盤上の先手取り合戦
華やかな入学式のざわめきが終わりを告げると、大講堂を後にした生徒たちは三々五々、寮や学年ごとの集まりへと散っていった。
残された廊下は、大理石の床に靴音が反響し、遠ざかっていく笑い声がかすかに尾を引くだけ。
豪奢なシャンデリアの光が、磨き上げられた壁や装飾を淡く照らす。
人の気配はほとんどなく、先ほどまでの祝祭の喧噪が嘘のように静まり返っている。
その一角に――偶然のように、しかし必然めいたかたちで――セシリアとリリアナだけが残されていた。
片や、公爵令嬢にして王太子の婚約者。
片や、平民出身の特待生にして「光の加護」を持つ少女。
周囲に誰もいないこの廊下が、二人だけの舞台へと変わっていく。
先に足を止めたのはセシリアだった。
背筋を伸ばし、優雅に振り返ると、品よく微笑みながら言葉を紡ぐ。
「学園生活が楽しみですわね」
陽光を受けた金糸の髪がさらりと揺れ、その立ち居振る舞いはまさしく未来の王妃にふさわしい。
リリアナも負けじと明るい笑顔を返した。
少し幼さを残す天真爛漫な笑みが、廊下の冷たい空気を和ませる。
「ええ、とても楽しみにしています」
声には真っ直ぐな熱がこもっており、純粋さがそのまま言葉に宿っていた。
二人のやり取りは、もし他の生徒が見ていればこう映っただろう。
――高貴な令嬢と、平民出身ながら選ばれた特待生。
立場の異なる二人が互いを尊重し、礼儀をもって並び立つ姿。
その光景は、華やかな物語の始まりを思わせるほど清らかだった。
優雅な微笑みを浮かべたまま、セシリアの瞳の奥で冷ややかな光が瞬いた。
(……楽しみなのは、学園生活そのものではなくてよ。
どちらが先に仕掛けるか――その駆け引きこそ、真の舞台)
その声音は、淑女の外見に似つかわしくない鋭さを帯びていた。
一方、天真爛漫に見えるリリアナも、心の内で拳を握りしめる。
(負けませんわ、セシリア様。
今回こそは――必ず私が一歩先を取ってみせます)
互いの表情には一切の陰りはない。
傍から見れば、ただ穏やかに笑い合う淑女同士。
だがその微笑みの奥では、既に“盤上の戦”が始まっていた。
二人の唇に、同時に柔らかな弧が描かれる。
それは外面だけを見れば、まるで“友情の兆し”――華やかな学園生活の幕開けにふさわしい、希望に満ちた笑みだった。
けれど、その内実を知る者はいない。
数十回もの周回を潜り抜けた者同士だからこそ交わせる、無言の宣戦布告。
その微笑みは、知恵と加護を巡る“盤上の戦”の開幕を告げていた。
廊下の窓から差し込む光が、二人の横顔を淡く照らす。
磨かれた床に落ちた影は、長く伸びて重なり合い――
それが対立の影なのか、あるいは共闘の予兆なのか。
その答えを知るのは、まだ誰一人としていなかった。
――こうして。
名門学園ルミナスにおける、ベテラン悪役令嬢とベテランヒロイン。
幾度もの周回で培われた知恵と経験を武器に、互いを出し抜こうとする二人の読み合いが、静かに幕を開けた。
その開幕を祝福するかのように、窓辺から吹き込む春風がカーテンを揺らす。
しかし、その風が運ぶのは祝福か、それとも嵐の予兆か――。
答えはまだ、誰にも分からない。
授業初日の朝――。
名門学園ルミナスの大理石の廊下は、すでに色とりどりの制服姿で埋め尽くされていた。
「教室はどこかしら」
「初日から遅れたら大変だぞ」
ざわめきと笑い声が重なり、華やかな空気が広がる。磨き抜かれた床に映るのは、期待と緊張に揺れる新入生たちの足取り。
その喧噪の中、問題の“角”があった。
学園の古き造りを思わせる長い廊下の曲がり角――。
こここそが、原典ゲームで「平民ヒロインが王太子と衝突し、恋のフラグが立つ」運命の舞台。
しかし今、この周回を知る者には、それがただの廊下ではなく、“仕掛けられたイベントの発火点”にしか見えなかった。
角を曲がった瞬間――。
両手いっぱいに抱えた書類が、ばさりと宙へ舞う。
「きゃっ!」
床に散らばる紙片。呆然と立ちすくむ少女。
そこへ、すぐさま伸ばされる大きな手。
「怪我はないか」
