旅立ち ファッションモデル
高校3年生の冬休み、昭は一人、東京銀座の雑踏の中に立っていた。
目的は、父の紹介で得たファッションモデルのオーディションだ。
修学旅行以来の東京、しかも銀座四丁目という、誰もが知る中心地にそびえる大きなビルを前に、昭は大きく息を吸い込んだ。
ビルの1階受付には、「日本タレントエージェンシー オーディション会場」と書かれた看板があった。
都会の洗練された雰囲気に気圧されながらも、昭は勇気を振り絞って中へ入った。
キョロキョロと周囲を見回しながら、恐る恐る受付に名前を書き込む。
「こちらのドアからどうぞ」
受付の女性に促され、昭はゼッケンの付いたカードを胸に付けた。
案内されたのは、真っ暗な映画館のような広い会場だった。
既に50人ほどの応募者が座っており、ステージ上には5、6人の審査員らしき人物が並んで座っていた。
昭の番号は21番。
緊張で手のひらに汗がにじむ。
皆、一人ずつステージに上がり、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を朗読させられた。
「ヨシ」という合図があるまで読み続けるという指示だ。
順番が近づくにつれ、昭の心臓は高鳴った。
いよいよ昭の番が来た。
緊張を隠すように背筋を伸ばし、ステージの真ん中に立つ。
「はい、21番峰岸さんですね。
それでは、この『雨ニモマケズ』を、ヨシと言うまで読んでください」
ブラスバンドとバンドライブで肺活量を鍛え上げていた昭は、その力を存分に発揮した。
ステージの奥、最後列の席まで届くような、張りのある大声で朗読を始めた。
言葉一つ一つを力強く、感情を込めて読み進める。
ものの10行ほど読み終えたところで、「はい、21番さんOKです」と声がかかった。
それ以上何も言われることなく、昭のオーディションは終了した。
手応えがあるのかないのか、まるで判別できないまま、昭は席に戻った。
1時間後、待合室に一人の関係者が現れた。
「ただ今から、先ほどの合格者の番号と名前を発表いたします。呼ばれた方は前に出てください」
張り詰めた空気の中、番号が読み上げられる。
「3番、大橋さん。8番、古岩さん。12番、高橋さん。20番、中島さん…」
次々と番号が呼ばれる。
昭は胸が苦しくなるのを感じた。
「まさか、20番の次の続けての俺の番号はないんじゃないか…」
諦めにも似た思いがよぎったその時だった。
「21番、峰岸さん!」
「やったー、合格だー!」昭は心の中で叫んだ。
父の知り合いの推薦とはいえ、どこか半信半疑だった自分がいた。
しかし、見事合格にこぎつけたのだ。
合格者は全体で15名。
狭き門を突破できたことに、昭は震えるような喜びを感じた。
「それでは、今呼ばれた方は、帰りに次回の集合場所と日時を書いたプリントをお渡しいたしますので、必ず次回お越しください。次回お越し頂かない場合は、合格を取り消させて頂きます」
関係者から渡されたプリントには、「次回:1969年3月20日、銀座4丁目某ビル5階」と記されていた。
東京での新たな挑戦が、いよいよ現実のものとなる。
その日の夜、100円玉を3枚10円玉に交換してもらい、公衆電話から、早速一郎の元へと電話を入れた。
「親父、今日発表があって、合格したよ。」昭は、興奮を隠して、普通を装って言った。
その声に一郎は、「そうか、合格したか、良かったのぉ。ほいで、どんな面接やったんや?緊張したやろ。」
昭よりも一郎の方が興奮して聞いてきたので、「それがな、宮沢賢治の詩を読まされただけで、なんか拍子抜けしたわ。」と、呆気ないオーディションを報告すると「何や、詩を読んだだけか?そりゃ簡単やったなぁ?そやけど、何はともあれ良かった、良かった。ほしたら明日でも早速鮫島社長の事務所へ行ってお礼を言うてこい。ちゃんと手土産を買うていけよ。住所は分かっとるやろ?こう言うことは、早い方がええけん、明日絶対に行けよ。」
一郎の言葉に昭は、なるほど!これが礼儀と言うものやな。と、感心しながら「うん、分かった、明日絶対に行ってくるわ。」そう言った途端に、受話器から、ブーッと言う音が聞こえた。それは、もう、最後の10円ですよ。と言う合図の音で、300円分の10円玉が丁度無くなった所だった。
昭の心は、期待と、そして未知への興奮で満ち溢れていた。
次の朝早く昭は、地図を頼りに鮫島社長の事務所の住所を尋ねることにした。
駅はどうやら大塚駅らしい。
駅の地図をみると、渋谷からぐるっと回ったところに大塚駅と言う名前があった。
先ずは、宿泊していたホテルから渋谷駅まで歩いて行き、駅でお土産を購入して、山手線に乗って大塚駅で降りたった。
初めての大塚駅。
右も左もわからず、駅員に住所を見せて、どちら方面か?尋ねると、駅から歩いて20分ほどの所に全日本鮫島服飾組合と言う看板が掛かった5階建てのビルの前に辿り着いた。
1階では、大勢の人が出入りし、荷物を載せたトラックや、上から降りてくる人の波で圧倒されて立っていると、1人の男性が「君、なに?何か用事?」と聞いてきたので、「あっ、鮫島社長に会いにきたんですが。」と言うと、「鮫島社長?アポ取ってる?」と聞いてきたので、初めて聞くアポという言葉に、「アポ?」と聞いて、不思議そうな顔をしてると、「あぁ、取り敢えず2階へ行って。2階に受け付けがあるので、そこで聞いて見て。」と言われ、「有難うございます。」と、早口に言って、慌てて階段を駆け登った。
2階に付くと、ちゃんとした事務所になってて、カウンターの席に受け付けの女の人が座っていた。
「こんにちは。峰岸と申しますが、鮫島社長は、いらっしやいますでしょうか?」と尋ねると、さも当たり前のように、「はい、お伺い致しております。社長は、3階におりますので、どうぞ3階へお上がりください。」
そう言って当たり前のように、3階への階段を差し示した。
階段を上がると、2番目のドアに社長室の名札が掛かっているドアがあり、軽くノックをすると中から、「ハイ、どうぞ。」と、聞き覚えのある声が返ってきた。
ドアを開けると、見覚えのある鮫島社長がニコニコ笑いながら、「やぁ久しぶりだね。元気そうだね。まっ、お座りなさい。」そう言って昭に椅子を勧めた。
椅子に座ると、フカフカで、腰が埋まって驚いたが、それを見た会長が、「ハハ、チョット柔らかすぎるかな?実は昨晩、君のお父さんから電話があってね。君が合格したから今日、僕に会いに来ると言っていたので、待っていたんだよ。イヤー良かったね。取り敢えずおめでとう。」そう言って握手を求めてきた。
慌てた昭は、直ぐに立ち上がり、「いえいえ社長さんのお陰で合格する事が出来ました。ありがとうございました。」そう言うと、大袈裟に手を振って、「イヤイヤ貴方の実力だよ。お父さんも、喜んでいたよ。これからが大変だけど、頑張りなさい。」そうこう話しているうちに、ドアがノックされて、1人の男性が入って来た。「社長、お呼びですか?」彼は、極端に背が低く、1m50cmくらいだけど、派手な幅の広いストライプの三つ揃いのスーツで、眼光が鋭く、自信に満ち溢れた容貌をしていた。
「昭君、彼は我が社の専務で、松井君で、業務のほとんどは彼が仕切ってやっているんだ。松井君、彼が話をしていた峰岸 昭君。今日は、オーディションの合格報告に来てくれたんだ。どうだ、いい男だろう?」
そう言うと、鮫島社長は、昭を松井専務に紹介した。
「初めまして、松井と申します。社長からは、以前から、貴方のお話は伺っていました。さすが社長、お目が高い。失礼だけど、少しまだ田舎の匂いがするけど、これから磨けば光りますね。楽しみですね。」松井専務は、歯に絹を着せない容赦ない言い方で、昭に話しかけた。
初対面での言い方に昭は、少しムッとしたが、確かに田舎から出て来たばかりの自分には、この人の服のセンスや立ち居振る舞いが、映画の中から出て来た人のようで、圧倒されていた。
「鮫島 昭です。こちらこそ宜しくお願い致します。」
昭は、そう言ってお辞儀をすると、松井専務が握手を求めてきた。
