-Episode34-
ついさっき、怜が僕の家を飛び出る前に感じた空気の止まり方とは、全く異なる固まり方。本当に空気が凍りついてしまったかのように、辺りの音が消えてなくなる。それどころか、吐く息さえも白くなってきた。今、この場所で何が起こっているんだ? 冷えたせいか抉られていた腹部の痛みも軽くなる。痛々しい傷痕ではあるが、見た感じそこまで傷は深くない。内臓にまで届いてもいないし、夏休みが終わるまでには治るだろう。……そんな怪我のことを心配している場合じゃないことは、僕が一番分かっているんだけど。
「カッ、傷つけられて怒りだすとか、どんな漫画的展開だよ……。くっだらねぇなおい、そういう奴程痛めつけたくなるんだよなぁ……アァン!?」
少し離れた位置から、刀祢の声が聞こえてきた。怒り出す……僕は確かに彼に傷つけられたが、怒っているかと言われれば、疑問符が浮かび上がる。確かに敵意は少なからずあるけれど、怒っている訳ではないのだ。そんなことを思いながらふと隣に異質な気配を感じて、そちらを向く。
そこには、さっきまでいた少女の、さっきまでとはまるで別人、いや別物の姿があった。彼女の今の表情を言葉で表すなら、憎悪、だった。歪に歪んだ目と口。その敵意は明らかに刀祢に向けられている。僕のことなど視界にさえ入れていないようだ。怜は両手を目の前にかざすと、小さく何かを呟く。あまりにも小さすぎて聞こえないその声は、刀祢にははっきり聞こえていたようで、
「言うじゃねぇか……なら、やってみろ!」
刀祢はまるで挑発に乗るかのように、怜に向かって全力で突撃していく。後ろには竜巻が待ち構えているため、後ろに逃げることは出来ない。僕は声を絞り出して怜に避けてと伝えようとする。そうして口を開いた瞬間、その口を閉じることのできない程、衝撃的な出来事が起こった。――世界が、凍ったのだ。いや、正確には周囲一帯が凍りついただけのようだが。しかし、僕の視界すべてが氷に覆われ、一瞬そう錯覚せざるを得ないほど、完璧なまでに氷の世界へ変化していた。……そして氷に覆われていないのは、僕と怜だけだった。つまり、今怜に向かって襲いかかってきた刀祢さえも、氷の彫刻のように、宙に浮いたまま凍っていた。
「な、な、な……」
何が起こったのか、という言葉さえ口をつつかない程、呆然としていた。ふと、刀祢の形をした氷の彫刻が、重力に引かれてかゆっくりと落ちる。ゴトン、という鈍い音を出しながら、彼は地面に落とされた。
「――朔君、大丈夫?」
いつも通りの、怜の声が聞こえる。僕は全身を震え上がらせて、怜の方を見る。
「お腹の方の怪我は……良かった、あんまり大変な傷じゃなさそうだね。私、朔君が死んじゃうんじゃないかって、すっごく不安になっちゃった」
彼女は笑みを浮かべて、僕の身を案じる。きっと、僕があの時の怜のあの表情を見ていなければ、僕はきっと何か彼女を安心させようとする言葉を言っていたのだろう。だが、あの表情を見てしまった後では、彼女の笑顔は仮面のようにしか見えず、どんなに頑張っても彼女の笑顔の裏に狂気が潜んでいるような気がしてならないと感じざるを得なかった。僕が何もできないままじっとしていると、
「朔君? もし痛いなら、無理はしないでね?」
そう言いながら、彼女は僕の横に立って、肩を担ごうとする。そのとき、僕は動物の本能か、条件反射かで、彼女の手を払ってしまった。
「あ……」
僕と怜が、同時に声を上げる。知らない間に全身が震えているのがわかる。恐怖している。
「ご、ごめんなさ、ごめ、ごめん、ごめん!」
謝らなくてはならないのに、言葉が出てこない。彼女は決して悪い人でないと、今のも僕を守ってくれただけなのだと、言い聞かせても、体が言うことを聞こうとしない。
「――朔君?」
怜は純粋に、僕の様子を疑問に思っているようだ。弁明したくても、口が動かない。まるで捕食される獲物のように、動けなくなってしまったのか。――ふと、怜の口から、一言、言葉が漏れた。
「ごめんね」
その言葉はまるで魔法のように、動けなくなった僕の体を動かした。そして、その言葉を言った時の、怜のフウリンソウのような、切なげな笑顔と、悲しさに滲んでいる瞳が見えて、僕はとんでもないことをしてしまったんじゃないかと、激しく後悔の念に囚われる。
「――いや、それは、その」
ただ、僕はすぐに謝ることはできなかった。何か言おうとする度、あの狂気に満ちた表情が邪魔をする。まるで世界の全てを敵に回しているかのような、孤独で悲しい表情だった。
「帰ろっか」
怜の言葉に僕は頷いて、二人でゆっくりと家に帰った。けれど、僕と怜の距離は常に一定に保ったまま、縮まることはなかった。




