ボンボン・オ・ショコラ
2010年前後に書いたお話です。……確か。
高校受験を絡めた、女子中学生と教師のアレソレ。
表現とか多少古いのは許してください……。
退屈だ。思ったって口に出すわけにも、逃げ出すわけにもいかない。
姫路枝梨子は右手で頬杖をついている振りをしながらイヤホンを耳にあて、左手でスカートのポケットに忍ばせ音楽プレイヤーを操作した。
クラスメイトに聞えないようボリュームは控えめで、ランダム再生にしてある。たまに気分じゃないときには次の曲へ送って。
――ああ、来た!
好きな曲に当たるとテンションはぐっと上がる。教科書をなぞる指はたまに跳ねて、ページをめくるのはBメロに変わる瞬間。
担任は教壇でノートの山を減らしてまた山を作り、みんなは傾向と対策を練って問題集に取り組んでたり、夜に勉強を頑張りすぎたのだろう、うとうと眠っていたり。
枝梨子以外はみんな受験に取り組んでいる静かな空間で、枝梨子だけが音の波に身をゆだねている。
仕方ないのだ。この教室内にいる生徒達はみんな中学三年生の受験生であり、このクラスで本命に推薦合格したのは枝梨子だけなのだから。
曲の終了と同時に、もう一度教科書をめくった。
次の曲は……何だろう、クラシックみたいなゆったりした前奏、そして歌詞は……。吹奏楽部の友達が貸してくれたディズニーのアルバムだ。サム・デイ・マイ・プリンス・ウィル・カム。歌いだしで曲目を特定してから、枝梨子は溜息をついて次の曲へと送った。
いつか王子様が? ……ハイハイ。
そもそも暇な教室内で何故教科書を読んでいるかといえば、単純に目立つからだった。
教師は勉強する必要のない枝梨子には読書を許していたが、文庫本を読んでいようがハードカバーを読んでいようが、目立つのだ。
勉強していないという、ただそれだけのことが。
時折何かを思い出そうと、誰かの透明な視線が教室内を彷徨うことがある。
のんきに悠長に読書している枝梨子の上にもその視線は通りかかり、そして視線に色がついて戻ってくるのだ。
冷たい冷たい、白い目がこちらを見ている。
誰の授業だったか忘れたが、とにかく一時間のうちにそれを三回経験した枝梨子は読書を諦めた。元々読書家でもないので本を読めないことがそれほど辛いとは思わなかったが、とにかく授業中が暇すぎてそれはとても堪えたのだった。
何しろ年が明ける前までは普通に交換していた小さな手紙のやり取りも、年が明けて減り、枝梨子が合格してからはぷっつり途絶えた。
みんなが真面目に勉強している中では携帯の操作も目立つし、もちろん誰かと話すこともできない。
打倒、姫路枝梨子!
そうやって枝梨子を敵視して、みんな一丸となって勉強に取り組んでいるんじゃないか。そう思えるほどには、教室内の空気は冷たかった。
ブレザーのポケットからリップを取り出し、頬杖のまま左手だけで蓋を開ける。きゅっと少しだけ繰り出して唇に乗せると、早く鏡が見たくなった。
白いスティックだが唇に乗せるとピンクに色が変わるリップは、冬の新商品と販促ポップがきらきら輝いていた。チェリーの甘い香りが鼻をくすぐる。
リップをしまいながら、枝梨子はぼうっと時計を眺めた。
早く終わればいいのに。
授業。一日。冬。中学三年生。
誰も私に気付かない、この真っ白な空間。
枝梨子はこっそり呟いた。
「早く終わればいいのに」
給食が終わると枝梨子はなるべく目立たないように廊下へ出た。
教室から一歩外に出れば寒さが身に染みて、寒いと思っていた教室も暖かかったんだと実感できるが、それでも冷たい空気は変わらず教室内に満ちている。
手にしているのは、いつも机の横にかけているマチの狭いトートバッグ。ブランケット用のバッグはいつもならもっとスリムだが、本とペンケースにポーチまで詰め込んである今はぱんぱんにふくれている。
そんなバッグをわずかに振りながら、枝梨子は|二階から三階(ひとつ上のフロア)に上がり、理科室を目指す。
特別教室集棟は一番北にあるから寒く、昼休みに
一番人気のない場所が理科室だった。確かに寒いが、誰もいない空間で一人になれる貴重な場所だった。
班に分かれて座る六人がけの大きい机は九つ並んでおり、窓際一番後ろの席のあたりに荷物を下ろす。
もし先生が通りかかっても見えないように、椅子は机の上に乗せたまま。
枝梨子は窓を少しだけ開けて、お気に入りのブランケットを腰に巻きつけて座った。
ポーチから取り出したのは透明なマニキュア。
中三の春頃からこういうものに興味を持ち出したけれど、内申書に響くからと興味だけに留めておいたのだ。
――だけど、もう受験もないし。
本当はダメだと、推薦が取り消されるかもしれないと考えてはいたが、同時に、どうせ私がこんなの付けていても誰も気付きはしないと、半ば自棄のように考えていた。
蓋を開けると強い匂いが鼻を刺激して、枝梨子は片腕を上げてもう少しだけ窓の隙間を大きくする。
頭の上に冷たい風が通るのを覚えてから右の親指にそっと刷毛を当てた。
ひやり。
この冬何度も感じている冷たさだが、これは何だか妙にすっとする気分だった。
三分の二だけつやつや光る親指を見下ろして、すこしおかしくなって笑う。どうみても塗り過ぎだった。
ビンのふちでよくしごいてから塗ると今度はかすれてしまい、指の肉についてしまった液をちまちまとティッシュでふき取りながら、右の指五本を終わらせる。
小指は綺麗にぬれたかも、と自己満足の笑みを浮かべた枝梨子は、さて、利き手じゃないのにうまく塗れるのかと不安に思いながら右手で刷毛をつまみ、
「おい、何だこの匂い!」
窓の外から聞えた声に慌てて身を伏せた。
――なに、何で、誰、どこにいたの!?
パニックを起しかけつつもマニキュアの蓋はしっかりしめて、バッグを引き寄せようと手を伸ばした瞬間に
「おい誰だ」
頭の真上から声が響いた。この声は、「プリンス……?」
恐る恐る振り向くと、煙草を咥えた八王子幸也|が
今にも窓を飛び越えようと足をかけているところだった。
理科教師の彼は隣の理科準備室にいたのだろう、と枝梨子は頭の片隅で考える。
「姫路、お前シンナーなんかやってんのか」
「えっちっ違う!」
それでは犯罪だ。枝梨子が慌てながら膝立ちで向き合うと、幸也は大げさに頭を振っていた。
「年末に薬物乱用の集会あったばっかだろう。いいか、シンナーなんて百害あって一利なしだ」
「それは煙草も! 違うって! もう、これだよ!」
枝梨子は仕方なくマニキュアの小瓶を掲げながら、少しほっとしていた。
年が若く生徒からも人気の高い教師で、皆が友達のように接している。特に女子から人気が高く、名字と顔からついたあだ名が“プリンス”だった。
プリンスなら話せる、そう思った。ところが、
「マニキュアー? お前受験生だろ?」
顔をしかめられてしまった。枝梨子は少し拗ねて言う。
「受験はもう終わったの」
「ああ、推薦か。っつったって、こんなん合格取り消されても文句言えないだろ」
「大丈夫だよ、プリンスが言わなければ」
にっこり枝梨子が笑うと、幸也が頬を引き攣らせ口角を上げる。
「なあ、俺も教師だって知ってるか?」
「もちろん知ってるよ。喫煙所以外で吸っちゃいけないはずの煙草を理科室のベランダで吸ったことも知ってる」
「ああそう。可愛くないわねー」
「お褒めにあずかり光栄です」
応えながらも、枝梨子の心はちくりと刺激された。――女の子に対して可愛くないとは何だ!
大体、「もう進路決まってるしいいじゃん。」
枝梨子が呟くと盛大な溜息がふりかかり、
「よっと」幸也は窓を乗り越えて棚に腰掛け、後ろ手で窓を閉める。
煙草は吸ったままで、マニキュアの刺激臭とほのかに甘い紫煙が混じる。
不思議な匂い、と、枝梨子の頭のどこかでそんな言葉が浮かんだ。
「俺、そういうのキライ。あと、ベランダじゃなくて準備室な、吸ってたの」
キライ。その一言が、ささくれた心にひっかかる。
枝梨子の心はズキズキする一歩手前だった。
どうしていいかわからずに、ただ幸也を見上げると、
最後にもう一度いとおしそうに煙草を吸って、携帯灰皿へもみ消していた。
「バレるだろ、ベランダで吸ってたら目立つし。
決まりごとっつーのは、表面では守るものなの。破りたいと思ったら隠れてやんなさい」
「は? 意味わかんない。何それ。じゃあ隠れてたら破ってもいいの?」
可愛くない言い方だな、と枝梨子は思った。だが同時に、どうせ自分はこういうキャラだと諦めにも似た思考が浮かび上がる。
「バレなきゃいーんだよ。だからそんな判りやすくしてんな」
「なっ、わけ」わかんない!
枝梨子が言いかけた言葉は、昼休み終了を告げる予鈴に掻き消された。
「ともかく酒井のオバちゃんにチクんないでよね! 言ったらあたしも煙草のこと言うから!」
「おい、」
バッグにポーチとブランケットを強引に詰め込んだ枝梨子は、ばたばた理科室を出て行った。
幸也は唖然としながら教室後ろの出口を見ていたが、
「脅されたのか、俺。生徒に」
気付いた事実に一人で噴出し大笑いしていた。既に足音は遠く、消えている。
「あいつ馬鹿! マジ馬鹿!」
ゲラゲラ笑いながら窓に施錠して、幸也は準備室に行くため歩き出す。
と、つま先にこつんと何かが当たって、それはきらりと光りながら床をすべった。
「マニキュア?」
薔薇がモチーフの、小さなガラス瓶。中の透明な液体にはパールもラメも入っておらず、ただの透明なトップコートだった。確かに、塗ってるところを見なければ気付かないだろう。
拾い上げて白衣下のスラックス、右ポケットへ納める。
小瓶は携帯灰皿とぶつかって小さく跳ねた。
「あいつ本当に馬鹿だなー」
――何でオシャレに目覚めてわざわざトップコートだよ。一人で突っ込みくすくす笑っていると、午後の授業開始を告げる本鈴が鳴り出した。
「やべ」
慌てて準備室に戻り、教科書ノート、ペンケースにチョークの箱とプリントの束を持って次の担当クラスを確認すると、また幸也は噴出した。
「ったく、しょうがねぇ」
にやにや笑いながら、枝梨子のいる教室へと向かうのだった。
本鈴と同時に教室へ戻った枝梨子はバッグを机横にかけて、そこでぐしゃぐしゃのブランケットに気付きいらついた。
淡いピンク地に白いレースのようなシャンデリアのデザインがお気に入りで、いつもはきちんと畳んでいたのに、さっきは急いでいたからと強引に押し込んでしまったのだ。
取り出すと、バッグの底には少し歪んでいるハードカバー。表紙と裏表紙が綺麗に重ならず曲がってしまっている。それは机の中にしまいこんで他の教科書やノートでプレスして。
枝梨子がブランケットを広げていると、教室の前の扉ががらりと勢い良く開く。
「悪い、遅れた」
――プリンスだ! 枝梨子は脳内で叫んだ。が、それだけだ。
うっかり忘れていただけで次の授業は理科なのだから幸也が来るのは当然で、口止めもしたのだからきっとチクってもいないのだろう。そもそも今から推薦取り消しなんてこの学校にも不利で面倒なことをやるキャラとも思えない。
『バレなけりゃいーんだよ』
先ほどの台詞が枝梨子の脳内によみがえり、気付かないうちに少しだけ唇を突き出していた。
どんな教師だ。思いつつ、気になった唇の乾燥にリップを塗る。
白いスティックだからバレないだろう。学年主任の酒井にだってバレなかったのだから。
幸也がプリントを配りながらこちらを見たような気がしたが、枝梨子は気のせいだと思って前から来たプリントを後ろへ回そうとする。が、一枚足りない。前から来た二枚をそのまま後ろへ渡して席を立つと、幸也は待っていたかのように一枚だけプリントを持って教壇に立っていた。
「お、足りなくて後ろに回したのか、優しいなあ」
嫌味だ。枝梨子は睨むが、幸也は笑ったままプリントを渡すだけだ。
「じゃあみんなこれやって。できたら好きなことやっていいぞ。寝てもいい。
ただし、校則的にNGなのはナシな」
クラスに声をかけたので枝梨子は席に戻ったが、最後の言葉は自分に向けられたように思えてやっぱり幸也を睨んだ。
睨んで、じっと睨んで、……そう言えば格好良いんだと思い出してしまった。
今まであまり興味はなかったが、一部の女子が追い掛け回しているのは知っている。
その子達が、もっと肌が綺麗ならジャニーズでも納得だと話していたのもふと思い出す。
確かに頬のあたりの肌が荒れている気がするが、男性なら別に問題ないのでは……。そう考えたところで、愕然とした。
――あたしは一体何を考えていた?
枝梨子は八つ当たりでもう一睨みしてからプリントに向かう。机の上に手を伸ばし、ペンケースをバッグから戻していないことに気付いて、バッグを覗き込む。その中でポーチの中身が散乱しているのに気がついた。
キャラ物の折りたたみコームにお揃いの手鏡、黒のヘアゴムにお気に入りのシュシュに、ポーチのふちに引っかかって少しだけ覗いている予備のナプキン。バッグを膝に乗せてその中でポーチを
整理し、足りない物に気付く。
――マニキュアが、ない。
枝梨子はバッグを戻してペンケースを机の上に置き、何気なさを装って教壇に目を向けると、一瞬目が合った幸也が立ち上がってポケットに手を突っ込んだ。その手を少し動かす。
――持ってる! 確実にマニキュア持ってる!