田舎では握手をすると言う事などがあまり無かったので、ドギマギしながら手を出すと、彼は、しっかりと両手で昭の手を握り、「これからは何でも私に相談して下さい。それから、差し出がましい事を言うようですが、コーヒーを飲みに行く時には、安っぽい喫茶店に行かずに、高級なホテルのロビーで飲みなさい。そこには、お金持ちの上品な人達がコーヒーを飲みにきます。その人達の仕草や服装を見てると、自然と貴方も、そのセンスが身についてきます。
余計なことかも分かりませんが、ファッション業界に行くためには、凄く参考になると思います。これからも宜しくお願いしますね。」
そう言いながら、満面の笑みで、昭を見返した。
昭は、何だか衝撃を受けた。
そう言えば、自分が高校生の時、学生ズボンがラッパズボンと言う、裾幅が28cmのズボンが流行り、学校で禁止対象になり、抜き打ちで、先生に裾幅の検査をされて、幅の広いズボンを履いている生徒は、家に帰って着替えて来いと言われていた。
そんな時昭は、父親に頼んで、ズボンの横の縫い合わせのところに、真っ赤な生地を挟んで、真っ直ぐ立っている分には普通のズボンだけど、座ると、縫い合わせの所が開いて、中の赤い生地が見えるように作ってもらった。
それが仲間内の話題になり、学校内でも広がった時があり、あまりにも増えて目立ってきたので、禁止になった。
確かに、今までの自分達の考えとは違う、他の物を見ると、目線が変わる事は、実体験で、分かっていた。
昭は、鮫島社長と松井専務に、「これからも頑張りますので宜しくお願い致します。」と、お礼を言って会社を後にした。
大学合格が決まっていた昭は、オーディション合格の勢いそのままに、大学近くのアパート探しに取り掛かった。学生センターへと足を運び、勧められたのは、駅から徒歩10分と謳われた物件だった。六畳一間の部屋にはベッドが備え付けられ、家賃は破格の9千円。
大家さんは、元病院経営の奥さんで、院長だったご主人が亡くなってからアパート経営に切り替えた。と言う話だった。
共同トイレと共同炊事場付きという説明を受け、右も左も分からぬまま、とりあえず経堂にあるそのアパートに決めた。
東京の地理に疎かった昭は、近いと思っていた経堂と銀座の位置を地図で確認し、意外な距離に驚いた。
思っていたよりもずっと遠い。
しかし、彼が一番驚愕したのは、実際に住み始めてからのことだった。
「駅から徒歩10分」と書かれていたはずのアパートは、どんなに急いでも20分はかかる道のりだったのだ。
しかも、後から大家さんに聞いた話では、そこは元々病院の結核病棟だったという。
備え付けられていたベッドは、入院患者が使っていたような、白く汚れたパイプベッド。
共同トイレは、自分の部屋の襖の引き戸を開けて一度外に出て、スリッパを履いて向かわねばならない。
その横に共同炊事場はあったものの、部屋から遠すぎてほとんど利用することはなかった。
実家からの仕送りは月4万円。
家賃が9千円というのは確かにありがたかったが、学生が住む場所というのはこんなものかと、昭は半ば納得するしかなかった。希望と現実のギャップに、東京の厳しさを肌で感じ始めていた。
迎えた3月20日。銀座4丁目の事務所までの道のりは、昭にとって最初の試練だった。経堂から小田急線に乗り、さらに地下鉄を乗り継いで銀座へと向かう。
都会の複雑な路線図と人波にもまれながら、ようやく目的のビルへとたどり着いた。
5階の事務所に入ると、すでにオーディションに合格した15名の新人モデルたちが集まって座っていた。
緊張感が漂う中、力石と名乗る担当者が現れた。
「皆さん、こんにちは。晴れて合格、おめでとうございます。」
力石は、朗らかな声で皆を祝福し、今後のスケジュールを告げた。「それでは、来月から毎週月、水、金曜日の夜7時から9時まで、ウォーキングの練習をいたしますので、必ずこの地図の場所に来てください。」
そう言って渡された地図には、また新たな場所が記されていた。
昭の東京での新生活、そしてファッションモデルとしての厳しい訓練が、いよいよ本格的に始まるのだった。
次の月の月曜日、夕方6時30分。
昭は渡された地図を頼りに、東京の新しい目的地へと辿り着いた。
1階に大きく張り出された「日本タレントエージェンシー レッスン会場 7階」と書かれた貼り紙を目にし、エレベーターで7階へと上がっていった。
7階は、ガランとした広間になっていて、そこにはすでに大勢のモデルの卵たちや関係者が集まっていた。
緊張と期待が入り混じる独特の空気が漂う。
「それでは時間になりましたので、早速始めたいと思います。
私は今日からレッスンを担当する萩です。宜しくお願い致します」
そう言って現れたのは、すらりとした長身の男性講師だった。
彼の声には、有無を言わせぬ響きがあった。
「これから皆さんの名前を読み上げますので、呼ばれた方はこちらから順番にお並びください」
萩の指示に従い、呼ばれた者から順に整列していく。
「それでは最初の人から順番に、いつも通りここから真っ直ぐに正面の窓の所まで歩いて、窓に突きあたったらUターンして、ここまで帰って来て下さい」
一人ずつ、ぎこちないながらも歩き始める。
一通り全員が歩き終えると、萩は静かに言った。
「ただ真っ直ぐ歩くのは楽だったでしょう?でも、今の歩きでは、ステージでは全然ダメです。ステージ上で観客に見てもらうための歩きは、もっとカッコよく、もっと疲れる歩き方です。これから3ヶ月間ビッシリとウォーキングの練習をしますので、頑張って下さい」
その日から、毎週月、水、金の週3日、みっちり2時間のウォーキング練習が始まった。
体幹を意識し、重心を移動させる独特の歩き方は、想像以上に身体に負担をかけた。
昭は毎回、クタクタになるまで練習を続けた。
しかし、ランニングで鍛え上げた脚と、新しい自分になるという強い意志が、彼を支えた。
2ヶ月が経ったある日、萩が突然、昭に声をかけた。
「峰岸君の歩きは完璧です。よく頑張りました。峰岸君、何かコツが分かりましたか?」
昭は少し考えて答えた。
「僕が思うのは、最初、足で歩こう歩こうと考えていたけど、そうじゃなくて、頭の重心を天井に持って行って、腰を前に出して腰で歩こうと考えてから、少し分かってきたのかな?と思います」
萩は満足そうに頷いた。
「そうなんです。腰から歩くことがウォーキングの基礎なんです。人間は、テニスをするのも、野球をするのも、サッカーをするのも全て腰がしっかりしていないと、ちゃんと出来ないんです。そのコツを掴めばウォーキングもきちんと出来ます。その練習のためには、電車に乗った時にもできるだけ吊り革を持たずに腰でバランスを取って下さい。それでは、今日からウォーキングのレッスンは峰岸君に指導をしてもらいます」
「えっ、僕が?」昭は驚いて声を上げた。
「そうです、貴方です。頑張って下さい」
萩の言葉に、昭が一同を見廻すと、皆から温かい拍手が起こった。
3ヶ月が経ったある日、昭は萩から別室に来るように言われ、後をついていった。
その一室には、以前鮫島社長の会社で会った松井専務が、座って待っていた。
「やぁ昭君、久しぶりです。頑張っているみたいですね。
彼は私の秘書で、高橋君です。今日は、君に話があってやってきました。どうぞ座って下さい」
そう言って椅子に座るように促され、昭は2人と向かい合って座った。
場の空気が一変し、昭の胸は高鳴っていた。
松井専務は、まっすぐ昭の目を見て切り出した。
「実は、今日貴方に会いに来たのは、他でもないのですが、貴方の最初の仕事についての報告にやって参りました。」
隣の秘書から渡された書類を昭に手渡し、松井専務は続けた。
「こちらに、来年4月からの一大プロジェクトの内容が書かれています。
まずこの内容を読んでいただけますか?」
渡された用紙のトップには、「イタリアンライン72」と大書されていた。
その下には、これからの日本の背広のラインを、イタリア調に肩先を上げてウエストを絞り、衿幅も少し大きめに、ズボンもゆったりめにした斬新なデザインで、海外に負けない「日本の新しい背広」として全国に広めるという壮大な計画が記されていた。
