「
その日は、蒸し暑かった。
僕は、その頃付き合っていた彼女と、二人で僕の家にいた。
そう、丁度クーラーが壊れてしまった熱帯夜。
家にいては暑いから、と涼しい風が吹く公園まで、ドライブをすることになった。
買ってから1年と経っていない車だった。中古だったが。
免許自体は持っていても、運転をするのは久し振りで、少し緊張していたのを覚えている。
手にかいた汗は、決して暑さの所為だけではなかったはずだ。
真夜中の道路は人通りも、交通量も少ない。
事故なんか起きっこないよって言いながらも、彼女はキチンとシートベルトを着用していた。
その辺、キッチリしてるのは彼女の良いところだと思う。
でも、そのシートベルトで強調された胸の所為で僕の注意が逸れて、結果的に事故に遭う確率は高くなるのでは無かろうか。
とは言っても、蝉の鳴き声しか聞こえない夜に、対向車のいない夜に、事故なんてあり得ないのだろうが。
そう、思っていた。
眼前に突如現れる対向車。自分の車と似ていた。
いや、べつに超能力とか、怪奇現象とか言うわけではない。
ただ、あまりにもスピードが出ていて、突然出現したように見えただけで。
その車は辺りの音を全て塗り替えて、爆音を鳴らして走ってきた。
まるで、何かに追われているかのように。
すれ違いざま、こんな非常識な運転するのは誰なんだろうか、とフロントガラスを覗き見ると、そこには誰も居なかった。
急いで彼女に説明する。
額の汗も、手の汗も、きっと暑さの所為だけじゃない。
彼女は一笑に付した。
きっと電灯の光が反射して、中が見えなかったんでしょう?と。
それもそうだ。と思い直した。
彼女は未だ笑っている。
僕のそういう可愛いところが好き……らしいが、正直嬉しくない。
どうせならもっと男らしいところで褒められたい。と、ずっと思っていた。
そうこうしている内に目的地に到着。
夏の夜だし、なにかあるかと、内心少しワクワクしていたが何も無かった。
爆走対向車も、別段何かに追われていた、という訳でもないただの走りたがり屋さんだったわけだ。
少し残念ではあった。
が、夜風が気持ちよかったので許す。
彼女は、芝生の丘に寝っ転がって気持ちよさそうに目を細めていた。猫っぽい。
僕が煙草に火を着け一服していると、彼女から呼ばれた。
星が綺麗だよ。と言われ、吐き出す煙の先にある空を見た。
電灯のない公園では、黒い夜空に、白く輝く天の川がよく見えたが、冬の空の方が綺麗だと思った。
とりあえず、君のほうが綺麗だよと言ってみると、キモいと返された。
容赦ない。
彼女の隣に寝っ転がった。
どうしたの。と問われる。
いや、別に。と答えた。土の臭いがした。
そう。とだけ言って、彼女は目を閉じた。
……こうしていると、感じる物があるね。
という前触れのない彼女のつぶやきを反芻する。
目を閉じる。
星の瞬きは見えなくなった。暗闇。
耳を澄ます。
黙ることを知らない蝉の音と、風に触られてこすれ合う草の音が聞こえた。
自分の意識の中に深く潜っていく。
背にした地面の震動が、微かに僕に伝わってきた。
隣にいる彼女の鼓動。吐息。すこし身じろぎした体。
飛び回る蠅。這い回る蟻。
遠くの方から、幽かに声が聞こえる。そして二人分の足音。
だんだん近づいているようだった。
声が……聞こえる。
kて……きてよ、起きて。と。
……いつの間にか、眠ってしまっていたらしかった。
先程の夢の中で聞こえた声は、彼女のものだったみたいだ。
むくり。と体を起こすと、草露の所為だろうか、背中が少し濡れている感じがした。
嫌な汗も幾分か引いてきた。
少し、寒くなってきたね。と問いかけたら、そうだね、帰ろうか。と言われた。
相も変わらず、静かな風景。
窓を全開にして、彼女は腕を外にのばしていた。
外からは、蝉の鳴き声と排気音と空を切る風だけが聞こえていた。
規則正しく並んだ電灯とすれ違う。
白い光に一瞬視界を奪われた後、フロントガラスには星空が映る。
――明暗明暗明暗……
それを、何回も。
何回も何回も何回も。
何回も何回も何回も何回も何回も何回も。
何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も。
何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も。