無声音で叫ぶがどうしようもない。ポケットから取り出すかとはらはら見つめていたら、幸也はそのまま教室内を歩きはじめた。
“癪に障る”ってこういうこと? イライラもやもやした心をA3のプリントと一緒に半分に折って、気持ちは更にぎゅぎゅっとのして、枝梨子はシャーペンを左手で握る。
名前を書いて一問目を解こうとするが、問題が頭の中に入ってこずに、何度も何度も視線が往復する。右手を一度下に振ってブラウスの袖口に引っ掛けてあったイヤホンを手のひらに隠した。頬杖をついて左手で腿のあたりに触れる。再生ボタンならスカート越しでも押せるのだ。
集中したい、甘い物が欲しいと思った瞬間、ふわりとほろ苦く少し甘い香りが鼻をくすぐる。
枝梨子が顔を上げると、幸也が自分の右側に立っていた。
「進んでないな」
本鈴が鳴ってからまだ十分。プリントが配られてからだって五分くらいだ。
「ちょっとぼーっとしてて」
「そ。わかんなかったら言えよ」
幸也は持っていた教科書を丸めて、枝梨子の頭を軽く叩く。
バレているのだろうか。しかしここからイヤホンをしまうのも目立つ。
少し悩んだ後、枝梨子は「そのまま」を選んだ。音楽を聴きながらプリントに取り組み、適度に思考を飛ばしながら、たまにシャーペンを音楽に合わせて振りながら、授業終了に合わせてプリントを終わらせる。
「解き終った奴は提出なー」
チャイムと同時に言うが、生徒のほとんどは席を立とうとしない。プリントは適当に手をつけて、後は自分達の問題集を解いていたのだ。
「おーい。解き終った奴ー」
枝梨子もシャーペンをしまってプリントをノートに挟もうとすると、
「姫路、お前解いてただろ。提出しろよー」
幸也がわざわざ声をかけたので仕方なく教壇までプリントを持っていく。
「お前放課後来いよ」
ぼそりと呟かれた言葉をうまく聴き取れずに幸也を見上げると、彼は右手の指先で耳の横を軽く叩いて見せた。
やっぱり、バレてたんだ。
枝梨子ははーいと適当に返して席に戻った。
でも、他の人に迷惑かけたわけじゃないし。
自己弁護をして少しだけ安心して、席に戻ると机に腕を組んで寝る準備をする。
次の授業は国語だが、喋り方が単調なおじいちゃん先生についたあだ名は“魔法使い”。
この授業では受験だろうがテスト前だろうが関係なくほとんどが眠るのだ。単調すぎる喋りは、実は眠りの呪文をかけているんだというのが生徒達に広まっている定説である。
定年間近なので当人もやる気がないのか、それとも静かで授業の邪魔にならないなら文句がないのか、眠る生徒を叱ることもない。
だから、枝梨子も堂々と眠ることができた。
チャイムと同時に魔法使いは入って来て、生徒達を座らせたまま挨拶をして魔法の呪文を始める。最近はどうやら、自分の受験生時代の話をしているらしい。
最後までちゃんと聞いている生徒がいないので、本当のところがどうだか枝梨子も知らない。
右を向いて伏せているので、左耳にイヤホンを当てながら目を瞑る。
流れてきたのはサムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム。
寝るのにはちょうどいいゆったりした曲でそのまま流していると、歌いだしの「プリンス」の歌詞に少しだけ笑った。外人が歌っているのだから発音がいいのは当然だが、幸也にこの発音は似合わない。
――シンデレラ、王子様と出会うためには努力してないんだよね……。
取り留めなく思考は流れてどんどん緩やかになり、枝梨子の意識はほどけ、とろけていった。
「起きろ姫路!」
スパン! と小気味いい音が鳴って、遅れて頭に衝撃を感じる。
慌てて枝梨子が顔を上げると、周囲から笑いを含んだ視線が集まっていた。
机の右側には幸也が立っている。
「え、何」
くすくす、冷たくない空気が広がっていく。
「何じゃねぇ。帰りのホームルームだよ」
「だってプリンスは担任じゃないじゃん!」
「林先生が急用で帰ったから副担の俺が来てんだよ。
おっ前熟睡しすぎ! 涎垂れてんぞ」
「え、嘘」
枝梨子が慌てて口元を押さえても、指は濡れた感触を伝えない。
「うっそー」
「はあ!?」
「お前本当に放課後残れ?
んじゃみんな帰るぞー。はい、さよーなら」
幸也が適当に手を叩いてかけた号令で、生徒達は笑いながら適当に挨拶をし、ぱらぱらと教室を出ていく。
「今日の掃除当番て何班? あーお前らね、よろしく。
じゃ行くぞ姫路。荷物まとめろ」
「は? え、何、どこへ」
「理科準備室でお説教」
「何で!?」
噛み付くように言ってから、思い当たる節がありすぎることに気付いた。
ダメだ、まだ起きてないと枝梨子は頭を押さえる。
「今日のプリント間違いすぎとか眠ってたこととか? 他の罪状も言ってやってもいいけど?」
「いい。行く。ちょっと待って」
「偉そうだなおい」
机の中の教科書類を一度出して整形していた本を取り出し、横のバッグからポーチを出してブランケットをしまう。
学校指定鞄にはペンケースとポーチと本だけしまって持つと、幸也は苦笑しながら四組の教室を出る。
「お前荷物少ないなー」
「だってもう授業も必要ないし」
「受験には必要ないけど、義務教育って割と大事だぞ?」
「社会に出て使うぞって? いつ?」
「思考法とかね。俺も中坊の頃はいらねーだろとか思ってたけど、案外使うのよ」
エセ科学とか、テレビって結構嘘ばっかりだし。けらけら笑いながら幸也は廊下を進む。
校舎はコの字型に配置されており、上の横線が特別教室棟、下の横線は体育館と物置。縦線は長く伸びて一階に保健室、職員室や会議室など主に教師陣が使う部屋と教師や各学年の集中玄関がばらけて配置されている。各学年の教室は二階に三年生、三階に二年生、最上階の四階に一年生。一番特別教室棟に近いのが各学年一組で、後は数字の順に下へと続いていく。
枝梨子は八王子のほぼ横、半歩後に続きながら、多数の生徒達とすれ違う。
たまに好奇の視線、女子からは嫉妬の視線まで受けながら、長い廊下を進んで階段を上って渡り廊下に出た。
「やっぱ寒ぃな」
「冬だし、外だしね」
「そいやお前何で理科室いたの。人気ないから?」
「うん、……多少変な臭いしても大丈夫かなってのも。
でも理科室はよく行くよ、後ろのドア鍵壊れてるから入れるし、静かだし」
「寒いだろ」
「教室の冷たい空気よりマシ」
「はぁん」
短い渡り廊下を抜けたらそこは短い廊下で、左手前から標本室、理科室、理科準備室の順に並んでいる。
準備室の扉にはガラス窓が付いているが“入室禁止!”の紙で目隠しされていた。その扉の鍵を開けて一歩中へ入ると、暖かい空気とほろ苦く甘い香りに包まれた。枝梨子は笑う。
「煙草の匂い染み付いてんじゃん!」
「良いんだよ、俺しか入らねぇんだから」
「もう一人の先生は?」
「資料なんかはほとんど標本室にあるし、あの人は職員室でみんな従えて茶ぁ飲みながら笑ってるのが好きなんだよ」
「ってか暖房付けっぱなしだし」
「ホームルームだけだろ? 十分掛かんないのにいちいち消したってなあ」
「そういうもん?」
「補習が必要か?」
「結構です」
準備室の中には本当に幸也しか入らないのだろうことが見て取れた。
入り口から右手壁の本棚には昔の教科書やら資料集やらがびっしり詰まっているが、埃がたまってこまめに使われている形跡はない。中央に置いてある端の欠けたローテーブルと、それを挟む形で置かれている穴の開いた二脚のソファは、元々応接用だったものを拝借したものだろう。奥のソファにはコートと鞄が無造作に投げ出してあり、テーブル上には白のマグカップと理系雑誌がノートパソコンの上に放置されている。
正面の壁には窓があり、その下に教師用の灰色の机が置かれているが、机上は集めたノートの束とプリントの束がいくつか適当に重なっており、手前の隅に掌大の銀色のキューブが置かれていた。その机の左手には理科室へ続く扉、右手には理科室にある物と同じ大きな白い流し台が設置されており、壁の間には黒いカラーボックスがある。その上に、車の座席に収まりそうな程小さな冷蔵庫と、少量のお湯を瞬間的に沸かすポット。棚には白いマグカップがもう一つと、インスタントコーヒーやココアの缶が並んでいた。
「私物化はなはだしいってこういうこと?」
「うるせっ。そこ座っとけ」
幸也はポットに湯を沸かして、煙草に火をつける。それから応接テーブルのマグカップを拾ってゆすぎ、机から銀のキューブを手に取った。
「ねえ、それ何」
「あ? ああ、これ、灰皿」
銀のキューブの上部を開いて灰を落とし、応接テーブルの上に置き直す。黒い内部には灰や吸い殻の入るスペースがあった。知っていなければ灰皿だと思えないデザインだ。
「ほら、これ飲め。特別サービスな」
枝梨子の左側に差し出された白くてころんとしたデザインのマグカップからは甘い香りが立ち上る。偶然利き手の方に置かれたのか……。枝梨子が左利きだと解っている教師はどれくらいいるのだろうか、ふとそんなことが脳裏をよぎった。
「美味しい。お湯でもココアって美味しくできるんだ」
「魔法の白い粉入れてるからな」
「え、クスリ?」
「馬ー鹿、粉乳」
あたたかい空気の中で二人が笑っていたが、幸也が立ったままココアを一口すすって、ポケットからマニキュアを取り出しテーブルに置くと、枝梨子は視線を逸らして口角を少し上げた。
「こういうの落とすなよ。他の誰かが見つけてたら学年会議モノだぞ」
コートと鞄を椅子に移してソファに座りながら言う幸也を視界の隅に収めながら、枝梨子は何でもないことのように言う。
「拾ってくれてありがと」
「あとそのイヤホンとか色付きリップもな」
「え、リップもバレてるの?」
「それ新商品だろ? お前らが使いそうな店くらいは回ってるよ。
主任からも言われてる、八王子先生は年が近くて生徒達のことをよく理解できるんだから取締りは厳しくってな。一番若いのはまだ学生気分で頼りないしって、くどくど言われるんだよ」
「まりちゃん……いや、理解って、違わない? それ」
「俺も違うと思う。だから主任にチクってないだろ」
煙草もチクると宣言したからだと思っていた枝梨子はきょとんと幸也の顔を見つめる。
「そうなんだ」
「馬鹿、マニキュア持ってきた生徒が何言ったってオバちゃんは信じねぇっつの。
で、何で今更マニキュアよ。しっかもお前超へったくそな」
幸也は身を乗り出して枝梨子の右手を取り、しげしげと爪を見る。
「お前マジで今日初めてか。この成長のしっぷり可愛いな」
幸也の右手の親指が、枝梨子の右手の指先を一本ずつ、そっとなぞっていく。
小指はうまく塗れてるじゃん。親指で枝梨子の爪をなぞりながらけらけら笑う幸也に、枝梨子はしばし呆然とし、そしてその身ごと思い切り手を引き抜いた。
「何?」
「――、別にっ。っつか勝手に触んないで」
「ああ、悪い悪い。でもちゃんと手入れしないと指先荒れるぞ。磨いた方が楽だと思うけど」
手をひらひらさせる幸也を睨みつけるようにしながらココアを両手で持って飲む枝梨子。
内心では激しく自己主張する心臓を抑えるのでいっぱいだった。
爪を触られただけで何でこんなに動揺しているのか解らなくて、そんな自分に更に動揺する悪循環。ココアを飲み込んでこっそり深呼吸すると、肺いっぱいにココアではない甘くてほろ苦い香りが満ちる。それで、何故か更に動悸が増す。
「っけほ、う、」
「何、どした、何でいきなりむせた?」
「なんっでもない」
落ち着け、落ち着け、何度も念じて跳ね回る気持ちを強引に押し潰す。
幸也はただココアをすすって、次の煙草に火をつけるところだった。
「まあ落ち着けよ。そうだよな、お前あんまり注意とか呼び出しとかくらったことなさそうだもんな」
「まあね、受験終わるまではとりあえずおとなしくしてようと思ってたし」
「で、推薦決まったから色々やってみようって?」
「だって暇なんだもん」
「暇って」
枝梨子の視線は、ココアの水面に固定されたまま。
「今までは友達とダラダラメールできたし、授業中でも手紙のやりとりしてたし」
「ああ、あのちっさく折った奴」
「そう。授業聴く気がなければ机の下で本読んでたっていいんだし」
「今なら堂々読めるだろ」
「読めないよ」
やけに冷たく響いた。
枝梨子は自分でその響きに驚きながらも、言葉を続けて顔を上げた。
「だって、目立つでしょ?」
「別に目立ったって怒られることはないだろ」
「違うよ、先生の目なんて気にしてない」
クラスメイト達の白い目が、あんなに怖いとは思っても見なかった。
「……ああ、お前のクラスって決まってるの姫路だけか」
「そ。きっついよ、授業中ふと気付くとこっち見られてるの。お前はいいよなって。
まるで、みんながあたしを敵視してるみたい。
それで団結して、滑り止めとかで安心せずに本命打ち込んでるんじゃない?
――考えすぎなんだって知ってるけど」
「だからいつも勉強してる振りなわけね」
納得、と頷きながら大きな煙を吐き出す。
「必要なのかも知れないけど授業なんてもう受けたくないし、でも出ないわけにもいかないでしょ。暇なの」
「で、音楽聴いてるのは解ったけど他のは?」
「だから暇なんだってば。友達ともあんま話せないんだよね、すぐ受験の話まじるから。
で、こういうのやってれば話のネタになるかなと思ったんだけど、一回グループ離れちゃうとやっぱ話しかけづらいんだよね」
「ああ、女子の派閥とか面倒臭そうだもんな」
「そうそう」
一番地に足が着いてるはずなのに、クラス内で誰よりも浮いている。
誰かに見て欲しいのに、
「辛いよなあ、誰にも見てもらえないって感じるの」
心のうちを言い当てられて、枝梨子は一気にココアを飲み干した。
またむせれば、滲んだ涙の言い訳になるのに。
「誰かに相談、……できないよな。同じ立場の奴と今から仲良くなるのも辛いし、クラス外だったら尚更か。……話してもらえてよかったよ。お前ずっと一人だと思ってたのか」
幸也に頭を撫でられて、枝梨子は俯いた。
漏れそうになる嗚咽をひたすら噛み殺して、ぼろぼろ溢れる涙も拭わず、ただじっと。
もう耐えられない、と思った。
今まで平気だったのは虚勢の殻があったからだと、気付いてしまった。
……頭はただ、熱かった。
「プリンスなんて大っ嫌い」
――気付かれなければ、平気な顔していられたのに!