光を背に立つのは、王太子アルベルト。
整った顔立ちと堂々たる気配、誰もが憧れる学園の主役。
驚きに目を見開いた少女は、その差し伸べられた手を取る――。
……これこそが、本来の“物語”。
庶民のヒロインと王子が、偶然の衝突から心を近づける。
シナリオに組み込まれた「運命の出会いイベント」。
だが――周回を知る者にとっては、すべてが予定調和で、使い古された寸劇に過ぎなかった。
リリアナが角を曲がろうとした、その刹那。
「――危ないですわよ、リリアナ様」
耳元に涼やかな声が落ちる。
振り返る間もなく、セシリアの白い指先が彼女の腕をとらえた。
優雅な微笑を崩さぬまま、すっと引き止める。
次の瞬間、角を曲がってきたのは王太子アルベルト。
衝突寸前で立ち止まった彼は、事もなげに目を細める。
「さすが用心深いな、セシリア」
まるで最初からそう決まっていたかのように、二人は自然に視線を交わす。
散らばる書類も、差し伸べられる手も――存在しない。
本来なら“物語”が動き出すはずの場面は、静かに書き換えられていた。
リリアナは微笑みを崩さず、すれ違う王太子とセシリアの姿を横目に見る。
(……なるほど。潰してきたわね、セシリア様。けれど――)
その瞳の奥では、次の一手を思案する冷ややかな光がちらついていた。
対するセシリアもまた、完璧な笑みを浮かべたまま。
王太子の「用心深いな」という言葉を涼やかに受け流しつつ、心の内ではひそかに嗤う。
(王子ルートの初手は、これで無効化。……さあ、“運命”よ。少しは揺らいでくれるかしら)
華やかな学園の廊下に響くのはただの礼儀正しい会話。
だが水面下では、すでに二人の盤上戦が始まっていた。
衝突は防がれ、散らばるはずの書類は一枚も落ちていない。
しかし廊下のざわめきの中、近くを歩いていた一年生の男子が、不意に羽ペンと教科書を床に落としてしまった。
「……あら」
リリアナは一瞬で状況を読み取り、柔らかな笑顔を浮かべてしゃがみ込む。
「これ、落としましたよ」
白く細い指先で羽ペンを拾い上げ、生徒へ差し出す。
「あ、ありがとうございます!」
少年は耳まで赤くしながら受け取り、慌てて頭を下げる。
リリアナは軽く頷くだけで、その場を離れる。
――だが心の中では、冷静に計算していた。
(王子ルートが潰されたなら……別の枝葉を伸ばせばいい。それが、この世界の“隙”なのだから)
一見何でもない小さなやり取り。
だがその瞬間、「モブ」として終わるはずだった生徒の顔が、彼女の記憶に刻まれた。
それは新たなルートの種となり、静かに芽吹き始める――。
衝突を防いだその一幕は、周囲の目にはただ麗しい光景としか映らなかった。
セシリアがさりげなくリリアナを守り、王太子の前で優雅に立ち止まる。
「さすがは公爵令嬢」と囁く声が、廊下のあちこちで漏れる。
誰もが――これを、彼女の淑女らしい気配りの一端だと思った。
だが水面下で交わされたのは、まるで盤上の先手取り合戦。
セシリアは「王子ルート」を潰し、リリアナは「新たな芽」を残す。
表面は静謐、しかしその裏では確かに火花が散っていた。
――こうして、学園の予定調和は少しずつ崩れ、二人の知恵比べが始まっていく。
大広間に響くのは、優雅な楽団の旋律。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが幾百もの光をこぼし、磨き上げられた床に反射して星空のように瞬いていた。
ドレスに身を包んだ令嬢たちが笑みを交わし、若き紳士たちが杯を片手に談笑する。舞踏会のざわめきは、学園に集った貴族子女たちの社交の始まりを祝う祭典そのものだった。
リリアナにとっては――まさに「社交界デビュー」を飾る象徴的な夜。
原典の物語では、この場で王太子アルベルトとの“運命の一幕”が幕を開けるはずだった。
舞踏の最中、彼女が転倒しかけ、王子の腕に支えられる。
――シンデレラを思わせる王道の出会い。
そこから、華やかに恋の物語が始まっていく。
だが今宵の舞踏会は、必ずしも予定調和の物語をなぞるとは限らなかった。