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今宵も星は、黙して灯る  作者: 七瀬 尚哉
12/19

新たなる人生 父親の死そして‥‥

家に帰ると、一郎は店の応接セットの椅子に座り、洋子と穏やかに話をしていた。昭が店に入ると、一郎は照れくさそうに言った。

「こぢんまりとして、ええ店やないか。お前も元気そうやし、洋昭も元気か?」

「ああ。ほんで今日は急に何の用事?」

昭は、この3年間、必死で頑張ってきて、やっと何とかなってきた努力を思うと、松山に出てくる時の、一郎の裏切りが再び蘇ってきた。

昭の鋭い問いに、一郎は肩を落とし、重い口調で話し始めた。


「あの時はな、しょうがなかったんじゃ。英一の扇屋の商売が、上手いこといかんようになってな。

あいつはああいう性格じゃから、人に頭を下げて物を売ることが出来んタイプで、営業に出かけては雀荘に浸かったり、夜は夜で飲みに行ったりで、さっぱりじゃ。

そんな時に、お前が洋服屋を出す言うたけん、ワシが井下を連れて行け、言うたのが気に入らんかったんじゃ。

『なんでや!』言うて怒鳴り込んできたんじゃ」

一郎は、昭の顔を見つめ、さらに続けた。「それを英一から聞いた英子も、そんなことしたら、英一が怒るのも当たり前じゃ。昭は人様の職人を連れ出して、泥棒か?言うて。

ワシも二人からは責められて、どうしようも無かったんじゃ。

結局、金を渡すことで落ち着いたんじゃけど、もう、どうしようもないんじゃ」

昭は、言葉を失った。

英一の我儘に振り回され、二人の板挟みになっていた父の姿が目に浮かぶ。


「そやけど、それは、親父が甘やかした、自業自得じゃろう」昭は、そう言うしかなかった。

「そやけどお前、見てみ?前にも、ワシの前でガラスを叩き割って、自分の手を何針も縫うたのを、お前も知っとるやろ?あれがガラスじゃなかったら、ワシじゃろ?もう、怖うてのぉ。やっぱりあいつはワシの子じゃないんじゃ。貸した金も全然返さんし」

一郎は、この時、初めて英一の出生の疑惑を口にした。


昭は、胸がざわつくのを感じた。あの時、怒りで言い放った言葉が、現実味を帯びてきたのだ。

「俺もいっぺん家に帰って、英兄いと話ししてもええけど、あいつはすぐに暴力を振るってくるけん、鉄格子でも作って、その中にあいつを入れてくれたら、話し合うてもええけど、それ以外は無理じゃわ」

見ると、一郎は肩を落として、深い溜息をついていた。

横で話を聞いていた洋子もたまらず口を挟んだ。

「お義父さん、昭さんも大変だったのよ。私も洋昭も、もう家には行きたくありませんから」そう言って、奥へ引っ込んでしまった。

黙って聞いていた一郎は、昼前には帰って行った。

昭と一郎の間には、完全な和解には程遠い、深い溝が残されたままだった。


それから半年が過ぎた、ある早朝、昭の店の電話が鳴った。

「もしもし、峰岸昭ショウさんですか?」

「はい、峰岸ですが」

「こちらは、日本赤十字病院ですが、実は、峰岸一郎さんが昨晩運ばれて来まして、緊急手術をしないといけない状態なんですが、自分の町の主治医に診てもらうと言って聞かないので、今、貴方が、松山に住んでおられると伺ったので、お電話を差し上げたのですが、至急こちらに来て、お父様を説得していただけないでしょうか?緊急に手術をしないと手遅れになるかもしれませんので、宜しくお願いします」

驚いた昭は、すぐに洋子を呼び、事情を話した。洋昭も連れて、日赤病院に急行した。

病院に着いて、受付で事情を話すと、看護婦長の中川さんが現れた。

「先ほどご連絡しました、婦長の中川ですが、今しがた、どうしても、地元の主治医に診てもらうから救急車を呼べ、と言うので、迎えに来た救急車に乗って行ってしまいました」

「えーっ、何でですか?」

昭は信じられない思いだった。

「これは、患者さんの意思の方が優先なので、仕方なかったんです」

「それで、一体何だったんですか?」昭が食い下がると、白衣を着た医師がやって来た。

「実は、昨晩、松山の料亭で会議があり、宴会が催されていたらしいのですが、途中で、お父様が気分が悪いから、部屋に帰って寝る、と言って、一人で部屋に帰ったらしいんです。一緒に会に出席していた人が心配になって、部屋へ様子を見に行ったら、うーん、うーんと唸っていたので、慌てて救急車でうちに運ばれてきました。私が診ると、どうもただ事ではなさそうなので、開腹手術をすると言ったら、自分の主治医に診てもらうから触るな、と言って、今になった次第なんです」

