新たなる人生 カラオケスナックを始める
今月も、わずかな金を持って、最近開発した神戸にある、少し価格の安いセーターやブラウスを作るマンションメーカーを訪れ、何点かの商品を発注した。
神戸からの夜のフェリーで帰ろうかと考えていたが、最近の商売の苦しさに堪らなく人恋しくなり、久しぶりに、大学が一緒で、日本橋の喫茶店ローハイドを紹介してくれた、神戸に住む塩田尚政に連絡をしてみた。
電話口で塩田は
「オゥ、久しぶりやんか。そうか、神戸に来てるんか。どこや?飯でも食おうや」と、すごく喜んでくれ、三ノ宮駅で待ち合わせをした。
三ノ宮で食事をしながらビールを飲んでいると、塩田は昭の様子を見透かしたように言った。
「なんや、元気ないなぁ?」
「そうなんや。実は今、商売が上手いこといってのうて、困っとんや」
昭は、これまでの苦労を洗いざらい話した。
「ちょっとは気晴らしもせんとアカンで。そうや昭、大阪に変わった店ができてて、オバハン一人でやってるけど、ごっつう流行ってる店があるらしいけど、行ってみんか?」
昭も、確かに最近は娯楽もせず仕事一筋だったので、ストレスが溜まっているかもしれないと思い、誘いに乗った。
「うん、行ってみるわ。そやけど、どんな店や?」
「なんでも、カラオケスナック言うてたで。俺も詳しいことは知らんのやけど、今、すごいらしいで」と、塩田は言うばかりで要領を得ない。
梅田で降りて、繁華街を少し歩くと、外からもよく見える2階のカウンター席がびっしりと埋まっていた。
その中の1人がマイクを持って歌っている。
声こそ聞こえないが、カウンターの真ん中に、塩田が言っていた通りのオバハンが立って、笑いながら手拍子をしている。
みんなもそれに合わせているようだ。
店の外にも大勢の人が並んで、席が空くのを待っている様子に昭は驚き、塩田に尋ねた。
「なんやアレ?」
「なんや、カラオケ言うて、機械にカセットを入れて、自分で好きな曲だけの音楽をかけてもろて、自分が歌手になった気分で歌うらしいんやけど、大阪でもここと、あと1軒だけらしいけど、どっちも毎晩超満員らしいわ」と教えてくれた。
昭は、こんな異質な世界を初めて見て、衝撃を受けた。
店に入って体験してみたかったが、あまりの順番待ちの列の長さに、帰りのフェリーの時間に間に合いそうもなかった。
フェリーの中では、昭の心にふつふつと湧き上がるものがあった。
興奮で眠れなく、港に着くのが待ちきれなく、新しいビジネスのアイデアが、昭の頭の中で形になり始めていた。
翌朝、家に帰った昭は、早速地元の家電量販店を訪ねた。
店員を呼んで、「すみません。カラオケの機械は置いていないですか?」と尋ねると、若い店員は「カラオケですか?何ですかそれは?」と首を傾げる。
「今都会で大流行りらしいけど、東京か大阪に聞いてみてください」
店員は「少々お待ちください」と言って、奥へ下がっていった。
しばらくして、彼が走って戻ってきた。
「有りました、有りました!何か8トラックのカラオケの機械らしくて、東京でも大流行りらしいです」
「いくら?」と尋ねると、「結構高いですよ。50万円ほどです」と答える。
昭は迷わず言った。
「とりあえず押さえておいて。金の工面ができたら買うから」
店員は「いえ、うちでも売れると思うので、1台仕入れておきますから大丈夫です」と快く引き受けてくれた。
昭は、その足で知り合いの大工に頼み、800万円の店舗改装の見積もりを出してもらった。
その用紙を持って、自己資金300万円を添え、500万円の借り入れを国民金融公庫に申し込んだ。
ブティックで何度か借り入れの実績があり、毎月きっちりと返済していたため信用があった。
