エンドロールは聞こえない
「さあ白雪様。お茶に致しましょう」
そう言ってにこやかにお茶会の準備をするカヤに、自然と顔がほころぶ。
あの男に乱されていた感情が、彼女の淹れた紅茶の香りと美しい湖の景色で落ち着いていくのが自分でもわかった。
行くあても無いのに部屋を出た私は、いつも通りカヤに連れられて湖の畔に来ていた。
葉が繁った大木に隠れていて城の人間に姿を見られることもないので、好きなだけ寛げる。
誰も知らない、私達の秘密の一等地だ。
私があの男とのことで不安定になると、カヤはこうしてここで、美味しいお茶と甘いお菓子を用意してくれる。
甘いものは元々好きだが、それよりもカヤのそんな気遣いが、何よりも嬉しいかった。
「ふふ、今日のお菓子は何かしら?」
「……今日は、白雪様にがんばっていただかねばなりません」
カヤの言葉に疑問を抱く前に、それは私の前に置かれた。
ことり、と小さな音をたてて、つやつやと光りを放つおいしそうなーーパイが。
ほかほかと立ち上る湯気に乗って、甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。その瞬間、自然に浮かんでいた微笑みが凍りついた。
「この香りはーー」
それは紛れもなく、林檎独特のあの香り。
お母さまーー女王によって命を落としかけた記憶が、私の中にまざまざと蘇る。
あのときのものはこんな風に調理されてはいなかったが、脳裏にこびりついて離れないこの甘酸っぱい香りに、私は凍りついた。
私が過去に受けた仕打ちを考えればわかっていただけるだろうが、私はこの林檎という果物を、視界にも入れたくないほど嫌っていた。
ーー正直に言います。
私の林檎に対する感情は、もはや好き嫌いの次元ではない。
今ここにはっきりと認めよう。私はあの赤い実が怖かった。畏怖していた。
他の人間にとってはただの赤い果実かもしれないが、私にとっては凶器そのものだ。
瞬間的に嫌悪感がこみ上げるものの、なんとかして笑顔を取り繕う。とっさにパイから視線を外し、さざなみの立った湖を見遣った。
そんな私を伺うように、カヤはおずおずと口を開いた。
「今度ご会食なさるエドヴァルド侯爵様の領地は林檎が特産品でしょう?ですから、殿下もぜひ白雪様に林檎を召し上がれるようになってほしいと」
それは私を気遣う優しい口調だったけれど、これは必要なことなのだと幼子に諭すように言われた気がして、私は慌ててフォークを握った。
「あ……そうよね、とてもおいしそうだもの。いただくわ」
嘘だ。全く美味しそうでもなんでもない。
出来ることなら、私は今すぐこの忌々しいパイを湖に投げ捨ててしまいたかった。
しかし、そんなことを出来るはずもなく。
お城で出されるものに、毒なんて入っているはずがない。
わかっていても震えだす手を、固く握ってやり過ごした。
いくら私があの人を嫌っていて、あの人が私に関心を持っていないような歪な関係の夫婦でも、今私は、あの人の妻なのだ。
(……それに、最後に残された役目くらいは、せめて)
私の横でにこにこと笑っているカヤだって、なんの取り柄もない私に、身分を理由に仕えてくれているのだ。
この国に住まう全ての人間の上に、私のーー王族や貴族の生活は成り立っている。
たとえ、私が国民に対して、王族が抱くべき思いを持てなかったとしても、与えられた責任を果たさない理由にはならない。
「一口でいいんですよ?それで充分ですから」
「大丈夫よ、カヤ。料理人がせっかく作ってくれたんですもの」
カヤが切り分けて私の前の皿に置いたそれに、恐る恐るフォークを伸ばす。
さくりと刺さる感覚に、どうしようもなく嫌な感覚をおそわれた。
それでも必死に、一口大に切って口許まで持っていく。
「ああ、実はそれ、わたくしの手作りなんです」
「え?あ、そ、そうだったのね……。じゃあ……いただきます」
恐らく、林檎が苦手な私を思ってこのパイを作ってくれたのだろう。恥ずかしそうに言うカヤに、私は覚悟を決め、目を瞑ってパイを口に放り込んだ。
言わずもがな、形容し難いほどのまずさである。ただ単にまずいというよりも、本能が、今すぐ口に入れたものを吐き出せと警鐘を鳴らしていた。
……一口でこれだ。
「どうでしょう、白雪様。お口汚しだとは思いますが……」
「う、ぅぇ……うん、お、美味しいわ」
口に入れた途端に広がった林檎の風味に思わずえずきそうになるが、水で無理矢理飲み込んだ。噛むことも出来ず、ひたすらに少しずつ飲み下してゆく。
もはや舌は痺れ、しかしそのおかげで、なんとかパイを食べーー否、飲み込み続けた。
この作業を地道に繰り返すのは、想像以上の苦痛だった。もういらないと言ってしまえたら、どんなに良いだろうと思いながらも、隣に立つカヤに引きつった笑顔を見せる。
せっかく彼女が丹精込めて作ってくれたのだと思うと、食べないわけにはーーーーあれ?でもちょっと待て。
半分ほどたいらげたところで、私の心に一つの疑問が過った。
無心でフォークを動かしていた手が止まり、不思議そうなカヤと目が合う。
このパイは、どこからどう見ても焼きたてだ。
(それって……まずいわよね?)
