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浜辺のワルツ

作者: 星野紗奈

どうも、星野紗奈です。

遅くなってしまいましたが、今年も冬の童話祭の参加作品を投稿します。

近年、童話作品に対して評価や感想をいただけることが増えて、嬉しい限りです。そんな事情もあって、ちょっとだけ張り切って頑張ってみました。

お楽しみいただければ幸いです!


それでは、どうぞ↓↓

 ダクは、スクールで一番のダンサーでした。

 ダクがダンススクールに入ったのは、ほんの数か月前のことでした。ダクは三歳の頃にワルツを知り、それからずっと一人で練習していました。街で有名なダンススクールは、八歳からしか学ばせてもらえなかったのです。

 手をとり、共に体を揺らし、歩んでいく。念願のスクールでの練習は、ダクにとって夢のような時間でした。ダクはその楽しさに没頭し、どんどん上達しました。スクールの誰から見ても、一番楽しそうに、一番上手に踊るのでした。

 ダクは、間違いなく、スクールで一番の、いえ、街で最も素晴らしいダンサーでした。しかし、それは証明されませんでした。

 ダクは、スクールに入ったことで、初めてコンテストに参加できるようになりました。パートナーは、金髪の少女でした。(ダクはもう、あの子の名前を呼びたくないのです。)

 少女は、本番の四日前に、うっかり階段から落ちて、足を怪我してしまいました。みんな一生懸命練習している中で、今からダクと一緒に踊ってくれる人はいません。パートナーを失ったダクは、コンテストに出ることが出来ませんでした。

 後から聞いた話では、少女は赤ちゃんみたいに大声をあげて泣いていたそうです。スクールで一番のダンサーと踊れるせっかくの機会が、きれいさっぱりなくなってしまったのですから。怪我が治った後、少女は一週間、スクールを休んだそうです。

 一方ダクは、自分の部屋に引きこもってしまいました。大好きなワルツの音で満たした部屋の中で、一人、静かにしくしく泣き続けました。それが一か月か二か月続いて、両親はいよいよスクールに退会届を持っていきました。

 ダクはお風呂とトイレ以外、めったに両親の前に出てこなくなりました。しかし、実は、ずっと部屋に引きこもっていたわけではありませんでした。ダクは朝の五時になると、決まって、両親に黙って家を出ました。そうして白い浜辺へ出て、背筋を伸ばし、くるくると踊り始めるのです。早朝の浜辺には、誰もいません。ダクのパートナーは、いつも透明人間でした。

 ダクは毎朝、一人で踊り続けました。練習を止めてしまったら、大好きなワルツを大好きなふうに踊れなくなってしまうからです。伸ばした腕の先の、誰の温度も感じない指先を見つめながら、ダクはひっそりと金髪の少女のことを思い浮かべました。あの子の足の怪我が治ったとして、僕がまたスクールに通ったとして、どれだけ踊れば、元の僕たちに戻れるんだろう、と。

 ダクは足を止め、腕を下ろしました。それから、寒空の空気を深く吸って、もう一度背筋をしゃんと伸ばしました。部屋を満たしていた大好きなワルツの音を、今度はもっと上手に思い出せるように。


*  *  *


 エイバは、宝石にも勝る、美しい光を見つけました。それは、陸の人間がしなやかに跳ね上げる、砂の輝きでした。

 エイバは、陸の砂がこんなにも美しいとは、知りませんでした。海の底に沈む砂は、いつだって真っ黒で、どろどろしていて、ちっとも面白くありません。しかし、あの人間がくるくるまわると、細やかな砂の一粒一粒が楽しそうに宙を舞い、太陽の光を受けてきらきらと輝くのです。

 初めてそれを見た日、エイバは海の中へ戻ると、家族の誰にも見られない場所で、こっそり動きを真似してみました。そうして、エイバはとてもがっかりしました。海底の砂は、自分の尾ひれが起こす水流で、のっそりと這うように動くだけでした。

 エイバは、波に揺られながら、目をつむって考えました。水面から射す光を宝石にかざしてみても、水面をぱしゃぱしゃと叩いてみても、あのちりちりと燃えるように光を放つ砂の美しさにはかないません。あれはきっと、陸の人間にしかできないことなのです。

 そんな時、エイバは天秤の魔女のことを思い出しました。天秤の魔女は、少し離れたところでひっそりと暮らしていて、何かと引き換えに願いを叶えてくれるといいます。しかし、本当に願いを叶えてもらった人を、エイバは知りません。だから、彼女が本当の魔女なのか、知りません。それでも、他に人間になる方法が思いつかなかったので、エイバは天秤の魔女のもとへ行ってみることにしました。

