夜の散歩
アユミさんは、夜、寝ている時にいつも困ったことになるという。いつか治ると思い、我慢してきたが、もう何年も同じことが続いている。疲労は限界に達し、顔もすっかりやつれてしまい、エレジー先生のところにやってきた。
「寝ている間に、勝手にお散歩してしまうんです」
アユミさんは言った。
「タンスの隙間やクローゼットにまで入り込んで、家中を歩き回るんです。そのたびに目を覚まして、朝にはもうくたくたです」
エレジー先生はカルテから顔を上げた。
「外には出ないの?」
「窓も玄関も閉め切っていますから。外に出たらそれこそ大変なことになりますよ」
エレジー先生はボールペンを回し、考えてから言った。
「目は、自然に覚めるの?」
「いいえ。自分で起きるようにしています」
「起きなければいいんじゃないの?」
「何を言うんですか!」
アユミさんは椅子から身を乗り出した。ゆるいウエーブのついた髪がふわりと前に躍り出る。
「そんな危ないこと、できるわけありません!」
「でも、窓も玄関も閉め切ってるんでしょ」
「家の中で迷子になるかもしれません。隙間に挟まって出られなくなるかもしれません。ゴミ箱やトイレも危ないし、それからそれから」
まくし立てるアユミさんを、エレジー先生は手で制した。
「わかったよ。でも一晩だけ、我慢して寝てみない?」
「一晩ですか……それでも心配です」
「大丈夫!」
エレジー先生は立ち上がり、カルテを投げ上げて頭の上でキャッチした。
「エレジーが見張っててあげる。危なくなったらすぐに起こすから。ね、やってみようよ」
アユミさんは勢いに押され、うなずいた。久しぶりに朝までゆっくり眠れると思うと、断る気にもなれなかったのだ。
その夜、エレジー先生はさっそくアユミさんの家に行き、枕元に羊のクッションを置いて座った。アユミさんは布団に入りながら、本当にいいんですか、と言った。
「お構いなく。ゆっくりおやすみなさい」
「では、よろしく頼みます」
子守唄を歌う暇もなく、アユミさんはすっと目を閉じて寝入ってしまった。自分では気づいていないものの、エレジー先生はひどい音痴だったので、これは幸いなことだった。
エレジー先生は、アユミさんが起き出してあちこち歩き回るのを、今か今かと待った。しかし、アユミさんは仰向けになったまま、身動きひとつする気配がない。
ついうとうとし始めたその時、小さなもやしのような影が、足元を這いずっているのが見えた。反射的に捕まえてみると、それは髪の毛だった。
「なんだ、ゴミか」
エレジー先生が手を放すと、髪の毛はまた床を這い始めた。風もないのに、ひとりでに動いている。のたくらと、尺取り虫のような歩き方で、エレジー先生の後ろに回り、壁際の本棚に近づいていく。
見ていると、髪の毛はそのまま本の間に入り込み、見えなくなった。ペンライトで照らしながら本をどけてみたが、見失ってしまったようだ。
「なるほど、散歩するのは本人じゃなくて髪の毛だったのか」
寝ている間に髪の毛が抜けるのは、まったく普通のことだ。それが少し元気に歩き回ったところで、何が困るというのだろう。せいぜい、掃除が面倒になるくらいだ。
「病気っていうのは、たいてい患者さんが気にしすぎるせいなんだよね」
エレジー先生は再びクッションに腰を落ち着けた。すると、信じられないものが目に飛び込んできた。
アユミさんの髪が、後から後から、蛇の行列のように頭を抜け出して歩いていく。あるものは床の板目に沿って、あるものは壁をつたい上り、あるものは布団の下に潜り込み、あるものは鏡台の引き出しに忍び込み、あっという間に散らばった。そうしている間にも、数百本、いや数千本の髪が、アユミさんの頭から旅立っていく。
エレジー先生は急いで髪をかき集め、アユミさんの頭に押しつけた。髪は頭皮にくっつき、いったんは大人しくなる。ところがしばらくすると、また這い出してどこかへ行ってしまう。
エレジー先生は部屋を走り回り、髪の毛を捕まえてはアユミさんの頭に植えた。それでも全部は戻しきれない。戻しても、すぐに次の束が抜け出していく。これでは、つるっぱげになるのも時間の問題だ。
「あっ」
エレジー先生は布団の隅を踏んづけて転んだ。抱えていた髪の束がばさっと落ち、一斉に散らばる。起き上がり、追いかけている間に、次の束、その次の束が続いていった。
髪の毛たちはばらばらに這っているように見えたが、そうではなかった。ぐるりと大回りをし、それぞれの先端はひとつの方向を目指している。西側の壁の、ある一点。窓だ。
ふと見ると、桃色のカーテンがわずかに揺れている。窓を閉め切っていなかったのだ。
またたく間に、髪の毛たちは窓のそばに集まっていく。黒い茂みのように、もじゃもじゃと絡まり合いながら、我先にと隙間から出ていこうとする。エレジー先生は飛び上がり、窓に向かって宙返りをした。
「必殺! エレジーアクロバット!」
エレジー先生は逆さまになった足で窓を閉め、着地しながら髪の茂みを踏んで止めた。がしゃんと音がして、ランプシェードが倒れた。大きな金魚鉢のような形をした傘が、軸から外れて転がっている。
「ありゃりゃ、やっちゃったか」
もぞもぞ動く髪を踏みつけたまま、体をよじってランプシェードを拾った。中の電球は割れていないし、スイッチ部分も無事だ。これなら壊れたとは言わないだろう、とエレジー先生は一人うなずく。
「ランプ……電球……そうだ!」
エレジー先生はアユミさんの枕元に戻り、膝をつく。寝ているアユミさんの頭をそっと持ち上げ、ランプシェードをかぶせた。
丸みを帯びたランプシェードは、アユミさんの頭の形にちょうどぴったりだった。
音を立てないように気をつけて、スイッチを入れた。黄みがかった柔らかい光が、アユミさんの頭を覆う。すると、散らばっていた髪の毛がくるりと向きを変え、ものすごい勢いでアユミさんのほうへ這い戻ってきた。次々とランプシェードにへばり付き、動かなくなる。まさに、電灯に集まる虫そのものだった。
「明日からはこれをかぶって寝ればいいね。なかなかおしゃれなナイトキャップじゃない?」
アユミさんは目を閉じたまま、かすかに眉をしかめていた。エレジー先生は大きなあくびをし、ドアを開けて出ていった。
その後ろから、黒いものがするりと通り抜け、夜の闇に紛れた。