自己資金を一部出すと言ったこともあり、審査はスムーズに終わった。
3日後には結果が出ると言われていたが、2日後にブティックに、審査が通り500万円の貸し出しがOKとの返事が届いた。
電話で早速、家電量販店に購入の連絡をすると、既にカラオケの機械が届いているという。
見に行くと、見たこともない2段の機械とスピーカー2台、4曲入りのカセットテープ50本、流行りの歌詞が載った本2冊、そしてマイクが2本が、段ボールに入っていた。昭はローンを組んでそれらを購入し、家に持ち帰った。
それから、以前から気になっていた、ブティックの近くに建築中の1階が店舗で2階が住居の建物があり、入居者募集中と書かれている工事中の看板を見ると、「加藤建設(株)」とある。
加藤建設の娘は昭の小、中学の同級生で、その母親はブティック・アドレにもよく買いに来てくれる常連さんだった。
昭は電話をかけ、女社長である母親を呼び出した。
「もしもし、加藤ですが、峰岸君?どうしたの?」
「今建築中の2階建ての物件を借りたいんだけど、まだ決まっていないですか?」と、昭は事情を話した。
「今からそちらに行くから、現場で待ってて」
10分ほど待っていると、女社長が車でやって来た。
「どうしたの、スナックを始めるの?」
「そうなんです。ちょっと変わったスナックをしようと思って」
「それなら、いいわ。知らない人に借りてもらうより、峰岸君だったらOKよ。ただし、ひとつだけ条件があるの」
「何ですか?」
と尋ねると、
「店舗改装は、私の知り合いがすることが条件なの」
「それは、別にどこでもいいですよ。安ければ」
そう言って、後日担当者と話し合うことに決まった。
事の成り行きを一郎に話すため、昭は早速、峰岸紳士服店へと向かった。
奥の応接椅子に座っている一郎に
「親父、実は、ブティックの売り上げもなかなかで、このままじゃ飯も食えなくて、潰れてしまうから、新しい商売を始めようと思うて」
「どうしたんぞ、急に」
「この間、神戸に仕入れに行ったら、新しいスナックができとって、見たら、カラオケスナック言うて、ものすごい流行っとって、
この町にはまだそんな店がないけん、やろうと、今交渉中なんじゃけど、親父に話しておかないかんと思うて」
すると、一郎の顔がみるみるうちに変わった。
「スナック言うたら水商売じゃろが!えーっ、そんなもん、ワシは許さんぞ。峰岸家のええ恥さらしじゃ。うちは立派なカタギの洋服屋じゃ。そんな中から水商売をするような奴は許さん」
「そやけど、このままじゃ食うていけんのじゃけん、しょうがなかろう」
「ワシがここまで言うても、ワシの言うことが聞けんのじゃったら、わかった、勘当じゃ。もう、親でも子でもないわ」
売り言葉に買い言葉で、昭は啖呵を切った。
「ほしたら、アンタが食わしてくれるんか?この前の借金だって、約束と違う返済を言うてきて、俺は必死で銀行に頭を下げて借りて、アンタに返したんじゃないか。世間体もクソも無いわ。俺は俺でやるわ」
昭は店を飛び出した。
彼の考えの中では、ブティックも続けながらスナックも経営するという計画で、父の顔に泥を塗るようなことはしないつもりだった。
新しいスナックの家賃は、加藤建設の女社長が知り合いだと言うことで、1階2階全て合わせて7万円で話がついた。
1階がスナックで、外階段を登って2階が2DKの住居となる。
内装担当者の明比さんと打ち合わせを重ねるうち、昭のアイデアはどんどん膨らんでいった。
明比さんも「ここの壁は全て石を使いましょう」とか、「カウンターは思い切って60センチの広い幅にしましょう」と提案してくれた。