 天秤の魔女は、入り組んだ岩場の中に住んでいました。ごつごつした岩が厳重そうに見えましたが、エイバが入ってくるのを拒むことはありませんでした。

 岩と岩の間をぬって進んでいくと、壁の隙間がちらちらと光りました。よく見てみると、そこには人間の道具のようなものがたくさん飾られていました。エイバはてっきり、天秤の魔女はもっと深くて暗い海の底に住んでいるのかと思っていましたが、そうではありませんでした。光の筋を見上げてみると、空の雲みたいに、遠くの水面に白い泡が浮かんでいるのが見えました。

 だんだん道が狭くなり、もう少しで岩が肌をかすめてしまいそうになったとき、エイバはようやくひらけた場所にたどり着きました。そこには、一人の女性がいました。天秤の魔女です。

 天秤の魔女は、金髪を揺らして、エイバの方を振り向きました。その毛先は美しい青に染まっていて、まるで途中から水に溶けているみたいでした。

 エイバは、天秤の魔女に頼みました。あの砂の上を歩きたい、私を人間にしてほしい、と。

 すると、天秤の魔女は、困ったように眉を寄せました。天秤の魔女は、釣り合いのとれるものを代償とした契約しか結ぶことができません。しかし、人間になることと釣り合いがとれるとしたら、それは命そのものくらいです。当然、天秤の魔女は、目の前の見知らぬ命のために、自分の命を差し出すことはできません。天秤の魔女は、エイバの願いは叶えられないことをひとつひとつ丁寧に説明しました。

 天秤の魔女の話を聞いたエイバは、ちょっと悩んだように顔を傾けてから、言いました。それでも人間になりたい、と。

 天秤の魔女は、エイバを優しく諭しました。家族のこと、友人のこと、宝物のこと、これからの未来のこと。しかし、エイバは、かまわない、と頭を横に振るばかりでした。

 頑なに帰ろうとしないエイバを見た天秤の魔女は、小さくため息をつくと、棚から黄ばんだ紙を一枚取り出し、すらすらと筆を滑らせました。そして、その紙を天秤の左側に乗せました。すると、がごん、と嫌な音を立てて、天秤が大きく傾きました。天秤の魔女はそれを示しながら、人間になるのがどれだけ大変なことかを話し始めました。

 話の途中、エイバはいよいよしびれを切らして、天秤に勢いよく近づくと、天秤の右側をぐっと下に押し込みました。がごん、とまた嫌な音が鳴って、天秤の右と左が同じ高さになりました。エイバは天秤の魔女に詰め寄りました。砂の上をなぞって、あんなふうに動けるのなら、死んで砂になってもかまわない、と。そして、叶えてくれるまで帰らない、と。

 天秤の魔女は、顔をしかめて、すごく悩みました。そして、大きな深呼吸をしたかと思うと、エイバの知らない言葉で呪文のようなものを唱え始めました。すると、天秤と左側に乗せられた契約書が青白く光り出しました。慌てて自分の方を見れば、エイバの体も、まるで天秤から伝って来た光がまとわりついたように、薄青く光っていました。

 その光が喉のあたりまでくると、こぷ、と奥から空気がせり上がってきて、エイバは苦しくなりました。それから尾ひれが痛み出して、それが二つに割れ、鱗がぼろぼろとはがれ落ち、ふくらみの先がさらに五つにわかれました。急にうまく動かせなくなった体は、ふわふわと海面に向かって勝手に進んでいきます。エイバはだんだん目の前が見えなくなっていくなかで、隣に青白く光る契約書が浮かんでいるのを見つけました。

 憧れた砂の上、願いが叶ったら、その砂に溶けて消えてしまう。

 姿の変わったエイバと、少しずつ光が弱まりつつある契約書が、揺らめき漂い、上へ上へとのぼっていきます。天秤の魔女は、水面から差し込む光に目を細めながら、それを静かに見上げているのでした。


*  *  *


 ダクがダンススクールをやめてから、もう二か月が経とうとしていました。ダクは毎日、毎日、誰もいない海へ行って、透明人間とワルツを踊りました。朝の浜辺はいつも冷たくて、湿った砂が足の裏にしがみついてじゃりじゃりしました。