申し訳なさそうに頭を下げる医師に、昭は言った。

「そうですか。言い出したら聞かない人だから、ご迷惑をお掛けしました。それで、先生、容態はどうだったのですか?」

「私の見立てでは、以前に盲腸炎の手術で失敗したと聞きましたので、そこからなのか……開腹手術をしてみないと、何とも言えないので、分かりません」

それだけを告げ、医師は去っていった。


家に帰って、地元の主治医である安田病院の院長に電話をすると、院長もまた、昭が「キャッツ・アイ」を経営していた時の常連客だった。

「ああ、マスター?お父さんは、まだ到着していないけど、救急車からの連絡では、あと30分くらいで着くらしいから、後でまた連絡してください」そう言って電話は切れた。

昭は受話器を握りしめ、時間だけが虚しく過ぎていくのを感じていた。


やはり、父親は父親だった。子供の頃から、一郎の昭への可愛がりようは特別で、昭の言うことは何でも聞いてくれた。

そんな父親が今、危篤状態にあることが心配で、昭は居ても立ってもいられない思いで、時間が過ぎるのを待った。

ようやく午後1時になったので、安田病院に電話をかけると、安田先生が静かな声で話し始めた。

「昭さん、落ち着いて聞いてください。今、お母さんもお兄さんも来られてお話ししましたが、松山から移動させたのが良くなかったみたいで、救急車の中で大量の血を吐いたようです。うちへ運ばれた時には、血圧が上64、下32でした。それと、私が診る限りでは、腹膜炎を起こしているようで、意識もほとんどありません。

早急にご家族の方全員を集めていただきたいのですが、英一さんは、後のほとんどの兄弟の連絡先を知らないようなので、昭さんがわかる限りのご兄弟に連絡をお願いします」

「そしたら、もうダメなんですか?」

「いや、それは分かりませんが、万が一の場合に備えてください」

昭はどうしたものかと悩みながら、長男の勝也の家に電話をした。

勝也の妻である美津子さんが出て、

「あら、昭くん、どうしたの?ちょうど今、主人が食事が終わったところだけど、何か用事?」と、のんびりとした声が返ってきた。

「ああ、兄貴と代わってもらえますか?」昭は一方的に答えた。

何も知らない勝也に事の次第を話すと、

「そうか、分かった。ほしたら、ワシは大阪の久雄に連絡するけん、お前は千葉の藤子に連絡をしてくれ。和久はどこにおるか分からんけん、連絡の取りようがないけん、しょうがないのぉ。それで、親父はもうアカンのか?」

「いや、それは分からんけど、安田先生がみんなを呼びなさいと言っとるけん、アカンのかも分からん。とりあえず、俺も今から大至急そっちへ行くわ」そう言って、昭は慌てて洋子と洋昭を連れて車を走らせた。

病院に着くと、病室には母親の英子、勝也、そして英一が、一郎を取り囲んで見守っていた。

昭が「オヤジー!」と言って一郎の手を掴むと、一郎はかろうじて目を開き、小さな声で「おお、ショウ」とだけ言った。

「洋昭、じいちゃんだぞ、じいちゃん言うてみい」と昭が言うと、何か怖いものを見るように洋昭は一郎の顔を覗き込んだ。

「親父、ヒロアキも来とるよ」昭が言うと、一郎は小さく頷き、目から涙を流した。

松山からそのまま救急車で運ばれてきたので、一郎の左手薬指には、直径3cmほどのサファイアが光っていた。

一郎はオシャレが大好きで、常に香水をつけ、指にはサファイアの指輪をはめ、ネクタイには必ずサファイアのネクタイピンをしていた。

涙を流した一郎がそのまま静かになったので、眠ったのかと思ったその時、安田先生が急に一郎の顔に自分の顔を近づけて、

「峰岸さん、峰岸さん、しっかりしてください!峰岸さん!」と大声で呼びかけた。

「お父ちゃん、お父ちゃん!」英子が叫び、「親父、親父!」と英一が叫び、勝也と昭は唇を噛みしめ、じっと一郎の顔を見ていた。

その時、安田先生が一郎の瞳を覗き込んだ。

英子が一段と大きな声で

「お父ちゃん、しっかりして、お父ちゃん!」と叫んだ。

みんなが下を向いて涙を流していたその時、昭は一郎の顔をもう一度見ようと顔を上げると、英子が「お父ちゃん」と言いながら、一郎の薬指からサファイアの指輪を抜き取って、自分のポケットに入れているのを見てしまった。

