-Episode35-
「もうプールには行きたくないよ……」
そんなことを呟かずにはいられないくらいひどい目に遭った僕は、後ろをすごくご機嫌そうにスキップしている怜を若干恨めしそうに見ながら溜め息を吐いた。なんていうか、彼女ってすごく自己中心的だ。今に始まったわけではないとは思うけれど、度が過ぎていると分かったのは今日が初めてかもしれない。彼女には周りが見えてないのかもしれない。……ただ、今は周りから彼女が見えていないけれど。
「そう? 私は楽しかったけどな。一番楽しかったのは最初の水鉄砲合戦だよね。あそこまで必死に逃げる朔君なんてそうそう見れなさそうだし」
僕は別に返答を期待していたわけではないのに、彼女は勝手に自分の意見を述べる。僕は再度溜め息を吐いてから足早に帰り道を歩く。
「あ、あれ? もしかして朔君、怒ってる……?」
怜はスキップをやめ、心配そうに声をかける。別に怒ってると言われるまで怒ってはいない。ただちょっと不機嫌ではある。
「ご、ごめんね。ちょっとやりすぎちゃったかもね。今度からは気を付けるから、機嫌直して、ね?」
怜は僕の前に出てジェスチャー交じりに謝る。謝ってくれたのだからそこで許せればいいのに、どうしようもないわだかまりみたいなものが、僕の胸の奥でもやもやとしていて、何の言葉も返せない。
「う、うぅ」
怜はしょぼんとしながらその場に立ち尽くしてしまった。今度は僕が謝りたくなってきたが、意地か何かがそれを邪魔する。結局僕は、その場にぽつんと立っている彼女を置いて家に帰ってしまった。
「おかえりお兄ちゃん。……あれ? 怜さんは一緒じゃないの?」
優奈は不思議そうに尋ねた。怜が用事を思い出したらしいから先に帰ったという嘘を吐いてから、僕は自分の部屋に戻る。夕食の時間までベッドの上でゴロゴロとしてから、階段を降りてリビングに向かう。テーブルの上には麻婆豆腐がネギを大量に盛り込んで置かれていた。
「あ、朔君だー! 遅いよ! 早くご飯食べちゃおうよ! あ、私の分のネギは朔君が食べてね」
そんな幻聴が、頭の中だけで聞こえてきた。テーブルのイスに怜の姿はなく、代わりに窓に沈みかけた夕日が映っている。
「怜さん遅いねー……なんの用事なのかな?」
僕はキッチンにある炊飯器から自分の分のご飯を盛って、イスに座ってご飯を食べ始める。
「朔君っていっつも左手で皿を持とうとするよね。自分の茶碗ならいいけどみんなの分の皿までとっちゃうのは駄目だと思うよ?」
また幻聴が聞こえる。目の前にはネギを目の前にして目を輝かせ、よだれを垂らしている優奈と――あぁ。怜はまだ帰っていないのか。どうして今僕は彼女のことばかり考えているのだろう。別にいいじゃないか、あまり深い関わりなんてなかったんだし。ただ彼女が勝手に僕の彼女だと言い張っているだけで、僕は怜のことなんて別になんとも思っていないのだから。そのはずなのに、どうして僕は彼女のことを心配しているのだろう。大丈夫だ、暗くなっても帰ってこなかったとしても、誰かが見つけて彼女の家か僕の家まで送ってくれるだろう。……あ。
「どうしたのお兄ちゃん? 食欲ない?」
優奈が僕の止まった箸を見ながら言う。僕は慌てて食事を再開する。そのまま頭の中では、相変わらず怜のことを考えていた。そういえば彼女の姿は誰にも見えないんだ。弥奈は例外らしいが、彼女が怜と遭遇する可能性は低いだろう。誰かが送ってくれる可能性なんて、ない。それにもし怜が自分の家に帰ったとして、待っているのは自分のことを見えていない上に記憶もない両親だ。僕の家にはまだ帰ってきていない。
「ねぇお兄ちゃん、何か隠し事してない?」
また箸が止まっていたらしく、優奈は僕のことをじっと見ている。――本当は分かっているんだ。このままじゃいけないってことぐらいは。ただ、時間が経てば元通りになるんじゃないかって、そんな甘いことを考えていただけなんだ。けれどそれは本当の解決じゃない。僕がなんとかしないと、いつまで経っても解決なんてできやしない。僕は止まっていた箸を置いて、
「ごめん、ちょっと忘れ物したから、取りに行ってくる」
ほとんど減っていない夕食を残して、玄関へ、外へ駆け出して行った。
「……いってらっしゃい。忘れ物、大事にしてね」
優奈はきっと「忘れ物」が何なのか分かったのだろう。少しだけ母の面影を見せた優奈が、サイドテールを小さく揺らした。僕はドアを開けたところで立ち止まり、彼女に笑顔で頷いてから、夕日が沈み、星が瞬き始めている空を背に走り出した。