 今日も同じように浜辺へ向かうと、真っ白な砂浜に、一つの影が見えました。ダクは咄嗟に後ろに下がりそうになった右足を、ぐっ、とこらえて、立ち止まりました。すると、その影はよろよろと、しかしダクを目がけて一直線に近づいてきました。ダクの左足が、ず、と白い地面に半分埋もれかかって動けなくなります。ダクは慌てて口を開こうとしましたが、間に合いませんでした。その影は勢いよくダクの胸の中に飛び込んできて、二つの影が混ざって砂に落ちました。

 けほけほと咳き込みながら、目に砂が入らないようにおそるおそる目を開けると、ダクの上には裸の少女が乗っていました。ダクがぎょっとするのと同時に、少女はにっと笑いました。

 少女は青みがかった黒髪を揺らしながら、のそのそと立ち上がり、ダクの手を引っぱりました。しかし、腰の抜けてしまったダクは、力の弱い少女に引かれたくらいではほとんど動きません。仕方がなく、少女は一人で広々とした白い砂浜の上をふらふらと歩き始めました。時々、足を引きずったり、腕を伸ばしたり、体をくねらせたり、ぐるぐると同じ場所を回ったり。酔っ払いの大人みたいなその動きにどんな意味があるのか、ダクにはさっぱりわかりませんでした。しかし、どういうわけか、それは彼女も同じようで、不服そうに唇を尖らせました。そして、八つ当たりのつもりなのか、足元の砂を大きく蹴り上げようとしたところで、バランスを崩してその場に尻餅をつくのでした。

 少女は泣きそうな顔でふらふらと立ち上がると、ゆっくりとダクのもとへやってきて、再びその腕を引きました。そこでようやく、ダクは、少女が踊りたがっていることに気がつきました。三歳の頃のダクも、確かにこうやって、顔をくしゃくしゃにしながら母親にせがんでいたのです。

 ダクが立ち上がったことに少しびっくりしたのか、少女は咄嗟に手を離しました。ダクは、砂を払い、優しく少女の手をとって歩き出しました。少女はよろめきながら、おずおずとダクについて行きます。ずっと透明人間と踊っていたダクにとって、三か月ぶりの人の体温は火傷しそうなくらい熱くて、指先が静かに震えました。

 平らな砂の上、ダクは少女と向き合うと、手を握り、腕を伸ばし、もう片方の手を少女の後ろに回しました。少女は少しくすぐったそうにして、くふくふと息を洩らしました。

 呼吸を整え、ダクはゆっくりと体を揺らし始めました。すると、少女も見よう見まねでそのステップを追いかけます。ダクが体を回すと、少女の体もつられてくるりと回転しました。少女は驚いたように目をぱちくりさせた後、数秒遅れてきゃらきゃらと笑い声をあげました。

 ダクは、こんなに楽しそうに自分と踊る人を初めて見ました。これまでの練習相手は、みんな、ダクのステップについていくのに必死で、辛そうでした。あの金髪の少女もそうです。いつだって緊張した面持ちで、真剣で、(ダクはそれも良いことだとわかっていたのですが、)ちっとも笑ってはくれなかったのです。それなのに、少女はといえば、誰が見ても上手には踊れていないのに、たいそう楽しそうに腕の中で笑っているではありませんか。ダクはふと、進んできた後ろの方を見ました。そこには、整頓された美しい曲線が描かれており、それに波紋を作るように、小さな足跡がぽつぽつと残されていました。それはとても不格好でしたが、波にさらわれていくのがもったいないように思いました。

 それから、どれくらい踊り続けたのでしょう。鳥の鳴く声が聞こえて、ダクははっと腕を下ろしました。いつの間にか、朝日が高い所に昇り始めていたのです。楽しそうに笑っていた少女は、どうしてダクが止まったのかわからず、しゅんと眉尻を下げました。

 ダクはそっと少女から距離を置いた後、少し戸惑って、また近づきました。そして、着ていた紺色のカーディガンを脱ぎ、少女にそっと羽織らせると、自分の部屋を目指して走り出しました。砂浜には、くしゅん、と、残された少女の声が響きました。


*  *  *


 次の日、ダクが浜辺へ向かうと、そこには誰もいませんでした。ほっと息をついた瞬間、近くの茂みから見覚えのある青みがかった黒髪が飛び出してきました。ダクは心臓をばくばく鳴らして、いたずらっぽく笑う少女を見つめました。白い素肌の上には、紺色の布が頼りなく重なっていて、少女はまだ、裸のままでした。

