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今宵も星は、黙して灯る  作者: 若絵真 宙
5/13

逆境からのアルバイト生活

モデル事務所の突然の閉鎖は、昭の生活を一変させた。華やかな東京での挑戦は、あっけなく終わりを告げたのだ。

それからの昭は、静かに大学生生活へと戻っていった。

昭が通う大学には、独特のシステムがあった。

3年間のうちに137単位を取得すれば、最後の1年間は大学に通う必要がなく、ゼミか卒業論文さえ提出すれば卒業できるというものだ。

モデル事務所が閉鎖されてからの昭は、目の前の現実に集中するしかなかった。

ひたすら勉強に励み、現在のところ、彼は既に132単位を取得していた。

このままいけば、予定通り卒業できるだろう。

しかし、差し当たっての問題は、生活費だった。

モデル事務所に最後に請求されたカメラの修理費を支払ったため、昭の貯金は残り10万円しか残っていなかった。


人間は切羽詰まると、仕事を探す注意力というものが研ぎ澄まされるものだ。

いつも何気なく利用していた経堂駅を降りたところにある喫茶店に、以前からあったはずなのに気づかなかった「バーテンダー募集」の張り紙が、その日、昭の目に飛び込んできた。

昭は迷わず、その喫茶店を訪ねてみることにした。

新たな一歩を踏み出す昭の心には、不安と期待が入り混じっていた。


経堂駅の線路脇に立つ2階建てのビル。

1階には小さな美容院があり、その隣にひっそりと佇む急な階段を上ると、透明なガラスドアが現れた。

ドアには「ラ・セーヌ」と描かれている。

昭は、緊張しながらも恐る恐るドアを開けた。

「いらっしゃいませー」

少しダミ声だが、品のいい女性の声が響いた。

60代後半くらいだろうか、おしゃれな雰囲気を纏った女性が、奥のテーブルに座る男性客二人、その隣のテーブルに座る一人の男性と雑談している最中だった。

客と間違えられた昭は慌てて口を開いた。

「いえいえ、あのー、外の張り紙を見て、バーテンダー募集の。経験はないんですけど、教えてもらえるんでしょうか?」

昭の言葉に、その女性は急に改まった表情になり、にこやかに言った。

「あら、そうなの?私がここのオーナーの朝霧です。夜なのに、変な名前でしょう?」

朝霧さんの言葉に、そこにいた3人の男性客が一斉に笑った。

昭は、どうしようかなと迷ったが、ここは笑うべき場面だと判断し、「ハハッ」と、少し無理して笑ってみせた。

しかし、朝霧さんには完全に見破られていたようで

「無理しなくってもいいのよ」と優しく言われてしまった。

「峰岸です」

昭は慌てて名乗った。

「若いわねー、いくつ?」

「21歳です」昭は答えた。

ふとカウンターに目をやると、背の高い若くて美人の女性が立っていたので、慌てて「こんばんは」と挨拶した。

すると彼女も明るく「こんばんは」と返してくれた。

ママさん(朝霧さん)が昭に尋ねた。「いつから、何時から働けるの?」

「昼間は大学に行っているので、夜6時くらいからだったら大丈夫です」

昭がそう答えると、朝霧さんは「あら、ちょうど良かったわ!」と嬉しそうな声を上げた。

「こちらの宮下さんね、本当はカウンターじゃなくてホール担当だったんだけど、次の人が見つかるまでカウンターをやってもらっているの。彼女は本当は9時までなんだけど、人が見つかるまで無理言って11時までやってもらっているの。良かったわね、あんた!」

