菜を鳥肉を切る。
最近村で採れた足割れ大根に、青キャベツを食べやすいサイズに切って、香草として庭の生姜を少々。
鳥肉は挽き肉のように細かくすり潰した。
「……そろそろ良さそうですね」
ハナが芋に串を刺す。
串が通ったら、あらかじめ炊いていたごはんとそれらの食材を入れてまた一煮立ち。
「そして味付け」
酒、塩を入れて煮立たせる。
鳥肉の中まで火が通っていることを確認したら、かまどから降ろして味噌を投入。
味噌を混ぜ込むと共にその香りが周囲に立ち込み、食欲をそそらせた。
小皿にとって冷まして一口。
「……うん、美味しい」
僕の言葉にハナは満足げに頷く。
「……完成! ねこまんまー!」
ハナはその鍋を掲げ、おとなしく椅子に座って待っている猫又のもとへと持っていく。
特に拘束もしていないのになぜか縛られたような格好で腕を後ろに回しているのは、彼女なりの遊びなのだろうか。
イセはすんすんとその香りを嗅ぐと、口元を緩ませ恍惚の表情を浮かべた。
「ふにゃあ……! 胃袋を刺激する危険な味噌と鳥肉の香り……!」
彼女はだらだらと涎をテーブルにこぼす。
汚い。
ハナはスプーンでそれを一口すくうと、ふーふーと息を吹きかけ熱を冷ました。
「ああ! そんな! そんな素敵な袖の下に屈するものかにゃあ! やめるんだにゃあ!」
ハナがあーんとそれを口元に寄せると、イセは満面の笑みを浮かべながら素直に口を開き受け入れた。
「はにゃぁん! これは! まさしく究極の最適解! まさに猫まっしぐら! ねこまんまの天才かにゃあ? うみゃーい!」
どうやら大層気に入ってくれたらしい。
ゆっくりと冷ましつつ、ハナは彼女へと食べさせる。
一口食べさせるごとにイセは「もっと! もっと!」と催促をした。
「……玉ねぎでも入れてやりましょうか」
「動物虐待反対! 殺意溢れまくりだにゃあー」
……というわけで、まずは餌付けから始めてみたのであった。
動物と仲良くなる基本とも言えるだろう。
僕が見守る中、イセはぺろりとそれを平らげる。
イセは満腹となり満足したのか、一つ背伸びをしてソファーに寝転がった。
「……どう? 主従の関係を結ぶ気にはならない? 毎日美味しいごはんが食べられるよー」
僕の言葉に彼女はちらりとこちらに視線を向ける。
「んふー。たしかにぬし様の技量、御見逸れしたにゃあ。……でもわちきの心はそうそう気安くないのでありんす。もっとお互いのことを知る必要、あると思うんだけどにゃあ……?」
彼女は腰をくねらせながら尻尾を振った。
「……やはりこのメス猫は殺処分した方がよいのでは」
ナイフを取り出すハナをなだめながら、僕は猫又へ声をかける。
「……と、とりあえず人には手を出さないこと! そしたらまた美味しいごはんを食べさせてあげるからさ」
「むむむ。それを盾に取るとは卑怯にゃん」
彼女はそう言ってしばし悩むような様子を見せた。
「……しょうがないにゃあ……。ちょっとだけ認めてやるかにゃあ……」
彼女は妖艶な笑みを浮かべてそう答える。
……何も問題が起きないといいんだけど……。
とりあえず僕はその言葉を信じて、彼女を自由にしてみるのだった。
☆
次の日。
僕が目を覚ますと、その身体に重量を感じた。
「にゃはっ」
体の上には、イセの姿。
「うどわあ!」
慌てて彼女の体をどかす。
「にゃあ!」
彼女はベッドから床に落ちた。
「痛いにゃあ、すんすん。せっかく獲物を獲ってきたのにぃ」
彼女はそう言って泣き真似をしつつ立ち上がると、すごすごと出口へ歩いて行く。
彼女が出ていくと部屋には静寂が戻った。
「な、なんだったんだ……? ……獲物?」
僕がそう言って部屋の中を見渡すと……。
「――ぎえぇぇ!」
「――どうしました主様……ひぇえっ!」
僕の叫び声に部屋に駆けつけたハナも声をあげた。
僕の枕元には十匹のねずみの死骸。
どうやらイセが獲ってきたらしい。
僕とハナはそれを見て眉をひそめた。
「……ううん、異文化交流……」
おそらくはべつに嫌がらせをしにきたというわけではなく、成果を自慢しに来たのだろう。
ネズミ退治を早速してくれて、イセは役に立ってくれてはいるのだが……。
「……どこから躾をしたものでしょうね」
ハナは頭を抱える。
飼い猫に躾をするように、彼女には村で暮らすルールを一から教えなくてはいけないようだった。