そのために、日本全国の紳士服店を対象に、2ヶ月かけてファッションショーを開催するという。
内容を読み終えた昭は、「それで?」という思いで松井専務の顔を覗き込んだ。
「そこでだ」松井専務は、昭の顔から目を離さずに続けた。「東京から2名、大阪から2名の計4名で、日本全国1都1道2府23県をファッションショーで回る計画でね。
その東京からの2名のうちの1名を、貴方にお願いしたいと思って、今日やって来た次第です。」
昭は思わず自分自身を指差し、「エッ、私が?」と驚きの声を上げた。
松井専務は深く頷きながら言った。
「そうです。社長も、最近の貴方のウォーキングレッスンの状況も聞き、これからの日本を背負う紳士服業界に若い風を入れようということで、貴方を指名されたのです。大変な仕事ですが、これは、私の方からもご承諾いただけないと困ります。宜しくお願い致します。」
「本当に私でいいんですか?」昭はまだ信じられない面持ちで尋ねた。
「貴方じゃないとダメなんです。
社長から、『絶対に峰岸 昭にしなさい』と強く言われていますので、貴方が承知しないと、このプロジェクトは前を向いて進まないんです。」
そう言って再び頭を下げる松井専務の真剣な眼差しに、昭は胸の高鳴りを抑えながら承諾した。
「分かりました。それでは宜しくお願い致します。」
それから2ヶ月後、昭は大塚にある鮫島社長のビルに呼び出された。
そこで紹介されたのは、これから共に日本全国を回る仲間たちだった。
大阪のモデル西山さんと石田さん、そして東京のモデル畑山ジョージさんだ。
3人は、いずれも当時の日本ではトップクラスのモデルだった。
全員が長身で、顔立ちも精悍。
肌ツヤも良く、まさに別格のオーラを放っていた。
一方、昭はといえば、身長こそ1メートル75センチあったものの、どこから見てもまだ田舎臭さが抜けきらない、垢抜けない若者だった。
場違いな場所にいるような居心地の悪さを感じながら、昭は恐る恐る口を開いた。
「峰岸 昭です。初めまして。これから宜しくお願い致します。」それが精一杯だった。
一番年長の西山さんは、50歳を少し超えたくらいだろうか。
温和な笑顔で昭に歩み寄り、「おお、若いね。これから2ヶ月間宜しくね」と言って、大きく開いた手を差し出してきた。
ようやく握手にも慣れてきた昭は、恐縮しながらもその手を握り返し、「こちらこそ宜しくお願いします」と答えた。
すると、その横から石田さんが静かに手を差し出してきた。
27歳くらいだろうか、身長は1メートル90センチはあろうかという長身で、均整の取れた体つきをしている。
「石田です。宜しく」簡潔な挨拶に、昭は改めてその存在感に圧倒された。
最後に手を差し出したのは、畑山ジョージさんだった。
彼も50歳くらいだろうか、身長はそこまで高くはないが、彫りの深いハーフの顔立ちで、少し色黒の肌が精悍さを際立たせるハンサムなモデルだ。
「畑山ジョージです。」
彼の声には、都会的な響きがあった。
日本を代表するトップモデルたちとの出会い。
彼らと共に、昭の新たな挑戦が幕を開ける。
松井専務との出会いから、昭の生活は目まぐるしく変化していった。
東京でのウォーキングレッスンと並行して、彼は日本全国を飛び回る日々が始まった。東京、静岡、そして大阪。
各地の著名な紳士服店を訪れ、昭がファッションショーで着用するスーツ、ドライビングコート、サファリジャケット、タウンスーツといった数々の衣装の仮縫いに立ち会うためだ。
一流の職人たちが、昭の身体に合わせてミリ単位で調整を重ねる。
3ヶ月の月日をかけて、彼の身体に完璧にフィットする最高級のスーツが4着、丹念に仕立てられていった。
それらのスーツの裏地には、各スポンサーである裏地屋の選りすぐりの生地が使われ、ボタン一つにもこだわり抜かれた逸品だった。
しかし、華やかな衣装が揃う一方で、昭には新たな課題が立ちはだかった。
まだ「ファッションショー」という概念が一般に浸透していなかった時代、アクセサリーや靴、ネクタイといった小物は、全てモデル自身が用意し、持ち運ばなければならないという慣習があったのだ。特に靴は、ステージ上で歩いた際に底が汚れていてはならないため、どんなに普段履いている靴が綺麗でも、新品でなければNGとされた。
大学生になったばかりの昭に、そんな沢山のアクセサリーを買い揃える金などあるはずもなかった。
父親に言えば、それくらいのお金は、直ぐに用意してくれるだろうが、昭は、それは絶対に嫌だった。
ここまで父親が段取りしてくれたのに、何から何まで全て父親の声が掛かっている事には、余りにも惨めで、せめて自分で出来る範囲くらいは自分でやろうと決めていたので、その事に関しては、父親にも絶対頼るつもりはなかった。
彼は学校へも行かずに、喫茶店のウェイターや百貨店の倉庫の掃除といったアルバイトを掛け持ちし、必死に資金を捻出した。
学業との両立は困難を極め、大学の出席日数が足りなくなる事態に直面した。
友人に事情を話し、自分の代わりに声色を変えて出席しているように返事をしてもらう「代返」を頼み込み、なんとか学籍を維持した。
そうして、ようやく必要なアクセサリーを揃えることができた。
年が明け、いよいよ本番まで2ヶ月となった頃から、全体のステージリハーサルが始まった。
それは、想像を絶するほど過酷なものだった。
ステージでは、女性モデルとカップルになって歩く練習から、途中で離れ離れになってから再びステージのセンターで合流するタイミング、1/4ターン、1/2ターン、3/4ターン、フルターンの場所決め、そして立ち止まって長く見せる場所、ポーズなど、細部にわたる打ち合わせが繰り返された。
最も過酷だったのは、制限時間3分で、ワイシャツ、ネクタイ、スーツ、靴下、靴、全てを着替えなければならないという練習だった。
男性モデルも女性モデルも、恥ずかしいという感情は捨て去り、同じ場所で下着1枚になって着替える練習を繰り返した。
目まぐるしいスケジュールの中、昭は疲労困憊しながらも、プロのモデルとしての自覚を深めていった。
いよいよ4月。
本番当日を迎えた。
最初のこけら落としの場所は、東京の日生会館。
その巨大な会場に、昭は息をのんだ。
政財界の重鎮たち、誰もがその名を知る超有名なファッションデザイナー、テレビ局各社、そして数々の芸能人。
約3千人もの観客が会場を埋め尽くし、熱気と期待が渦巻く中で、いよいよ開幕の時が来た。
スポットライトがステージを照らし、昭は緊張と興奮がないまぜになった感情を抱えながら、その華やかな舞台の袖に立っていた。
ついに開幕の時が来た。アナウンサーの朗々とした紹介と共に、ステージ上手から、中央に女性モデルを挟んで、右側に昭、左側に西山の3人が現れた。
彼らはそのまま、中央から客席へと張り出したステージをまっすぐに進むことになっていた。
この冒頭のウォーキングは、事前の打ち合わせにはなく、いわば本番への挨拶代わりのようだった。
西山が昭の目を見ながら、一緒に前に出る合図を送る。
そして、真ん中の女性モデルの背中を軽く押し、3人同時に歩き始めた。
その瞬間だった。
西山が右手の手のひらを上に向け、女性モデルの前に掲げたのだ。
すると、女性モデルはその手のひらに自分の左手を自然に乗せ、優雅に歩き始めた。
昭は突然の出来事に、どうすればいいのか分からなかった。
自分も左手の手のひらを上に向けて差し出せばいいのだろうか?そう思い、西山と同じように、左手を女性モデルの前に差し出した。だが、彼女は驚いたような顔をしたかと思うと、「何してるの?」とでも言うような表情になり、昭の手を無視して歩き続けた。
昭は慌てて上げた手を下ろし、何事もなかったかのように並んで歩いたが、会場のあちこちから聞こえる失笑には気づいていた。
そりゃそうだろう、正面から見ると、男性2人に挟まれた女性が、両手を両方の男性の手に乗せて歩く。なんて言う事は、まるで喜劇のようである。
「クソッ、やられた!」
胸中に、怒りと悔しさがこみ上げた。