「は? え、おい、こら」
いきなりの言葉に混乱する幸也をおいてけぼりにして、枝梨子は荷物を持って準備室を一息で飛び出す。渡り廊下も長い屋内の廊下も走り抜け、階段も数段飛ばしで駆け下りて、誰にも声をかけることを許さずに靴を履き替えて校外へ。敷地外を校舎に沿って歩きながら、涙を拭うと、コンビニのピンクの垂れ幕が目に入った。
そっか、バレンタイン近いのか。
枝梨子は友達との会話にしばらく交じっていない。向こうに拒絶されたわけではない。ただ、負い目や引け目に似たものを感じていた。
クラス内で一人だけ進路が決定したこと。
みんながまだ受験勉強を頑張っている中で、一人だけ頑張る必要がないこと。
推薦なんて受けなければ、とは思わないけれど、それでも他のクラスメイトがどうしても眩しく見えてしまう。
どうしようもないのだと判っていても浮かんでくる思考にうんざりしながら歩いていると、北風が前髪をさらった感触で、乱れていることに初めて気がついた。
頭を撫でられた感触がよみがえる。
『お前ずっと一人だと思ってたのか』
じわり、止まりそうだった涙がまた溢れ出す。
『話してもらえてよかったよ』
何であんなに優しいことを言うのだろう。
『誰にも見てもらえないって感じるの』
どうして、判ってくれたんだろう。
『辛いよなあ』
どうして、解ってくれたんだろう。
ささくれて、ひりひりするところを全部撫でていった言葉と手。
爪を撫でる指が、どうしようもなくくすぐったくて逃げてしまった。
歩調を合わせて並んで歩くのが、あんなに心弾むことだったなんて。
『大っ嫌い』
どうして、あんなこと言ってしまったんだろう。
あたしこんなに、プリンスのこと好きなんだ……?
自覚した瞬間に浮かぶ声。
『俺、そういうのキライ。』
痛い。――いたい。つらい。
言葉が痛くて涙が流れて、それが更に惨めで泣けてくる。
帰り道を歩きながらいつまでも止まらない涙を、枝梨子はハンカチで拭いながら歩く。
公園に差し掛かって休んでいこうかと足を踏み入れると、ふわっと甘い香りが漂ってきた。
苦さのない、甘ったるい香り。
軋む心に妙に染みて、自分が泣いていることすら忘れて枝梨子は香りの元へふらふら歩いて行った。
「いらっしゃいませ、バレンタインズ・ショップへようこそ」
甘い香りの正体は移動チョコレートショップだった。
軽トラックのような狭い運転席と助手席の前方にタイヤが一つ、後輪は荷台の下に二つのオート三輪。枝梨子は歴史の教科書で見覚えがあった。近代のページだったが、それにしたって古い物で、おそらくエンジンまで改造してあるのだろう。塗装は香りと同じチョコレートとミルク色で、改造された荷台にはとろけたチョコのような幌がかかっている。
幌の下はありとあらゆるチョコレート菓子が雑然と敷き詰められていた。埋もれるようにショーケースもあり、そちらには生ケーキや一粒ごとに売られたチョコレートがディスプレイされている。
声をかけてきた店員の男は、白いコックコートに白と茶の細かいチェック模様のスラックスを着ている。臙脂色のカフェエプロンに同色のキャスケットをかぶっているが、そのつばを上げ男は目をむいて大げさに言った。
「おや、おやおやいかがしました?」
訊かれて枝梨子は、初めて自分が酷い顔をしていることに思い至る。慌ててすっかり濡れてしまったハンカチでぐじぐじ顔を拭くと、いけません、とやんわり手を押しのけられてしまった。
「少々お待ち下さいね」
助手席に回ってパシャパシャと水の音が響いたかと思うと、固く絞った濡れタオルを目に当てられる。
「涙を広げては余計に目の周りが赤くなってしまいますよ。赤みを取るには温めるのが一番早いです。気持ちいいでしょう?」
散々泣いていた顔は火照って強張り、タオルの少し熱めの温度がゆっくりと染み渡る。
「すいません、ありがとうございます」
「いえいえ、こんなこと、いいんですよ」
目を塞いでいても、にこにこ笑っているのが判る声だった。
タオルに心もほぐされて、枝梨子は急に恥ずかしくなる。
「あの、珍しい車ですね!」
慌てて探し出した話題だったが、滑っただろうか。不安になった瞬間、明るい店員の声が聞える。
「ああ、最近の方は知りませんよねオート三輪なんて。古い型の自動車なんですよ。もっと田舎の方に行くとまだまだ昔のまま現役で走ってたりするんですけどね。
元は農作業なんかに使ってたような車で、ほら、何か愛嬌のある顔してるでしょう?
一目惚れしちゃって決めたんですよ。改造はちょっと手間だったんですけど」
「えっ自分で!?」
「いえ、さすがに一人では。そういうのが得意なのに手伝ってもらってですね」
「あっ、そうですよね」
結局滑ってるじゃん。枝梨子は自分に溜息を吐いて、ボンネットに腰掛けるように寄りかかると、
ぐっ。
まるで呻き声のような音がして、枝梨子は慌てて背筋を伸ばした。
「あはは、こいつあんまり丈夫じゃないので」
店主は朗らかに笑って、ボンネットをコンコンと軽く叩き、それから。
「さて、疲れた時にはチョコレートでもいかがですか?
チョコレート菓子専門でやってますから、種類は豊富ですよ」
にっこりと、商売っ気を滲ませて笑った。
溶かして固めたもの、練りこんで焼いたもの、見たことがあるものから無いものまで、ところ狭しと置かれたチョコレート達を眺めて、枝梨子は改めて感嘆の溜息を吐く。
「これって全部、手作りですか?」
あたしは何を言っているの、お店なんだから当たり前じゃん。言ってしまってから自分に突っ込んで、枝梨子は訂正しようと口を開くがその前に店員は恥ずかしそうに応えた。
「そうですね、大体は一人で作ってます。流石にクーベルチュールは殆ど手を加えてないですけどね」
「クーベルチュール?」
「日本だと高品質チョコレートだと思って頂いて大丈夫ですよ。
カカオマス、カカオバター、砂糖、の他に余分な成分がほとんど入っていない高品質のチョコレートをそう呼びます。余分なものが入っていない分、違うものと合わせたときにチョコレートらしさが引き立ちますので、製菓用のチョコレートをクーベルチュールと呼ぶこともありますね」
「へぇ……板チョコとは、違うんですよね?」
店員は少し笑って、大き目の缶ペンケースのような物が入った白い紙包みと、見慣れたサイズの板チョコを両手に持つ。
「こちらがクーベルチュールで、こちらが板チョコと呼ばれるものですね。
溶かしたクーベルチュールに、更にミルクや砂糖を加えて、場合によっては乾燥させた果物なんかも加えて、より食べやすくしたのが板チョコです。うちではミルク、ビター、ホワイト、ストロベリー、今はないですけど抹茶もたまにご用意してます。
クーベルチュールはやはり製菓用にとお買い求めのお客様が多いですから、この大きさでお売りしてます。こちらはカカオの含有量別に五十五パーセントからご用意してます」
「色々あるんですねぇ……」
お菓子なんてクッキーくらいしか作ったことがない上に、そのクッキーすら失敗した経験を持つ枝梨子には実のところ店員の話す内容なんてほとんど理解できていなかった。
「でも、ってことは、板チョコから全部作ってるんですか? しかも、一人で?」
「一応僕が店主ですから。助手みたいなのもいるにはいるんですけどね」
「すごいですね……」
枝梨子が溜息混じりに言うと、店主は両手を振った。
「いや、ほら、日替わりで少しずつなので。すぐすぐ悪くなるものは少ないですからね。
例えばこのボンボン・オ・ショコラなんて、洋酒付けチェリーをチョコでコーティングするだけですから日保ちもします。焼き菓子のほとんどは今の時期なら常温で一週間くらい保ちますから、そこまで毎日大変てわけではないんですよ。
ロリポップなんかはここでも作れちゃいますからね」
「ここでっ?」
「正確には仕上げだけですけど。この装飾は車の中でやってますよ。シガーソケットでお湯は作れますから、後は用意してきたアイシングや色チョコなど温めれば……」
手で示されたロリポップチョコレートを見上げ、枝梨子はまたも嘆息する。
丸いこげ茶と白のキャンバスに、色の付いたチョコや砂糖で可愛いイラストが描いてあった。
「器用ってか、絵が上手ですね」
「趣味みたいなものですから」
照れたように笑って言われて、枝梨子は自分が店主のことを褒めてばかりなのに気がついた。
変なの、自分のキャラじゃないみたい。思って少し恥ずかしくなり、いつの間にか手で握り締めていたタオルを店主に返した。
「あの、これ下さい。ストロベリー」
「はい、ありがとうございます」
コンビニで買うよりも少し高い板チョコだったが、店主があんまり嬉しそうにチョコの話をするものだから枝梨子は素直な気持ちで食べてみたいと思った。
一番安かったのはロリポップとショーケース内の一粒チョコレートだったが、どちらも自分で一つだけ買って食べるのは何となくためらわれて、板チョコに落ち着いたのだ。
「そうそう、うちでは魔法のチョコレイトも置いてるんですよ」
「魔法の?」
楽しそうに言う店主を笑ってから、失礼だったかと枝梨子は表情を改める。
ところが店主は枝梨子に気分を悪くもせず、しかし真剣に言うのだ。
「ええ、魔法です。これは違いますけど、商品にいくつか混じってます。
今度探してみて下さいね」
「魔法……ちなみにどんな?」
店主はナイショ話をするかのように人差し指を立て、声を低くする。
「効果は、“私を見て”。
――それではありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
うって変わって明るく挨拶した店主に枝梨子は会釈を一つ。公園を出てからアルミ箔の端をちぎる。綺麗にちぎれずパッケージが少しめくれ上がって、気が付いた。
淡いピンクの紙だと思っていたのは濃いピンクの折り紙を裏返していたからで、表にした裏面に描かれた苺のイラストと英字は、どうやら手書きらしいこと。
先ほどの店主がこんなに可愛いパッケージを描いたのかと思うと何だか微笑ましかった。手で割ってチョコの欠片を口に放り込むと、濃厚で甘酸っぱく、一瞬で幸せな気持ちになれた。
美味しくてパキリパキリと割っては口の中に入れながら、甘いものは好きなのかな、と、ふとそんな疑問が浮かぶ。
枝梨子が思い描く相手はただ一人。
煙草は甘い香りだったから、甘い物も好きかも。そう言えばココア飲んだし、ちゃんと粉乳入れてるってことはこだわってるってことで、こういうのも美味しいって食べそうだな。
食べさせたい。
ふわふわ浮かぶ思考は、さっきまでの重く辛い気持ちとは正反対だった。
翌日。朝一から音楽で、移動のためだらだら続く列の一番後ろで、枝梨子は教科書とペンケースを抱えながらたらたら歩く。大体朝一なんかで声が出せるはずがないのにとぶつくさ思いながら歩いていると、わっと前方の女子が沸いた。会話に加われないならと特に興味もわかず、顔も上げずに歩いていると
「おっ前、朝から暗いな」
声が降りかかる。
一瞬で誰が目の前にいるのか解って、でも合っていて欲しいような違っていて欲しいようなフクザツな気持ちに目線までつられて泳いで、一瞬目が合った気が
したけれども結局幸也の足元で視線は落ち着いた。
「どうした、調子悪いのか?」
「ちょっ近ッ」
覗きこまれて仰け反って、袖に仕込んだコードが飛び出そうになる。それを慌てて
庇うのが目立ったのか、幸也は目をすがめた。
「お前、またマニキュア塗って」
「磨いてるんですー」
「それは感心だな。……端っこ剥げてるぞ」
「えっ」
「引っかかるようじゃまだまだ……。っつかお前リップもイヤホンもそのままかよ」
「プリンス以外は気付かないからいいんですー」
「ふぅん?」
何で気付くの? 苛立ちよりは嬉しいよりの、爆発しそうな気持ちを抑え込んで視線を窓の外へ移すと、突然ぐしゃぐしゃ頭を撫でられた。
「ま、頑張れよ。……磨くの。」
熱い。撫でられた場所が熱くて、その熱が体中に巡って、前髪を手で押さえようとして、でも何だか勿体無くて触れなくて。
爆発しそう、が、爆発する。
「待って、プリンスッ」
言え、言って、もうちょっと! 枝梨子は震えそうな自分の喉を叱り付ける。
「今日の放課後、教えてよ!」
「別にいいけど?」
――あれ?
今までにあまりないくらい勇気を振り絞ったつもりだったのに、対する幸也の快諾は……。
「じゃ、放課後理科室な」
「あ、うん」
頷いてから、じわじわ、今度は体の真ん中から先程の熱が戻ってくる。
放課後、また、二人っきり?