宮下と呼ばれた女性も、嬉しそうに頷いた。

「それで、いつから来られるの?」

ママさんが重ねて尋ねた。

「僕のほうは明日からでも大丈夫です」

昭がそう答えると、

「あらそう。それじゃあ、夜だから時給ほ、チョット上げて220円でどう?」

昭は、200円くらいかな?と思っていたけど、少し良かったので、直ぐに、「はい、大丈夫です。」と、答えると、

「はい、それでは決まり!よろしくね」と、あっという間に採用が決まった。

「こちらは常連の岡島さんと山内さん。それからこちらは田辺さん。みんな毎日来るから、すぐに覚えるわよ」

そう言って、朝霧さんはテーブルの男性たちを紹介してくれた。

昭は一人ひとりに頭を下げて挨拶を交わした。

「それでは、明日6時から来ますので、よろしくお願いします」

昭はそう言って、弾むような足取りで階段を降りて、アパートに帰った。

空を見上げると、夜だというのに遠くが火事のように赤く染まり、その中に銀色の星が点々と並んでいた。

今まで忙しくて、この経堂から空をゆっくり見上げたことがなかったので、不思議に思いながら家に入った。

新たな生活への期待が、昭の心を温かく包み込んでいた。


次の日の夕方5時半、昭は「ラ・セーヌ」の急な階段を上がっていった。

ガラスドアを開けると、そこには既に、例の常連客、岡島さん、山内さん、そして田辺さんが座って、昭の登場を今か今かと待っていた。

「おはようございます」

昭が挨拶すると、三人は声を揃えて言った。

「待ってましたー!最初は緊張するだろうけど、分からないことがあったら、俺たちが教えるから、何でも聞いてくれよ」

すると、ママさんがすかさず口を挟んだ。

「何言ってんのよ。あんた達に教えてもらったら、店が潰れるわよ」

客とママさんの軽妙な掛け合いに、昭の緊張は少しほぐれた。

まずはカウンターに入って、コーヒーの淹れ方を教わった。

それから、ビールの出し方や、ミルク、紅茶の作り方など。

アルコール類はビールだけで、割と覚えるのは簡単だった。

この店の名物の一つは、ママさんお手製のホットドッグと、ナポリタンだ。

ホットドッグは、レタスとキャベツ、と、タマネギと人参を千切りにして、それに少しレモンの皮の千切りを混ぜる。

それを少量のお酢とサラダ油でよく揉み込み、一晩寝かせておくのだ。

すると、たっぷりの水分が出るので、注文が入ったらその野菜をよく絞り、ホットドッグ用のパンに縦に切り込みを入れて、そこに和がらしを塗り、野菜をたっぷり挟み、ウインナーにも切り込みを入れトースターで焼く。

