-Episode87-
「そ、ま……?」
迅は目を見開いたまま、杣の名前を呼ぶ。彼の身体から影が抜き取られると、彼はその場に倒れ込んだ。
「迅!」
僕は迅のもとに駆け寄り、彼の安否を確かめる。奇妙なことに、傷口は殆ど痕を残さずに塞がっている。服が破れているため、貫かれたことは間違いないのだが。僕は迅の右手首に手を当て、脈を取る。大丈夫、脈はあるみたいだ。しかし彼は気を失っているのか、呼びかけても返事をしない。
「杣さん……なんでこんなことを!」
僕は思わず杣に叫んだ。敵対していた怜や優奈、中立だった僕ではなく、杣に協力しようとしていた迅を、なぜ彼女はこうして傷つけた?
「彼には気を失ってもらっただけ。大丈夫、命に別状はないと思う」
杣は何かを押し殺しているような声で言った。彼女が押し殺しているのは、迅への同情か、彼に対する謝罪の念か、それとも別の何かか。
「朔君――ごめんね」
彼女は再び謝る。今度は僕にだ。まさか、僕にも同様のことをするつもりなのだろうか? 咄嗟に身構えるが、彼女は何もしてこなかった。その隙を狙ったのか、怜が氷のドームのようなもので、杣を囲んで閉じ込める。
「よし、今の内に逃げ――」
怜がそこまで言ったとき、謎の浮遊感を感じる。エレベーターで下降しているときの、無重力のような感覚。
「こ、これって……!」
怜は戸惑うように声を上げる。僕だって戸惑っている。僕達は、感じた浮遊感通りに、宙に浮いているのだ。
「ゆる、さない……!」
上空から、途切れ途切れながらも、憎悪のこもった声が聞こえてきた。それと同時に、ドームの中に閉じ込められている杣めがけて、浮いている瓦礫が大量に飛んでいく。それだけでなく、怜が使っていたような氷の槍のようなものや、刀祢が使用していた風の弾丸のようなものも杣に飛んで行っているようだ。これが虹魔法を攻撃に転化したものなのだろうか。僕は浮きながら、周囲の状況を見渡す。建物が根こそぎ地面から離れ、周囲一帯がまるで更地のように変化している。これほど恐ろしく、規格外なものなどあるのだろうか? この調子じゃ、襲われてしまった杣は――。
「さすがに恐ろしいね、これは」
ボロボロになった氷のドームの中から、杣の声が聞こえてきた。まさかあの状況で生きられたのか? 僕が驚愕のまなざしでドームを見ていると、そのドームが少しだけ黒く変色しているのが見て取れた。その黒いしみのようなものは次第に広がり、大きな黒い塊に変化して行く。これは、杣の呪い?
「私じゃなかったら、助かる見込みすらなかったかもしれない」
そう言いながら、杣はその黒い塊のなかから出てきた。
「きゃっ……!」
そのとき、弥奈が小さな悲鳴を上げる。彼女は体制を崩し、今彼女が浮遊している位置から落下しようとしていた。集中力が切れたのか、僕達にかかる重力も復活し、次第に落下が始まる。
「またなの!?」
怜は多少うんざりした様子で、地面に大量の水を生み出す。上空からは僕達だけでなく、バラバラになった瓦礫も落ちてくる。大き目の瓦礫は杣が切断するなどして処理し、意識を失っている迅と、集中が切れたかショックで放心しているのか再び魔法を使う気配のない弥奈は優奈が助けてくれていた。さすが僕の妹。正直僕より活躍している。
「ぷはっ! ……怜! 優奈! 迅! 杣さん、弥奈さん! 大丈夫!?」
僕は誰よりも早く水中に落下し、誰よりも早く水上に浮き上がったようだ。皆の名前を呼んでも、まだ誰も水上に上がってこない。
「――お兄ちゃん、大丈夫!?」
ふと、上から優奈の声がする。見上げると、怜と優奈と優奈に助けられた迅と弥奈が、怜の作ったらしい氷の島に立って僕に声を掛けていた。つまり水中に落下したのは、僕と杣だけか? そう思った瞬間、優奈が彼女の魔法を使ってどこかに移動したようだ。氷の島に、一筋の影が突き刺さる。
「もう! さっきからやめてよ!」
優奈は上に向かって叫ぶ。どうやら杣は怜たちよりも上にいるらしい。……つまり、落ちたのは僕だけ、と。微妙な疎外感に打ちひしがれていると、
「朔君、危ない!」
怜が僕に向かって叫んできた。見上げると、上から杣が破壊していた大きな瓦礫の破片が落ちて来ていた。
「うわ、危ない!」
破片であるため押しつぶされることは無いが、それでも当たればそれなりの怪我にはなる。怜のおかげでなんとかかわすことが出来た僕は、少しずつ引いていく水の中で、地面に足をつけた。
「この状況……すこしまずいかも」
氷の島の高度を少しずつ下げて、僕と同じ高さまで降りてきた怜が、僕にそっと話しかけてきた。上からまだ瓦礫が落ちてくるため、僕達はうまく身動きが取れない。弥奈は落下のショックか何かで気絶しているようだ。彼女と迅を早く安全な場所に移動させてあげたいが、ここは裏通り。そんな場所があるとは思えない。状況は少しずつ杣の方へ傾いていた。