「マジでッ!?」
嬉しくて顔がにやけそうで、俯いた瞬間に枝梨子の思考と同じその声が耳をつんざいた。
「何、プリンス勉強教えてくれるの? やった!」
「あたし理科わかんないとこあるんだよねー!」
「さすがプリンスちょーやさしー!」
わらわらと寄ってくる女子は、すぐ近くの――一組の女子だろう。追っかけをしていると噂の顔もあった。
女子の壁に阻まれて追いやられて、幸也と枝梨子の距離は遠のく。
「えー。真面目に勉強する気あんの、お前ら」
「ぁるよ、超あるよ!」
「つかぅちら受験生だし」
「ね、プリンス失礼!」
こんな光景を見ていたくないと、枝梨子は視線を下げて、進む先へとゆっくり体を向ける。
「あーはいはいわかったから。じゃあやる気がある奴は放課後理科室な」
はーい! 元気のいい返事が沢山重なって、枝梨子は振り返りもせずのろのろ音楽室へ向かった。だから幸也からの視線に、枝梨子が気付くこともなかった。
音楽の授業はこの期に及んでもやっぱり合唱で、枝梨子は少し呆れていた。
夏まで合唱部に所属していて、この教師が合唱馬鹿なのも知っていたが、受験の真っ只中で新しい曲をやることもないだろう。二週目に入っているのでそれぞれのパートが音を取り終わり、初めて今日全員で合わせるのだ。
「この曲ね、先生が中二の時のNコン課題曲だったのよ。
でもうち女子だけだったから、やっぱり男声がないと重みが足りないのよねー」
楽しそうに笑う教師に男子はニヤついていた。
去年のはじめに大学を卒業して入って来たばかりの新人教師は小柄で顔も可愛く服のセンスもよく、男女問わず“まりちゃん先生”と慕われていた。
「姫ちゃんは音取れてるでしょ? ソプラノ側の前ね。後の子は音完璧な子が端や後ろに来るようにねー」
教師はピアノに座りながら生徒を二列に立たせ、最初の音を三つ弾いた。
「最初のフレーズアカペラだからね、頑張ってね」
さらっと言ってのけるが、部活で専門的にやってもいない生徒に何故こんなに難しい曲をやらせるのかと枝梨子は苦笑する。答は、彼女がこの曲を好いているから、それだけだ。
カチカチ早く振れるメトロノームに合わせて合図をし、教師は最初の和音を弾く。
楽譜にはない、歌いやすいように弾かれた目印だ。が、自身のない生徒達の声は蚊の鳴くようで、枝梨子の声が目立ってしまった。
「もっと声出してー! はい」
渦巻くような旋律を簡単に奏でながら、教師はにこやかに男子に合図する。先行する男声のフレーズがクレッシェンドのように大きくなって、対する女子も負けじと大きな声になる。
が、大きくなると軸が――旋律がぶれていく。どうにも居心地の悪い気持ち悪さを感じて、枝梨子はパートを跨いで主旋律を歌った。教師に目配せをするとにっこり笑われる。
枝梨子が加勢すると途端に主旋律のパートは元気になった。ソプラノや男声を枝梨子が歌うと、アルトは途端に弱くなってしまったが。
この状況が変だよ! そう思いながらも、楽譜を見つめて歌詞を頭の中に広げる。
恋の歌だ。
曲目の通り、何だかとっても変な歌。けれど、不思議と高揚感のある歌。
走り出したくなったり、生まれてきたことに感心してみたり、世界を感じてみたり、誰かと、話したくなってみたり。……ありがとうって、言えるかな。
歌の主人公と一緒にぐるぐる思考しながら、いつの間にか浮かぶのは一人の顔。
以前、部活中にこの楽譜を見た時は変なのと笑っていたはずなのに、今はとても共感できた。
変なの。
枝梨子は心の中で穏やかに呟いて、渦巻く旋律に心を乗せた。
授業終了のチャイムで、教師は名残惜しそうに号令をかけさせる。ぱらぱらと音楽室から生徒が減り、数人がピアノの周りで音取りの確認をする。教室の真ん中に置かれたオルガンに座ってそんな音楽室内を眺めながら、教師は枝梨子に声をかけた。
「ねえ姫ちゃん、恋してる?」
にこにこ、あんまり楽しそうに親しげに訊かれるものだから枝梨子は思わず頷きかけて、
「ぅ、――はあ!?」
その反動で思い切り楯突いた。
「誰が!」
「姫ちゃんが。だっていい顔して歌うじゃん」
「あたしがうまいのは元からでしょ!」
「うまいけどさー、心入ってたじゃん、ちゃんと」
「そりゃ、合唱部ですから」
揃えやすい発声、ききやすい発音。歌詞が伝わるように、声にきちんと表情をつけるのは、合唱の基本だ。
「だから、何ていうかリアルになったよ。はにかみながら綺麗に歌い上げてた。
聴いてるこっちが恋しちゃいたくなるくらい、可愛かったよ」
「………別に」
同姓にだって言われなれない言葉に、枝梨子は思わず視線を逸らす。
先程までピアノの周りにいたはずの女子生徒達も、もう音楽室から出るところだ。
それを教師も確認し、低い声で訊ねる。
「で、誰思い浮かべてたの?」
「だっ誰でもないし!」
やめてよね、そうやって決め付けるの。もごもご口の中で言って、椅子の上に置きっぱなしだった教科書とペンケースを拾って、枝梨子は逃げるように渡り廊下を走って行く。
枝梨子を見送った音楽教師は、立ち上がりながら伸びをした。
「かーわいぃ。いいね、青春だね、あたしも恋したーいっ」
「何やってんすか、先生」
ぐぐっと両手を挙げていたところで、今見送った入り口と反対側の入り口から声がかかって音楽教師はそのまま身をよじった。
「あらプリンス先生」
「プリンスってのやめて下さいよいい加減。で、あと歌うときは窓閉めて下さいって何度も言ってるじゃないですか」
「え、先生の授業今日は理科室だったんですか? すいません、うっかりうっかり」
へらっと笑う音楽教師に、幸也は大げさに溜息をつく。
「違いますよ、二年の教室でしたけどマジで気をつけて下さいよ。
またガミガミ言われちゃいますよ」
あんただけじゃなく俺も、と言外に含ませると、音楽教師はすみませーんと両手を合わせた。
「でも、今日の出来はそこまで悪くなかったでしょ?」
「良く解んないっすけどやけに伸びる声ありましたね」
聞き覚えのある耳障りのいい声があり、気になっていたのだ。
「うふふ、姫ちゃんの声すごいでしょ。何組まで届きました?」
「え。姫ちゃんて、……姫路ですか?」
「そ、三年のえっこちゃんです。もう絶対あの子誰かに恋してますよ。今恋の歌うたわせたら多分この学校で一番上手いんじゃないかな。きゅんきゅんですよー!」
うふふふと楽しそうに笑う音楽教師をそっちのけで幸也は心から納得した。
「へえ。なるほど」
「何がなるほどですか?」
「いや、最近妙に色気づいてるから、何かなと思ってたんですけど。恋ですか」
「え、色気付いてます?」
「色付きリップとか透明なマニキュアとか、ちょっと違いますけど授業中に音楽聴いてたり」
「えー、いや、それは色気づくってのと違いますよ多分。ただの自己顕示欲っていうか。
あの子もともと私服もお洒落さんだし、学校の中でバレないようにやりたいことやってるだけじゃないですかね?
むしろそういうの、男の人から気付かれちゃったらポイント高いですよね!」
「はい?」
何のポイントだろう。“気付いちゃった”幸也は素で聞き返す。
「だから、クラスの男の子とかから『あれ、マニキュア塗ってる?』みたいな!
『みんな気付いてないのにあんただけ気付いたの!?』とか、きゅんきゅんですよ☆」
この先生テンション高くて絡みづらいんだよな、と考えながらも違うことが脳裏にちらつく。
準備室での態度は、途中から変ではなかったか。
そう言えば、今朝の態度はまるで告白みたいでは……。
渡り廊下にこちらへ向かう生徒の影が見え、幸也は適当に挨拶をして特別棟の階段を下りる。
そわそわ、落ち着かない。こんな気分は久しぶりで、幸也は自分自身に苦笑する。
準備室に入って煙草に火をつけながら呟いてみる。
「恋、ねぇ」
センセー好き、と過去に女子生徒から言われてきたが、数人でわらわら取り囲まれている時だったりで、いつも冗談で済ませられるものだった。
枝梨子から好きだと言われたらどうしようか。
考えて高揚する心の一部を、紫煙と共にゆっくり吐き出す。
「でもなあ、ロリじゃねぇしなぁ」
生徒に手を出したら問題だ。そもそも若すぎる、気がする。考えて、何でマジで悩んじゃってんの、と自分に突っ込む。
「どうした、俺」
苦笑してしまう。どうしてだろう。
「ちょっと――ヤバいだろ」
枝梨子が恋しているかどうかも、ましてその相手が自分かどうかだって定かじゃないのに。
何故自分は、こんなにも嬉しいんだろう。
幸也は浮かぶ笑みに苦味を強引に混ぜ込んで、首を傾げた。
気付けば煙草の火は、フィルターまでせまっていた。
放課後、理科室には十五人程の女生徒が集まった。
真ん中にシュシュを隠したふわふわのおだんごを頭のてっぺんに作っていたり、矯正縮毛をかけた短めの髪をあごの両サイドでちょこっと二つに縛っていたり、携帯コテで軽く巻いてあったり、ともかく朝から勉強会に出席すると主張していた面々の髪は、勉強会には不必要な程気合が入っていた。当然、ほとんどが朝とは違う髪形だ。
髪だけじゃない、ほんのりピンクの頬はきっとチークを乗せてあるし、うるうるつやつやの唇はパール入りのグロスが塗ってある。ブラウスのボタンはセーターのVネックギリギリまで開けてあり、腰元は幾重にも巻き上げたスカートのせいでセーター越しにもごわついている。
しかしその分とびきり短くなったスカートからは真っ白な太ももや黒いニーソックスが覗いていて、彼女達の今できるとびきりセクシーで可愛い格好がそれなんだととても解りやすい。
みんな同じように可愛くて、校則はきっかりアウトだった。
しかし朝は、枝梨子の記憶が正しければこんなに頑張ってもいなかったし八人しかいなかったはずだ。八人だって多かったのに、どうして倍にまで増えてしまったんだろう。
心の中で嘆きながら、理科室の窓際一番後ろの席で、枝梨子はペンケースとルーズリーフと問題集を並べていた。
何であいついるの、という視線が、時には露骨な言葉が、枝梨子に向かって刺さる。
これでは教室と同じだ。大きな溜息を吐いて、イヤホンを出そうと右手を下げた瞬間に、教室の後ろのドアに人影が映った。
枝梨子が慌てて膝の上でイヤホンを袖口にしまいこむのと、幸也がドアを開けて教室内を見渡すのは同時だった。
「おい。勉強する気あんのか?」
そうだよねあたしから言っておいてイヤホンとかダメだよねやっぱり! 焦って言い訳したくて顔を上げると、幸也の視線は枝梨子を向いてはいなかった。
「やる気ある奴だけ集まれって言っただろ。勉強道具準備してんの姫路だけじゃねーか」
ふっと肩の力が抜ける。
よかったあああああああああ!
「まだ来たばっかなんだもーん」
「嘘付け。足組んで手帳見ながら何言ってんだ」
「ねぇプリンス、数学もできる?」
「ああ、はいはい。じゃあ理科と数学、どっちか好きなのやってろ。解んなくなったら呼べ」
はーい、といくつかの声が重なるが、一人が手を上げて親しげにぶんぶん振る。
「プリントってないのー?」
「っしょーがねーなー。
範囲は? 探してきてやるよ」
「抵抗の辺りわかんなぃんだけど」
「あ、私もー」
ぱらぱらとプリントを求める声が上がり、枝梨子も便乗して手をあげる。
「あたし中学のおさらいみたいなの欲しい」
「問題集は?」
「大体問いちゃったもん」
何せ授業中は暇なのだ。枝梨子がふざけて肩を竦めて見せると、他の女子生徒から優等生ぶってと睨まれる。そんなつもりは毛頭ないが、面倒臭いので枝梨子、そして幸也もスルーだ。
「仕方ねーな。電気とか抵抗関係のと、中学おさらいと、あー数学は自分で用意しろよ。それか他の奴の問題集借りろ。じゃあプリントそんだけな。欲しい奴もっかい手挙げてー」
ぱらぱら手が上がり、結局プリントの枚数は二十枚を超えた。
「多いなおい。……姫路、手伝え」
「え、」
「えー!」
驚きと不満の声は、枝梨子以外のほとんどからあがる。
「お前ら取り敢えずはまだ解いてない問題あるんだろ?」
幸也の一言で黙り、幸也は黒板横の扉から準備室へ入った。枝梨子も慌てて
その後を追う。
準備室でプリントを探しながら、幸也は呆れていた。
「教室でもあんな感じ?」
「ああうん、近いかも。まあなんかもう、慣れたけどね」
敵意の理由が違うのは、今更言うまでもないのだろう。
棚に並んだファイルを指先でなぞりながら枝梨子は考えていた。
「あ、そこの棚に中学全般あるはず。――だからイヤホンか」
「うわマジ目敏い。出しかけたけどちゃんとしまったし! プリントこれ?」
「そ。知ってる。ま、音楽聴き始めたら帰らせるけどな」
「聴くわけないじゃん、」
「俺が好きだから?」
「い――はあ!? 言いだしっぺだからに決まってんじゃん! これ、コピー取ってくるから!」
幸也が手に持っていたプリントをひったくり、枝梨子は準備室から廊下に飛び出した。
それを見送り、幸也は呆然と呟く。
「うわ。顔真っ赤じゃんあいつ……」
渡り廊下に出て冷たい風に頬を叩かれ、枝梨子は少しほっとした。
これで赤面がどうにかなりそうだ。指先でぐりぐり頬をこねて、改めて頬の熱さに驚いた。
「何なの」
きっとふざけて言ったんだろう。今日だって結局あんなに追っかけに囲まれているし、女子生徒に言い寄られることなんて日常茶飯事なのかもしれない。
考えて、思い至って、ことのほか凹む自分がいた。
ふざけてるようでも仕事は真面目にこなしてて、喋ると面白いし、きっと女性にはモテるんだろう。若い先生ってだけでも人気は集まるのに、それだけイイトコが集まっていて、かつ顔もいいなんて反則だ。モテるよね。そりゃモテるよ。
――でも、違うのに。モテるから、好きなんじゃないのに。
気付いてくれたから、好きになったのに。
もやもや、気持ちが広がっていく。
あの人に向かう好きの気持ち全部、独占できたらいいのに。
そんなことを思う自分に戸惑いつつも、嬉しくて、きゅうと胸が苦しくて、
……ふと、気付く。
ああ、これが切ないって気持ちなのか。
嬉しいのにほんの少し痛い気持ち。
切ない気持ち。
考えると、口角が自然に上がる。
「この気持ちはなんだろう」
ピアニッシモで枝梨子の喉から飛び出した旋律は、階段中響き駆け上る。
「春にはまだちょっと早いんじゃない、姫ちゃん?」
「っぅわびっくりした!」
階段の上から小さく響いた楽しげな声に、枝梨子は振り返った。
にまにま笑顔を浮かべて降りてくる音楽教師に眉をひそめて見せて、
枝梨子はもう、と溜息を吐く。
「まりちゃん職員室戻るんでしょ? これ、コピーしたいんだけど」
みんなにプリントが行き渡って三十分くらい経っただろうか。
手を上げた子の顔がやけにニヤついているから、ちょっと嫌な予感。枝梨子は何となく左手を止めて様子を窺う。
「はーぃ。プリンス、質問!」
「おっ前騒がしいなあ。何?」
「十四日のご予定はー?」
瞬間、さわりと空気が色めきたつ。
「は? 何曜?」
しかし幸也はいきなり来た質問の意図が汲めず、首を傾げた。
「月曜日。セント・バレンタイン・デー♡」
「またお前頭悪そうな発音だな。月曜だろ、んなもん普通に学校来て仕事だ」
「プリンス、放課後はー?」
「しーごーとー。お前らみたいに授業終わってはい下校、ってならないの。教師は忙しいんだよこの時期特に!」
「じゃぁ彼女いないんだ?」
「お前らに関係ないだろ?」
「ぃや関係あるし!」
言った生徒の周囲三人がきゃあっと声を上げる。勇気ある、とか大胆、とか、“関係ある”の意味を補足して幸也の方をちらちらと見上げる。
「あーそう、……」
めんどくせえ。幸也の口の動きを見て、枝梨子は少しほっとしていた。そんな自分が不思議で一人で首を傾げていると、更に他の生徒達はヒートアップしていく。
「お酒好き?」
「さあね」
あんまり好きじゃないのかな。
「甘い物は?」
「嫌いじゃないけど学校でチョコとか渡すなよ、面倒臭ェから。ちなみに俺のとこにバレンタインで持って来たら指導室行きだからな」
きっと甘いの好きなんだろうなぁ、煙草の香りも甘いし。
「ぇーまじ冷たぁぃ」
「ふざけんな、俺だって教師だっつの」
ああでも、こういうの、もちろん知りたかったんだけど何かあんまり気分よくない。
「じゃあさ、好きなタイプは?」
「少なくともガキはお断りだっつーの」
不意に視線を感じてそちらに目を向けると、幸也が枝梨子を見ていた。
え? 疑問と共に心臓が跳ねる。
「やだー、そんなはっきり言っちゃ可哀想ぢゃん」
「プリンスひどーぃ」
笑う声が細波のように広がっていく。冷たい水に心臓を浸けたような気分に、俯いた。
枝梨子はプリントを折る。開きっぱなしだった問題集もプリントを挟んで閉じて、
表紙からもう一度折り目をなぞった。
「はあ? 何でお前ら他人事なの? お前ら充分ガキだってわかってる?」
「ぃや、誰かよりはマシだし」
「空気読めない奴がガキだっつってんだよ」
「ぃや、うちらマジ空気読みまくりだし」
それなりに気に入っているシャーペンと消しやすさで選んだ消しゴムもペンケースに放り込んで、他に下を向いてできる作業はないかと探した。
見当たらない。こんな問答も聞いていたくない。
痛い。
枝梨子は結論に達して、全てを鞄の中へ放り込み立ち上がった。
「能ある鷹は爪を隠すって知ってるか? 大体お前ら、今日の格好何だよ。
ルール無視してただやりたいことやってりゃガキだし空気も読めてないだろ」
この言葉が誰に向いて誰に向かっていないのか、それすら判別せずに枝梨子は教室の後ろを早足で歩く。理科室から出て、一瞬左の準備室に駆け込みたい衝動が湧いた気がしたがそれを無視して右に走る。渡り廊下は寒くて、冷たい心が更に冷え込んだ。
訊きたかったことが沢山あった。
どうやって訊こうか、考えるだけで楽しかった。
けれど、答えだけ手に入れてしまった。
自分が訊きたかったのに。自分で訊きたかったのに。
訊ねる権利すら奪われたような気がして、無性に泣きたかった。
けれど涙は出ない。まるで凍っているかのように、心の中は冷静だった。
階段を一気に駆け下りて廊下も走って下駄箱で乱暴に靴を履き換えて、再び走り出す。
公園に差し掛かって、ようやく自分がコートを着ていないことに気付いた。
出入口すぐのベンチにバッグを放ってコートを羽織り、そして漂ってきた甘い香りに気付く。
反対側の出入口の方を見れば、今日もまたバレンタインズショップは停まっていた。
可愛らしいオート三輪は、前時代の物とは思えない。だってあんなにきらきらしたチョコが積んであるのに!