焼き上がったら、両サイドに胡瓜のスライスをたっぷり挟み、仕上げにケチャップとマスタードをたっぷりとかけて出す。

というもので、これがまた評判が良かった。

漬け込んだ野菜が減ると、仕込んでおかなければならない。

そして、もう一つの人気メニューはナポリタンだ。

パスタを茹でて、玉ねぎ、ピーマン、ウインナーを炒めた中にパスタを入れ、ケチャップをたっぷりとかける。

そこにウスターソースを少し加えて、ケチャップが少し焦げるまで炒める。

それを皿に入れて、その上に目玉焼きを乗せ、粉チーズとタバスコを添えて出す。

こちらも常連客に大好評だった。

これらの作り方を覚えるのには少し時間がかかったが、一人暮らしでずっと自炊をしてきた昭にとっては、比較的簡単に覚えられた。


さほど広い店ではなく、ほとんどが常連客で、昭の勤務が夜だったので、そんなに忙しい時間はなかった。

ホールの宮下さんは9時までなので、それからはママが代わりにホールに入り、昭はカウンターから出ることはなかった。


ママが、宮下さんのことを話し始めた。

「宮下さんは、結婚してて、共稼ぎなのよ。ご主人はおとなしい人で、学者タイプで、いい人よ」

聞いてもいないのにママが言うので、宮下さんは少し顔を赤らめて、

「結婚してると言っても、まだ1年にもなってないんですよ」と訂正した。

「そうそう、ラブラブよ」

と、また田辺さんが茶化した。

その日は、他の客も来なくて、閉店まで、先に帰った宮下さんを除いて、五人で和気あいあいと過ごし、一日が終わった。


「ラ・セーヌ」で働き始めて数日が過ぎた頃、毎日顔を出す常連客の岡島さんと山内さんが、突然言い争いを始めた。

岡島さんが涙ながらに訴える。

「なんでよ!私はいつも貴方のことを思って食事もちゃんと作っているし、貴方のことを一番に考えてるじゃないの。なのになんで…」

山内さんは困ったように答える。

「そんなことは分かっているよ。そうじゃなくて、たまに俺が一人で出かけたからって、変な詮索はしないでほしいと言っているだけじゃないか。俺は、お前だけなんだから」

岡島さんは少し考え込んでいたが、おしぼりで涙を拭きながら、

「本当?私の早トチリ?」と尋ねた。

「そうだよ。いい加減にしろよ」

と山内さんが言うと、二人はテーブルの上で手を取り合って、ほっとしたような顔で見つめ合っていた。

そんな光景を初めて見た昭に、ママがカウンター越しに、昭の耳元に口を寄せて囁いた。

「いつものことなのよ。何ヶ月かに一度、ああいうことがあって、また仲直りするのよ」

ママは呆れた表情で、笑いながら言った。

昭は、おとなしそうな男性の岡島さんと、ヒゲ面の山内さんの関係に、世の中には色々な世界があるのだな、と改めて感心した。

そこへ、いつもの田辺さんが入ってきて、岡島さんと山内さんの穏やかな雰囲気を察し、茶化すように言った。

「お二人はいつも仲が良くて羨ましいよ。俺なんか女房に逃げられてからは、女っ気なしだよ。ママにも愛想尽かされてるしね」

するとママがすかさず、「ナベちゃん、それは自業自得というものよ。

それと、あんたがもう少しセンスが良ければ、私もちょっとはね?」と返す。

「俺、センス悪い?そうかなぁ?ここに来る時は、大体チェックして来てるんだけどなぁ」

田辺さんが自分の服装を見ながら言うと、ママは呆れたように、

「あんた、その服、昨日も着てたじゃない。もう少し派手な服も着れば?」

「えー、派手なのはどうもねぇー」

「だからモテないのよ」

そんな他愛のないやり取りをしていると、ガチャリとドアが開き、眼鏡をかけた一人の男性が入ってきた。

「あら、久しぶりね」

ママが言うと、宮下さんが馴れ馴れしく尋ねた。

「いらっしゃい。どうしたの?」

男性は昭に向かって頭を下げ、

「こんばんは」と挨拶した。

それを見たママが、

「あっ、こちらは宮下さんの旦那さん。で、こちらが新しく入ったバーテンダーの峰岸君」

そう言って紹介されたので、昭は初めて、彼が宮下さんのご主人だとわかった。

「たまには、ここのコーヒーが飲みたくなって」

そう言いながら、ご主人はテーブルに座った。

ママが昭に「峰岸君、コーヒー一つね。それと、せっかく旦那が来たんだから、あんたも座れば?」と言うと、宮下さんは待ってましたとばかりに、嬉しそうに旦那の前に座った。