食べる分には支障はないが、普通王族の食事は、作られてからかなり時間をおいて食べられる。
……毒味のために。
毒が遅効性のものだったときのことを考え、毒味役をしばらく観察するのが常だ。
ーーーーでは、このパイは?
「あの、ねえカヤ?これって、毒味はーーーーカハッ」
「ご安心くださいませ。毒は、ちゃんと入っていますから」
言いかけた言葉を最後まで言うことも出来ず、私は何かをテーブルに吐いた。
(え、なに、なんなのこれ)
一瞬自分が何をしたのかも、なにがぶちまけられたのかもわからなかった。
一拍遅れて、目に痛いほど真っ赤なそれはーーーー紛れもない、血だと理解する。
白いテーブルにも、食べかけのパイにも、カヤのエプロンドレスにも、そしてその白い顔にも、大量の血が飛び散る。
それでもなお冷静に、カヤは言い放った。
一瞬、私がこの城で唯一信頼している侍女の言っていることが理解出来なかった。
そのまま、私は惚けた顔をして、椅子から崩れ落ちた。
恐らくそれは、とても間抜けで、惨めですらある姿として彼女の瞳に映っただろう。
「……ぅゔっ」
「……だから一口でいいと申し上げましたのに。一口分の毒で、ずっと眠っていてもらう予定が狂いましたわ」
「か……ゃ?」
「うふふ、でもこれであのお方はわたくしのもの。白雪様も、もう苦しめられることはなくなって嬉しいでしょう?」
「何を……いって」
倒れこむ私を見下ろすカヤの顔は、未だ嘗て見たこともないほど冷たく、歪んだ笑みをたたえている。胸の中で何かが暴れて、たまらなく熱かった。その反対に、手足は痺れ、冷たいものが心臓をめがけて這い上ってくる。
浅い呼吸で混乱した頭で、カヤにもこんな顔が出来るんだと、私は妙に感動していた。
それが間抜けな現実逃避だとわかっていても、そうせずにはいられなかったのだ。
なにせ、彼女がこんな凶行にでたのは、あの男のせいらしいじゃないか。
それだけは認めたくなくて、私は目を背けた。
こんなことだったら、私が悪女で彼女に恨みをかって殺される方がよっぽどましだ。
もう既に冷え切っているというのに、あの男の妻であるという理由で私は短い生涯を閉じるのだと思うと、涙もちょちょぎれようというものだ。
まして、今まで私が唯一信じてきたカヤは、あの男のために嫉妬に狂った女に変わってしまったのだという事実を、今更突きつけられたのだ。
もう、母国にいた頃のあの優しいカヤは、どこにもいない。青の国に来てからの彼女は確実に変わっていて、私はそれに気づかないでのほほんとおめでたく暮らしていた。
あの人が私を見てくれないと嘆きながら、私は。
(私は、何も見ていなかったのね……。ごめんなさい、カヤ……)
そして今、カヤだったその女が、私を葬ろうとしている。
おそらく、あの男を自分のものにするために。
喉を締め付ける苦しさも一瞬忘れて、その凶悪な笑顔に身が震えた。
(だけど、でも……ねえ、カヤ)
ああ、私は一体あなたに何をしたというのだろう。
こんなことをしなくても、あの男はすでに私から離れていってしまっているのに。
なぜ私が今更あのクソ野郎のために、カヤに殺されなければならないのか、甚だ見当もつきません。
こうして死の間際まで現実逃避に勤しむ私に、ゆっくりと口を開いた彼女が、何を言ったのか。
もう毒で聴覚が機能しなくなっていたのかもしれないし、彼女の言葉を聞くことを脳が拒否したのかもしれない。
どちらにしろ、私は音を拾うこともなく、言葉を紡いでいるはずの彼女の唇を追い続けた。
まるで最後まで、縋るように滑稽に。
視界が暗くなってゆく中で、ああ、私はどこまでいっても道化師なんだと思った。お母様の、王子様の、この国の、この女のーーーー私は面白おかしいピエロであり続け、そして今、ピエロとして死ぬ。なんて、惨めでおかしな人生。ああ、本当に馬鹿らしい。
しかし今更気づいたところで、もう私は自分自身を嗤うことも出来なかった。
「おやすみなさいませ白雪様……永遠に、ね」
意識が完全に途切れる寸前ーーーーつまり私が28年という短い人生の最後は
(もしも来世があるのなら、もう美しさも、王子様も、なにもいらないから……平穏な人生が欲しいです、神様)
というなんとも枯れた思考で、私の人生の幕は降ろされた。