封を切る。
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時々自分はとってもちっぽけで、世界に必要ないんじゃないかって思う時がある。
そう、俺がいなくなったって、世界は変わらずに進んでいく。
「ノリマキ!パス!」
俺はハッとして足元にあるボールを蹴る。
アウトサイドからインサイドへと大きく孤を描いたボールは、チームメイトへと届いた。その男が見事なドリブルでフィールドを駆け上がってゆく。ひとり、ふたり、さんにん抜いた!勢いのままシュート。…残念、キーパーの目の前だったか。
ピピーっ。
終了を告げる笛が鳴り響き、体育教師が集合をかける。授業が終わったのだ。
「くっそ、あと少しだったのになぁ」町田薫がワイシャツのボタンに手を掛けながら呟いた。そう、こいつが、シュートで失敗した張本人。
「町田、最後見切れてなかったろ~」そう言って茶化してきたのは堀巻大貴だ。みんなからはたいちゃんと呼ばれている。
「せっかく、ノリマキがいいロングパスくれたのにマジおしいことした」サッカー部の町田はどうやら悔しさがまだ続いているようだった。部活を引退した今も、町田はサッカー部に顔を出したりフットサル場に通って体を鈍らせないようにしていると聞いた。そーゆーの、すげぇ、って思う。本当に好きなんだなぁ、サッカー。
「確かにノリマキ、ぼけ~としてたのにいいキックしてたな」こーんな顔してさ、とたいちゃんは変顔して俺を真似て見せた。3人で笑う。
俺は大体、こいつらとつるんでることが多い。今年理系に転じてきたから、ふたりのことはよく知らなかった。いや、顔は知ってたけど共通の知り合いなんていなかったし。けど、出席番号が近いこともあって新学期早々にすぐ打ち解けた。
理系クラスになってまず感じたのは、体育後の空気がなんとも男臭いことだった。文系クラスは男女比が半々くらいだったから、制汗剤のフローラルな匂いが懐かしい。
俺の名前は牧紀行という。あだ名はノリマキ。まきのりゆき、まきのり、のりまき…という具合でついた。ノリマキって呼ぶやつもいれば、マキノリっていうやつもいる。でも、あんまり気にしてない。呼び名なんて伝わればいーの、伝われば。
趣味は、んーそうだな、人間観察ってとこ。最近のターゲットはズバリたいちゃん。たいちゃんさ、いま恋してるから見てて楽しいんだ。隣のクラスの女の子。たまにうちのクラスに来るんだよね。たいちゃんってクラスのムードメーカーでいつもバカやってるくせに、その子が来ると急に大人しくなっちゃうの。赤い顔して横目でチラチラと見つめてんだよ。いい加減話しかけなよ、って内心思うけど、本人は隠してるつもりでいるからこっちも様子見。このことは町田も気付いてる。っていうか、たぶんクラス中気付いてる。分かり易いんだもん。知らないの、彼女くらいなんじゃないの。笑っちゃうよねぇ。
「堀巻大貴くん、堀巻大貴くん、そろそろ夏休み始まりますよ、いいんですかーぁ」
町田はウズウズを通り越して若干イライラしてる。プレイボーイの町田からしたら、もどかしいのかもな。
「あん? おぅ。一緒に海いこーな、海!」
「ばっか」呑気な発言に嫌でも突っ込んでしまう。「アドレス、そろそろ聞けよって言ってんの」
「!? …な、なんのことかな~」明らかに動揺してる。バカだねぇ、たいちゃん。それじゃ嘘ついてますって言ってるようなもんだよ。
「たいちゃん、目ぇ泳いでっから。」町田は込み上げる笑いを抑えられないって感じだ。「サクラチヒロ、だっけ?」
「…し、知ってたのか…?」
「バレバレ。」町田と声がハモった。大体気付かずに過ごせってのが無理だよ。
たいちゃんの顔が真っ赤になった。やべぇ、超純情。
いーなーたいちゃん、青春じゃん。
いーなー。
俺も恋とかしたら、たいちゃんみたいになれたりすんのかな、ってたま~に考えるんだ。
俺?
いまフリー。好きなやつもここ最近いない。
てか本当に好きって思ったこと、ないかも。
最近、友達に誘われてN女と合コンした。カラオケで飲んで歌って、みたいな。みんなと別れたあと、化粧バッチリの女が手を絡めてきて、キスしてってせがんできたからしてやった。俺も酔ってたからさ、もぅすっげぇやつ。そしたら、女、とろ~んとしちゃってさ、俺笑いそうになったね。続きしたいっていうから、近くの公園行ってヤった。ホテル代なんてねーもん、俺。あっち、涙流して喜んでたね。俺もまぁ普通に気持ちいいけど、なんつーかそれだけ。好きとかそんなじゃないんだ。だから、帰りにアドレス聞かれたけど断った。したら、涙でアイメイクのよれた目で思いっきり睨んだあと去ってった。調子のんなよ、とも言われたっけ。実はあんまり覚えてない。
俺、あんたの言うままにしただけよ。女ってよく分かんねーわ。ひとり残された公園のベンチで夜空を見上げて、でも、とも思う。
でも、自分が一番よく分かんないんだ。
俺なんのために生きてんの?
