-Episode30-
ひとしきり泣いた後で、怜はそっと僕から離れ、
「明日は優奈ちゃんも連れてくるね」
と言って病室を後にした。静かな病院が、なんだかとても寂しいものに思える。別段どこにも痛みを感じないので、僕は点滴を抜いてからベッドから降りて病院内を歩く。一週間動かなくても筋力に大差はないなしく、ちょっと疲れやすくなったかな? と感じる程度だった。今更だが自分の体力のなさが空しい。病室の廊下を歩いていると、一人の男性とすれ違った。見覚えのある男性だ。確か――。
「あれ? 朔――だっけ? 奇遇だな、こんなところで会うなんて。その恰好からするに、お前も入院してるのか?」
思い出した、迅だ。今日は一緒についてくる小学生もとい、楓はいないのだろうか。僕が周囲を見渡すと、
「あぁ、楓のことか? 話してなかったっけ。あいつ定期的に病院に通ってるんだよ。入院はしてないけど、なんだか特殊な病気みたいでさ」
僕の考えを察したのか、迅が答えてくれる。特殊な病気――なんとなく気になるが、それは僕には関係なさそうな話題なので、下手に突っ込むことはしない。代わりに、
「そうなんだ。じゃあ今楓――さんは、医師の診察を受けてるんだ?」
彼女の居場所について尋ねる。すると迅は少し困ったように左手で頭をかいて、
「いや、そうじゃないんだが……まぁなんだ、ちょっとベッドで寝込んでるってとこだ」
寝込んでいるって、結構重大な病なんじゃないか? そんな懸念を勝手に抱いていると、
「来るか?」
迅が廊下の奥を指差して言った。別に断る理由もない。僕は彼についていくことにした。一度廊下を右に曲がって、306号室。病室には上から入院している患者の名前が書かれていた。その中に一つ、「咲崎 楓」と書かれたものを見つける。
「定期的とは言ったが、割と高頻度で寝込むことが多くてな。こうして病院のベッドひとつは楓のものになってる」
迅はそれとなく説明をした。そんなに高頻度で寝込むならむしろ入院した方がいいんじゃないか、と迅に質問をすると、
「楓の意思でな。別に体に異常はないみたいだから、医師も認めざるを得なくて」
迅は少しため息交じりに答える。そう言いながら病室のドアを開けると、風にたなびくカーテンが目に入った。窓が開いているらしい。しかし、それ以外に目につくものはなかった。楓の姿も。
「……あいつ、いつの間に目を覚ましたんだ? 目を覚ます度に俺を探しに病院を走り回るからさ。困ったもんだよな。そういえば朔も一回ぶつかってなかったか?」
その言葉を聞いて、僕は初めて楓に会った時のことを思い出す。確かに彼女は思いきりぶつかってきたな。倒れたのは彼女の方だったけど。
「ま、俺は楓を探してくるよ。朔はどうする?」
僕もこれ以上留まる理由がないので、迅と一緒に病室から立ち去ろうとすると、服を誰かからひっぱられた。しかし辺りには誰もいない。
「どうした?」
迅が首を傾げて聞いてくる。僕は曖昧に笑みを浮かべ、窓を閉めてから病室を出ると伝え、迅と別れた。迅が病室を後にして、僕が窓を閉めようとすると、また服がひっぱられる。それと同時に、こんな声も聞こえてきた。
「窓は閉めないで。カーテンのせいで空が見えないから」
その声はどこか聞き覚えがあった。けれど思い出せない。僕が辺りを見渡しても、人の姿はない。僕は誰もいない空間に向かって声を出す。
「どこにいるんですか? 姿が見えないと話すことも話せません」
これで誰もいなかったら、僕はただの頭のおかしい人だろう。ただ、運がいいのかこの病室にいる人は全員どこかに外出していた。つまり僕一人しかいな――
「そうだね。まずは姿を見せるところから始めないと」
その言葉と同時に、急に僕の影が伸びたような気がした。その影は床から離れ、立体的に僕の前に現れる、
「うわっ!?」
僕は驚いて後ろに下がる。しかし後ろは壁だ。僕は背中を打って、ちょっとだけ苦しそうに背中をさする。
「あぁ、驚かせちゃったか。ごめんね――ナンパ君」
その一言で、僕はある記憶がフラッシュバックする。一度、ある少女に最悪の第一印象を与えてしまった記憶。それは――。
「君は――杣さん?」
僕は彼女の名前を呼ぶ。影は次第にツインテールの少女の姿になり、黒い色から少女の肌色や服の橙色が浮かんできた。
「そう。よく覚えてたね。てっきり忘れられたと思ってたよ」
杣は僕に対して最悪な印象を持っているはずだ。それにしては随分と温厚な物腰で僕に話しかけてくる。
「い、いえ……すいません」
それに対して僕はまだあのときの出来事が忘れられず、下手な一言でまた彼女に悪い印象を持たれてしまうんじゃないかと、会話をはずませられずにいた。気まずい沈黙が流れる。ふと、杣が何かを思いついたように言う。
「少し、出歩こっか?」
その言葉に、僕はただただ頷くことしかできなかった。