金額が高くなりそうだったが、「材料は全て加藤建設からなので、特別に原価で入れてもらうから大丈夫です」と言ってくれ、400万円で、最高の素材で内装を仕上げることができた。
カウンターには金の真鍮の手すり、カラオケスナックらしくミラーボールもつけた。
奥には一段高いステージを作り、昭がギターで弾き語りをするコーナーや、エレクトーンも置いて昭の伴奏で歌えるようにもした。
昭はエレクトーンなど弾いたことがなかったので、週に3回習いに行くことにした。
スナックバーの語源も調べた。
軽く食べられる軽食付きで、軽く飲むこともできる店だと知り、食事メニューも豊富に考えた。
そうすることで、風俗営業の許可も要らず、夜遅くまで営業できるという利点もあった。
そんな時、兄の英一から連絡があった。
「昭、お前酒の仕入れ先は決めとんか?」
「いや、まだどこも決めてないけど」
「ほしたら、ワシが入っとる会の酒屋で、取ってやってくれんか?」
「別にどこでもええよ」
「そうか、ほしたら明日酒屋の社長と、酒造会社の社長連れて行くけん、会うてやってくれや」そう言って電話は切れた。
翌日、英一は3人の男性を連れてきた。
一人は背の低い、いかにも商売人といった風情の「金比羅屋」の社長。
「この度はお兄さんの紹介で、お酒を卸させていただくということで、よろしくお願いします」と、実直そうな顔で名刺を渡した。
隣にいたテカテカ顔の、いかにも酒好きな頭の禿げた貫禄のある年配の男性は
「申し遅れました。私は神影酒造の神影と言います。この金比羅屋さんにお酒を卸しています。今後ともよろしくお願いします。あっ、それからこっちは息子で、神影忠と言って、会ではお兄さんにはお世話になっております。今後、何かあれば、この忠にお申し付けください」と挨拶した。
横に立っていた息子の忠さんが
「お兄さんには良くしてもらっています。今後ともよろしくお願いいたします」と言って名刺を渡した。
昭も頭を下げると、神影酒造の社長が尋ねた。
「それから、一つお伺いしたいのですが、置かれるお酒の銘柄はどちらにするか決められているのですか?」
昭は酒の事はあまり分からず、銘柄にこだわりはなかったので、「いえ、別に」と答えた。
すると社長の顔がますますテカテカと輝き、「それでは、もし宜しければ、キリン一本に絞っていただけないでしょうか?ビール、ウイスキー、ブランデーなど、全てキリンにしていただければ、弊社としましても、色々とキリンからサービスをさせますので、例えば、灰皿、グラス、アイスペール、コースター、それから看板など、全て揃えさせます」と提案してきた。
すぐ横から英一が、「昭、そりゃお前得やぞ。そうした方が、お互い得じゃわ。そうしとけ」と、勝手に決めてきた。
昭としては、酒の卸元や銘柄は気にしていなかったので、英一の顔が立てばそれでいいと思い、その場で決定した。
店舗の内装は約1ヶ月で終了し、店名は目立つように「キャッツ・アイ」とした。
市内の地方新聞の広告に、猫の目を大きく拡大したチラシのど真ん中に、
「歌える店 キャッツ・アイ」と大きくアピールした。
店の特徴として、昭はこれまでのスナックで感じた不満点をすべて解消しようと考えた。
まず、客がキープしたボトルを出すのが遅いという点。
いつもママが、「アラ、何処だったかしら?」と言って、ボトルを探し回る。
その待ち時間に、いつもイライラしていた
昭は電話帳を買い、あいうえお順に客の名前を書き、お酒の名前(例えばロバートブラウンならR-1)とボトルに貼ったシールを照らし合わせることで、待たせることなくすぐにボトルを出せるようにした。
次に、料金の明朗会計。
最初の突き出しの小鉢は300円、ミネラルウォーターは1本200円、氷はアイスペール1杯200円。