こんな田舎から出たての若造に、いきなり大役を任されたことへの、誰にも分からない、せめてもの抵抗なのか?それとも、見せしめなのか?昭は悔しさに笑顔を忘れ、何とかファーストステージをこなした。
予想外の「事件」とプロの教え。
次のステージからは、事前の打ち合わせ通りのウォーキングで、昭にも少し余裕が出てきた。
しかし、「サファリジャケット」のステージで、思わぬ“事件”が起きた。
サファリジャケットは半袖のデザインだ。
昭は素肌の上にジャケットを羽織り、首にはスカーフを巻いて登場した。
張り出しステージの先端まで進んだ時、客席から「裏地も見せてくれー!」という声が飛んだ。
「エッ!?」
昭は戸惑った。
ジャケットの下には何も着ていない。
しかも、首に巻いたスカーフは、ジャケットを脱げばまるで首を絞めているように見えるだろう。
ジャケットを半身めくって裏地を見せれば、乳首は丸見えになってしまう。
それはできない。まだ若い昭はそう思い、ジャケットの裾をわずかにチラッと見せることしかできなかった。
そのステージが終わり、次のステージまでの休憩時間昭は、若くて背の高い石田さんにこの出来事を相談した。「峰岸君、僕たちはプロなんだから。しかも今回のショーは、裏地のメーカーも協賛して、皆、裏地にも関心があるんだ。そこは見せないと。僕だったら、いっそのことジャケットを全て脱いで、上半身は裸になって、スカーフを取って、ジャケットを振り回すけどね」
石田さんの言葉は、昭の甘さを容赦なく突きつけた。
「さすがプロは違うなぁ。俺は何て甘いんだ」
しかし、この大観衆の中で、裸になる勇気は昭にはなかった。
彼は急いで、予備で持ってきていたワイシャツを取り出すと、袖をハサミで切って半袖にした。
そして、次のステージからは、堂々とジャケットをはだけて裏地を見せることに成功した。
何とか長い一日が終わり、疲労困憊した昭は「お疲れ様」の声を聞きながら、急いでアパートに帰った。
そして、2日後から始まる日本縦断ファッションショーに向けて、深い眠りについた。彼のモデルとしての波瀾万丈な日々は、まだ始まったばかりだった。
日生会館での開幕ステージを終えて2日後、昭はすでに大阪の地に立っていた。
その次は京都。
そして2日空けて北海道と、会場は日本全国に点在していた。
近場であればそのまま移動するが、距離がある場合は、一度東京へ戻り、翌日にはまた新たな場所へ飛行機で向かうという強行スケジュールが続いた。
目まぐるしい移動とステージをこなすうちに、昭は次第に場の空気に慣れていった。
5回目のステージを迎える頃には、何とか自分らしい特色を出したいと考えるようになったある日、昭は思い切ってテンガロンハットを購入した。
サファリジャケットを着る舞台で、上座からハットを深く被って俯き加減でステージ中央まで歩き、そこで突然3/4ターンをして正面を向くというパフォーマンスを試みたのだ。
すると、客席からは割れんばかりの盛大な拍手が沸き起こった。
ショーの関係者や他のモデルたちも、「あれは良いですねぇ〜!」と口々に昭を褒め始めた。
自身の創意工夫が認められた喜びに、昭の胸は高鳴った。
当時の男性ファッションモデルはまだ珍しく、彼らがどこへ行っても「先生、先生」と敬意を込めて呼ばれた。
新幹線はどんなに空いていてもグリーン車が用意され、北海道から青森への青函連絡船では特等室が与えられた。
ショーの後は、次の会場が近くて宿泊が必要な際には、必ずその土地の名士らしき人物が一行全員を招き、地元の有名料亭で盛大な宴会を開いてくれた。
まだ20歳になったばかりの昭にとって、それは信じられないような世界だった。
田舎の紳士服店の息子として育った彼にとって、これほどまでに丁重にもてなされる経験は初めてだった。
ギャラも破格だった。
1ステージにつき1万円。
1日のファッションショーは必ず午前の部と午後の部の2回あるため、それだけで2万円になる。
月末には、昭の懐に30万円近くもの大金が入ってきた。
交通費や宿泊費は全てスポンサー持ちだったため、昭の貯金は減るどころか、増え続ける一方だった。
この夢のような生活が2ヶ月続き、昭はあっという間に都会の暮らしに馴染んでいった。
そしてついに、長きにわたる全国ツアーの最終ステージが、山形で幕を閉じた。
ショーが終わると、一行はそのままの足で東京へ戻った。東京駅のホームで、モデル仲間や関係者との別れの時が来た。
「それでは、長くて短い間でしたが、お疲れ様でした。
また、いつの日かお会いしましょう。」
畑山ジョージが代表して挨拶を述べ、呆気ないほどあっさりと別れの場面は終わった。誰もが、これが一旦の区切りであり、再びすぐに集まることなどないだろうと考えていた。
しかし、昭の心には、どこか予感めいたものがあった。
この出会いが、これで終わりではない。
そう漠然と感じながら、昭は、大きな荷物を背負って、アパート向かう電車に乗り込んだ。
日本縦断ファッションショーを終え、東京駅での呆気ない別れから一夜明けた。
昭は、朝一番で銀座の事務所へと向かった。
ウォーキングの師である萩が、労いの言葉をかけてくれた。
「長い間お疲れさんでした。大変だったね。」
しかし、この仕事は、一応この日本タレントエージェンシーを通してのものだったが、昭以外のモデルは皆、他のモデルクラブに所属する者たちだった。
そのため、この事務所の一新人である昭は、それほど重要視されていなかったのだろう。
事務所内では、彼の日本全国での活躍が、あまり話題になることはなかった。
その足で昭は、大塚にある鮫島社長の会社へ、改めてお礼の挨拶に出かけた。
会社に到着し、鮫島社長を訪ねると、すぐに社長と松井専務が姿を現した。
「イヤー、お疲れさんでした。2ヶ月間、ご苦労様でした。疲れたでしょう?」
松井専務が労うように尋ねると、昭は恐縮しながら答えた。
「いえいえ、ありがとうございました。最初は緊張して、僕なんかにできるんだろうか?と思っていたけど、途中から開き直って、何とかやり通せました。本当にありがとうございました。」
鮫島社長は、満足そうに頷いた。
「やっぱり僕が見込んだだけのことはあるね。
凄い反響だったよ。」
そして、社長は昭の目をまっすぐ見て、続けた。
「それから、もう一つ驚くことがあるんだが、このショーの期間の途中で、僕がファッションアジア総会の会議に台湾へ行って、今回の話をすると、台湾の徐さんが、『そんなに立派なファッションショーを日本で開いたのなら、台湾でも、アジアのモデルさんを呼んで、盛大なアジア総会を開きましょう』と言ってきたんだよ。それはいい考えだ、ぜひやろう、ということで、来月、早速台湾でアジア総会を開くことが決定したんだ。」
昭は、突然の展開に息をのんだ。
「もちろん、峰岸君、畑山さん、西山さん、石田さんも参加してもらいます。それから、台湾、シンガポール、インドネシア、タイ、ベトナム、インドのモデルさんも呼んで、盛大な総会を開くので、もう少し頑張ってください。」
そう言って、鮫島社長が力強く握手を求めてきた。
またしても突然の話に、昭は戸惑いを隠せない。
「えーっ、台湾ですか?それは嬉しいですけど、僕はパスポートも持っていないし、台湾語も話せないし、大丈夫なんですか?」
昭の不安げな言葉に、松井専務は笑いながら答えた。
「ハッハッ、向こうにはちゃんと通訳もいるし、パスポートはすぐに取れるし、台湾に着くと全て手配してくれるように手筈は整えてありますから、心配しないでください。それから向こうでは、一人一着のスーツを着て一度ショーをするだけです。
何しろ各国の人数が多いので、あとはレセプションだけです。心配いりません。」
松井専務は、あっけらかんと笑いながら昭を見送った。
日本全国を駆け巡ったばかりの昭に、休む間もなく、今度はアジアの舞台が待っていた。
パスポートの取得に奔走する日々が始まった。
戸籍謄本を取り寄せ、申請書類を揃え、海外旅行用のスーツケースを買いに走る。
4月の台湾の気候を調べては、どんな服を持っていけばいいのかと悩む。
めまぐるしい準備をこなすうちに、あっという間に台湾出発の日がやってきた。