 ダクは、少女にせがまれ、昨日と同じように浜辺でワルツを踊りました。それから、鳥の鳴く声が聞こえて、すごく悩んでから、海から遠ざけるように少女の腕を引きました。

 この時間ならまだ両親は起きていないと知っていましたが、ダクはいつもよりずっと慎重に玄関の扉を開けました。ダクは、笑い声以外に少女の声を聞いたことがありませんでしたが、ちょっとだけ振り向いて、口元で人差し指を立てました。少女は真似して人差し指を立てると、黙ってダクについていきました。

 ダクは二階の自室の扉を閉めると、ふう、と深く息を吐き出しました。目の前の少女は、きょとん、と首を傾げてから、安心したように微笑みました。それを見て、ダクは少女のことがひどく心配になりました。

 ダクはクローゼットからなるべく綺麗な服を取り出して、少女に着せてやりました。それから、机の上に置きっぱなしになっていたマグカップの水を飲ませてやると、少女のおなかが、ぐう、と鳴りました。ダクは、少女と一緒に暮らすことを決めました。

 ダクが引きこもり始めた頃、部屋に入って来た母親に、ひどくあたったことがありました。ダクが声を荒げたのは大変珍しいことだったので、両親はとても動揺しました。それから、両親が部屋の中を勝手に見ることは決してありませんでした。

 ダクと少女は、毎日同じ布団で眠り、部屋の前に置かれる一人分の食事を一日三回分け合いました。さすがに、少女を風呂場まで連れて行くのは難しかったので、ダクは濡らしたタオルを部屋まで持ってきて、少女の体を丁寧に拭ってやりました。そうして毎朝、二人はこっそりと家を抜け出して、浜辺で踊るのでした。

 少女と一緒に暮らし始めてからというもの、ダクはますますワルツに没頭しました。少女は、ダクと一緒に部屋を満たすワルツの音色に体を揺らし、ダクと同じくらい熱心にダンスを練習しました。砂の上には、いつの間にか、離れたり近づいたりしながら楽しそうに進む、二つの美しい曲線が刻まれるようになっていました。ダクは、自分の大好きなワルツに、自分と同じように向き合ってくれる少女の微笑みが、とても愛おしかったのです。


*  *  *


 ある日、ダクは家を出て、コートのポケットに入れた硬貨をちゃりちゃりと触りながら、大通りへと向かいました。街の人々の中には、半年ぶりにダクの姿を見た人もいたかもしれません。何か変な噂をたてられるのではないかと、気が気でなかったダクは、隠れるように日向を避けて歩きました。

 ダクがたどり着いたのは、街で馴染みのベーカリーでした。ダクがぐっ、とドアを引くと、ドアベルがチリン、と鳴りました。そして、ショーケースの向こう側から、ぬっ、とエプロンをつけた髭の濃い男性が身を乗り出してきました。ダクはそれにちょっとびっくりしながら、ショーケースの中を確認します。そして、見つけたクリームパフの方を指さしてから、男性の顔がある上の方に向かって、指を二本立てて見せました。すると、男性は黙って頷き、また、ぬっ、と身を引きました。ダクは、ガラスの向こう側でトングがクリームパフを二つ連れて行くのを見守っていました。

 ダクは、ポケットの中から取り出した硬貨を掌に広げて確認します。そこからいくつかを拾い上げると、背伸びをして手探りでトレーを探し、その上に散らばせました。ポケットの中にはまだたくさんの硬貨がちゃりちゃりとぶつかり合っていて、ダクは安心しました。男性はトレーにのった硬貨を確認すると、カウンターの向こう側から手を伸ばし、ダクに紙袋を渡しました。ダクはおどおどしながら頭を下げると、チリン、という軽やかなベルの音に背中を押されて、ベーカリーを後にしました。

 ダクは二つのクリームパフが入った紙袋を大事に抱え直すと、帰路を辿り始めました。ダクはどうしても、このクリームパフを少女に食べさせてやりたかったのです。

 昨日の昼食のトレーには、両親の手料理に加えて、老舗ベーカリーのクリームパフが一つ、のっていました。それは、ダクの一番好きなおやつでした。いつもみたいに食事をわけようと思って、ダクはクリームパフを二つに割ったのですが、あいにくダンス以外のことはからっきし駄目なのでした。右と左の大きさが全然違いましたし、クリームはぼと、と音を立てて、半分近く皿の上に落ちてしまいました。ダクがそれを見つめたまま固まっていれば、少女は小さい方の欠片を口に含み、それから、お皿の上のクリームを指ですくい上げて舐めました。直後、少女はまるで初めて食べたみたいに頬を赤く染めたのです。それでダクは、丸々一つかぶりつけたらどんなに喜ぶだろうと考えて、引き出しの奥の貯金箱を引っ張り出してきて、これまで一度も確認したことがなかった中身を数えたのでした。