それから30分ほど経った時、突然宮下夫婦のテーブルから、

「ねぇ、聞いてみようか?」と、言うと、

「峰岸君、音楽好き?」

「ああ、音楽は好きですよ」

昭が答えると、宮下さんが興奮したように言った。

「今話してたんだけど、カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』のレコード持ってない?」

「ああ、ありますよ。アルバムのLPだけど」

昭が答えると、宮下さんはご主人と一緒に昭の方を向き、「本当?持ってるって!貸してくれない?」とせがんだ。

「ああ、いいですよ。じゃあ、明日持ってきますよ」

昭が快く承諾すると、二人は「良かったー!ありがとう!」と、心から喜んだ。

9時になり、宮下夫婦は連れ立って帰っていった。

二人が帰った後、真面目そうなご主人の事や、どこで知り合ったのだろうなどと、他愛のない話が続いた。

昭はふと、先日不思議に思った事を、誰とは無しに聞いてみた。

「そう言えば、帰り道、ここから見ると、向こうの空が火事のように真っ赤に見えるんだけど、あれは、何ですか?」

するとすかさず、田辺さんが、

「あぁ、向こうのほうの空だろう?あれは、新宿か、渋谷の街のネオンの灯りだよ。明るいから、夜になると、ここまで届いているんだよ。」と、教えてくれた。

昭は、改めて、東京ってすごいなあと思った。

昭は、このバーテンダーの仕事が、単なる生活費のためだけでなく、新しい人々との出会いや、思いがけない交流を生み出していることに気づき、小さな喜びを感じていた。


そんな生活が3ヶ月ほど続いたある日の午後9時前、田辺さんが店に現れた。

酔っていて機嫌が良いのか、大声で叫びながら、

「いよー、皆の衆、元気でやってるかね?あんたいつ見ても可愛いね」

と、宮下さんに絡み始めた。そして、酔った勢いで宮下さんのお尻を、上から下へと鷲掴みにして撫で回した。

「キャー、やめてください!」宮下さんがそう言ったかと思うと、その場に座り込んで泣き出した。

それを見た田辺さんは、「あれ?ごめんごめん。そんなに驚くことないだろう?ガハハハ」

と笑いながら席に座った。

その光景を見ていたママは、「アラアラ、そんな大袈裟な。お尻触られたくらいで」

と言いながら、田辺さんにお水を運んでいた。

昭は、もう少しでカウンターを飛び越えて、殴り掛かろうかと思ったが、ぐっと拳を握りしめて我慢した。

宮下さんは「帰ります」とだけ言って、ドアを開けて階段を降りていった。

「アラアラ帰っちゃった。

まあ、ちょうど時間だったんだけどね。

それにしても、あれくらいで、小娘でもないんだから泣かなくてもねぇ」ママはそう言って肩をすくめた。

「ごめんごめんママ。俺もちょっとやりすぎたかな?でも、あんなに怒るとはね?」田辺さんが言う。

昭は黙って皿洗いや仕込みを続けていた。

心の中では怒りが煮えくり返っていた。

午後11時になり、昭が帰る時間になった。

田辺さんも帰り、店には昭とママだけになった。

昭が帰る支度を終えると、ママに向かって言った。

「ママ、俺、今日限りでこの店辞めます」

「アラ、どうしたの突然。何かあったの?」

ママは、まるで何事もなかったかのように、昭に問いかけた。

「ちょっと酷いんじゃないですか?宮下さんが、あんなに泣いているのに、ママも笑っているだけで、田辺さんに怒りもしないで。俺は、よっぽどこのカウンターを飛び越えて、殴り掛かろうかと思ったけど、この店がワヤになるし、壊してしまうけん我慢したけど、無理やわ。あんたも経営者だったら、従業員を庇ったらどう?」

昭は怒りを抑えながら、精一杯の言葉を絞り出した。

しかし、ママから返ってきたのは、昭の予想を遥かに超えるトンチンカンな答えだった。

「アラ、アンタ、宮下さんに惚れてたの?」

呆れた昭は、「もうええわ。短い間だったけど、お世話になりました」そう言って、店を後にして家路についた。

「あーあ、明日からまた、バイト先を探さないといかんなぁ」夜空を見上げると、今晩の星は、今までになく頼りなさそうに見えた。

希望に満ちて見えた新しい居場所は、呆気なく終わりを告げた。

昭の心には、やり場のない憤りとともに、再び不安が募っていた。


経堂の喫茶店「ラ・セーヌ」を辞めてから、昭は大学生活の3年間を終えた。

単位も148単位取得し、残るはゼミを受けるか卒業論文を書くか、どちらかで卒業できることが確実になった。

4年生になったばかりのある日、学食で昼食を食べていると、同じクラスの友人、塩田尚政が声をかけてきた。

「おぅ、峰岸、ちょうどええ所におったわ」そう言って、昭の隣の椅子に座った。

何事かと、昭が少し椅子をずらして座り直すと、塩田は神妙な顔で話し始めた。

「お願いがあるんやけどな、俺もバイト探しとって、二つ面接受けて、最初に受けたとこから採用の連絡来たんやけど、後から受けたとこが、俺の好みに向いとるんで、そっちにしたいんや。

最初の喫茶店、峰岸行ってくれへんか?