羽田空港に到着した昭は、すでに集まっていた他のメンバーに頭を下げた。
畑山さん、西山さん、石田さん、そして鮫島社長とスタッフを合わせて7人。
「すみません、遅くなりました。」
昭が平謝りすると、西山さんが厳しい口調で注意してきた。
「峰岸君、君が一番若いんだから、君が最初に来ていないとダメだよ。鮫島社長にも失礼だよ。」
昭は恐縮して言い訳した。
「すみません。羽田空港までの電車の乗り方が分からなかったので、タクシーで来たら、遅くなってしまいました。すみません。」
「東京では、電車が一番時間に正確なんだから、こういう時は公共の乗り物で来ないとダメだよ。」
西山さんは容赦なく、再び昭を叱った。
すかさず畑山さんが横から、「これからは気をつけなさい」と、助け舟を出してくれた。
皆の荷物を見ると、それぞれスーツケースを持っているものの、スタッフがカートに積んでいる大きな段ボールが4つも目に入った。
一体何の荷物だろうかと疑問に思い、昭は畑山さんに尋ねた。「あの大きい段ボールは、何ですか?」
「あれは、SONYのテレビだよ。台湾へ持って行くと、台湾の知り合いが、SONYのテレビだと、日本の倍の金額で売ってくれるから、今回の旅費の足しになるんだよ。」
なるほど、そんなことがあるのか。
昭は、初めて、世界の商品の流通事情というものを知らされた。
約4時間後、窓の外に台北空港が見えてきた。
初めての海外旅行に、昭は胸を高鳴らせながら着陸を待つ。
軽い衝撃の後、無事空港に着陸し、皆の後について歩き始めた。
空港で税関を通り、外へ出た途端、耳をつんざくような大音響に昭は驚いて飛び上がった。
何事かと前方の群衆を見ると、大勢の人々が空港の前に立ち並び、手に手に日本の国旗を持ち、けたたましく爆竹を鳴らして歓迎してくれているではないか。
一人一人に首からレイをかけてくれるその温かい歓迎に、昭は胸が熱くなった。
その日の夜は、台湾の屋台観光に連れて行かれた。
活気に満ちた屋台街を散策し、売店で売られているオーダーメイドのブラウスに目を奪われた。
自分の好みの生地を選んで注文すれば、翌日には出来上がると言う。
昭は興味津々でブラウスを注文しながら、初めての異国の夜を満喫した。
翌日、台北の文化会館で会合兼ファッションショーが開かれた。
会場前方には各国旗が掲揚され、厳かな開会セレモニーが行われる。
そして、いよいよ各国のファッションショーが始まった。日本、台湾、シンガポール、インド、ベトナム、インドネシアと、アジア各国から集まったファッションモデルたちが次々と登場し、会場は大いに盛り上がった。
ショーが終わり、最後は大ホールでダンスタイムが始まった。
しかし、ダンスが踊れない昭は、2階の席で、皆が下で踊っているのをただじっと見ているだけだった。
それを見かねたのか、隣に座っていた畑山さんが、昭の隣にいるシンガポールの女の子を指さして言った。
「峰岸君、彼女を誘って踊ってくれば?それが礼儀だよ。」
昭が下を見ると、ちょうどチークダンスタイムだった。
これなら自分も何とかなる!昭は意を決し、思い切って隣のモデルに「レッツ ダンス」と声をかけた。
しかし、彼女は驚いたような顔をして、手を横に振って「ノー、ノー」と言った。
「何だ、早速振られちゃった」と思い、昭が下を見ると、さっきまでのチークダンスの曲が、優雅なワルツの曲に変わっていた。
そんなー、こりゃ無理だわ。踊れんわ。
昭はホッと胸を撫で下ろした。
夜は、オーナーが知り合いだという大きな旅館が貸し切られていた。
大テーブルには、一つ飛ばしに椅子が並べられている。
何で?昭が首を傾げていると、そこに美しい女性たちが10人入ってきた。
「この中から、気に入った女の子を2人選んで、自分の両サイドに座らせて、一緒に食事をしてください」と告げられた。
「気に入った子がいなければ、次のグループを登場させます」という言葉に、皆がそれぞれ、さっさと2人ずつ決めていく。
昭も戸惑いながら、適当に自分の好みっぽい女の子を選んで、両サイドに座ってもらった。
次から次へと豪華な料理が運ばれ、両サイドの女の子たちが昭の皿に取り分けてくれる。
至れり尽くせりの接待に、昭はまるで殿様になった気分だった。
食事も美味しく、ビールでほのかに酔いが回ってきた頃、オーナーが言った。
「それでは、皆さんの両サイドの2人の中から、気に入った女の子を選んで、部屋に連れて行ってください。明日の集合時間は朝10時ですので、ゆっくり楽しんでください。」
その言葉に、皆そそくさと部屋を出て行った。
昭は予想はしていたものの、「エッ、どうしよう?」と戸惑った。
両サイドの女の子2人が昭の顔を見つめてくる。
昭は思い切って自分の好みの1人の手を取ると、彼女はさっさと昭を部屋に連れて行った。
今まで女の子と接する機会がほとんどなかった昭は、どうすればいいのか分からなかった。
ちゃんとできるんだろうか?自分からするんだろうか?最初はどうすればいいのか?様々な考えが頭を巡り、酔いが一気に冷めて、ドキドキが止まらない。
仕方なく「初めてです」と告げると、日本語が分かったのか、彼女はすごく喜び、深く頷いて、優しく手解きをしてくれた。
初めての経験に、昭は、こんなに気持ちの良いものがあったのか!と驚愕した。
結局、寝たのは2時間ほどで、夜通し行為を続けた。
翌朝10時。
朝食のテーブルに行くと、既に皆が座っていて、食事の用意がされていた。
昨晩の彼女が隣に座り、料理を取り分けて食べさせてくれる。
本当に殿様になった気分で、昭は上機嫌で食事をしていた。
女の子たちがめいめいに喋っては、大笑いしている。
昭の隣の彼女が何か言った時、他の3人の女の子たちが「エーッ!」と声を上げ、皆で昭の隣の女の子を指さした。
それから、昭の隣の畑山さんの隣の彼女が何か喋ると、またもや「エーッ!」という声と共に、皆が両腕を上下に動かしている。
「一体彼女たちはなんて言ってるんですか?」
台湾旅行には慣れている様子の畑山さんに、昭は尋ねた。
畑山さんはニヤリと笑って訳してくれた。「君の彼女は、君が初めてだと言ったので、皆羨ましがっていたんだよ。それと、僕の彼女は、僕があまりにも凄かったので、そのことを皆に言ったら、それも羨ましがって、『私にも私にも』と言っていたんだよ。」
その日の夜は、高級レストランでの食事が予定されていた。
食事が終わり、昭がオーダーしていたブラウスの仕立て屋さんの前を通ったので、出来上がっているか尋ねてみると、すぐに手渡してくれた。その場で試着してみると、サイズも仕上がりも完璧!
昭は台湾の技術力に驚きを隠せなかった。
その後、一行はナイトクラブへと移動した。
そこで、畑山ジョージがピアノに伴奏をさせて、慕情を歌い始めた。
音楽を愛する昭は、その姿がとてつもなくカッコよく見えた。
自分もピアノの演奏だけで、ブランデーを片手に歌えたら、どんなにクールだろうか?昭の夢は、膨らむ一方だった。
日本に帰国すると、先日行われた国内ファッションショーは、参加できなかった全国の洋服店からの強い要望を受け、30分番組の特集としてNHKで放映されることが決まっていた。
台湾から戻った4人のファッションモデルたちは、その1週間後、再び東京で再会することになった。
ロケ地は、壮大な上高地の草原。
そこで、各々が様々な洋服を着用しての撮影が、たったの2日間で、スピード感を持って行われ、その様子は、業界誌にも掲載され、昭は、その月の業界誌の表紙にもなった。
これで、全てのスケジュールが終了し、ファッションショーに関する昭の仕事は一旦幕を閉じた。
しかし、当時の男性ファッションモデルの需要は元々少なかった。
それから半年間、昭には何の連絡もなかった。
華やかな舞台から一転、静かな日常に戻った昭は、ご無沙汰になっていた大学生活に打ち込むようになった。
ウォーキングレッスンも、次第に飽きが来て、適当に他のレッスン生に指導を任せる日々が続いていた。
そんなある日、昭のウォーキングを指導していた萩が、昭を飲みに誘ってきた。
「峰岸君、今晩ちょっと話が、あるんだけど、飲みに行かない?