 ダクが街中を歩いていると、コミュニティセンターの前の人だかりができているのを見つけました。偶然目に入った近くのポスターには、手をとり合う男女の姿が映っていて、それがダンスのコンテストの参加受付だということに気がつきました。ポスターには、今日の日付と、一週間後の日付が書かれていました。

 ダクは一瞬、心臓が止まったような気がしました。半年前に出られなくて悔しかったのコンテストのことを思い出して、思わずその場から走って逃げたくなりました。あのままやめてしまった自分を、スクールのみんなはどう思っているだろう、と不安に駆られたのです。しかし、すぐ次には少女の楽しそうな笑みが瞼の裏に映し出されて、あの日、足が砂に埋もれて動けなくなったみたいに、その場にぴたりと立ち止まりました。

 そうして、どれくらい経ったのでしょう。突然、ざっ、と目の前に何かが飛び込んできて、ダクは意識を取り戻しました。足元に落ちた袋からは、青い布地がこぼれ出ています。ダクはすぐに、それがダンスの衣装だと気づきました。慌てて顔を上げれば、今にも泣きべそをかきそうなあの子の姿がありました。金髪の少女は、悔しそうに、恨めしそうに、ダクのことを見つめました。それから、ぷいと顔をそむけると、(スクールに新しく入ったのでしょうか、)見知らぬ少年の腕を引いて人混みの中に消えていってしまいました。

 ダクは、そっと衣装の入った袋を拾い上げ、受付のテーブルに近づきました。それから、おそるおそる申込用紙を覗き込み、数秒戸惑って、やがてペンをとりました。

 ダクは、少女の名前を知りません。少女は、意味のある言葉を離すことはありませんでした。それどころか、笑う時以外、少女はほとんど声を発さなかったのです。しかし、二回目に少女と会ったあの日、ダクは唯一、言葉らしいものを聞きました。舌ったらずな少女の声を思い出しながら、ダクは紙の上にペンを滑らせました。ダク、そして、レイブン、と。

 ダクはペンを置くと、コートのポケットに手を突っこんで、全ての硬貨をテーブルの上に並べてみました。しかし、それは参加費にはあと少しだけ足りませんでした。もうじき日が傾き始めます。一度家に戻っていては、きっと間に合いませんし、もし両親に見つかったら、少女のことがばれてしまうかもしれません。

 どうしたものかと焦って悩んでいると、後ろからすっと手が伸びてきて、整列した硬貨の隣に、一枚の硬貨がちょこんと加わりました。驚いて振り返ると、スクールの先生が、口元に人差し指を立てて優しく笑っていました。


*  *  *


 ダクは、スクールで一番のダンサーでした。燕尾服を着たダクが会場に入ってきたとき、ある人は喜びで声を上げ、ある人は驚きで言葉を失い、ある人は嘲笑の息を洩らしました。それらに惑わされず一歩踏み出したダクの隣、そこには青いドレスで着飾った美しい黒髪の少女が微笑んでいました。

 二人の歩幅には、一切の迷いがありませんでした。手をとり、共に体を揺らし、歩んでいく。煌々と照らすライトに汗を流しながら少女と踊る時間は、ダクにとってまるで夢のようでした。少女も、ダクの瞳の中でちりちりと光るその輝きを捕まえて、初めて出会ったあの日と同じように無邪気に笑っています。

 ダクが少女と出会ったのは、たった二か月ほど前のことでした。しかし、それからずっと、二人は一緒に練習していたのです。少女はその楽しさに没頭し、どんどん上達しました。そして、いつしかダクと同じくらい楽しそうに、上手に踊れるようになっていました。

 見つめ合い、息を合わせ、裾を揺らし、軽やかに回る。その光景は、まるでどこか二人きりの大切な場所で踊っているようでした。もはや他の誰にも手の届かない、かけがえのない瞬間でした。