何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回もじわり。と汗がにじんだ。
折角涼んだのに……と悔しがる余裕もなかった。
その時点で30分も同じ風景しか見ていなかったからだ。
同じ所をグルグルと回っているみたいだった。
その道は、環状道路ではなかったが。
隣の彼女は寝ていて、多分気付いていない。
車内はとても静かだった。
それでも、蝉は鳴いている。
このままでは家に帰れない。そう思った。
もしかしたら、夜の不安感が、先に進んでいないような錯覚を引き起こしているんじゃないか、なんて思う余裕はなかった。
ただ、ただただ、この状況を打破しないといけないと思った。
額から汗が一滴、流れ落ちた。
不思議と暑さは感じなかった。
だから僕は、アクセルを思いっきり踏んだ。
ゴーと空気を切る音がする。
全開の窓から風が入り込んで、僕と彼女の服がはためいた。
往路で気になった彼女の胸元ですら、この時の僕にとってはなんの感情も、感慨も浮かばせない物になっていた。だから僕は窓を閉めた。
風が消えた。
蝉の声が、聞こえない。
車の中は、本当に静かになった。
道の向こう側に対向車が見える。
電灯の明暗の隙に見たその車には、彼女を連れてドライブをする男がいた。
こんな時間に、一体何処に行くのだろう。
それとも、彼も迷っているのだろうか。
彷徨っているのだろうか。
と、少し気になって、すれ違いざまに覗き込んだ。
目が遭った。
車の中は、本当に静かだった。
――明暗明暗明暗明暗……
窓を開けざるを得なかった。
不快指数が高すぎた。
動悸を感じた。心拍数が上昇しているようだった。
気付くと、全身が濡れていた。ミストでも浴びたのかと思うほどに。
風が入り込んでくる。涼しい。
少し、落ち着いたのだろうか。段々と冷静になってきている自分を見つけた。
いつのまにか詰まっていた息を解放した。それと同時に、突っ張っていた全身が弛緩する。
背もたれに着いた背中が湿っていて、気持ち悪かった。
瞳孔が開いているのも自覚した。
このまま少し走ろう。
助手席側だけ、窓を閉めた。
まるで一人カーチェイスだ。と思った。
――明暗明暗明暗明暗……
追うでもなく、追われるでもなく、ただひたすらに逃げるだけの。
――明暗明暗明暗明暗……
逃げようとして、追い詰められているだけの。
――明暗明暗明暗明暗……
ゴウゴウと唸る大気が息苦しく感じた。
僕は再び、窓を閉めた。
静かになったはずの車内では、彼女の寝息と、僕の心音だけがうるさく響いていた。
とてもうるさかった。
運転の邪魔だと感じた。
イライラに任せて、スピードを上げた。
どこか音のない世界に行きたくなった。
窓が震える音がした。
無数の電灯が、前方からやってきては、背後へ流れていく。
そうして、自分は止まっているように思えた。
上昇したスピードに合わせて視界の明滅が激しくなる。
それは、クライマックスに近づいているような予感を僕に与えた。
僕は怖くなってスピードを上げた。エンドロールが流れる。
終わってしまう。
――――明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗明暗白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒白黒光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇光闇■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
もう何も見えない。
明暗の間隔が短すぎて、視界が適応出来てない。
強烈な二色のコントラストが、強すぎる刺激が、アイスピックのように眼球に突き刺さる。
視神経が灼けそうな痛みを訴えている気がした。
それすらも心地良かった。
連続する白と黒だけになった世界。
何も見えなくなったはずの視界に、何かが入り込んだ。
それは白と白の間に現れる黒の一瞬。
フロントガラスに、車内が映っている。
後部座席と。
目が遭った。
僕は、ブレーキを踏んだ。
車体が軋む音がした。
車が完全に止まった。
まだ目がチカチカしている。
カタカタカタッと音がした。
下の方から聞こえてきたので、驚いて顔を動かす。