ボトルをキープしている客が来店し、ウイスキーを2、3杯(ミネラル1本分)飲んで帰れば、合計700円で済むというシステムだ。
当時のスナックはボトルキープ制が主流だったので、キープ棚を特設し、客のウイスキーやブランデーをずらりと並べた。
厨房は作らず、カウンターの中で昭がその場で調理する。
フライパンを熱く熱して野菜を入れると、炎が大きく燃え上がり、それがパフォーマンスとなり客を驚かせた。
広いカウンターの上には作り置きの、切り干し大根、漬け物、煮干し、銀杏などを並べ、欲しい客には一皿500円で小分けして提供した。
料理のメニューはホットドッグ、焼きそば、焼きうどん、お茶漬け、ナポリタン、ハンバーグ、卵焼き、野菜炒め、オイルサーディンなど、今までのスナックでは考えられないほど豊富だった。
もちろん、これらは全てスーパーで買ってきたインスタント食品だったが、スナックで食べる料理に高級な味を期待する客はいないので、これで十分だった。
また、ブティックでの経験から売り掛けに苦労した昭は、会社払い以外では絶対にツケや売り掛けをしないと決め、店の奥の柱に大きく
「貸して不仲になるよりも、いつもニコニコ現金払い」
と書いた看板を貼った。
弾き語りも練習を重ね、大体の曲は楽譜があれば何とかこなせるようになり、エレクトーンも2ヶ月の練習で5曲ほどは伴奏できるようになった。
これらすべて、学生時代のバンド活動、喫茶店でのアルバイト経験、モデル時代のファッションセンス、そして東京アパレル時代に培った整理整頓術など、これまでの経験がすべて生かされていた。
いよいよ開店の日がやってきた。
店のスタッフは、マスターの昭、ママの洋子、そしてブティックの常連客だった看護婦やデパートの店員さんたちが、会社に内緒で日替わりで3人ずつ入ることになった。
時給は特別に高く、1時間800円に設定した。
午後6時の開店と同時に、大勢の客が入店した。
その中の一人が開店祝いだと言って、縦80センチ横60センチの大きな額に入った、チンチラ猫の顔をアップにした油絵を持ってきてくれた。
見ず知らずの人だったが、「チラシを見て、この店は俺のイメージにぴったりだと思ったので、良かったら店に飾ってほしい」と言って手渡された。
昭もその絵が店のイメージにぴったりだと思い、店の奥の壁のど真ん中に飾ると、店は完全に「キャッツ・アイ」の世界観に仕上がった。
カウンター12席、ボックス席が6席で2セットの合計24人が入れる店はすぐに満席になった。
最初のうちは誰もカラオケを知らず、おじけづいていたが、昭が最初に歌うと大きな拍手が沸き起こり、
「俺も歌ってみようかな?」「次、俺、次、俺」とマイクの奪い合いになった。
さらに、カウンターの中に昭と洋子、そして若い女性スタッフ3人の合計5人がいるので、店内は華やかで賑やかだった。
皆、時間を忘れて楽しんだ。
料金が安かったこともあり、客は全員がボトルキープをし、初日の売上は20万円に達した。
スナック「キャッツ・アイ」が華々しいスタートを切っていた頃、峰岸紳士服店では重大事件が発生していた。
三男の久雄は、大学を中退させられ、いずれは勝也と二人で店を背負っていくようにと言われていた。
新しく建てられた工場で、紳士服のズボンの折り目をきっちりつけるシロセット加工の機械を導入し、1本500円で請け負う商売を与えられた。
久雄も最初は父の言う通りにやっていけば問題ないと思っていたが、いくら洋服の時代になったとはいえ、一般人がズボンの折り目をつけるためだけに500円を出すことはなく、結局、他の仕立て屋の仕事だけで生活できるほどの収入にはならなかった。