実は、同期の村井君、阿部君、高木君も誘ってるんだけど」
村井、阿部、高木は、昭と同期で、これまでずっとウォーキングレッスンを共にしてきた仲間たちだ。
突然の萩からの誘い、しかも、その真剣な表情に昭も少し違和感を覚えた。
「別に用事はないけど、一体何事ですか?」と尋ねると、萩は真剣な顔で答えた。
「いや、これからの将来のことを話し合いたいと思って。」
昭も特に用事があるわけではなかったので、
「ああ、いいですよ」と承諾した。
レッスンが終わった夜9時。5人揃って、銀座から電車で渋谷まで移動し、道玄坂の居酒屋へと入っていった。
地下にあるその店は、階段を降りて靴を脱ぎ、カーペットが敷かれた上に簡単なテーブルが並べられた、質素な作りだった。
とりあえず皆でビールを頼み、「お疲れさん」と言いながら、空きっ腹にビールを流し込んだ。
一呼吸置いてから、萩は皆の顔を見回しながら言った。「皆、今日はありがとう。
いや、突然呼び出して申し訳ない。
実は俺、今の事務所を、今月いっぱいで辞めることになったんだ。」
突然の事務所辞退の告白に、皆は驚き、「何でですか?」と、誰が聞くともなしに尋ねた。
萩はもう一度一呼吸置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「皆も思っていると思うけど、皆、この事務所に入って約1年になるけど、ちゃんとした仕事ってあった?
無いだろう。
峰岸君は、確かに、お父さんのお口添えで、結構忙しかったけど、あのショーが終わってから、実質この事務所からの仕事は無いよね。」
萩の視線が昭に向けられる。図星を突かれた昭は、何も答えられず、黙って下を向いてしまった。
「いやいや、責めているわけでは無くてね。
実際、僕もウォーキングの先生をして、多少の給料は貰っているけど、最初は僕も皆と同じモデル志望で入って来て、もう4年目だけど、他の仕事といったらテレビコマーシャルの、その他大勢の中の一人とか、大した役もなく今まで頑張ってきたんだけど、ここらで、僕の人生も変えようと思ってね。
今月いっぱいでこの事務所を辞めて、来月から新しいモデルクラブをオープンして、ファッションモデルじゃなくて、本格的なタレント養成事務所としてスタートしようと、もう事務所も借りて、他のモデルさんも6人ほど集めているんだ。」
萩は、真剣な眼差しで皆を見つめた。
「そこで、僕が今まで見て来た中で、君たちならやっていけると思って、今日集まってもらった次第です。
良かったら、うちの事務所へ来てくれませんか?日本タレントエージェンシーみたいに、大勢のモデルさんはいないけど、その分、少数精鋭で、細かくスポンサーを回って、テレビコマーシャルや、雑誌などの仕事を取ってくるので、良かったら一緒にやりましょう。お願いします。」
そう言って、萩は深々と頭を下げた。
2時間ほど、その話で持ちきりとなり、とりあえず2、3日考えさせてほしいと伝え、萩とは別れた。
それから、萩を除いた4人で、同じ道玄坂にあるミニクラブ「オニキス」へ行った。カクテルを飲みながら、話し合いが始まった。
「どうする?」「どうするって言ったって、どうするよ。」
皆、他人任せで、それぞれが迷っている。
一番最初に口を開いたのは村井だった。
「俺も京都から出て来たけど、結局一本も仕事が無く、バーテンのバイトで何とか生活してるけど、峰岸君みたいに、コネがある訳じゃないし、そろそろ潮時かな?と思って、京都に帰ろうかな?って思ってたところや。」
昭も続いた。
「俺だって、最初は、確かにコネで、びっくりするような仕事があったけど、所詮男性のファッションモデル、特にファッションショーの仕事は、そうは無いよね。
現にここ1年、全然仕事無いやん。あれは、紳士服の洋服業界の関係者だけの催し物だったから、それっきりや。」
「俺だって、九州から夢見て出て来て、何も無しだよ。ホント情けないよ。」ハーフの高木が嘆いた。
「俺なんか、背が小さくて、おまけにこんなバタくさい顔だから、変な通行人の仕事が2、3回あっただけだよ。」阿部も打ち明けた。
一瞬の沈黙の後、昭が静かに言った。「それだったら、最後の賭けに出てみる?萩さんも、命懸けやと思う。せやから、萩さんの必死さに賭けてみても悪かぁ無いと思う。これで駄目だったら、ちゃんとした仕事についてもいいんやない?」
昭の言葉に、酔いが回ってきていた村井が大きく頷いた。「そうだな、峰岸君の言う通りやわ。ワシは今日から生まれ変わるぞー!新しい所で、バリバリ頑張るぞー!」
大声で叫ぶ村井に、皆は慌てて「分かった分かった。よっしゃ、そしたらみんなで、旗揚げじゃー!」と、今度は全員で大声で叫んだ。
カウンターの前でニコニコ笑いながら聞いていたリリーちゃんが、「良かった良かった。それじゃ、新しい門出にカンパーイ!」とグラスを持ち上げたので、また皆で「カンパーイ!」と叫び、一気飲みした。
途端に村井が、椅子の下に戻し始め、「うわー、大変だ、外へ外へ!」と、勘定をしながら、皆で村井を外へと運び込んだ。
新たな未来への期待と、若者らしい無謀さが入り混じった、忘れられない夜となった。
それから3日後、昭は村井真司、阿部孝、高木ジローの3人と共に、渋谷の神泉駅で待ち合わせをした。
駅から歩いて10分ほどの、ひっそりとした住宅街の一角に建つビル。
そこにある「サニーモデル倶楽部」のドアを開けた。
前もって電話を入れていたので、萩さんが、すぐに彼らを出迎えてくれた。
「ヤァおはよう。どうぞどうぞ、狭いけど入って入って」
と言って、部屋の中へと招き入れた。
部屋といっても、20畳ほどの一間を改装したばかりのようで、まだ殺風景な印象だ。
そこには事務テーブルが2台と5人掛けの応接ソファが置かれているだけで、何人かのモデルたちが、所狭しと立って彼らを見て軽くお辞儀をした。
彼らもまた、新しい仲間たちなのだろう。
「ヤァこんにちは、私はマネージャーの立岩真一です。宜しくお願いします。」
ガッシリとした体格の男が、全員に握手を求めてきた。
昭が「初めまして、峰岸昭です」と自己紹介すると、ソファに座っていた女性が、「事務員、受付担当の、大牟田玲子です」と、か細いながらも目力の強い声で挨拶した。
次に、「谷口ゆかりです」と、ロングヘアーの美しい華奢な女性。
続いて「紗凪梓です」と、美人で、おしゃれな女性。
次に、「古賀マリです」と、まだ10代くらいの、若くてキョロキョロとあたりを見回す少女。
「高橋遥です」と、彼女も10代くらいだが、どこかおどおどしている感じの少女。
そして、「二宮真司です」と、背が高く、がっしりとして、目が大きく、どこか威圧感のある男性。
最後に、「中嶋アレクです」と、青い瞳の若者が、人懐っこい笑顔で挨拶をしてきた。
彼らの自己紹介が終わると、再び昭たちが挨拶を交わした。
「村井真司です」「阿部孝です」「高木ジローです。今日から宜しくお願い致します」
萩さんが、「これからは、この立岩君と、大牟田さんが、どんどん仕事を取ってくるので、皆さん頑張ってください。忙しくなりますよー」
と言うと、大牟田さんが、「どんな仕事でも受けますから、覚悟しておいてくださいね。宜しくお願いしまーす」と、気合のこもった声で応じた。
立岩さんも、「私も、この業界長いので、分からないことがあれば、何でも聴いてください」と締め括った。
色々と話し合い、結局夜遅くまで事務所に居座ってしまった彼らは、帰り道、昭、村井、阿部、高木の4人で、先日訪れたミニクラブ「オニキス」のドアを開けた。
「いらっしゃいー!」待っていましたとばかりに、あの時のリリーちゃんが出迎えてくれた。
「あの時は迷惑かけました。すみません」と、村井が言うと、「いえいえ全然、それより、大丈夫だった?心配してたのよ」と、リリーは優しく声をかけてくれた。