手が、震えていた。
その勢いのまま、おそるおそる、後ろを、振り返ると。
誰も居なかった。
何度見ても居ない。座席の下にも。
見間違いだったと確信した。
全身から、力が抜けた。
溜息が口を衝く。
コンコンと、背後のドアをノックされた。
一瞬で、体中が収縮したのが解った。
周りの音が消える。
コンコン。
コンコン。
ただ、そのノックだけが克明に聴覚を刺激し、意識を支配していた。
自分でももどかしくなる速度で首を回す。
ギチギチギチと関節が鳴る。
視線が、後部座席から助手席までやってくると、僕はある事実に気付いた。
彼女が居ない。
ああ。と思った。
このノックは、彼女の物か。
早くでないと、怒られてしまう。
驚かせるなよ……と独りごちつつ、振り向くと。
知らない女がガラスに張り付いていた。
全身を何かが撫で回していった。
ひっ。と声が漏れた。
目と目が逢う。
ニヤリ。と笑みを浮かべる女は、窓ガラスに張り付いたまま。
青白い顔に、長い黒髪。そして、紫色の目。
人間離れしている。
どうみても、幽霊だった。
さぁ、いらっしゃい。と言われた気がした。
ドアが開く。
先導する白い女に、僕は従うしかなかった。
車の外には、錆びのような臭いが立ちこめていた。
フリルのついた可愛らしい純白のワンピースは、所々朱く濡れていた。
彼女は何処へ行ったのか、考えたくもなかった。
たとえ、足下が粘液じみた液体で濡れていたとしても。だ。
歩くたび、ピチャッ……ピチャッ……と音がした。
なにか軟らかい物を踏んだ感触があった。
棒状のそれは、軟らかく、弾力があるものの、中に芯のような物があって、形は崩れないらしい。
まるで……。
いや、やめよう。折角暗くて、何も見えないんだ。
わざわざ自分から深淵に飛び込んでいく必要はない。
土の臭いがした。
ふと顔を上げると、そこは公園。
芝生の丘に寝そべる男女が居た。
その顔を認識するや否や、周りから音が消えた。
蝉は、鳴くことをやめた。
そうして、僕らはその男女に近づいた。
僕は気付いた。さっきのは見間違いではなかったのだと。
対向車に乗っていたのは、確かにこの見慣れた二つの顔だ。
彼女と、僕だ。
さっきまで隣にいた彼女と、今此処にいる僕だ。
そして、“僕”がこの丘で寝っ転がっていたときに聞いた足音と、声を思い出した。
ああ。あの時に聞いた足音は、僕らのそれだったのか。そう理解して……
僕は、意識を失った。」
男は、そこでようやく、言葉を切った。
「はぁ……それで、気がついたら此処にいたって訳だ。君も大体似たようなものでしょう?」
男は、そうやって辺りに視線を巡らす。
何度見たって、まわりはただの岩。
ここは、洞窟だ。
「えっと……結局、ここはどこなんでしょう……?」
「ここは、宇宙人の倉庫だよ。」
倉庫?
「ああ。宇宙人の星で、突然、生まれてくる子の男女比が1:100になっちゃたんだってさ。男が少なすぎて、人口が急激に減少しているらしい。だから、男は交配用に、女は食用にするために、ここで保管されてるんだよ。僕の時は、丁度担当者が空腹だったみたいでね。その場で食べられちゃったけど。」
「じゃ、じゃあ僕の彼女は……!!」
「残念だったね。諦め……」
気付くと僕は立ち上がって、叫んでいた。
「諦められるかよ!あいつはっ!!」
ぽん。と肩を叩かれた。
「彼女の失うのが辛い気持ちは分かる。でも、君はもう知っているだろう。宇宙人は、ある種の明滅パターンの持つ催眠効果を使って、僕らを空間的・時間的に世界から隔離したんだ。助かる見込みはないし、もし、ここから脱出出来たとしても、永遠を繰り返す僕らに居場所なんて無いんだよ。」
足の力が抜ける。
床に崩れ落ちる。
「何人もの僕らと彼女らがもう連れ去られたんだ。あらゆる抵抗は試された。それでもなお、僕たちが此処で囚われている意味を分かってくれ。新入り君。」
僕は泣くしかなかった。
何百もの同じ顔が見つめるなか、僕は泣くことしかできなかった。
「商品の品質管理はしっかりしているから、ご飯とかちゃんと貰えるよ。ま、不幸中の幸だと思う。意外と、宇宙人との結婚生活も悪くないかもしれないし。」
そう笑う彼の顔には、正気を見出すことは出来なかった。
もう、蝉の鳴き声を聞くことも出来ない。
終わり。
2014/12/21 背景色変更に伴う変更(本文に変更なし)