昭は、とんでもない出来事に、見てはいけないものを見た驚きで、何も言えなくなった。

他の人は、涙を拭ったり、安田先生は一郎の瞳孔を見ていたりしたので、昭以外に気づいた人はいなかった。

安田先生が自分の腕時計を見て、「午後3時42分、ご臨終になりました」と言って、一郎のまぶたを閉じた。

その瞬間、みんなが一斉に泣き出した。

その日の夜、千葉の藤子と大阪の久雄が、みんなが待つ一郎の家にようやくたどり着いた。

その夜は、藤子、勝也、久雄、昭の4人が交代で、一郎の亡骸を座敷に横たえて、体全体にドライアイスを置き、線香の煙と、蝋燭の火を絶やさないように、寝ずの番で一晩中語り明かした。


翌日早朝から、葬儀屋さんの手配のもと、峰岸家ゆかりの人々が葬儀会場に集まった。

一郎は生前、商工会議所の会長、交通安全協会の会長、郵政弘済会の会長など、様々な要職を務めていたため、葬儀の参列者は3千人にも上った。

会場には入りきらない人々が立ち並び、彼の生涯を讃えるかのような盛大な葬儀となった。

延々と続く弔辞と、参列者たちの弔いが終わり、最後に柩の蓋に釘を打つ作業になった、その時だった。

入り口から、一人の男が息を切らして走ってきた。

皆が驚いて振り返ると、そこには涙で顔を真っ赤にした次男の和久が駆け寄ってきていた。

「オヤジー、ゴメン」と叫びながら、柩にしがみついた。

和久は、昭が大学生の時に一郎が松山に支店を出し、その店を任せたが、博打好きが高じて売上金を使い込み、2年で店を潰してしまった過去があった。

それ以来、行方知れずになっていたため、誰も彼の居場所を知らなかった。

どこで一郎の葬儀を聞きつけたのか、あまりにもドラマチックで、まるで映画のワンシーンのような出来事に、皆が言葉を失った。

「和くん、和くんや、早う、あんたも釘を打って。早う」

長女の藤子が、泣きながら和久に釘を打つ石を渡した。

昭も驚いてその光景を見ていたが、ふと、高校生の頃の大喧嘩が脳裏によみがえった。

昭が和久の顔を思いっきり殴った時、和久が少し顔を引いたために、口に拳が当たり、顔から血がほとばしった。

和久は横にあったビール瓶を振りかざして「この野郎、殺してやる!」と殴りかかってきた。

その瞬間、藤子が間に入り

「カズ、やめんかい」と止めた。

和久は、ビール瓶を振り下ろすわけにもいかず、そのまま家を飛び出して1週間家出した、あの日の記憶だ。

釘を打っている和久の左頬を見ると、その時に昭が殴って切れた唇の傷が、今も大きく残っているのが見えた。

昭は、いたたまれなくなり、思わず目を背けざるを得なかった。

焼却炉に一郎の遺体を入れるまで、不思議なことに昭は一滴の涙も出なかった。

しかし、いざ焼却炉に入れられ、扉が閉まり、火のスイッチを入れた途端、昭はこらえきれない後悔と悔しさで、会場中に響き渡る大声で、床にうつ伏せになって泣き出した。

あまりにも突然で、床を叩きながら泣き叫ぶ昭の姿に、皆が驚いて彼を抱き寄せ、立たせようとしたが、昭の大声の「ウワーン、ウワーン」という号泣は、止まることはなかった。

昭は、こんなにも親父の死で自分が取り乱したことに、自分自身も驚いた。

そしてその時初めて、親父という存在の大きさを改めて知らされたのである。



葬儀も終わり、家に戻ったその時、玄関に立てられた町内からの忌引きの看板が目に飛び込んできた。

それを見た英一が、顔色を変えて怒鳴った。

「誰がこんなもんを立てたんじゃ!ワシらに何の断りもせんと、親父が死んだのを喜んどんか?」

他の友人や親戚、近所の人たちも大勢いる中、藤子が間に割って入った。

「英君、そんなことはないよ。町内の人も悲しんで、立ててくれてるんじゃから!好意でしてくれてるんじゃから」

「なにー、お前は嫁に行って、峰岸家のことは何も分からんくせに、こうやって親父が死んだ時だけ帰ってきて、偉そうに言うな。今まで、帰ってきたことがあるんか?悪いと思うんなら、ここで、腕の一本でも叩き落としてみぃ」

