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今宵も星は、黙して灯る  作者: 千尋 宙
2/9

経済

昭が少年時代を過ごした昭和30年代は、日本が目覚ましい経済成長を遂げ、人々の暮らしが大きく変化していく時代だった。

和装から洋装へと移り変わるまさにその時、一郎が営む紳士服の仕立て屋は、時代の波に乗り一気にその規模を拡大していく。

当時の小学生はまだ、普段着のシャツに、ツギハギだらけのズボンに、下は、草履か、下駄が殆どだったのに対し、昭だけが、父親が自ら仕立ててくれた、カシミヤドスキンの生地のダブルの上下に、蝶ネクタイ。

靴は近くの靴屋さんで特別に作って貰った昭の足のサイズに合わせたオーダーメイドの革靴だった。

昭は、自分だけ特別な服装が恥ずかしかったが、先生も校長までもが、自分に対して特別な対応をするのが、いつの間にか、普通に思えて来た。

まだ既製服が無かった当時、一人ひとりの体に合わせた丁寧な仕立ては、多くの男性から絶大な支持を得た。

一郎の商売はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、長男の勝也をはじめ、3人の敏腕営業マンにはそれぞれ営業車が買い与えられ、朝から晩までスーツの販売と仕立てに奔走する日々が続いていた。

営業マン4人、裁断士1人、背広の上着

を縫う職人さん3人、ズボンとベストを縫う職人さん5人、中学卒業しだての見習いの丁稚奉公が2人。

店は活気に満ち溢れ、職人たちがミシンを踏む音と、顧客との談笑が絶え間なく響いていた。

昭が小学5年生になる頃には、以前の古びた木造の店舗兼住居は、真新しい4階建ての鉄筋コンクリートビルへと生まれ変わっていた。

それは当時の街では群を抜いて高く、まさに地域のランドマークだった。

その威容は、市が初めて購入したという消防車の梯子車を、ぜひビルの屋上に掛けさせてほしいと依頼されるほどで、翌日の朝刊にはその様子が写真入りで大々的に報じられた。

昭は、自分たちの家が街の中心で輝いていることを誇りに思い、新聞記事を何度も読み返した。

店の前には、特別に「峰岸紳士服店前」というバス停が出来、ローカル線の電車の駅のホームには、店の名前が入った5人掛けのベンチが3台も並べられた。

それは単なる商売の繁盛を超え、父親の店が地域社会に深く根差し、なくてはならない存在となっていたことを示していた。

そんな時、一郎が腹痛を起こし、病院で診察を受けると盲腸炎だと診断され、即入院と言うことになり、その日のうちに手術をし、一郎の友人であった、佐藤病院の佐藤院長から家族全員が呼ばれた。

「早い発見で良かったです。単なる盲腸炎だったので、悪い所は全て摘出しました。

10日後には退院できますので、安心してください。」と言われ、切り取ったドス黒い長さ10cm程の盲腸を見せられ、家族全員が安堵の胸を撫で下ろした。

一郎は、退院の翌日から、手術後の傷跡のガーゼを取り替えながら、自身も商売、会議に奔走していたが、傷口の傷が中々癒えることがなく、傷口からは血膿が出続ける毎日だった。

退院してから1週間経ったある日一郎が脂汗を掻きながら家に帰ってきて、英子に「オイ、シンドイ。水をくれ。」そう言って水を飲んだ後熱を測ると何と39℃まで熱が上がっていた。

慌てて英子が、「お父ちゃん、佐藤先生に電話しようか?」そう言うと一郎が「いや県病院へ連れて行ってくれ」何故か県病院を指定したので、急いで県病院へと、車を走らせた。

あまりの熱の高さや、以前の盲腸炎の跡の傷口を見た県病院の先生が、「これは、傷口が化膿してますなぁ。奥さん、申し訳ないけど、胸を縦に切って開腹手術をして調べてみないといけないので、大手術になると思います。宜しいですか?」と言われ、家族全員が驚きの顔を見合わせ「そうなんですか?仕方が有りません。大丈夫でしょうか?」と言うと主治医が、「前の手術で、盲腸を取ったのなら、開腹手術をしないと分かりませんが、本当に盲腸は、取ったのですね?」と、疑いの眼差しで家族を見たので、英子は、家族全員の顔を見ながら「皆んな取った盲腸見たよね?」と言う。昭も「見たよ。10cmくらいの何か黒いやつ」と言うと、「10cm?黒い?」主治医が、不思議そうな顔をして、首を捻りながら「分かりました。開腹手術をする前に、もう一度、前の手術の跡を少し切って、そこから調べてみます。」