昭は笑って答えた。「この人は丈夫だから、平気平気。この間のお詫びに寄りました。でも、今日は、酔っ払わないうちに、早めに帰りますから、心配しないで」
「あらあら、若いんだから大丈夫よ。私も昨日は、今朝まで飲んでて、ホラッ、今は新規よ」リリーの言葉に、皆は驚き、思わず笑みがこぼれた。
「皆、何の仕事してるの?ちょっとかっこいいんだけど」
リリーが興味津々で尋ねてきた。
今まで黙っていた阿部が、あっさりと素性を明かした。
「皆、モデルの卵だよ。これから有名になろうと思ってるんだけど、応援してよ」
「えーっ、するする、応援する!頑張ってー!」
リリーが拳を振り上げて叫ぶと、周りにいた他のお客さん達も、「ホーッ」という顔で彼らを覗き込んできた。
それから2日後、事務所の大牟田さんから連絡があった。
「来週の火曜日午前8時に、代々木公園の階段に集合してください」
昭は、火曜日7時30分には代々木公園に着いた。
すでに200人もの人々が集まっていて、その光景に圧倒される。
「オウ、峰岸君!」声の方を見ると、村井が両手を広げて大きく振っている。
昭は「そこまでしなくても、背が高いからすぐ分かるのに」と思いながらも、手を振り返しながら走り寄った。
「いやー、凄い人だね。何の撮影だろう?」
昭が尋ねると、村井は「何だか、繊維会社のコマーシャルらしいよ。うちの事務所も谷口さんと紗凪さんを除いて、皆来てるらしいよ」と答えた。
周りを見渡すと、確かに事務所の仲間たちが勢揃いしていた。
すると、スピーカーから声が響いた。
「皆さん、こんにちは。本日は、お疲れ様です。それでは、時間になりましたので、全員、階段の一番上に上がって、そこから、楽しそうな顔をしながら走り降りてください。それだけです。スタートの合図と同時にお願い致します。」
「それでは、ヨーイ」バン!ピストル音が鳴り響き、合図と同時に、皆がニコニコと笑いながら階段を走り降りていく。
「すみませーん!もっと楽しそうに、大声をあげながら、目一杯の勢いで走ってください。怪我しないようにお願いしまーす!」
そんなこんなで、3回目でやっとOKが出た。
「たったこれだけ?」高木が呆れたように言うと、「はい、お疲れ様でした。それではご自由にお帰りください」というスピーカーの声で、皆はぞろぞろと帰り始めた。
事務所に帰ると、マネージャーの立岩さんが笑顔で出迎えてくれた。
「はい、お疲れ様でした。今日のギャラです。」
そう言って渡された封筒の中を見ると、8千円が入っていた。
たった数分の撮影で得た、初めてのギャラ。昭は、その紙幣の重みに、新たな世界への第一歩を実感した。
モデルという仕事は、まさに水物だった。
仕事があればまとまった金が入るが、なければ一円たりとも収入はない。
ギャラの相場は決まっていて、ファッションショーは1ステージ1万円、ポスターやテレビCMは1日8千円。
数をこなさなければ、とても生活していけないのが現実だった。
昭は、地方のポスターや、ほんのチョイ役のテレビCMの仕事はこなしていたものの、以前のような何日も続く大規模なファッションショーの仕事は入ってこなかった。
事務所で一番の売れっ子である谷口ゆかりさんでさえ、夜は居酒屋のホールでアルバイトをしないと食べていけない暮らしだと聞いていた。
昭も、かつて全国ツアーを回ったファッションショーで得た50万円ほどのギャラがあったが、それも徐々に減り続け、今では30万円ほどになっていた。
このままでは生活が立ち行かなくなるのではないかという不安が、昭の胸中に影を落とし始めていた。
そんな時、新たな仕事の知らせが舞い込んだ。
今日も、仕事が有るのか無いのか?事務所に電話を入れると、大牟田が、
「峰岸君、1週間のロケが入ったわよ!」
大牟田さんの弾んだ声に、昭は思わず身を乗り出した。
「新しい車の雑誌のCMでね。今度、新しい車種が2種類、兄弟車種として発売されるので、その宣伝よ。静岡でのロケらしいわ。一台は貴方と、もう一台は、みんな1週間は拘束できないので、マネージャーの立岩さんが行くことになっているの。来週月曜日の朝9時に事務所に来てちょうだい。あと、助手席に乗る女の子は、うちの古賀と高橋です。それから服装は、伊豆の下田とか、いろは坂を走るから、カジュアルな服装で。それから、ギターが弾けるって言ってたわよね。ギターも持っていたら持って来てちょうだい。よろしくね!」
大牟田さんはそう言い切ると、返事を待たずに電話を切った。
昭は電話を置くと、喜びを抑えきれずにすぐに江里に報告した。
久々の大きな仕事だ。しかも、自分が持つ「音楽」というもう一つの才能が活かされるかもしれない。
昭は期待に胸を膨らませ、早速、新しいGパンに合うTシャツとスニーカーを買いに出かけた。
この仕事が、停滞していた彼のモデル人生に、新たな風を吹き込んでくれることを願って。
月曜日の朝、事務所に到着すると、古賀と高橋の二人の女の子モデルも集まっていた。
「おはようございます。」
皆がそれぞれ挨拶を交わし、ソファに座ると、マネージャーの立岩さんが口を開いた。「はい、おはようございます。それでは、そろそろ出発したいと思います。
こちらがカメラマンの足立さんです。」
「足立です。宜しくお願い致します。」
そう言って、おとなしそうな足立さんが挨拶をした。
「それじゃあ、足立さんと古賀ちやんは、峰岸君の車に乗って。
高橋ちゃんは、僕の車で行こうか。」
立岩さんはそう言って、車の鍵を昭に渡した。
「え一つ、僕が運転するんですか?」
昭が驚いて尋ねた。
「予算が少ないから仕方ないんだと。その分のギャラももらっているから」
立岩さんはあっさりと言う。
昭はすかさず立岩さんのところに行き、耳元で囁いた。
「僕は免許証はありますけど、田舎で免許取っただけで、ほとんど車の運転なんかしたことないですよ。」
立岩さんは笑顔で昭の背中をポンと叩いた。
「大丈夫、大丈夫。
俺が前を走るから、ゆっくりついてくれば良いんだよ。それと、君のことはテストドライバ一だったと言っているから。そうしないと、ドライバーのギャラも出してくれないから、このことは内緒だよ。」
そう言いながら昭の腰を押し、「じゃあ、行こうかー」と、皆を車へと促した。
ここまで話が進んでしまっては、何も言えない昭は、しぶしぶ従わざるを得なかった。
東京からゆっくりと走り出し、東名高速に乗った。
手のひらにびっしょり汗を掻きながらも、何とか静岡まで到着した。
カメラマンの足立さんは無口な人で、ほとんど喋ることなく、後部座席で2台のカメラを盛んに調整していた。
一般道に入り、前の立岩さんの車の後をついていくと、徐々に登り坂になってきた。「おおー、凄い坂ですねー!」思わず昭が叫ぶと、後ろから足立さんが嬉しそうに話しかけてきた。
「これが有名な、いろは坂ですよ。走り屋はここを飛ばすのが好きなんですけど、この車がスポーツカーなので、似合うかなと思って。」
「そうなんですか。」
昭も返事はそこそこに、必死にハンドルにしがみついていた。
前の立岩さんは、カーブが楽しいのか、一向にスピードを落とさない。
昭も必死についていこうと思った瞬間、急なS字カーブが現れた。
「こりゃ危ない!」
そう思い、ブレーキを踏んでついていくと、前の車とかなりの距離が空いてしまった。
いかんいかん、俺はテストドライバーなんだ!と言い聞かせ、焦った昭は、次のカーブでスピードを落とさずについていくと、昭の車の後部がスリップし、左の山肌にぶつかりそうになった。
慌てて右にハンドルを切ると、今度は予想以上に車が右を向き、目の前に崖が現れた。
「わぁー、落ちる!」
そう思った昭は、とっさに左手で助手席で眠っていた古賀の胸を強く押さえつけ、自分は体が飛ばないように、足元にあったカーラジオに膝を思いっきりくっつけた。
車は宙に舞った。
ドン!ガン!ドスン!