なにがしたいの?
好きってなによ。あー。
静まり返った放課後の教室はなんだかむず痒い。
いつも聞こえてくるボールを蹴る音や管楽器の音は今日は消え、時計の針が進む音と微かな息遣いだけが空気を伝わって聞こえてくる。
「牧はなかなか優秀ですね」聞き慣れたゆったりした声が言った。
ここにいるのは、40代50代10代の男男男。教師医者学生。スーツスーツ制服。メガネ髭ねこっ毛頭。それからそれから…
「3年次から理系クラスになるのは異例なんですがね、うん、よくやってますよ。成績は常に上位です。」チラリと横をみると親父が髭を触りながら、ふむふむと頷いていた。…あれ、こんなに痩せてたっけ。
「ただね、」中肉中背の体をよいしょと立て直し、メガネの奥の垂れた目をこちらに向けて言った。「意思がないんです。」
親父は呆れてこっちを向く。俺は苦笑いするしかなかった。
意思がない、とはよく言われたものだ。
自分の考えがないのである。考えていないのではない、物事に薄着なのだ。理系に転移したのだって教師と家族に勧められたからだった。
二年に進級の際、文系に希望を出した俺を親父は何も言わなかったが、長男の俺に親父の後を継いで欲しいと思っていたに違いなかった。去年、母さんの15周己で姉ちゃんが真面目な顔して話してくれた。
我が家は父子家庭である。仕事で忙しい親父に代わって、9つ離れた姉ちゃんが俺の面倒を見てくれた。その姉ちゃんが、去年結婚し、家を出て行った。姉ちゃんだけじゃない、俺も来年大学進学を期に家を出るつもりだ。
あと8ヶ月もしたら、広い家に親父はひとりで暮らすことになる。
そんなことを考えると胸のずっと奥がキュッとなって苦しくなる。苦しくて悲しくてどうしようもない気持ちになるから、なるべく想像しないようにしてる。
元々意思が薄弱なのに、さらに判断を鈍らせるこの胸の痛みは俺の敵だ。
好きなものはすき、やりたいことはやりたい。
それが羨ましくて眩しくて、自分には足りないものだと分かってる。
うん、
だから恋するたいちゃんが羨ましいんだろうな。
三者面談は、夏休み明けの全国模試の結果で受験校を絞ることで話がまとまった。
学校を出ると親父はネクタイに手をかけ、苦しかった、なんて言った。それよりも言うことがあるだろうよと息子心に思ったが、頭をポンポンと叩き少し微笑むもんだから何も言えなくなってしまう。またあの気持ちが押し寄せてきそうだったから、用事があると行って校門で別れた。
夢をみた。
俺は鳥になって、空を飛び回っている。誰にも邪魔されず、誰も邪魔せず、空の広さと雲の揺らぎを肌で感じて。
風に乗って下降すると、学校の校庭が見えた。
大きなパスを受け取った少年が、ひとりふたりと敵を抜かしていく。ゴールは目の前。少年がボールを放った。しかしキーパーの胸の中へと吸い込まれていった。
悔しがる少年たちと終了を告げる笛の音。ー…あぁ、これはあの時の俺たちだ。
夢のなかで急いで俺は自身を探す。栗色のねこっ毛…いた、俺だ。
あのとき俺は何をしてた?
どんな顔でゴールを見てた?
そのとき俺はー…。
そこで目が醒めた。
体中が汗でベトついてて気持ち悪い。でもそれより胸がムカムカして、そのほうがよっぽど気持ち悪かった。
水を飲みにキッチンに降りると、なんだか無性に悔しさが込み上げてきた。無意識に涙が頬を伝ってるのが分かる。
なんで泣いてんだよ。くそ、意味が、意味が分かんねぇ。
分かんないわかんないワカンナイーー…。
涙はいつの間にか嗚咽へと代わり、誰もいない台所で俺はいつまでも泣き崩れていた。
夏休みが終わり、全国模試の結果が届いた。
夏休み中は、親父の寂しそうな横顔とか鳥の夢とかそーゆーの思い出したくなかったから、暇さえあれば勉強に没頭した。だから、密かに模試の結果には自信がある。
だけど、あえてまだ封を切っていないのは、この封筒の中に夏が全て閉じ込められているように感じたからだ。開けてしまったら、もう夏が終わってしまうような気がして、そのままにしておいた。
夏休み、塾帰りにたいちゃんとサクラチヒロを見かけた。
たいちゃんが嬉しそうに笑って、サクラチヒロも応えるように微笑んでいた。
俺はそれをどんな顔で見ていたのかな。
笑ってたかな。
…笑っててほしい。
たとえ世界が俺を必要としなくなっても、笑っていたい。
苦しいほど愛おしい瞬間を、泣きそうなくらい尊い瞬間を、目を離さないで笑って見ていたい。
あぁ、
どうか封を切ったとしても、ふたりがずっとずっと笑顔でいれますように。
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