全員が、藁をも掴む気持ちで「宜しくお願い致します。」と言って、英子と、長女の藤子を残して帰っていった。

その日の夜8時頃英子から電話が入り「皆んな、手術が無事終わったよ。そやけど大変やったわ。お父ちゃん、普段からお酒をよう飲んどるけん、麻酔が効かなんで、結局生でお腹を切ったんよ。

途中で、痛いー、痛いー、殺してくれー、言うて、待合室まで聴こえて凄かったんよ。

そいでも今やっと手術が終わったけん、皆んな呼んでください、と言われたけん、あんたら皆んな今から来て」そう言われて慌てて全員病院へと急いだ。

病院では、主治医の先生が、待ち構えていて「今回、傷口を見て、前の手術跡からもう一度探ってみました。

ところが、盲腸炎が見つかったのです。

これが今回摘出した盲腸炎です。

本当に前回盲腸炎を取ったのなら取った盲腸炎を見ましたか?」

全員顔を見合わせて、「ハッキリと見ました見ました。

もっと大きかったです。

ほいで、もっと黒かったです」

「おかしいなぁ、それじゃ、その時、何を取ったんでしょう?」

「ホンマですねー」何か不思議な会話が続いたが、10日後の退院に期待を込めて家路についた。

その後皆んなが一郎に「最初の佐藤医院は、医療ミスや。父ちゃん訴えよや。」

すると一郎は、「まぁええわ。ワシの友達やから、それは出来ん。もう、ええわ。」そう言って、その一件は終了した。

それから3日が経った早朝、藤子が高校へ行くために3階から降りて店のシャッターを開けようと電気を付けた瞬間異様な光景に驚いた。

何と、普段は、店の壁一杯に洋服の生地を掛けて白い壁を覆い尽くしているのに、その日の朝の店は異様に明るかった。

不思議だなぁと思いよくよく見ると、壁に掛けてあった洋服の生地が全て無くなっていた。

「母ちゃんー、大変やー」

藤子の大声で皆んな何事か?と飛び起きて1階に降りると、店の中の生地が1枚も無い。

「フジちゃん警察に電話やー」英子が叫ぶと同時に藤子が110番に通報した。

その日は、学校どころではなく、皆んな学校を休んで、警察の事情聴取を受けた。

その結果「どうやら大掛かりな窃盗団の仕業みたいですね。こんなに沢山の生地を持って帰るには何人かで来ないと無理ですね。第一発見者は、貴方ですか?」

警察官は、藤子の方を向いて尋ねた。

藤子は、震えながら「そうです。私が学校へ行こうと降りてきたら、店があんまり明るかったんで、変やなぁと思って電気を付けたら、生地が全部無くなってたんです。」

藤子の足は、ガタガタ震えていた。

警察官は、震える藤子の肩に手を置いて

「そやけど、良かったですわ。ホラ、見てみてください。階段の下にニッパーいうて、ゴツい針金を切る鋏みたいなもんがあるでしょ。泥棒が忘れて行ったやつですわ。物音に気が付いて誰かが上から降りて来たらこれでたたき殺すつもりだったんでしょう。こんな事言うたら何なんですけど、不幸中の幸いです。」

そう言われた途端、藤子は、その場に座り込んでしまった。

一通り現場検証、指紋採取などが終わり警察官達が帰った後、英子が皆んなに「この事はお父ちゃんにはまだ、黙っとこう。ショックが大きすぎるわ。退院前に私から言うけん」

英子の提案に、皆んな頷いて、暗い1日が終わった。

いよいよ、一郎の退院の前日、英子が、思い詰めて言った。

「お父ちゃん、明日退院やけど、ビックリせんと聞いて!」

「何や一体」

「ホンマにビックリせんといてよ。」

「わかったけん早よ言えや」

急かされる一郎に英子は、「実は、1週間前にうちに泥棒が入って、店の生地が全部盗られてしもうたんよ。ゴメン。」

「えーっ。全部か?ホンマか?」一郎は、そう言ったまま黙って涙を流し続けた。

周りでは、近所の人たちがヒソヒソ話すのが、聞くとは無しに、「峰岸んちは、もうアカン、潰れるわ、親父が入院した上に商品の生地も全部盗られたらしいや。もうアカンわ。潰れるわ。」

その噂は瞬く間に父一郎の耳にも入った。

退院した一郎の店の前に、1週間後、当時国会議員しか乗っていないと言われていた三菱自動車工業のデボネアが納車された。

この時代、スーツが1着15000円の時代に、このデボネアは、150万円もした高級車だった。

一郎曰く「こんな事でウチが潰れるかぁ!生地の在庫は店に飾っとった10倍も持っとるわ。」

近所の人たちは、口々に「峰岸は、とうとう頭に来たで」と言っていたけど、峰岸の商売は、益々繁盛していった。

昭は、そんな父親の背中を、尊敬と少しの畏敬の念をもって見つめていた。

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