そんな時、我儘な英一の態度に不満を持っていた長男の勝也と、先の見えない現状に不満を抱いていた久雄が、ついに家を飛び出した。
勝也は中学卒業以来ずっと店のために働き、3人の兄弟を大学まで行かせたにもかかわらず、最近の一郎の英一に対する態度、そしてそれに増長する英一に嫌気がさしていた。
さらに、昭が新しい商売を始めたことに刺激を受けた二人は、勝也を先頭に、家を出ることを決めたのである。
これに怒った一郎は、新聞に
「峰岸勝也と久雄の両名は、今後一切峰岸家とは関わりがありません」
という告知を出した。
峰岸紳士服店は、残った二人の営業マンでかろうじて成り立っていたが、以前ほどの勢いは薄れていった。
しかし、所詮世間知らずの勝也と久雄に、行くあてはなかった。
二人は保険会社の営業マンとして登録し、3ヶ月間の給料保証でなんとか食いつないでいたが、その金も底をつくと、勝也は一人、仕方なく一郎に頭を下げて帰ってきた。
一郎も、内心では店の売上のほとんどを勝也が上げていたことを知っていたため、喜んだものの、
「仕方ない、今回のことは水に流そう」
という形で事態を収拾させた。
勝也の逃走劇は、わずか3ヶ月で幕を閉じた。
一方、久雄は、そのまま一人で頼るあてもなく大阪へと旅立っていった。
峰岸家で様々な確執が渦巻いていることも知らず、スナック「キャッツ・アイ」は、新しいカラオケの噂が瞬く間に知れ渡り、大流行となった。
連日、店は客で賑わい、昭の新しい挑戦は順調な滑り出しを見せていた。
そんな喜びの最中、洋子の妊娠が分かり、やがて長男の洋昭が誕生した。
子供ができると、洋子は洋昭を背中に背負いながら、ブティック「アドレ」の留守番をする毎日が続いた。
昭は相変わらず、昼間は婦人服を持って営業に走り回り、夜は「キャッツ・アイ」を開けてカウンターに立つ。
洋子はブティックを閉めると、洋昭を寝かしつけ、階下のスナックを手伝う日々が続いた。
「二足の草鞋は履けない」
とは昔から言われてきたが、さすがに2ヶ月もすると、昭も洋子も心身ともに疲れ果てていた。
ブティックの売上は赤字にはならないものの、ほとんど利益も出ない現状に、昭は見切りを付けることを決意した。
「アドレ」の閉店にあたり、昭は知恵を絞った。
普通の閉店セールでは、客寄せのアピールだと思われるだろう。
そこで、昭は、新聞に特別なチラシを入れた。
「明日から1週間で、完全閉店を致します。店の中の什器備品、その他看板など、全て売り尽くしますので、物が無くなり次第、1週間経たなくても閉店いたしますので、お早めにご来店下さい」
その前に、各マンションメーカーに連絡を取り、売れ残りの商品を全て100円で買い取り、店には300円で並べた。
閉店セール当日、午前10時の開店前には、店の前に長蛇の列ができていた。
開店と同時に、大勢の人が雪崩れ込んできた。
中には同業者もやって来て、
「看板が欲しい」
「陳列ケースが欲しい」
と言ってくる。
昭がこの日のために仕入れた300円の商品も飛ぶように売れ、あっという間に完売した。
さらに、商品を掛けて送られてくる、中が針金で表面をビニールで覆っているハンガーまで、
「洗濯物干しに便利です」
と書いて10本100円にすると、それまでもが完売した。
売り尽くしセールはわずか5日間で、店の天井の蛍光灯も、エアコンも、文字通り全て売り尽くした。
ブティック「アドレ」は、その役目を終え、昭の人生から一つの章が閉じられた。
しかし、この経験は、彼に商売の厳しさと、アイデア次第で困難を乗り越えられるという自信を与えたのだった。
ブティック閉店後、「キャッツ・アイ」の売上はさらに伸びていった。