チョコを食べよう、と思った。
だってこの甘い香りだけで、気分は少し浮上しかけている。
「いらっしゃいませ、バレンタインズ・ショップへようこそ」
枝梨子と目が合うと、店主は笑みをいっそう深めた。
「またいらしてくれたんですね」
「この間買ったチョコ、美味しかったです」
甘酸っぱいストロベリーチョコレート。食べる前は高いと思った値段が、一口食べた瞬間に安いへ変わり、食べ終わるまでその感想は変わらなかった。味を思い出して、食べた瞬間の記憶もふわりとよみがえる。
――食べさせたい。
枝梨子の脳裏には、幸也の苦く笑った顔が浮かぶ。
つられて、さっきまでの苦々しい気持ちも。
「思春期ですねぇ」
「へ?」
「だって昨日は泣いていたでしょう? それが今日は笑ってくれて、かと思ったらまた痛そうな顔してますよ」
「痛そう、ですか?」
「はい。とっても」
優しく、でもほんのちょっと苦く笑ってくれるこの人の笑顔は、まるでチョコレートみたいだと枝梨子は思った。甘いホワイトやミルクチョコではない、大人のビターチョコレート。
だったら幸也はビターチョコにベリーを混ぜたお菓子かもしれない。ずれた思考に慌てて、
「あの、おすすめのチョコってありますか?」
またずれたことを言ってしまった、のだろうか。
ああどうしよう、と思ったところに予想の斜め上の答えが返る。
「お勧めはやっぱり魔法のチョコレイトですね」
「え、……ああ。いえ、あの、味とか」
どうしよう。これは冗談なのか。昨日の冗談をまだ引きずっているのか。それともさっきの自分の発言がずれていたから、更にずらすとかそういう高度なテクニック……?
枝梨子の思考がぐるぐる回りだしたところで、
「好みにもよりますからね。後は、その時の状態とか」
「状態?」
新たな疑問が降りかかる。
「疲れているときはやっぱり、甘ったるいくらいの物の方が喜ばれるお客様多いですよ。
暑いと思っているときにはさっぱり甘酸っぱいものとか、好みと状態によってお勧めは変わります。今のお客様は何か悩まれているようですから、そうですねぇ……」
「悩んでるように見えますか」
「痛そう、でしたから。……良ければお話ききますよ、なんて。まあでも他人の方が話しやすいことってのは割とありますからね」
「……そうですね」
中学生の恋の悩みなんて、笑われるだろうか。でも、冗談だったとしても魔法のチョコだなんて言ってしまうこの店主だ、大丈夫かもしれない。しかも魔法の効果は“私を見て!”だ。
まるで恋する女の子みたいだ、なんて他人事のように思ってしまう。
「あの」
「はい?」
「もしアレだったら聞き流してもらっても全然いいんですけど、あの、私。
……恋して、それで悩んでるって言うか」
「あ、やっぱり」
「え」
「こちら、今のお客様にぴったりかと思うんですけどいかがですか?
ハートがベリー、ダイヤがキャラメルのソースが入ってます。クローバーがピスタチオのクリームでスペードがガナッシュなんです」
「え、あ、」
手のひらに乗る小箱を差し出され、困惑する。
話を聴いてもらうんだからこれを買った方がいいのだろうか。
「いくらですか?」
「ええと、そうですね、いくらにしましょう。
……いえ、実はこれ、試作品なんです」
「え」
ですからどうぞと小さな箱ごと四つのチョコを受け取って困惑する。
一粒が三センチ四方に収まってしまう小さなチョコレートの粒はそれぞれトランプのマークをかたどってある。可愛い。
「まあまあ、どうぞ。甘酸っぱいのはお嫌いでないでしょう?
ベリーのものなんていかがです? 後で感想を頂ければ、それがお代ということで」
言われるままに枝梨子はハートをかじり、舌の上にとろりと流れてきたソースに慌てて全部を口の中へ放り込む。
美味しい。けれど、何か足りない。
噛み砕いたビターチョコレイトと甘酸っぱいソースが口の中でゆっくりとろけあって、少し刺激的というか、大人の味みたいだと思った。理想的な、大人の味。子供っぽさが一切ない、理想の大人が食べそうな、オシャレすぎる味。
「いかがです?」
「あ、美味しいです。これ、ラズベリーですか?」
「はい、ラズベリーとクランベリーとストロベリーをピューレにして煮詰めてあります。
でも、物足りないってお顔ですね?」
「……大人の味なんです。私みたいな子供には似つかわしくないというか」
言って自分で傷付いてしまった。チョコの話のはずなのに。
ずっと、脳裏に幸也がちらついている。
スカートがはためいて、コートもふわりと開く。目の前を小さな枯葉が過ぎって、何となく木の枝に目を留めた。あと三ヶ月もすれば見えなくなる枝も、今はスイートチョコレートの色をさらしている。寒そうだ、と思った。夏に着込んで冬に露出なんて、何て天邪鬼。
自分みたい、と枝梨子は目を細める。何だか木々が子供っぽく見えた。
「ふむ……大人って、何なんでしょうねぇ」
「え?」
「例えば小学六年生の頃、中学生ってとても大人に感じませんでした?」
「へ、はあ、はい」
「いざ中学に入学して、どうでした?
中学生にも色々あって、一年生はまだ小学校の続きだけど、三年生は大人に見えたり」
「はい」
「じゃあ今はどうでしょう。一年生が子供に見えます?」
中学に入学して、六年生は子供に見えましたか?
ミルクチョコレートみたいに甘い微笑みで、店主は枝梨子に答えを促す。
「いえ、……
いえ、あんまり変わりません。中学に入学した時も、何だか懐かしく思いはしましたけど、だって一個下とかだし、そんな変わらないですよ。今の一年生だって、中学って世界に慣れてないから、その拙い感じが幼く見えるけど、でも、私達と比べたら子供、だなんて言えません」
「はい」
良くできました、と枝梨子の頭を撫でて、店主はふっと息を吐く。
「知らないことって、何だかすごく見えるんですよね。
小学生は中学生を、中学生は高校生を、高校生は大学生を、学生は、社会人を。
なんだか良く知らないけどすごそうって、構えて見ちゃうんです。
でも、知ってるこちらからすればそんなことはないんだよって思うでしょう?
僕も君達もそんなに変わらない。確かに知識や経験は増えたけど、本質ってそんなに変わらなかったりするじゃないですか」
「はい」
「例えば子供の自分が大人に恋をしてしまった、と思っていても、向こうから見たら子供と子供だったりすることってあるんですよね」
「……」
枝梨子は驚いて店主の顔を見上げる。
「社会的な立場は置いておきますけどね。中身なんて案外変わらなかったりするんですよ。
さて、姫路さんの恋のお相手を当ててみせましょうか」
「え、名前――」
「お相手は、学校の先生じゃありませんか? まるで王子様みたいな、若くて格好いい先生。
ライバルが沢山いて、年の差とライバルの多さが悩みの種。いかがです?」
「……あ、わ、ま、魔法ですか?」
「いえいえ、他のお客様のお話と想像で。
あとお名前ですが、こんなご時世です。登下校は名札、外した方がいいかと思いますよ」
「あ」
羽織ったまま前を閉めていなかったコートは、風が吹けば名札も見えてしまうだろう。
「何だ、魔法の力じゃないんですね?」
「魔法だって万能じゃありません。何でもかんでも簡単にできたら、もっと魔法は普及してますよ」
「えー……魔法って難しいんですか?」
「勿論。必要な道具も材料も呪文も、その為だけにあつらえなければいけません」
「そんなに大変なら、魔法のチョコだからって堂々と売り出せばいいのに」
このチョコレートの山のどこかに魔法のチョコが潜んでるなんて、もったい無い気がする。
枝梨子が言うと、店主は少し眉尻を下げてそんなことしたら、と呟く。
「みんな素直な気持ちで買ってくれないでしょう? 美味しく食べてくれないでしょう?
僕は魔法使いですけど、その前にショコラティエでパティシエで人間です。
嫌ですよ、普通に美味しく食べてくれなくちゃ」
まっすぐに悲しそうな店主はまるで子供みたい。枝梨子は笑って、自分の考えに首を傾げた。
天邪鬼なら子供。まっすぐでも子供。
……じゃあ、大人って?
子供とか大人とか、もうどうでもいいのかもしれない。
「ねえ、店主さん。魔法ってどう効くんですか?
“私を見て!”って、恋とか叶っちゃうんですか?」
魔法なんて子供みたいだと思っていたけど。少しだけ、興味が湧いた。
「……効き方、ですか? 想いの強さによりますねぇ」
店主は難しそうに眉をひそめて、腕を組む。
「恋が必ず叶うって魔法はありませんよ。だって魔法の力で強制的に心を動かしたって、そんなのただのごっこ遊びでしょう? 片方が心神喪失状態で叶う恋なんてありませんよ」
うんと一つ頷いて、店主は更に続ける。
「僕の魔法は、ただきっかけを作るだけです。
でも一番大事なのは、想いの強さと、それを少しだけ表すプレゼントという行為。
魔法を甘く見ないで下さい。ただ買って渡して食べてもらうだけで、そんな簡単に強大な力が発動するなんてちょっと虫がいいでしょう?
だから、相手のことがちょっと気になる、それだけです。背中を押すだけなんですよ。
そこからどう発展させるかは二人次第です。それが恋ってもんでしょう?」
首を傾げてみせる店主に、枝梨子は噴出すように笑ってしまった。
「おや、質問しておいてひどいですね」
「す、すみませんっ! だって、あんまりオトメチックなこと言うんだもん!」
笑いながら、枝梨子はあたたかくなっていた。さっきまであんなに冷えていた心が、今はこんなにも軽く笑っていられる。
「店主さんてかっこいいですよね」
「素直に喜べません。乙女チックで格好良いんですか?」
だって、と笑いすぎて溢れた涙を拭いながら枝梨子は言う。
「あたしプリンスが好きじゃなかったら、もしかしたら店主さんのこと好きになってたかも」
「それ、そんな平然と言えてる時点で本気じゃないでしょう」
「だって本命がちゃんといるし」
店主は笑顔で溜息をつく。
「答え合わせしてみます?」
「……あたし、難しく考えすぎてたみたいんなんですよね。
教師と生徒で、年の差が干支一回り分あって、大人と子供で。
オシャレしたいって思っても、先生達の言葉無視して茶髪とかストパーとかやる勇気ないし、お化粧だってちょっと怖い。あたし、子供なんだって思ってたんです」
そうして昨日と今日を思い出してみれば、
「でも、プリンスはそんなあたしを評価してくれてたみたい」
ガキはお断りだって言いながらこっちを見てたのは、どういう意味だったのか。
よこしまな願望が、首をもたげる。
ねえ、最後の言葉。私はマニキュアの爪を隠せてる?