「あんた、何を言っとんのよ。あんたにそんなこと言われる筋合いは無いわ。分かったわ。もうええわ、今日の夕方の便で帰ってやるわ」

藤子はそう言い放った。

横でオロオロしていた英子も

「あんたもそこまで言わんでも…」となだめようとすると、英一は英子にまで怒りを向けた。

「お袋、あんたがそんな甘い顔しとるけん、出て行った奴にまで馬鹿にされるんじゃ。

どいつもこいつも、馬鹿にしやがって」

そう言いながら、外に出て忌引きの看板を蹴り飛ばし、バラバラに壊してしまった。

嫌な雰囲気になったが、和久を除いた藤子、勝也、久雄、昭の4兄弟は、一郎の今までの行動や商売のやり方について、思い出話に花を咲かせていた。

その時不意に英一が現れ、

「みんな、これに署名、捺印してや」と言って、一枚の紙をそれぞれに渡した。

用紙を見ると、そこには「峰岸 一郎の財産、私財は、一切放棄します」と書かれていて、その下に署名、捺印の欄があった。

「何コレ?」

藤子が尋ねると、英一は冷たく言い放った。

「見て分からんか?財産放棄の書類じゃ。お前らは母親が違うんじゃから、今までお袋に育てられただけでも、ありがたく思え。本当なら、逆にこっちが金を貰いたいくらいじゃ」

英一は署名欄を指で叩いて催促した。

藤子は一瞬で決意した。

「分かったわよ。私はどっちにしろ嫁に行った人間だから、今ここで署名して判も押してやるわ。その代わり、あんたとはもうこれっきりで、付き合いは無いからね」

藤子は目の前で署名・捺印し、その紙を英一に投げつけた。

勝也が「ちょっと待てや。まだ昨日の今日やぞ。せめて初七日が終わってからにしたらどうや?」と言うと、英一は「初七日が終わろうと変わらんわ。勝兄い、お前もお袋に今まで育ててもろたんじゃろが。まあ、2、3日内に書いてや」と言って、昭の方を向いた。

昭は静かに反論した。

「ワシは、母親はお前と同じじゃ。関係なかろうが」

すると、そこへ英子が現れて言った。

「あんたも峰岸家を出て行った人間じゃないの。私はこれから英一と一緒に暮らすけん、あんたも関係ないんよ」

「何を?もし英兄いに何かあっても、ワシは知らんぞ?」

昭は突き放すように言った。

「構いません。あんたの世話になるつもりはさらさらありませんから心配しなさんな」

「おう、その言葉、よう覚えとけよ」

昭はさらに続けた。

「それから、親父の財産や資材がいくらあってどうなっとるか?その明細くらいは見せなあかんじゃろう?その目録はどこじゃ」

「峰岸家は借金だらけじゃ。お前も受け継ぎたいんじゃったら、借金も全部背負えよ。その覚悟があるんじゃな?」

「そんなもん、借金がどれだけあるか、貯金がどれだけあるか、調べたら分かるじゃろう」

「勝手に調べんかい」

翌日、昭は峰岸紳士服店の会計事務所を訪ねた。

「すみません。峰岸の末っ子の昭ですが、峰岸紳士服店の財産分与の件で、書類を見せて欲しいんですが」

会計士は「先ほど英一さんから連絡がありまして、弟が行くと思うから書類を見せてあげてくれと言われましたので、今整理してたんですが、なにせ色々役職や事業がありましたので、まだ整理できていませんが、借金もかなりありますよ。財産を受け継ぐということは、借金も受け継ぐことになりますが、それでも良いですか?財産よりも、借金の方が多いですよ」と念を押された。

「じゃあ後ほどまた連絡させていただきますので、用意しておいてください」そう言って会計事務所を出た。

後で調べてみると、その会計事務所も英一が入っている青年経営者の会の会員だった。


松山に帰った昭は、英一から渡された財産放棄の書類を前に、どうしたものかと頭を抱えていた。

洋子は、そんな昭の姿を見て心配そうに尋ねた。

「誰か、弁護士に相談してみたら?」

「弁護士言ったって、知らんし、それから、相談するだけでも、なんぼか金いるんやろ?」

「さあ、私も知らんわ。とりあえず、電話帳で調べて聞いてみたら?」

洋子の言葉に促され、昭は電話帳で調べて、曽我部弁護士事務所と書かれている番号に電話をかけてみた。

「もしもし、こちら、曽我部弁護士事務所ですが」と、男性の声が聞こえた。

「あのー、初めてで何も分からないんですが、私は峰岸と申しますけど、財産分与の件で、お聞きしたいんですが、ご相談だけでも、お支払いしないといけないんでしょうか?時間制なんでしょうか?」

