スノーホワイトの憂鬱
北の大陸に広大な国土を持つ青の国の王子殿下といえば、眉目秀麗、文武両道、知勇兼備ーーあらゆる賞賛をほしいままにし、彼の治世になれば青の国の繁栄は間違いない。青の国の民の憧れの的にして、その溢れ出る魅力で国中の美女を虜にしてしまう罪作りな男。
ーーーーとかなんとか、巷では言われているらしい。私の夫ーーつまり、青の国王太子殿下は。
私に言わせれば、ちゃんちゃらおかしい話だ。憧れの的?女の敵の間違いだろう。
罪作りなんて生ぬるい。地獄に落ちるくらいが妥当だろう。
そう思いませんか?女性の皆さん。
「ねえ、見た?昨日の殿下!エドヴァルド侯爵夫人と歩いてらっしゃったわ!!」
「本当?この間までは子爵令嬢に夢中でいらしたのに…」
「本当に、王子殿下は恋多きお方ね」
「白雪様がおかわいそうだわ」
かわいそうと言われた張本人が聞き耳を立てているとも知らず、賑やかな下女たちは無遠慮なお喋りに夢中らしい。
(そりゃ、あんな堂々と逢引していたら見られるわよね……)
「白雪様……あの者達にはきつく申しつけておきますので、どうかお許しを」
「え?ああ、いいのよ。本当のことだもの」
苦笑いが抑えきれなかった私に、背後に控えていた侍女が口を開いた。
明るい金茶の髪と瞳を持つ彼女は、唯一私が祖国から連れてきた侍女で、最も信頼を寄せている相手である。
幾度目かわからない夫の不倫目撃から翌日。
いつも通り夫の密通(隠してもいないが)は下働き達の暇つぶしの餌食となり、私はといえば、その噂話を面白半分に聞きつつ窓から外の風景を眺めていた。
仮にも一国の王子の妻である私の仕事は、特にない。政務はもちろん、公務もなく、舞踏会にも出席することを許されていない。
一つ挙げるとすれば、極小規模な貴族との会食ぐらいのものだ。
ほとんど美しさに一目惚れされて結婚した私には、あまり王太子の妻としての役割は期待されていないようだった。というより、王侯貴族にとっては邪魔ですらあるらしい。
結婚当初、夫やお義母様にいくら抗議しても、私の待遇は変わらなかった。
思えばあれが、この結婚生活に違和感を感じた最初だ。
(……もうとっくに手遅れだったんですけどね)
表向きには病弱という設定らしいが、私が行うはずの政務は王妃様がこなしていて、当の本人はこうして日がなぼんやりと外の景色を眺めているという体たらくだ。
とりあえず、毒で死んだにも関わらず、王子のキスとやらだけで生き返った私の、一体どこが病弱なのか王妃様にぜひ聞きたいところではあるけれど。
自分で選んだことではない。でも、邪魔者は動くなと言われて、それをひっくり返す力は私にはなかった。
そんなことが重なる内に、私の中のあの人への愛情は揺らいでしまったらしい。
そしてそれに比例するように、この青の国や、国民に対して何も思わなくなっていた。いずれ夫が背負う国と民なのだから、愛さなくては、尽くさなくてはと思うほどに。
(はじめは、がんばって愛そうとーー立派な王妃様に、なろうとしたのよね)
今となっては、出会って三秒で結婚を決めたあの男と、それに従った自分を張り倒してでも止めたいが。
そんなことをつらつら考えながら紅茶を啜っていると、こんこんと軽やかなノックが鳴った。
のけ者である私にこうして会いに来る人間なんて、ただ一人しかいない。
私に用などないだろうに、戯れに奴は毎朝こうしてやって来る。
(一体いつまで続くのかしら……)
そして返事をする間もなく、背後でぎぃぃと古めかしい扉が開く音がした。私に与えられたこの塔は全体的に古く、どこもこんな調子である。まあこうして、奴の襲来にすぐ気づけるので不満はないが。
かつんかつんと靴音を響かせながら、奴は私のすぐそばまでやってきた。
するりと髪を一房とり、口づけを落としてのたまう。
「やあ、白雪。今日も君は美しいね」
毎度のことだが、甘い声でふざけたことをぬかす夫に、私は冷ややかな目を向けた。
一体どの口がこんな台詞を吐くんだか。
ぺらぺらと軽薄なことを連ねる口を縫ってしまいたいが、一度でもこの男のよく動くこの唇が私を死の淵から救ってくれたのだと思うと、どうにも吐き気がした。
この男と喋りたくはなかったが、妻と夫の間にも厳格な上下関係がある。私は仕方なく、重い口を開いた。
「……昨日の狩りはどうでしたの?」
「ああ、美しい子鹿が一匹だけだよ。それより君は、何をしていたんだい?」
優雅に私の隣に腰掛けながら話す夫に、反射的に身を離す。それを気にする風でもない夫は、私に質問しておきながら、その私からふいと目を逸らした。
(狩りになんて、行ってないものね)
もしも時を巻き戻せるなら、昨日の朝、狩をすると言って(今考えれば芝居なのだろうが)嬉しそうに猟銃を見せにきたこの男を殴り倒したい。ついでに、嬉々として話す夫に思わず微笑みながら、いってらっしゃいと言った昨日の自分も。
……というか、子鹿?それはあの侯爵夫人のことでしょうか?
もしそうならば、不倫をしておいてその相手を子鹿とたとえるその神経は、私や彼女を馬鹿にしているとしか思えないが。
「……私は、本を読んでいましたわ。ねえ、その子鹿を見せてくださらない?」
「すまないね、子鹿はもう捌いてしまったんだ」
かまをかけたつもりが返ってきた予想外の返事に、私は思わず隣を凝視した。
捌いてしまったというのはどういう意味か小一時間問いただしたいところだーーけれど。
(ここはぐっと我慢よ、私!こんな奴にのせられてたまるもんですか)
カヤに目配せをし、退室するために立ち上がる。
このまま同じ部屋にいて、この男のペースにのせられるまま余計なことを言うのは避けたかった。
罵り合いだろうが、一方的な叱責だろうが、どんな形にせよ、この男とこれ以上言葉を交わすのは(たとえ、愛の囁き合いであっても)、私の精神衛生上良くない。良くないったら良くないのだ。
「……最低ね」
「え、なんだい?」
「いいえ、なんでもありませんわ。では、私は失礼いたします」
しかし、予期せず口から零れた言葉は、けれど夫には届かなかった。