それとも、あなた好みに磨いた方がいいのかな。
「だって、他の子には何だその格好って一括で怒ったのに、あたしにはちゃんと向き合って注意してくれた」
隠れてやれなんて、教師にあるまじき注意だけど。
「大嫌いなんて言っちゃったけど、まだ、チャンスはあるかも知れない」
キライって言われたけど、そこは頑張って治そう。だって「そういうの」って言った。あれはきっと限定的なキライ。
全部キライだったら、こんなにかまってくれてないよね?
「魔法のチョコ、今、すごく欲しいです」
本当に効果があるなら、もう少しだけ気にしてもらえるなら、もしかしたら、なんて。
甘いのだろうか。もしかして、ちょっと頭悪い?
でも、あたしは中学三年生の女の子。
世間的に見ればまだ子供だし、夢見がちでも、許してもらえる?
「おや。今食べて効果を実感しましたか」
「へ?」
「そこにあったハートのチョコ、魔法をかけてあったんですよね」
「え、ええ?」
「だから昨日は魔法なんてって思ってたのに、今日はきいてみようと思ったでしょう?
僕の話す意図をきちんと汲んで、ポジティブになれたでしょう?」
「だ、だって、いや、待ってくださいよ!
魔法の話を聴くのは店主さんから贈られたからいいですけど、私が私を見直すのは、」
――私を、見る……?
「そう、僕が贈って、あなたは僕の話に耳を傾けて、自分自身を見つめなおしましたよね。
ほんの少し、素直になれましたよね?」
魔法の効果は、“私を見て!”――。
贈った“私”を。
贈られた“私”を、見て。
「泣き虫なお姫様へ、魔法使いからの献上品をお贈りしました。
お気に召していただけましたか?」
「は、い……」
「なんて」
呆然と頷く枝梨子に、店主は茶目っ気いっぱいに笑いかける。
「信じるも信じないも、結局はあなた次第ですよ。ただ、魔法があったらいいなって軽い気持ちで買ってもらえたら、僕はもうそれだけで充分なんです」
ほっこり笑う店主に、枝梨子もつられて笑顔になった。
魔法は、もしかしたら本当なのかもしれない。
店主は茶化したけれど、だからこそ余計リアルに感じられた。
「店主さん、明日土曜日だけどあたし学校行くんです。受けなくてもいい補習を受けに。
その時、もうちょっとプリンスと話してきますね」
どうアプローチするのが正解か、解りかけてる気がするから。
「その後、バレンタイン用のチョコレート買いに来ますから。明日もここにいて下さいね」
「はい。魔法のチョコレイトをご用意して、お待ちしておりますよお姫様。
王子様との恋の成就、魔法使いめは陰ながら応援しております」
そうか、八王子でプリンスなら、姫路のあたしもプリンセスになれるのかもしれない。
思い至って、気恥ずかしくなって笑った。
さっきまで絶望的に思えた今日の勉強会が、希望に満ちていた気がした。
朝。枝梨子が集中玄関で靴を履き替えているとその手元が不自然に翳った。
わざわざ遅刻ギリギリの時間に登校しているというのに、ご丁寧に待ち伏せていたらしい。枝梨子はこっそり溜息を吐きながら視線を上げた。
昨日の勉強会で教卓の真ん前を陣取っていた一組の女子三人だ。
「姫路サンて、プリンスに気に入られてるとか勘違いしてないよね?」
「友達なくなっちゃったんだって? 可哀想だよね」
「教室で誰とも話せなくなっちゃった原因は解んないけど、まぢ可哀想だよ」
ニヤニヤ笑いながら言われて、枝梨子は首を傾げて見せる。
「だから?」
平然としたその様子に三人ははっきりと怯んで、枝梨子はにっこり笑う。
「ああ、同情してくれたのね。ありがとう。でも仕方ないよ、クラスで一人だけ
本命に受かっちゃったんだし。もう受験が必要ないあたしと話してても、確かに話しづらいだろうし」
もちろん、彼女達の言いたいこと(幸也は同情で枝梨子と接している)を理解したうえで言った。あえて、空気を読まずに。しかしそんなことにも気付かず、女生徒達は首をかしげた。
「は?」
「じゃあ勉強必要ないんぢゃん。何であんた来てるの?」
「だって、高校入っても勉強に置いてかれたくないし。プリンスの教え方上手いから、昨日も勉強会開けてよかったよ。あたし途中で帰っちゃったけど、あの後も勉強してたんでしょ?」
これは枝梨子の本音だ。正確には本音の一部。
「はあ!? ふざけんなし! あの後プリンスすぐ帰ったんだよ!」
「勉強する気のある奴いなくなったなとか言って、あんたまぢ何したの?」
「意味わかんない、プリンスの癖に色々注意してくるし!」
あれ、と首を傾げる。
そりゃ、最初から勉強会って名目だったんだから脱線して戻る気配がなかったらプリンスはやめるでしょ。それにプリンスの癖に色々注意って、……
「前から指摘してたよね? スカート短いとかネックレス見えてるとか、色々言われてたでしょ? 見かけたことあるよ」
幸也は日頃から気付いたことは言っている。彼女達が言われる度にきゃらきゃら
笑って流していたのを思い出し、枝梨子はああ、と納得した。
「……あたしは何もしてないよ。やっちゃいけないことをやって、指摘されて、せめてバレないようにってちょっと工夫してるだけ」
「ふざけんなよ、優等生ぶって」
「――優等生ぶってないよ。もちろん優等生でもない。
推薦は本当にギリギリ、ほとんどまぐれで取れただけだし、マニキュア塗ったりセーターの下にイヤホン仕込んだり、授業中眠ってみたりとか色々やってる。スカートだって折ってるよ」
遮って、枝梨子はまくしたてた。一息すって、ぶちまける。
「あたし、プリンスのこと好きだよ。あなたが好きなのも知ってるけど、だからってこの気持ちをやめようとは思わないよ。だってまだプリンスは誰のものでもなくて、あたしがあなたに言わないように、あなたがあたしにやめろって言う権利もないもんね?
だからあたしは先生に嫌われそうなことはしない」
一瞬三人は黙ったが、一人がふと声を上げる。
「校則違反は続けてるんじゃないの?」
「してるよ」
頷いたところで始業のチャイムが鳴り始めるが、枝梨子はそのまま続けた。
「プリンスはそこまで目くじら立てて怒らないもの、隠れてやってるぶんには。
でもプリンスだって教師って立場なんだから、あんまり派手に校則違反してる子が常に周りにいたら他の先生に指差されちゃうよね?」
あたしは、プリンスが他の先生に嫌われそうなことはしない。
「じゃあ、そういうことだから」
言い置いて、枝梨子は階段を駆け上った。担任がクラスメイトの名前を全員分読み上げる前には、教室に入れそうだった。
土曜日の補習は進路が決まっていない生徒には強制、決まっている生徒は自主性に
任されているが、休むと目立つからと枝梨子は結局出ている。出席確認が終わって、普段なら連絡事項なんてほとんどなく、今日いる教師の名前を黒板に並べてプリントを配りだす担任が、今日はプリントを持った瞬間にああ、と声を漏らした。
「月曜日、バレンタインか。お前ら、受験中なんだからな。毎年毎年注意されてるんだからわざわざ没収されに持ってくるなよ。男子はもらえなくて当たり前だと思っとけ?」
ざわり、とクラス中が浮き足立つ。男子がそうだよなとお互いを慰めたりお前はもらえるんだろと小突いたりする横で、女子は目を輝かせながら周囲と盛り上がる。
補習とは言っても国数英理社のプリントを各一枚配られるだけで、そのプリントも解くことは強要されていない。その時間の担当教諭に断れば職員室へ質問にでかけても図書室で調べ物をしてもいいから、ただの自習時間でしかないわけだ。
全員にプリントが行き渡っても、先程の爆弾で教室内はまだざわついている。教師は苦々しい顔でうるさいぞと投げやりに注意するが、聞く耳をもてないのは理解しているのだろう。
「あたし、プリンスにあげよっかな」
枝梨子は滑らせていたシャーペンを止め、意識を声の方向に傾ける。ただし傍から見たら難しい問題に引っかかっているように見えることを心がけて。
「えー、まじで?」
「マジマジ」
「でもプリンス、チョコ渡されたら指導室に連行って宣言したらしいよ?」
さすが女子のネットワーク。昨日の今日でよく広まっていると感心する。
「えー、でもほら、建前とかなんじゃん?」
「あーね、じゃあ可愛い格好で行かなきゃ」
「可愛い格好かー。取り敢えずスカートはもう一回折って」
「え、今二巻きでしょ?」
「いいんじゃん、その時だけだし。あと髪もちょっとコテ使って」
おや、と枝梨子は首を傾げる。これでは昨日の彼女達と同じになってしまうのでは?
「え、でもさ、あんまし派手にやると危ないんじゃない? 他の先生に見つかったら」
「あーそっか。うんじゃあ、すぐ隠せるようにネックレスとかかなあ」
なるほど。
「おー、その努力とか超本命っぽい! じゃあ手作り?」
「勿論! トリュフとか作っちゃうよ、ビターでココアパウダーまぶすの」
「すごーい! あたしお菓子作れないから尊敬する」
その点には同意だなぁ。不器用な自分の手を何となく見てしまう枝梨子。
「お酒も効かせちゃおうかな。ブランデーとかたっぷり入れて」
「え、お酒って入れるもんなの? つか苦くなんない?」
「だってプリンス大人じゃん? 甘いのよりはビターっぽくない? ほら、煙草吸ってるし」
枝梨子は首を傾げる。しかし当然、会話は枝梨子の疑問を無視して進んでいく。
「そっかー、そうだよね。いいじゃんいいじゃん」
「で、あたしたちには?」
「もちろん作ってあげるよ、練習台でね」
「あ、ひどい!」
「でもさ、彼女とかいたらどうする? ほら、まりちゃん先生も歳近いし仲良さそうじゃん?」
「あー、ね。否定はしてたらしいけど」
「うーん、でもさ、気持ちは気持ちでしょ。だってあたし渡したいし」
これだけは同意。枝梨子は幸也を思い浮かべ、心の奥の方がきゅっとするのがおかしくて口元だけで笑う。ああ、やっぱり好きなんだな。
でも本当に、苦いものや強いお酒が好き? だって昨日の受け答えは……。
どんどん自信がなくなってきて、
「わっかんないなー」
思考は呟きへと漏れていた。
「どうした姫路、解んないとこあるなら訊きに言っていいんだぞ」
見上げると、担任が横に立っていた。
「理科か。八王子先生なら今日も出勤してるぞ。今ならどこの教室も担当してなかったはず」
……暇なら職員室ではなく準備室にいるかもしれない。
「じゃあ、訊きに行ってきます。その後、ついでに図書室も行ってきますね」
「おう。姫路は偉いな」
――あ。このニュアンスは。
教室中の視線が一瞬集まって、枝梨子はブランケットの入ったバッグに机の上の物を放り込んで急いで立ち上がる。かすかに浮ついていた空気は凍って冷たく落ちた。
こういう時、この担任はひどく忌々しい。眉間を伸ばす努力をしつつ、枝梨子は廊下に出た。
廊下に出て解放された瞬間、眉間の皺も気にならなくなる。これから幸也に会いに行くのだ。
一応形だけ職員室に向かおうと一階まで降りて、その廊下で幸也の背中を見付ける。どうやらついさっき職員室を出てきたらしい。
「プリンスっ」
口に出して、昨日の放課後にあった店主との会話を思い出してしまう。
振り返った幸也に、慌てて言葉を繋ぐ。
「……センセ、今暇?」
「俺は今、立派に職務中なんだけど?」
「質問したいの」
「ああ。どこがいい?」
どきりと枝梨子の心臓が跳ね上がる。――職員室じゃなくてもいいの?