衝撃音が響き渡り、車は激しく揺れた。
昭の視界は一瞬にして暗転し、全身に激痛が走った。
助手席の古賀は、頭をフロントガラスにぶつけながら、大きく飛び上がる身体を、昭は必死の思いで、フロントガラスが割れないように、古賀の胸をシートに押さえつけ、自分も身体が飛ばないように膝で固定していた。
我に返ると、車は道路から2メートルほど落ちた所の、少し広い場所に、そのままの姿で落ちて止まっていた。
車を降りると、その先3メートルくらいのところから、断崖絶壁になっていた。
九死に一生を得たのだ。
急いで、後部座席の足立さんの方を見ると、しきりにカメラをいじくっている。
「大丈夫ですか?」と尋ねると、「僕は大丈夫です。だけど、カメラが...」そう言ったまま、再びカメラを見つめていた。
そして、「貴方たちは?」と尋ねてきたので、やっと我に返った昭は、助手席の古賀のところに行った。
まだ放心状態の古賀は、ぼーっとして、涙を流していた。
「大丈夫?どこか痛い?怪我はない?」昭が立て続けに尋ねると、古賀は首を横に振った。
「足立さん、カメラは?」と尋ねると、「ダメかもしれません」と、情けない声で答えた。
そうこうしている間に、「大丈夫かー!」と、立岩さんが走り寄ってきた。
「今のところ全員無事みたいです」と昭が言うと、自分の左足の痛みに気づき、Gパンをめくった。
膝から出血していたが、
Gパンの分厚い生地のおかげで、大した傷ではなかった。
「車は?」立岩さんが車の前へ回って見ると、左前方のサイドが引っ込んでいるだけで、大きな損傷はないようだった。
「峰岸君、エンジンをかけてみて」という声に、昭がエンジンをかけると、スムーズにエンジンがかかった。
「よしっ、ずっと前に行けば、道路に出られそうだから、そう〜っと前進して、道路まで出てみよう」
と言われたので、もしもの時のために、古賀とカメラマンを降ろして、昭が車を前進させ、道路まで移動させた。
その時、下の方から、タイヤを軋ませながら一台の車がやって来た。
「大丈夫ですか?下から見てたら車が落ちたみたいだったので、慌てて走ってきたんですが。」
見知らぬ人が助けに来てくれたが、立岩さんはこともなげに「大丈夫、大丈夫。怪我人もいないし大丈夫ですから」そう言って彼を遠ざけた。
立岩さんの顔には、事故が公になることを避けたいという思惑が透けて見えた。
事故に見舞われたその日は、誰もが重苦しい気分で過ごした。
しかし、幸いにも予備のカメラがあったこと、そして車の撮影も右側から写せば何とかなるだろうという見通しが立ち、一同はひとまず安堵の息をついた。
その夜は、伊豆高原のバンガローに宿泊し、翌日からは、気を取り直して撮影を続行した。
疲労と不安が残る中、昭の持参したギターが皆の心を和ませた。
昭が奏でる「君の行く道は、果てしなく遠い」のメロディーに合わせて、(若者たち)と言う曲を、声を合わせて大合唱した。
その歌声は、遠い故郷と、まだ見ぬ未来への希望を乗せて、伊豆高原の夜空に響き渡った。
その後一行は、サボテン公園を巡ったり、海岸で肩車をして撮影をしたりと、様々なシチュエーションでの撮影をこなし、何とか無事に1週間のロケを終えた。
東京に戻ると、助手席に乗っていた古賀は念のため検査入院したが、軽いムチウチで済み、2日後には退院して事なきを得た。
昭は安堵すると同時に、プロの仕事の厳しさと、いつ何が起こるか分からない現場の緊張感を改めて肌で感じた。
その月の月末、昭は事務所にギャラを受け取りに行った。しかし、そこで彼を待っていたのは、萩さんからの予想だにしない言葉だった。
「峰岸君、先日のロケの事故の件だけど、スポンサーから連絡がありましてね。事故を起こした車の修理代がものすごくかかって、弁償してほしいと言ってきたんだ。当然うちとしても払ったんだけど、その他に、あのカメラマンのカメラの修理代もあるんで、君にも少し払ってもらわないといけないんだ」
「えーっ、そんなぁ…」
昭は思わず声を上げたが、萩さんはすかさず続けた。
「車のほうは、うちが型をつけるから、カメラだけ峰岸君のほうでお願いしたいんだ」
「で、いくらですか?」
昭が恐る恐る尋ねた。
「プロのカメラだから、望遠レンズも入れて27万円らしい。うちも何とかしてあげたいんだけど、車の修理代に、その倍以上払ってるんで、峰岸君、カメラ代だけ頼む」
萩さんの言葉に、昭は渋々承諾するしかなかった。
まだ若い昭は、こういう時の駆け引きに全くついていけなかった。
相手の言い分を鵜呑みにしてしまう自分の未熟さに、悔しさがこみ上げる。
そんな昭の様子を読み取った萩さんが、さらに信じられないような話を切り出した。
「峰岸君も大変だろうけど、もしその気があれば、君のプロフィールを見たある外国雑誌の編集長が、付き合ってくれるのなら年間1千万払うと言ってるんだけど、どう?」
年間1千万と言えば、当時の日本のトップモデルの年収と同じ金額である。
昭はギョッとして問い返した。
「それ、男でしょう?」
萩さんは涼しい顔で「勿論」と答えた。
「絶対いやですよ!」昭は即座に拒絶した。
その瞬間、昭は、この華やかな世界の裏側に潜む醜さに嫌気がさしてきた。
才能と努力だけでは生き残れない。
金と欲望が渦巻く芸能界の現実に、昭は深い幻滅を覚えた。
彼の胸には、モデルとしての未来に対する不安と、この業界に対する不信感が募り始めていた。
昭は相変わらず、仕事の有無を確認するため、毎日事務所に電話を入れていた。
しかし、ある日、何度電話をかけても呼び出し音が鳴るばかりで、誰も電話に出ない。虫の知らせか。昭は胸騒ぎを覚え、急いで神泉駅で降り、事務所へと向かった。
事務所に着くと、既に何人かの同僚が集まっていた。
皆、不安そうな顔をしている。
昭は、そこにいた村井に「どうなってるの?」と尋ねた。
「俺もさっき聞いたんだけど、色々あって、夜逃げしたらしいよ」
村井の言葉に、隣にいた阿部が泣きそうな顔で皆の顔を見上げた。
「俺、ギャラ取りに来てなかったから、まだ貰ってなかったんだ。どうしよう…」
「夜逃げって、どうして?」昭が尋ねた。
「どうやら、仕事を取るのに、無免許で車を運転させたり、嘘の履歴をでっち上げたりして、それがバレて、家宅捜索が入ったらしいよ」
昭はハッとした。
「そう言われてみれば、俺も、『テストドライバー上がりだから運転は大丈夫だ』とか言われて、今回の事故につながったみたいだわ」
すると、隣にいた阿部が続けた。
「俺も、御殿場の自衛隊演習場を借り切って車のロケした時、俺が坂から降りてくる時にスピード出しすぎて横転させてしまったことがあったんだ。
その仕事をとる時、『俺は無免許だからダメだろう』って言ったら、立岩さんが『黙ってれば分からないし、公道じゃないから大丈夫だ!』って言ってたから、俺も鵜呑みにしてたんだけど、そんなのもダメだったんじゃない?」
あれやこれやと皆で話し込んでいるところへ、事務の大牟田さんが現れた。
「皆さん、お疲れ様です。さっき萩さんに会ってきました。萩さんが、いい加減な履歴、経歴を言って仕事を取ってきてたのがバレて、裁判沙汰になってるらしいわ。
皆には謝ってくれ。
必ず何とかするから、と言っていたけど、私の見解では、もう無理ね」
大牟田さんはそう言って、両手を広げて帰っていった。
モデルとしての道が、あっけなく閉ざされてしまった現実を前に、昭は途方に暮れるしかなかった。