実は、その店に、もう、お前の話してるんや。

そしたら、経験あるんやったら構へん言うてくれてるんや」

神戸から来ている塩田は、両手を合わせて拝み込んできた。

「俺でええのか?」

昭が尋ねると、「ええどころやあらへん。願ったり叶ったりや。頼むわ」

と、必死の形相で懇願する。

「ラ・セーヌ」を辞めてから、新しいバイト先を探していた昭には、まさに渡りに船の話だった。

その喫茶店は、日本橋にある「ローハイド」という純喫茶だった。

井の頭線から地下鉄を乗り継ぎ、日本橋で降りる。

有名なデパートの裏通りに出ると、道の角に「ローハイド」と書かれた看板が見えた。

その店の壁に沿って、靴磨きの叔父さんが、ちょうど客の靴を磨いている最中だった。

店に入ると、早速マスターの山下浩二さんが、昭の履歴書を見て言った。

「ああ、聞いています。経験があるそうだね。良かった。ちょうどカウンターの山田さんが、今月いっぱいで辞めるので、後釜を探していたところなんだよ」

マスターはそう言って、カウンターで忙しそうに働いている山田さんのところに昭を連れて行った。

「こんにちは、明日からお世話になります峰岸です。宜しくお願いします」

昭がそう挨拶すると、山田さんはただ「あぁ」とだけ言って、長いヤスリで包丁を研ぎ始めた。

山田さんは角刈り頭で、見た目は30歳くらい。

背は低いがいかにも職人肌で、むっつりとしてて、昭にとっては少しとっつきにくい印象だった。

昭は、第一印象から苦手なタイプだと感じた。

まだ早朝だったので、客はほとんどいなかったので、マスターの山下浩二は、昭をテーブルに座らせて言った。

「それでは明日からお願いしますね。給料は、日曜日が休みなので、それ以外出られるということなので、月給7万円で、どう?」

当時の日本では、池田勇人首相の所得倍増計画や田中角栄首相の列島改造論の影響で、給料が毎年上がっていた時期だった。

バイトとはいえ、昭にとっては破格の金額に驚きを隠せない。

昭はすかさず「はい、それでいいです」と言って、二つ返事で快諾した。

一通り店での営業内容を聞き終え、昭は再び山田さんに声をかけた。

「それでは明日来ますので宜しくお願いします」

すると、山田さんからは、またしても「あぁ」という短い返事だけが返ってきた。

新しいバイト先が決まり、当座の生活費の心配はなくなった。


翌朝、昭は8時に店に到着した。

既に山田さんが来ていて、様々な準備をしている最中だった。

「おはようございます」

昭が挨拶すると、山田さんは初めて「あぁ」以外の言葉で返事をした。

「おはよう」

「まず、何をすればいいですか?」

昭が尋ねると、山田さんは大きな寸胴鍋を二つ出してきて言った。

「この寸胴にコーヒーを150杯ずつ淹れるから、準備して」

「ラ・セーヌ」にいた時はサイフォンで一杯ずつ淹れていた昭は、要領が分からず

「えぇ〜っと」と言って鍋を眺めていると、山田さんが三本足の円形のタワーのようなものを取り出して言った。

「これにこの布を掛けて、コーヒー150杯分を作るんだよ。お湯をヤカンに一杯沸かして、蓋がガタガタ言い出したら、火を止めて、一度蓋を開けて、少しさましてから、ヤカンの口から細〜い線でお湯を中心から徐々に回しながらムラしていくんだ。最初は俺がやるから、よく見て覚えて!」

そう言いながら山田さんが、直径30cmはあろうかという大きなヤカンを片手で抱え、細い細い糸のようなお湯をゆっくりと落とし始めた。

するとコーヒー豆からブクブクと泡が立ち、それが徐々に膨れ出し、そこから良いコーヒーの香りが広がった。

そして今度は全体に大きな円を描くようにお湯を落とし始めた。

すると、布の下から茶色いコーヒーの液体が、滴り落ち始めた。

そのヤカンのお湯が無くなると、もう一つ沸かしていたヤカンに持ち替えて、寸胴の8分目くらいになるまで、同じ作業を繰り返した。

一つ目の寸胴鍋が一杯になるのを見届けると、山田さんが「次は君の番だ。やってみろ」と言った。

昭は新しい寸胴鍋に同じようにタワーと布をセットし、コーヒー豆を150杯分入れた。大きいヤカンが沸騰したので、火を止めて蓋を開け、しばらくして蓋を閉め、いざお湯を落とそうと片手で持つと、手が震えて上手く細くお湯を落とせない。

すかさず山田さんが声を荒げた。

「そんな太い線じゃあコーヒーに酸味が出て不味いぞ。最初は、もっともっと細くしないと、美味しいコーヒーを淹れられないぞ。それから、コーヒーは繊細なものだから、気分がイライラしてると苦味が出たり、急いで淹れると酸味が出るから、淹れる前に深呼吸をして、気持ちを落ち着かせてから淹れろ」

手厳しく教えられ、昭は初めて、コーヒーの淹れ方の難しさと奥の深さを思い知った。

しかし、70席ほどの店で、こんな300杯ものコーヒーを淹れて、残りはどうするのだろう?と不思議に思い、考えていると、横からすかさず

「ホラ、淹れ終わったら、このバースプーンでよくかんまかして」と言われた。

初めて聞く「かんまかして」という言葉が分からなかったので、「かんまかして?」と聞き返すと、「そうだよ、こう、かんまかして」と、手をグルグル回しながら言うので、なるほど、掻き回すことなんだ!と初めて気づいた。