客層は、医師、小売店の社長、英一の会のメンバー、全国的に有名な製薬会社の営業マン、市内では有名な女社長のグループなど、そうそうたるメンバーで、連日超満員となった。
24席しかない椅子は相席、相席で、それでも「すみません、今いっぱいで座る所がありません」と伝えても、「大丈夫、大丈夫。立って飲んでるから、席が空くまでこのままでいいよ」と言う客まで出てきた。
中でも、個人病院の院長になると、「この店で一番高いお酒を出してくれ」と言って、陶器の入れ物に入ったロイヤル・サルートを10万円でキープする人が何人も現れるようになった。
そうなると、営業時間は深夜2時から3時くらいまでになり、多い時には売り上げが50万円になることもあった。
「キャッツ・アイ」は、市内でもトップのスナックとなり、噂の的になっていった。
そんな時、兄の英一が紳士服店を出すことになった。
店名は「扇屋」。
当時出てきたイージーオーダーで、ある程度の見本の服を着て、それと同じ寸法で、自分で選んだ生地で、東京のメーカーで機械で作ってもらうというものだ。
価格は、一郎が営む完全オーダーメイドスーツの半額以下だった。
英一から「キャッツ・アイ」で開店の話を聞かされた昭は、オープン初日に「扇屋」を訪れ、開店祝いとしてブレザーを注文した。
見本のブレザーを着て、「ここをもう少し小さく、ここをもう少し長くして」と言うと、面倒くさがりの英一は「昭、こんなもんじゃ。よし、これでええ」と言って昭を帰らせた。
元ファッションモデルだった昭は、その対応が気に入らなかったが、仕方なくそのまま受け入れた。
出来上がったブレザーは、やはりブカブカで、「ここ、もう少し絞れんかな?」と英一に言うと、顔をしかめて「上等、上等。こんなもんじゃ」と聞き入れなかった。
昭は仕方なく持ち帰ったが、そのブレザーを着ることは一度もなかった。
そんな商売をしていた「扇屋」は、当然ながら、2年で閉店してしまった。
スナック「キャッツ・アイ」の人気は、もはや止まるところを知らなかった。
開店当初は、昭のギターの弾き語りや、エレクトーンの伴奏で客が歌うスタイルだったが、ウイスキーのボトルキープが大幅に増えてきたため、弾き語りのステージもエレクトーンも取り払い、キープ棚を広げていった。
店は連日、活気に満ち溢れていた。
その頃には、ブティック「アドレ」の売掛金も、昭が昼間の間に集金に回り、1年かけて全て回収することが出来た。
「キャッツ・アイ」のオープン時にあった800万円の借金は、わずか1年で完済。
そして2年目には、なんと1000万円もの貯蓄を築き上げていた。
3年目に入っても、「キャッツ・アイ」のカラオケ人気は衰えることなく、益々繁栄していった。
しかし、その反面、昭の生活は昼と夜が完全に逆転していた。
昼から買い出しをして、料理の仕込みをし、午後6時には開店。
店が終わるのは、朝の3時か4時。
それから昼の1時くらいまで寝る、というサイクルが定着していた。
洋昭も3歳になり、幼稚園に通い始め、たくさんの友達ができた。
そんなある日の昼前、洋昭の友達が、昭と洋子がまだ寝ている家にやって来た。
洋昭の友達二人が家に入ってくると、寝ている二人を見て、無邪気に尋ねた。
「おじちゃんたち、まだ寝てるの?うちのお父ちゃんは、朝から会社へ行ってるから、もういないよ」
昭は、とっさに「おじちゃんたちはね、夜働いているから、朝は寝てるんだよ」と答えた。
子供たちは「ふーん」と言って黙ってしまった。
昭は黙ってその場をやり過ごしたが、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けていた。