 ダクと少女は、間違いなく、街で最も素晴らしいワルツを踊るペアでした。


*  *  *


 その夜、少女につん、と肩をつつかれ、ダクはぼんやりと目を覚ましました。眠い体を起こすと、窓の向こうにはまだ月が浮かんでいて、いつも浜辺に行く時間にはまだ早いことがわかります。しかし、少女は何故か寂しそうな笑みを浮かべながら、控えめにダクの腕を引きました。ダクは少しだけ首を傾げましたが、黙って少女についていくことにしました。

 月明かりに照らされながら、少女は白い砂浜を駆け、波打ち際まで行くと、ダクの方を振り向いて手を伸ばし、笑いました。それで、ダクは自分が呼ばれていることに気づき、しゃんと姿勢を正して少女の手を取りました。

 二人はいつもと同じように、二つの美しい曲線を描き、近づいたり離れたり、そして時折それを交わらせたりしながら、他の子どもたちが遊んでいるときとほとんど変わらない表情で、ワルツを踊りました。本当は重たく擦れる砂と小波の音以外にはほとんど何も聞こえないはずなのに、二人の鼓膜には、いつでも同じワルツの音色が、ぴったり同じリズムで響いていました。

 ふと、少女はダクの肩をそっと撫でました。ダクはびっくりして、一瞬ステップを崩しました。そんなことをされたのは、初めてだったのです。目を合わせると、少女の瞳は海の表面みたいに揺らめいて、きらきらと輝いていました。それが一つ瞬くと、今度は流れ星みたいに、一筋の光が少女の頬を伝って落ちていきました。

 少女と踊るのはいつも本当に楽しくて、ダクは、もしかしたら長い夢を見ているだけなのかもしれないと思うことさえありました。そしていよいよ、本当にそうなのかもしれないと思い始めました。手を添えていた少女の体が徐々に柔くなっていって、指先にじゃりじゃりした何かがまとわりつきました。ダクは、目で見なくても、それが何かがわかりました。毎朝自分がくるくる回る時に跳ね上げる、あの砂浜の砂と同じ感触でした。力を入れればすぐに沈み込んでしまいそうで、でもワルツは止められなくて、ダクは一層慎重に少女の体に触れました。

 少女は涙をぼろぼろこぼしながら、ダクの胸元に頭を擦りつけて、ぐちゃぐちゃなステップを刻みました。しかし、決して踊ることはやめませんでした。ダクは、服の隙間に入った砂が腹のあたりで擦れるのを感じました。そうしている間にも、少女の体から滴り落ちる砂は、風に運ばれながら、二人の足跡の上に静かに降り積もっていきます。

 少女は大粒の涙を流しながら、満足そうに、楽しそうに、ダクの腕の中で踊り続けました。ダクは、夢のようだと思いました。夢であればどんなによかっただろうと思いました。


*  *  *


 鳥の鳴く声で、ダクはまどろみから解放されました。朝日はとうに昇り切っており、浜辺は白く眩しい光に包まれていました。太陽に温められ、ダクがゆっくりと手を開けば、一握の砂がさらさらと落ちていきました。


*  *  *


 ダクは、変わらず自分の部屋に引きこもっていました。大好きなワルツの音で満たした部屋の中で、一人、静かにしくしく泣き続けました。ダクが部屋から出てこなくなってもうすぐ一年になろうかという頃、両親はいよいよカウンセラーを探し始めました。

 ダクはお風呂とトイレ以外、めったに両親の前に出てきませんでした。しかし、ずっと部屋に引きこもっていたわけではありません。ダクは朝の五時になると、決まって、両親に黙って家を出ました。そうして白い浜辺へ出て、背筋を伸ばし、くるくると踊り始めるのです。早朝の浜辺には、誰もいません。ダクのパートナーは、いつも透明人間でした。

 ダクは毎朝、一人で踊り続けました。練習を止めてしまったら、大好きなワルツを大好きなふうに踊れなくなってしまいますし、それに、夢のように楽しい時間があったことを忘れてしまいそうな気がしたからです。伸ばした腕の先の、誰の温度も感じない指先を見つめながら、足先でぐっと地面を掴んだ瞬間に跳ね上げる砂の感触を確かめて、ダクはひっそりと少女のことを思い浮かべました。もし一つだけ願いが叶うのであれば、と。

 ダクは足を止め、腕を下ろしました。それから、冷たくなり始めた空気を深く吸って、もう一度背筋をしゃんと伸ばしました。部屋を満たす大好きなワルツの音を、少女と波間に刻んだ足跡を、今度はもっと上手に思い出せるように。

最後までお読みいただき、ありがとうございました(*^^*)

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