それから、

「出来たらコレをそっちへ持って行って、次のを作る!」と言われたので、

「そっちって?」

と尋ねると、「そっちはそっちだよ。

そこをまっつぐ行ったところだよ」と、またしても分からない言葉。

山田さんの動作を見ると、向こうの方を指差している。

昭も、やっと理解できた。「

「まっつぐ」とは、真っ直ぐのことだったのだ。

後で聞くと、山田さんは江戸っ子弁が好きで、よく江戸っ子弁を使うので、「カンマカス」とか「マッツグ」とかいう言葉を使うらしい。

「めんどくさ!ジジイか?」

と思いながらも、昭は山田さんの言葉に従った。


さて、そんなこんなで始まったローハイドでの初日。

午前中は、ぼちぼちの客入りだった。

昭の頭の中は、あの300杯分のコーヒーのことがずっと引っかかっていた。

あんなにたくさん淹れて、一体どうするのだろう?

それにしても、この店のホールには、マスターと男性ウェイターが1人、女性ウェイトレスが3人の合計5人もいる。

昼は忙しいとは聞いていたけれど、多すぎるだろう、と昭は思っていた。

そんなことを考えている間に、時計が12時のチャイムを鳴らした途端、ガヤガヤと人の波が押し寄せた。

70席ある店内は、あっという間に満席になった。

4人掛けのテーブルにも、相席、相席で、ぎっしりと客が埋まる。

そこに、ホットコーヒー15杯、ホットミルク、オレンジジュース、ミルクティー、レモンティー、ミルクセーキ、バナナジュース、アイスミルク、アイスミルクティー。

その上にプリン、プリンアラモード、ホットケーキ、卵サンドにミックスサンド、バナナパフェなど、一度に10種類以上の注文が入る。

カウンターは今まで山田さんが一人でやっていたらしいが、初めてオーダーを聞いた昭は、とても覚えきれない。

ところが、山田さんは、聞いたオーダーを次から次へと淀みなくこなしていく。

あまりの手際の良さに見惚れていた昭に、山田さんが声をかけた。

「早くカップを洗え、間に合わねぇだろう。水のコップも。ソーサーも。ほら、スプーンも足りねぇぞ」

昭は慌てて洗い物をするが、その間にも山田さんは、レモンを切ったり、ホットケーキを焼いたり、プリンアラモードを作ったりと、驚くべき速さで作業を進めていく。

飲み物を飲み終えた客が入れ替わり立ち替わり交代していく。12時から13時までの1時間で、店の客が3回転。

コーヒーだけでも、230杯出たという。

「凄すぎる…」昭はただただ圧倒されていた。

汗びっしょりで、エプロンをしていても、ズボンまでびしょ濡れになっていた。

午後1時半にやっと客足が落ち着いてきた。

ホールの人たちも、喋る間もないほど忙しそうだった。

近くのデパートの店員さんや、大きな会社のサラリーマンたちが、昼食の時間に一斉に集まるらしい。

やっと片付けが終わり、午後2時に昼食の弁当を食べられる。

昼食も店が用意してくれているもので、食費が助かるので、昭にとってはありがたい。

昼食を食べているとマスターが現れて、

「どう?忙しかっただろう?」と聞いてきたので、

「忙しいなんていうもんじゃないです。

凄いですね。

あんなにたくさんのオーダー覚えられないですよ。

山田さんは凄いですね」

と、昭が感心して言うと、マスターは人ごとのように簡単に言った。

「最初はみんなそうなんだよ。1週間もしたら慣れるよ」

そう言って、店の方へと向かっていった。

食事が終わる頃には山田さんも食事に現れて、

「お疲れさんでした。明日から、峰岸君が中心でやってよ」

と、初めて笑いながら言った。


ローハイドの営業時間は、朝10時から夜7時までだった。

その日の夜6時過ぎ、店に一本の電話があった。

電話を受けたウェイトレスが「はい、わかりました。ホットコーヒー50杯ですね。ありがとうございます」

そう言って電話を切った。

「お向かいのオンリーワンさん、コーヒー50杯配達です」ウェイトレスがそう告げると、3人のウェイトレスが銀のトレーに皿とスプーン、ミルクピッチャ、そしてコーヒーカップを乗せて準備し始めた。