幸也は、人が悪そうに笑っているだけだ。
何を考えてるの、何でこんなことっ。枝梨子は震えそうになる声を抑えつけて
「理科っ……準備室、のが、あったかいよね?」
「そうだな。じゃそうするか」
優しく笑って、幸也は廊下を進み渡り廊下を渡ってから階段を上っていく。
誰もいない廊下に、誰もいない階段に、誰もいない校庭。見渡す限り誰もいない。ひっそりと静まった階段を上る二つの足音に、枝梨子の鼓動が調子っ外れに乗っかり、響いていく。
後もう少しで上り終わることは解っているのに、これはひどく永遠に似ていた。
「姫路?」
「……えっ」
「今日はやけに静かだな。熱でもあるのか?」
階段を上り終えて廊下を三歩。準備室の鍵を開けて、幸也は振り返りもせず暖房をつける。
「べっ別に! いつも静かだし、あたし」
「ま、確かに」
一歩足を踏み入れると、甘くほろ苦い残り香がふわりとあたたかく枝梨子を包む。
どうやら朝一は暖房を付けていたらしい。
「でも顔が赤い」
「っ」
ちらりと枝梨子を見た視線は、ありえないと思うほど柔らかかった。
「寒いからじゃない?」
咄嗟に引っ張ってきた言葉は勢いを殺せず投げつけるようになってしまった。
でも、幸也は怒らない。不機嫌にもならない。
それが悔しくて、応接テーブルの上を片付ける幸也の足元に自分のバッグを乱暴に落とし、手前のソファに身を投げ出すように座る。
「荒れてるな」
「誰かさんのおっかけが朝っぱらから絡んできたからじゃない?」
言い捨てると、広がっていた雑誌をまとめていた手が止まる。
「――誰が?」
「え、」
戸惑う。こんな反応は完全に枝梨子の予想外だった。
あまりにも透明な声に、さっきとは違う理由で慌ててしまう。
「誰がなんて言うわけないじゃん。きっかけはセンセでも、あたしとあの子達の問題だもん」
「複数に絡まれたわけね」
「だからっ。良いんじゃないの別に、気分はよくないけど、それだけだし。別にあからさまな嫌がらせとかあるわけじゃないもん」
「……まあ、俺も気分よくないんだけどね」
「ごめん」
「何が」
「面倒臭いこと聞かせて。……そんなに怒ると思わなかった」
あたしを心配してくれたって、勘違いしてもいいのかな。嬉しいのか不貞腐れてるのか、自分でも解らないまま言葉を繋ぐ。
「でも、だって、あたしが帰った途端勉強会中止とか、そんなん当たり前じゃん、あたしが目の敵にされるの」
発音も文法もぐちゃぐちゃだ。幸也はそれを聞いて、集めた雑誌やプリントをわざと音を立てて持ち上げ、奥の机に置きに行く。
「帰った途端じゃねえよ。あんまりくだらねーことばっかやってるからちょっと叱ってやっただけ。その後、まだ勉強したい奴だけ残れっつったら誰も返事しないから解散っつっただけ」
「勉強会、だったから?」
「俺はやる気ある奴だけ集まれって言ったろ? やる気があるのが帰ってやる気がないのばっか残ってたら、俺がやる気なくすわ」
幸也が拗ねたように言って、その手元からかちゃかちゃと音が鳴る。
「ココア、カフェオレ、ミルクティー。どれ」
「ふっ、増えてる! てか全部甘そう!」
「うるせーな。いらねぇんなら飲まんでよろしい!」
「ブラックってないの?」
「あるけど」
「あるんじゃん! じゃあカフェオレで」
「今の質問は何だったんだよ」
「べっつに。ただ、センセって甘党だなって思って」
「うるせ。どうせビターよりミルクチョコのが好きだよ」
枝梨子は思わず噴出す。
「ねえセンセってさ、お酒とか好きなの?」
「言いたくない」
「何で?」
ニヤニヤ、声まで笑ってしまう。
だってきっと好きなのだ。女の子が飲むみたいな、カクテルとかそういう甘いお酒が。
「ビール飲める?」
「うるせーなー、飲めるよ」
あんまり苦々しく言うものだから、枝梨子は更に声を立てる。
「笑うな。飲めるっつってんだろ。酒は好きだよ!」
「けど好きじゃないんでしょ。苦い奴」
出来上がったカフェオレを置く幸也の顔は、とても渋い。いただきまーすとのんびり言って一口すすった枝梨子は、頬を更に緩めた。甘い。幸也の表情とは正反対に、とても。
「何で判る」
「だって、煙草バニラっぽい香りじゃん」
虚を衝かれたと言うように見つめられて、枝梨子は慌てて言い足す。
「それにココア常備してるし、粉乳まで。だから甘党かなって思ったの」
「他の奴らは俺が甘党だと思ってないみたいだけどな。よく見てんなぁ」
「それはセンセの方でしょ」
「あ、そうそれ」
「え」
「何で急に“センセ”?」
言えない! 八王子と姫路で意識してるとか言えない!
枝梨子は心中で絶叫する。
「別に。何となく。良いじゃん、センセは先生でしょ。
ってかそれこそ細かいよ。マニキュアは現行犯だったけど、普通こんな薄い色の
リップとか気付かないでしょ」
「だってお前寒いと顔色悪くなるじゃん」
咄嗟に言い返す言葉が見つからなくて、頭を抱えそうになる。いつも見てくれてるの?
顔が赤くなってませんように、なってませんように。祈りながら別の言葉を見つけ出す。
「そういえばさ、香りって平気なんでしょ?」
「ま、最近じゃ無香料の化粧品のが少ないしな。香りもフルーツ由来の成分なら
あって当然だの何だの、誰かが言ってた気がするけど」
「センセは、どんな香りが好き? やっぱフルーツとか?」
「あー、フルーツね。食べるのは好きだけど、香料系はパスだな。苺とかの甘ったるい
香りは好きじゃない。本物は美味いのになぁ」
「あー、リップの香りって甘酸っぱさないよね。ただ甘ったるいみたいな」
「そうなんだよな。酒とかなら酸っぱさ消えてても全然好きなんだけどなー」
「ふーん、そういうもんなんだ。でも取り敢えず甘党なんだね」
「悪いか」
「悪くないよ。辛いのはダメなの?」
「ピリ辛は好きだよ。けどやっぱ甘い物のが好きだなぁ」
予想通り過ぎて少し笑ってしまう。じゃあきっと、
「バレンタイン、生徒とか関係なくもし何か貰うなら、物よりチョコ?」
「あー。ま、オトコノコですから。食い物は普通に嬉しいな。ビターより甘いので」
「ていうかセンセ、物とか逆にハードル高いよね」
枝梨子が辺りを見回しながら言うと、幸也は首を傾げる。
「ん?」
「だってあたし達のセンスじゃないもん。持物がいちいちオシャレなんだよ」
「それは褒めてんのか」
「知らなーい」
「はー? 何だよ」
枝梨子は思わず笑ってしまった。大人の、男なのに。ちょっと可愛く見えてしまう。
こそばゆい、嬉しいよりも幸せな感覚。心の中でふわふわが大きくなっていく。
「ねえバレンタイン、やっぱプリンスにあげるって子多いよ」
「昨日わざわざ言ったのに? まったく、他の先生に見られた俺の立場とか考えてほしいよな」
「じゃあやっぱりみんな指導室行きなんだ?」
「そりゃあなぁ。だってあいつらみんな、建前とか用意してくれないじゃん」
じゃあ、建前があったらいいの? 訊きそうになって、危うく口を閉じた。
今聞いたら、そのあとどうしようもなくなってしまう。
建前が、建前じゃなくなってしまう。
「ねえセンセ、今日は勉強とかって言わないの?」
「だってお前、勉強会なんて言ってないじゃん」
フェアなんだかひねくれてるんだか解んないなあ。
呆れたような笑顔を浮かべて枝梨子は言う。
「まあでも一応、勉強も教えてよ。建前として」
「お前のそういうとこ好きだわ、楽で」
にっと笑う幸也に見蕩れて、強引に視線を逸らす。待って今の反則!
暴れる心臓を無視してバッグからペンケースと勉強会で使ったプリントを出す。
「昨日の? どこが解んないんだ?」
「解んないってか、これ、いつも混同しちゃうんだよね。いい覚え方ない?」
「あー。それな」
プリンスが身を乗り出したところで、廊下から複数の足音と笑い声が聞える。
「あ、この声」
「あいつらか。ったく、やる気ないくせに毎度来やがって」
幸也は立ち上がり、理科室に続くドアへ向かう。“やる気ないくせに”あたしは来てもいいの? 心の中で何かがビッグバンみたいに広がって、だから枝梨子は反応が遅れた。
「ちっと待ってて」
「あ、いいよ別にもう!」
理科室へ消えた幸也に慌てて声をかけ、広げた私物をバッグに戻して後を追う。
まだ少し残ったカフェオレはとても惜しいけど。
「ごちそうさまセンセ。ありがと」
枝梨子が黒板前で言うのと、教室後ろのドアが開くのは同時だった。
朝の三人組が目を瞠っている間に枝梨子は前のドアから廊下に出、渡り廊下へは
向かわずにすぐ横の階段を駆け上る。理科室のすぐ上が音楽室なのだ。
「まりちゃーん、いる?」
扉を開けると、閉じたオルガンの上で彼女がプリントの採点をしていた。
安心するのと、もどかしい気持ちが半々。さっきの渦巻く何かが、
雲散霧消する前にちゃんと消化したかった。
「あら姫ちゃん。どうしたの?」
音楽教師はプリントを板チョコ柄のバッグにしまい立ち上がる。
……だからこのちょっとした挨拶ですら煩わしい。
「暇なんだよ、勉強する気になんないし。
図書館行ったことになってるんだけどさ、歌いたいなって」
「いいよいいよー。何がいい? 恋の歌? ハモりたいなぁ、二部の曲ねー」
音楽教師は快諾して立ち上がり、楽譜を引っ張り出して漁る。
「ねえ、何で恋の歌限定なの?」
「え、わかってないの?
今姫ちゃん、最高に恋してますって顔してる。超幸せそうだよ」
教師に言われて枝梨子は、思わず笑ってしまった。
髪は、左側サイドだけゆるい編みこみをしてみた。まつげにはビューラーでおっかなびっくりカールを作って。唇には美容成分のみの透明グロスを薄く。
ブラウスは第一ボタンだけ開けて、リボンタイも伸びきった白いゴムが見えないように着ける。その下にはこっそり華奢なペンダントをしているけれど、ピンクゴールドだからよほど接近しない限りバレないだろう。スカートは、悩んだ末に結局いつも通りのぎりぎり膝上丈。靴下は、悩んだ末にニーハイ。足の色が透けて見える薄い素材だけれど、足首にワンポイントでハートが
入っているのに一目惚れしたのだ。
爪は、きちんとトップコートを除光液で落としてやすりをかけてある。その爪やすりは化粧品売り場でキラキラしてる高い奴を奮発して買った物。そしてニーハイも、ペンダントも、グロスもビューラーも、全部土曜日に揃えた物だ。
バッグに入っている、チョコレイトだけは日曜日にラッピングしたけれど。
朝してきたシャンプーも土曜に買った物で、枝梨子の母親はおかしそうに楽しそうに、静かに笑った。枝梨子の父親を盗み見て、更に笑みを深くしていた。普段は言わないのに、枝梨子が出かける時に「行ってらっしゃい」と言った意味は考えたくない、と枝梨子は右手で頬杖を付きながら取り留めなく思考していた。
もうチャイムが鳴ったが、担任はまだ来ていなかった。何となく辺りを見回すと、土曜日に話していた女子達もまだ来ていない。ああ、と納得しかけたところで教室のドアはガラリと開いた。
「あーもう、日直!」
荒れた、というよりは呆れた様子の担任は、適当に挨拶をして着席した生徒を、いや女子生徒を見回して溜息をはいた。
「今日バレンタインで持ってきた奴、全員預かるぞ」
教室中にえええええっと非難の声が響いた。男子生徒までもが声をあげる。
「あれ、お前貰えるあてあったの?」
「ないっす」
「だろ? さて、女子ー、その机の横に引っかかってる紙袋の中身見せなさい。
強制じゃない。だけど、勉強に必要ない物は持って来ないって約束だよな?」
そんな約束を合意の上で誰が交わしたと言うのか。一瞬笑いそうになって、枝梨子は頬を引き締めた。そんなタイミングで、後ろの扉が開いた。
酷く気落ちした様子の女子を、両脇から支えるように二人がくっついている。
「元気だしなよ、ね!」
その一言でクラス中の女子の士気が目に見えて落ちた。気の弱い生徒が一人席を立って紙袋を教卓に置き、ぱらぱらと数人が後に続く。
「バッグの中に隠してるのとか、いないか?
言っておくがな、八王子先生はチョコ貰ったらすぐ酒井先生に報告するぞ。赴任してきた時からそうやってるから例外はないと思え。ちなみにそのチョコは職員室の先生みんなで頂く」
ええええええええ! さっきよりも声は大きくなった。枝梨子もうっかり参加していたが。
「それひどくね? ってか先生ずるい俺にも分けて!」
「アホか。学校の一教師に生徒がこぞってチョコ持ってったって
まともに受け取ってもらえると思うな。そんで生徒に還元したら意味なかろうが」
こん、と軽い拳骨で落ちたところで、バッグの中から箱を取り出す女子もいた。
「他にはー? ……あーもうお前らバッグ机の上置け。開いた状態でな。全員! 男子も!」
更に反響は大きくなる。
「違反は今日一日預かるぞ。放課後には返してやるから」
言いながら教室を歩いて回る担任。
「これは?」
中年男性と中学生では、やはり迫力で負ける。プレゼントらしい包み、音楽プレイヤー、漫画など、そろそろ両手で持つのも難しくなった頃、担任は枝梨子のバッグを覗き込んだ。
「姫路、お前もか」
ざわりと教室の中に風が立つ。そんなに意外? 枝梨子は不機嫌を隠して顔を上げた。
プレゼントは透明なセロファンの袋に入っている。紙袋が崩れるのを避けて、潰して持ってきたためだ。
「先生、――」
昼休み、幸也は職員室前で立ち尽くしていた。後から後から女子生徒が訪ねてくるからだ。
誰からも受け取らないから、誰も引き下がらない。
これだけ集団でいるから、職員室前でも強気でいられるのだろうか。
「集まったなぁ……。何、みんな、バレンタインで俺のとこに来たの?」
いつもよりワントーン高い声が返ってきて、幸也は噴き出した。
「じゃあみんな、とりあえず会議室行くぞー」
職員室横の一番大きな会議室に女子生徒達を流し込み、最後に幸也は廊下から中に声をかける。
「ごめんなー。俺受け取れないから」
言ってからドアを閉め、その場でお願いしまーすと向かいの喫煙室に声をかける。生徒指導の教師はみんな喫煙者だ。
「今年もモテモテだね、相変わらず」
「困ったもんです」
「羨ましい限りだよ」
「いやまったく」
「いやいや、勘弁して下さいよ。中学生からモテたって」
幸也は恭しく扉を開けて、それを見て笑いながら生徒指導が三人まとめて入っていく。
中は阿鼻叫喚。幸也は廊下にいるまま中に合掌をした。
最後の台詞が、わざとらしくないことを祈りながら。
「えっ」
昼休み、枝梨子が本の返却と貸出手続きを終えて図書室から出ると、叫び声が爆発した。
驚いて階段を駆け下りて辺りを見回すと、幸也が会議室に向かって手を合わせていた。
「センセ? 何やってんの?」
「いや、俺は宣言通りやってるだけなんだけどな? あー心が痛い」
「超棒読みだし。何、中は全員バレンタイン?」
「いや、中林先生と原先生と栗田先生もいる」
「最悪じゃん」
そりゃ叫ぶよ、と呟くと幸也が笑う。
「そういやさ、お前のクラス持ち検やったって?」
「そ。強制じゃないって建前付きで」
思い出して少し笑うと、幸也がお、と声をあげる。
「意外。お前持って来てなかったの?」
「バレンタイン用のプレゼント、持って来ちゃいけないんでしょう?」
「……ふぅん?」
目を眇めて、頭を掻いて、自然な流れで幸也の指は枝梨子の編みこみをなぞった。
「似合ってんじゃん。器用な」
「……どーも」
枝梨子は目線を逸らすしかない自分に歯痒さを覚えつつ、息を深く吸い込む。
視線を、上げる。
「今日、放課後煙草吸うんでしょ?」
ゆっくりと、アカペラで歌うように。
音を外さないように慎重に。
「吸うけど」
「あたし、相談したいことがあるから、行く。かも」
あ。最後、まるで息が足りないみたいに声が揺れちゃった。
声の揺らぎと同時に虚勢の殻も揺らいで割れて、何故だか泣きそうになる。
「じゃねっ」
精一杯、普通を装って廊下を階段を駆けて。
朝はちゃんとできたのに。
何で、どっちもドキドキしたし、死にそうって思ったのに、
……今、胸、超苦しい。
慣れない苦しさに下を向いて、それから上を向いて深呼吸した。
鼓動が歩く早さに戻るには、もう少しかかりそうだ。
放課後。枝梨子は教室から寄り道せず、音楽室へ向かう。
音楽教師にプレゼントを渡すためだ。
部活中だからいるだろうという当ては下級生のテスト期間ゆえに外れたが、幸い音楽教師当人は隅の本棚をいじっていたので目的は達成できた。
「先生、誕生日だったでしょ? 使わないかもしれないけど、あったら便利な文具一揃え」
「やだー、ありがとう! しかも超可愛いじゃんなにこれお菓子ー!」
消しゴム、シャープペン、定規のセットだ。全部まとめてビスケット柄の巾着に入れてある。
「でもさ、こういうときって普通ペンケースじゃないの? 何故に巾着?
