舞台は同じ、だが物語はもう違う
光の奔流が収まったとき、セシリアとリリアナの足元に広がっていたのは――見慣れた王都の大広間だった。
天井から降り注ぐ無数のシャンデリアの輝き。
軽やかに奏でられる楽団の調べ。
貴族たちの衣擦れと、舞踏のざわめき。
どれもこれも、確かに“舞踏会”を形作る要素に違いなかった。
だが。
セシリアは、呼吸の奥で違和感を覚える。
リリアナもまた、目の奥で同じざわめきを察していた。
――これは、前に見た舞踏会ではない。
同じ光景のはずなのに、空気の色が決定的に異なっていた。
役割を演じる舞台の“再演”ではなく、何か新しい幕が上がったような、確かな変化の気配が二人の肌を撫でていた。
ざわめきはある。だが、それはかつて断罪の舞台で響いていた冷たい合唱ではなかった。
観衆の瞳に宿るのは、悪役令嬢を断じるための鋭い期待ではなく――不安と戸惑い。
「……え……?」
「これは……どういう……」
誰もが口々に呟き、しかし続く言葉を持たない。
脚本通りに揃うはずだった台詞は、もはやどこにも存在していなかった。
一人ひとりが己の胸に問いかけている。
「どうすればいいのか」と。
それは、初めて観衆が“役”ではなく“人間”として揺らいでいる証だった。
王太子は壇上に立ち、いつものように胸を張る。
――そのはずだった。
「セシリア・アルヴェイン……」
声を発した瞬間、彼の喉は不自然に詰まった。
断罪の文句。これまで何度も繰り返された「決められた台詞」。
だが、口は動かず、声は続かない。
観衆の視線が集まる。王太子であれば当然、冷酷に告げるはずだ――誰もがそう思っている。
しかし、彼の顔からはいつもの自信に満ちた笑みが消えていた。
「……」
王太子は視線をさまよわせる。セシリアを見れば、その姿は「悪役」ではなく、ただ一人の少女に見えた。
(……俺は、本当に彼女を断罪したいのか? それとも……)
初めて、彼の胸に「役割」ではなく「問い」が芽生える。
その沈黙は、舞踏会の場全体に重く響いた。
騎士は反射のように腰の剣へと手を伸ばした。
――いつもなら、ヒロインを守るため、断罪の場で正義を示すため。
しかし今日は、刃に触れた瞬間、その手が止まった。
鞘の中に眠る剣が、やけに重く感じる。
「……俺は、なぜ抜こうとしている?」
舞踏会のざわめきの中、彼はゆっくりと柄を握ったまま視線を落とす。
そこに映るのは、ただの鋼の塊。
(この刃は……誰のために振るうものなんだ? 王子の命令のためか? ヒロインを守るためか? それとも――俺自身の意志のためか?)
答えは出ない。だが、確かに言えるのは、今までのように「役割のため」に剣を振るうことはできないということだった。
彼の手は柄から離れ、力なく下ろされた。
代わりに胸の奥で、小さな問いが確かに息づき始める。
学者は、いつものように分厚い本を胸に抱えていた。
断罪を裏付ける言葉――そう、あらかじめ与えられた「台詞」が口から零れるはずだった。
だが、その舌は動かない。喉が凍りついたように震え、紙の上で見慣れた活字も、今は空白の羅列にしか見えなかった。
「……な、何を……語れば……」
声は掠れ、手が震える。
これまで全ての答えは本の中にあった。世界を保証する秩序は、書かれた文字が与えてくれるはずだった。
だが今は違う。
開かれたページは沈黙し、書物は「何も教えてくれない」。
学者は唇を噛みしめ、ゆっくりと呟いた。
「……答えは……書物にはない。ならば……俺が、自分で……問いを立てなければ……」
観衆のざわめきが遠のき、彼の小さな声だけが確かに響いた。
その瞬間、彼の視線は初めて本ではなく、目の前の“現実”を正面から捉えていた。
大広間に並ぶ貴族たちと観衆は、これまでと同じように華やかな衣を纏い、香水の匂いを漂わせていた。
だが、その瞳に宿る光は違っていた。
いつもなら、与えられた舞台の観客として「断罪を待ち望む冷たい視線」を一斉に送っていたはずだった。
けれど今、彼らは互いに顔を見合わせる。
誰もが、次にどう振る舞えばいいのかわからず、口元を開きかけては閉じ、視線を逸らし合った。
「……これは、どうすれば……?」
「断罪は……行われないのか……?」
声は揃わない。
一糸乱れぬ“演技”をしていた群衆はもういない。そこに立つのは、考え、迷い、戸惑う「一人ひとりの人間」だった。
ざわめきは不安定に広がりながらも、確かに変化していた。
もはや彼らは、ただの背景ではいられなかった。
大広間の中央――視線が自然と集まる場所に、セシリアとリリアナは並んで立っていた。
かつてなら、ここは「断罪の舞台」。
セシリアは罪を糾弾される悪役令嬢として俯き、リリアナは無垢なヒロインとして庇われる――そんな台本が決まっていた。
だが今、その構図は存在しない。
二人はただ、揺らめく楽団の音色と、困惑のざわめきに包まれて立っていた。
セシリアは胸の奥で息を整える。
(……彼らはもう、役を演じてはいない。迷い、戸惑っている。けれど……それは“人間”だからこそ)
リリアナもまた、隣に立つセシリアの気配を感じながら、強く頷く。
(そう……もう私は“選ばれるヒロイン”じゃない。私自身の意思で、ここにいる)
観衆が揺らぐ中、二人は確かに悟っていた。
――自分たちが踏み出した一歩は、この世界そのものを変えてしまったのだ、と。
豪奢な大広間を満たす楽団の旋律――だがそれは、どこかぎこちなく乱れていた。
弦がわずかに外れ、管が遅れて重なり、不協和音が交じり合う。
それでも演奏は止まらない。即興のように、必死に続いていく。
天井から降り注ぐシャンデリアの光もまた、一定ではなかった。
煌めきは呼吸するように揺れ、壁や床に複雑な影を踊らせる。
完璧な舞台装置としての「予定調和」ではなく――そこに在るのは、生きて脈打つ舞踏会そのもの。
セシリアとリリアナは、その変容を肌で感じていた。
かつては台本通りの演出でしかなかったこの場が、今は確かに「世界そのものの選択を映す舞台」へと変わりつつある。
――舞台は同じ、だが物語はもう違う。
かつては与えられた役割をなぞるだけだった人形たちが、今は台詞を失い、戸惑い、互いの目を見つめ合っている。
選ぶことに怯え、迷いながらも、それでも確かに――自らの意志を探そうとしていた。
これは「悪役令嬢」と「ヒロイン」の物語ではない。
人として選び、迷い、そして歩き始める者たちの舞踏会が――ここに始まったのだ。