昭は、言われた通りにコーヒー50杯分を沸かし、ポットに入れてウェイトレスに手渡した。

これは月に3回ほどある、向かいのビルにある「オンリーワン」という会社の営業会議用の出前注文なのだという。

それらを回収して片付けが終わるのが夜8時。

昭は、初日から疲れ果てて帰路に着いた。

昼間の怒涛のような忙しさ、そして夕方からの大量の出前。

想像以上のハードワークに、昭の体はへとへとだった。


翌日、昭は気合を入れてローハイドへ出勤した。

既に山田さんが来ていて、あれこれと段取りをしていたが、昭の顔を見るなり

「おはようさん。昨日言った通り!今日から峰岸君にやってもらうからね」

と、ごく当たり前のように言ってきた。

昨日の発言は冗談だと思っていた昭は、

「いや、うそー、冗談でしょ?そんな、無理ですよ」

と慌てて反論した。

しかし、山田さんは涼しい顔で

「いやいや、大丈夫だよ。俺も横について手助けするから、頑張って」

と言い、自分は食器の方へ向かった。

そして、昭にコーヒーの淹れ方からプリンの仕込み、プリンアラモードの作り方などを教え始めた。

これは撤回は無理だと悟った昭は、ホール担当者を集めて、新しい提案を始めた。

「そういうことで、今日から僕が受けたオーダーを作るようになりましたので、オーダーの呼び方を変えたいと思います。昨日のあの忙しさの中で、オーダーを全部聞き取るのは難しいと思うので、提案です。コーヒーは今まで通りアイス、ホットでいいと思いますが、レモンティーはレティ。アイスレモンティーはアイレティ。アイスミルクはアイミー。クリームソーダはクリソ。と、短縮した方が、オーダーを言う人の声が重なりにくいと思います。

どうでしょうか?」

昭の提案に、最初は

「そんな今さら…」

と戸惑いの声も上がったが、「そうね、その方が私たちも、言いやすいかもね」

と、昭の意見に同調してくれた。

それから1週間後、山田さんは静かに別れを告げ、店を離れていった。


それから一ヶ月が過ぎ、半年が過ぎる頃になると、昭はローハイドの仕事にもすっかり慣れた。

昼時の怒涛のような忙しさも、もはや日常となり、手際よくオーダーをこなし、コーヒーを淹れ、プリンを作る日々を送っていた。

店の壁際で毎日靴磨きをしている、デップリと太った60代半ばのオッチャンとも、すっかり顔なじみになった。

マスターが早朝に出てきていない時には、昭はコッソリと出来立ての温かいコーヒーをオッチャンに差し入れた。

「いつもありがとう。アンタは、良い人だネェ。」

オッチャンは、昭の心遣いを気に入り、そう言って、色々な世間話をする間柄になっていた。

昭も、いつしかオッチャンのことを他人とは思えなくなり、「とっつぁん、とっつあん」と呼ぶようになった。

お互いに名前も聞かないまま、二人の会話は弾み、店の前のささやかな空間で、世代を超えた友情が育まれていった。

昭にとって、とっつあんは、東京での生活における、もう一人の温かい存在となっていた。


その年の暮れ、昭がいつものようにとっつぁんに淹れたてのコーヒーを差し入れていると、とっつぁんが突然、顔を上げて尋ねた。

「ところでアンタ、来年大学卒業だろう?どこか就職先は決めているのかね?」

「いやー、なかなか就職難で難しいねー。そのうち探すよ」昭は適当に答えた。

すると、とっつぁんはやおら口を開いた。

「そうかね。私の知り合いでね、運転手を探しているんだがね、その人の運転手はどうだね?多分アンタも知ってると思うが、大きい会社で、日本倶楽部と言ってね、日本全国にゴルフ場を20箇所くらい持っている会社で、そこの会長さんなんだけど」

昭もその会社の名は、あまりにも有名なので聞いたことはあった。

しかし、こんな靴磨きのオッチャンの言うことは当てにならないだろうということと、運転手という仕事は性に合わないだろうと考え、

「うん、それは遠慮しとくわ」と答えた。

それから約1ヶ月後、昭はローハイドも辞め、本格的に就職活動を始めることにした。とっつぁんからの奇妙な誘いは頭の片隅に追いやられ、昭の意識は、厳しい就職戦線へと向けられていた。








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