超可愛いけど」
「諸事情がありまして」
「ははーん? ま、いいけどー」
「いらないならあたしが使うけど」
「やだいる使わないけど保存する」
「いや使ってよ、いっそ。……もう」
これから告白だと思うとどうも緊張してしまうが、その前にこの教師に会えて
良かったのかもしれない。枝梨子はじゃあね、と入ってきたドアと反対側のドアから
短い廊下に出、寒い階段をゆっくり下りる。
……大丈夫、朝みたいにやれば大丈夫だから。きっと。何度も自分に言い聞かせる。
「――先生、良く見てください」
苦く笑って、枝梨子はバッグからその包みを取り出した。
「何だよ、ペンケースじゃん。確かにチョコの柄だけどさー」
枝梨子の隣の男子が、担任を笑った。風は過ぎ去り嵐の気配は消える。
「いやちょっと待て姫路、このラッピングはプレゼントだろ?」
「プレゼントですよ? まりちゃん先生の誕生日昨日だし」
「や、なーんか甘い匂いがするんだが」
後には引けなくなったのか、担任はなおも食い下がる。
「それあたしのでしょ先生ー」
「言い掛かりじゃん」
「さすが先生、食い意地張ってるー!」
「うるっさいなお前ら!」
担任が後ろを振り向いて野次が静まり、枝梨子は声をかけた。
「先生、さすがです。すごい。確かにこの中、空じゃないんです。
香りつきの消しゴム、ビニールごしで解っちゃうもんですか?」
枝梨子が首をかしげて匂いをかいだところで、数人の男子がげらげら笑い始める。
「せんせー、ペンケースと消しゴムって学校に持ってきちゃいけないんですかー?」
あ、と顔を上げる。枝梨子と同じグループの女子がわざとらしく担任に訊いた。
親しい笑顔を枝梨子に向けて。
「あーもうわかったわかった! 姫路、悪かったな」
いえ、と笑顔で答えるはずだったのに、泣きそうだった。
気まずかったのかそのまま担任は廊下へ出て行き、呆然とする枝梨子の手元に影が差す。
「えっこ、それ、まりちゃんに?」
「……うん、えっと」
嬉しくて、泣きそうになりながらも笑ってみせた。
彼女はやるじゃん、と枝梨子の肩を小突く。
チャイムが鳴って、あたたかい影が消えそうになって、枝梨子はぐっと顔を上げた。
「あ、のっ」
素早く深く息を吸う。
「おはよっ」
「おはよ。……なんか、久しぶりみたいね」
「うん」
ずっと、何でもない顔を装ってきたけど、心臓は早鐘を打ち続けている。
枝梨子はくたんと机に伏せて、誰にもバレないようにこっそり笑った。
ふわ、と友人から勇気を貰ったような気がして、もう一度深く深呼吸する。
とりあえず理科室に忍び込んで鏡で髪をチェックし、ブラウスのボタンを
もう一個だけ外してみた。鏡をポーチに戻すと、ちょうど足音が響いてきた。
気付いて欲しくて、メゾピアノで恋を歌う。
合唱ではない、少し前のポップス。――あたしの気持ち、全部表現できるから。
「……なーにしてんだよ」
幸也が枝梨子に声をかけたのはちょうどサビが終わってから。
「別に? センセいなそうだったから、何となく」
「何となく、ねえ。何だっけ、“相談がある”って?」
「うん」
「ったくしょーがねーなぁ」
理科室に入り、壊れた鍵の変わりに箒をはめて、幸也は準備室の鍵を開ける。
「ねえ、もうバレンタイン攻撃終わったの?」
「昼休みのが効いたみたいだな。あれからほとんど来ない」
「ほとんどってことはまだ来るんだ」
「例えばお前とか?」
「失礼な。あたしはバレンタインじゃないってば」
枝梨子は動揺と緊張と動悸を強引に飲み下して、微笑みのまま会話を続ける。
「へぇ? で、何飲む?」
「お任せ」
「じゃあカフェオレな」
「はーい」
幸也が用意している間にバッグから紙袋とプレゼントを取り出す。
「で、相談て何」
「恋の悩み」
「ふーん?」
お湯が沸くまでには少し時間がかかる。その間に、話してしまうことにした。
「好きな人がいるんだよね」
「ってか、何で俺に相談?」
「話は最後まで聴くー」
「お前それ相談乗ってもらう態度じゃねーじゃん」
かちん、とポットの音が響いて、枝梨子は焦る。焦るけれど、それは表には出さない。
だってここ数日あんなに振り回されたのだ。
今日くらい。
「その人って割とモテて、今日とか多分チョコいっぱい貰っててさ。
でも、みんな何かその人のこと誤解してる気がする。
ってかいや違うよ、そうじゃなくて、そんな良い子な意見じゃなくて、違うの。
その人、みんなから王子様扱いされてるけど、あたしは違うの。
王子様だから好きになったんじゃなくて、その人が好きになったから王子様っていうか」
今日くらい、振り回したい。
だから恥ずかしい台詞も頑張って言う。
最後まで全部言う。
大丈夫、コンクールでは何百人の前で笑顔のまま歌ったんだもの。
――今日はあたしが、主導権握るの。
「あたし、みんなと違うの嫌で。見てもらいたいけど白い目で見られるのが嫌で。
だから、その気持ち汲んでくれた時嬉しかったし」
足音が近づいて、下を向いていた顔を強引に前に戻す。
顔が赤くたっていい。
だって、恋の相談だもん。
「やりたいことやっていいんだって、思ったの」
左手の前に差し出されたマグカップの取っ手を受け取るときは、震えないように砕身の注意で。
「世界が見違えたんだ。
気付いたら、王子様がいたの」
ごくり、と妙に生々しい音を立ててすすったカフェオレを飲み込む。
幸也は顔を手で覆っていて、枝梨子は少しだけずるいなあと思ったけれど。
――甘くないカフェオレは、チョコを期待してるってことでいいのかな。
「ねえ、センセ」
「ん?」
顔はやっぱり隠したまま。
少しは、振り回されてくれてる?
ちょっとだけ、自信が付いて、背筋を伸ばす。
「これ、受け取って」
「……バレンタインじゃないんだろ?」
「これは、恋の相談とは、別だもん」
渡された紙袋から、幸也はペンケースを取り出す。
「これは?」
「お世話になった八王子先生に、卒業前に感謝の気持ちを込めて。
……だから、開けてよ」
板チョコレートを模した深めのペンケースには、レースペーパーが敷かれ綺麗に丸いチョコが並んでいた。
ただ丸いだけでなく、そこから角が飛び出している。
「さくらんぼ、か?」
「そう、チェリーの洋酒漬けって言ってた。
甘いお酒とミルクチョコ、好きなんでしょ?」
どうぞと言われるままに幸也はそれをつまみ、口の中に放り込む。
つやのあるミルクチョコレイトは一噛みでぱきりと小気味よく割れた。
まるで生のさくらんぼとは違う中身は、想像していたよりもずっと甘い。
チョコレートボンボンの中身は大抵が濃い酒を甘く加工してあるが、これはもしかしたらさくらんぼを酒に漬け込んだ後、甘く煮たのかもしれなかった。
甘い、と安心して飲み込む頃に、とんでもなくビターな後味がやってくる。確かに果実酒らしい甘みや香りも広がり残るが、ミルクチョコレイトの甘さで酒の苦味がより際立つのだ。
「これ、試食は?」
「してない。お酒ダメだから。
でも、ここのお店のチョコ美味しいから、大丈夫だと思って」
首を傾げる仕草が妙に大人っぽく見えた。思わず目を奪われる。
「美味しくなかった?」
意外そうに、不安そうに。さっきまでは赤面しても微笑を崩さなかったのに、急に幼い表情に変わる。
「女ってこえー」
「何?」
枝梨子は少し眉根を寄せるが、すぐに拗ねたような表情から、微笑みに戻る。
全て計算づくてでこのチョコを選んだのだとしたら末恐ろしい、と思わずにはいられない。
まるでこのチョコレイトは枝梨子のようなのだ。
まるで子供みたいな可愛い外見。少し味わえば甘さが広がるが、中にしっかり大人を隠し持っている。
そして、
「ねえ、食べてよ」
「ああ」
言われるまでもなく次の粒を口に運んでいる。
中毒性が高そうなのも厄介だ。
「あたし、どうしようもなく、好きなんだよね」
くらりと眩暈がした気がした。きついアルコールが入ってることにしておきたいくらいに。
緊張が隠しきれない微笑みが、まっすぐに幸也を向いている。
「でも、格差恋愛ってか、好きになっちゃダメっぽい相手っていうか、禁断の恋?」
「ああ。でも、好きなことやっていいと思ったんだろ?」
ぱっと頬が緩んで、困ったような顔をして。精一杯背伸びをしている少女を幸也はじっと見つめる。いや、見ずにはいられない。
「じゃあ、さ。……好きなままでもいいんだよね」
「いいんだと思うけど」
「付き合ったりとか、できるのかなあ」
「ん、」
三粒目を口に放り込んで、レースペーパーの下に四角いカードのような何かがあるのを見つける。
それを取ろうとしたら、レースペーパーが思いのほか大きな音を立てた。
何か大きな失敗をしたような、怒鳴りつけられた子犬のような顔で、枝梨子が幸也の手元をじっと見詰めていた。
「ね、ねえ、あたし、やっぱり不安なんだよね色々とさ」
早口でまくし立てる理由は、小さなメッセージカードの、小さな小さなメッセージだ。
――すき。
たった二文字だけの、メッセージカード。
幸也の喉が鳴る。ごきゅ、と唾を飲み込んで、それを紛らわすためにカフェオレを煽った。
恋に落ちる音というものがあるとすれば、案外こんな生々しい音なのかもしれない。
よしなしごとを考えながらもう一粒チョコレイトに手が伸びかけ、思い直す。
一粒食べるごとに、理性が押し潰されていく感覚がした。このまま食べ続けたら枝梨子から目を離せなくなるのではないか、そう思えるほど、幸也は自分の気持ちを制御できない。
だって気になっていたんだ。いろんな壁で、見えないふりをしていたけど。
今、こんなに惹かれているのは、圧し付けていた反動なんだろう。
幸也は笑いを堪えながら、枝梨子の頭を一度撫でた。
「今日は編みこみじゃん」
「それ、昼間も言った」
枝梨子を撫でた掌は耳の横で止まり、
「じゃあ、グロス?」
その親指が下唇のふちをそっと撫でる。
「すごいね、本当よく見てるよね」
枝梨子は震える吐息と一緒に、なんとか言葉を吐き出す。
叫びだしたい衝動は、大きくなりすぎてむしろ実行に移せない。
離れたけれどまだ近くにある親指が気になって呼吸すらつかえてしまう。
「震えてる。寒い?」
思わず睨みつけるように見上げてしまった。だって、息ができなくて胸が痛くて脳みそ働かなくて、あたしこんなに振り回されてる。今日こそ、って思ったのに。
親指が目に近づいて、枝梨子はぎゅっと目をつぶる。
「あ、まつげ。こんなんだっけ?」
そっとまつげを撫でる感覚に戸惑いながら、精一杯の軽口を叩く。
「そんなんじゃないの?」
嬉しそうにしてるのが嬉しいはずなのに。幸也のニヤニヤがなんだかとても気に食わない。
「爪は」
頭の横にあった手がいきなり消えて息をつくと、今度は右手を持ち上げられた。
爪をゆっくりと指の腹がなぞって、くすぐったくて枝梨子は腕を引こうとする。
「ちょっと」
「お、これ全部磨いたのか。偉いじゃん」
一つ一つの爪を丁寧に撫でられ、観察される。恥ずかしいことじゃないはずなのにとんでもなく恥ずかしくて、逃げたいのに逃げられなくて逃げたくなくて、
――頭が沸騰しそうだ。
「もう、基本的にずるいよね」
「何だよ」
「べつにーっ」
開いてる腕で目元を隠してそっぽを向くと、枝梨子の口元に硬いものが押し当てられる。
「にゃ、」
何、と言おうとして口の中に転がり込で来たのはチョコレイト。
一口噛むと苦手なアルコールが舌の上に広がる。
油断していたために口の端からこぼれたシロップを慌てて指で拭って飲み込んで、枝梨子は鼻で深く息を吸った。
「うまい? 俺は好きだけど、お子様には早かったかな」
目を閉じたままもう一度深呼吸。目を開けて、下ろした腕は幸也の白衣を捕まえる。
「ねえ、相談してるんだよ。
あたし好きなの。告白したら、応えてもらえるのかな?」
にっこり笑う、私を見て。きっと精一杯大人の表情になってるはず。
だって、あたし、先生を振り回せるくらい大人になりたいから。
こんなあたしの中にも、そんな自分がどこかに少しだけいるはずだから。
「相談とは関係ないけど」
幸也は右手で枝梨子の後ろ頭をそっと撫で、指に絡めながら髪を梳く。
「俺的には合格。ってか、割と俺余裕ぶるのに必死」
苦笑いの幸也を、枝梨子は余裕の笑顔で見上げていた。
「知ってる」
魔法のチョコレイトを食べて冷静になれたから。ありがと、と小さく呟く。
「何だかなぁ」
拗ねた表情を見せる幸也の頭を枝梨子は恐る恐る撫でて言った。
「これからも、覚悟しといてね」
オハナシハツヅク。