予定調和ではない何か
――セシリアは息を呑んだ。
目の前で開かれた、光の裂け目。そこへ踏み込む直前、彼女は無意識にリリアナの手を強く握りしめていた。
「……行くわよ」
「はい……!」
二人の声が重なった瞬間、まばゆい閃光が視界を満たす。
背後から迫る虚無の波が飲み込もうと牙を剥くが、二人の身体は柔らかな光に包まれ、触れることすら許されない。
世界そのものの崩壊を振り切るように、彼女たちは裂け目の奥へと身を投じた。
――そして次の瞬間。
視覚は白に塗り潰され、聴覚は音を失い、身体の重ささえ消え去る。
まるで自分という存在が「一度リセット」されたかのような、根源からの虚脱感に全身を浸されていた。
セシリアもリリアナも、ただ互いの温もりだけを確かな拠り所にして――眩い無の中を通過していく。
――眩い光を抜けたその先。
セシリアとリリアナの足元に広がっていたのは、限りなく続く白の世界だった。
床も天井もない。
地平線さえ存在せず、どこまでもただ「白」が満ちている。
音もなかった。
歓声も、ざわめきも、鐘の音すらも。
聞こえるのは、互いの呼吸と鼓動――それだけが「自分がまだ存在している」という証明だった。
影はなかった。
本来ならば光が差せば生まれるはずの影が、どこにも落ちていない。
その無機質な世界で、セシリアとリリアナだけが輪郭を保った異物として、浮かび上がるように立っていた。
(……ここが、“物語の外”……?)
セシリアの胸に、不安と畏怖と、ほんのわずかな希望が入り混じる。
リリアナは隣で小さく息を吐き、囁いた。
「……誰もいない……本当に、私たちだけ」
虚無の白の中で、その声だけが確かな響きを持っていた。
セシリアは反射的に振り返った。
しかし、そこにはもう断罪の舞台も、煌びやかな観客席も存在しない。
ただ無限に続く白。
何も、誰も――いない。
「……誰もいない……」
かすれるように呟いた声は、吸い込まれるように虚無へ溶けていった。
隣のリリアナも、震える声を漏らす。
「王太子も……攻略対象たちも……全部、消えて……」
言葉のひとつひとつが、かすかな恐怖と実感を伴って胸を打つ。
二人は、ようやく理解した。
ここは断罪劇の舞台ではない。
物語の観客も、登場人物も、脚本さえも存在しない。
――「物語の舞台」そのものから切り離された、異界の空間なのだ、と。
セシリアは胸の奥に残る余韻に耳を澄ませた。
(……舞台の騒音も、観客のざわめきも……消えてしまった。
まるで、最初から私と彼女しか存在しなかったみたい……)
静寂の中で、心臓の鼓動だけがやけに鮮明に響く。
一方で、リリアナは不安げに目を伏せながらも、その存在を確かめるようにセシリアを見つめる。
(空っぽ……でも、確かに私はここにいる。
セシリア様と……二人で)
声にはならない思いが、白の無限空間で共鳴する。
二人だけが輪郭を保ち、確かに「在る」と証明されていた。
白の無限に包まれたまま、セシリアは胸の奥に冷たい不安を覚えた。
音も色も匂いもない世界。舞台も観客もなく、ただ取り残されたような孤独が心臓を締め付ける。
(……もしや、ここで終わるのでは……?)
暗い予感が背筋を撫でる。
だがそのすぐ隣で、リリアナもまた震える吐息を整えながら、己の胸のざわめきを感じ取っていた。
(違う……これは終わりじゃない。むしろ――始まり……)
不安と同時に、説明できない確信が芽生える。
ここが「真実」に近づく場所だという予感。
繰り返す déjà vu とは異なる、新しい感覚が、二人の中で小さな灯火となって燃え始めていた。
無限の白に沈む空間。
その静寂を破るように、空気の膜が震える。
――ピシリ。
見えない壁に亀裂が走ったかのような揺らぎが、遠くから波紋のように広がってくる。
セシリアとリリアナは言葉を交わさず、ただ互いを見つめた。
不安も、希望も、そして「何かが始まる」という直感も、すべてが二人の瞳に映っている。
やがて白の虚空に、声なき声の前触れが滲み出す。
それは――これまで触れることのなかった“根源”の呼び声。
二人は同時に、確信する。
ここから先、物語は初めて「予定調和ではない何か」に踏み出すのだと。