その日の夜、いつものように営業を始めたが、昼間の子供たちの、あの「うちのお父ちゃんは、朝から会社へ行ってるから、もういないよ」という言葉が、頭の中を走り回っていた。
昭は、なかなか仕事に集中できなかった。
その日の営業が終わり、2階の自宅に帰ってきた昭は、洋子に「ちょっと話があるんで、座って」と言って話し始めた。
「俺、この店、あと3ヶ月で、辞めるわ」
昭の言葉に、洋子は静かに頷いた。
「そうだと思ったわ。昨日のあの子供たちのことね」洋子も薄々感じていたらしい。
「この生活は、この子の為には良くない。この仕事は、俺が年取ってからでもできる。今じゃない。悪いけど、辞めるわ」
「じゃあ、これからどうするの?」洋子が尋ねた。
「やっぱり、洋服屋になるわ。一から親父に教えてもらうわ。3ヶ月、タダ働きで、教えてもらうように、親父に頼んでみるわ」
昭の決意を聞いた洋子は、
「アンタの思うようにやったら?」と、当たり前のように、そして少しホッとしたような顔になった。
昭の心には、洋昭の未来と、新たな挑戦への決意が、強く宿っていた。
翌日、昭は決意を胸に、一郎のいる峰岸紳士服店へ向かった。
「親父、今の商売、洋昭のためにも良うないんで、あと3ヶ月で辞めようかと思うて。
それで、洋服屋をやろうかと思うて、親父に頼みに来たんやけど、3ヶ月間、給料は要らんけん、背広の売り方を教えてくれん?」
突然の昭の言葉に、一郎は驚きながらも喜びに満ちた表情になった。
「そうか、そうか。そりゃやっぱり、堅気の仕事がええ。それやったら、明日から勝也と一緒に営業に回れ」
一郎は、昭と親子の縁を切ると言った事件の後も、周りの友人社長達から「キャッツ・アイ」が大繁盛しているという話を聞き、何度か無理やり店に連れて行かれて、その盛況ぶりに鼻を高くしていた。
その繁盛している店を辞めてでも、洋服屋をやるという昭の決意に、一郎は機嫌を良くしていた。
そこで昭が付け加えた。
「それで、ひとつ条件があるんじゃけど」
「何じゃ」
「もし、その3ヶ月の間に、カツ兄と俺の2人で、ひと月で売上500万円作ったら、従業員全員を九州旅行に連れて行ってや、安いもんやろ」
一郎は微笑んだ。
「そりゃお前、500万いったら、九州旅行ぐらい安いもんじゃけど、そりゃ難しいぞ!今までの月の最高売上は、380万円が精一杯じゃったけんのう。まあ、頑張ってみ」
そう言って、一郎は笑顔で昭を見送った。
昭も、いよいよ明日から昼は洋服屋、夜はスナックという二刀流で頑張る覚悟で、気を引き締めてその日の夜のカウンターに立った。
ほとんど毎日来てくれる、大手会社の専務、古市さんに、早速、スナックを辞める話を持ち出した。
「色々考えたんだけど、まぁ若いから、いつまでも、この商売を続ける訳にはいかないと思い、3ヶ月後に、この店を辞めることにしました。
突然で申し訳ないですが、本当に古市さんには、お世話になりました。」
「それで、辞めてからどうするんだね?」「末っ子だから、オヤジの洋服屋の跡を継ぐと言う訳では無いんですが、分家みたいなもので、独立しようと思っています。
なので、明日から、オヤジの元で修行です。」
それを聞いてた専務が、
「マスターの、あのカスマプゲが、聞けなくなるのかね。寂しくなるねー。僕は、マスターのあの曲が大好きで、こうやって毎晩来てるのに。
よし、そしたら、閉めるまで僕が来たら毎晩、カスマプゲを歌ってちょうだい。」
「分かりました。何だか、歌詞の内容と同じみたいで、寂しいけど、歌わせて貰います。」
そう言って夜も更けて、店を閉めて、階段を上がって空を見上げると、北斗七星が、明るく光っていた。