昭の問いに、弁護士は落ち着いた声で答えた。

「とりあえず、どんな相談ですか?」

「あのー、兄に突然、財産放棄をしろ、と言われて、用紙を渡されたんですけど、どうして良いか分からないので、電話をさせていただいたんですが」

「どんな用紙ですか?」

「白紙の用紙に、ただ、全ての財産を放棄する、と書いてあって、下に署名欄と印鑑を押す印だけがあります」

弁護士は、一呼吸おいて尋ねた。

「財産分与にあたって、預金や借金の貸借対照表はありますか?」

「いえ、そんな物は一切ありません」

弁護士は静かに、しかし力強く言った。

「それでは聞きますが、貴方は、白紙の用紙を渡されて、『自殺しなさい』と言われたら、死にますか?」

「いえ、それはないです」

「そうでしょう。それと同じことですよ。ちゃんと、収支を見てからです。分かりましたか?それまでは、絶対に、署名、印鑑を押してはダメですよ」

昭は、その言葉に、胸のつかえが取れたような気がした。

「ありがとうございます。よく分かりました。それでは、どこにお支払いすればよろしいでしょうか?」

「いえ、電話だけですので、大丈夫ですよ。今度、何かあれば、ちゃんと頂きますから。頑張ってくださいね」

そう言って、電話は切れた。

昭は受話器を置くと、弁護士の言葉を反芻した。

白紙の用紙に署名することは、自殺するのと同じだ。この言葉は、昭の心に深く刻まれた。

何も知らずに、感情に流されて署名してしまっていたかもしれない。

改めて、父の死をめぐるこの騒動の裏に、どれだけの思惑が渦巻いているかを痛感した。




松山へ帰った昭は、英一から渡された財産放棄の書類を見ながら、どうしたものか?悩んでいた。

その時、隣に居た洋子が

「誰か、弁護士に相談してみたら?」

「弁護士言うたって、知らんし、それから、相談するだけでも、ナンボか金要るんやろ?」

「さぁ、私も知らんわ、取り敢えず、電話帳で調べて聞いてみたら?」と、洋子に言われた通り、電話帳で、曽我部弁護士事務所と、書かれている番号に電話をしてみた。

「もしもし、こちら、曽我部弁護士事務所ですが。」と、男性の声が聞こえた。

「あのー、初めてで何も分からないんですが、私は、峰岸と申しますけど、財産分与の件で、お聞きしたいんですが、ご相談だけでも、お支払いしないといけないんでしょうか?時間制なんでしょうか?」

「取り敢えず、どんな相談ですか?」

「あのー、兄に突然財産放棄をしろ!と言われて、用紙を渡されたんですけど、どうして良いか分からないので、電話をさせて頂いたんですが。」

「どんな用紙ですか?」

「白紙の用紙に、ただ、全ての財産を放棄する。と書いてあって、下に署名欄と印鑑を押す印だけがあります。」

「財産分与にあたって、預金や借金の、貸借対照表は、有りますか?」

「いえ、そんな物は一切ありません。」

「それでは、聞きますが、貴方は、白紙の用紙を渡されて、自殺しなさい、と書かれていたら、死にますか?」

「いえ、それはないです。」

「そうでしょう。それと同じ事ですよ。ちゃんと、収支を見てからです。分かりましたか?、それまでは、絶対に、署名、印鑑を押してはダメですよ。」

「ありがとうございます。良く分かりました。それでは、どこにお支払いすれば宜しいでしょうか?」

「いえ、電話だけですので、大丈夫ですよ。今度、何かあれば、ちゃんと頂きますから。頑張って下さいね。」と言って、電話が切れた。


2日後に英一から連絡があり、

「昭、書類は書けたか?早くしろよ。」

「チョット待てや。この間、弁護士に聞いたけど、貸借対照表も見せずに、財産放棄するのは、もっての外じゃと言われたけん、ちゃんと収支報告を見せろや。」

「何を言うとんじゃ、アホか?又、後で電話するわ。」そう言って電話が切れた。

昭は、勝也にも、電話で、弁護士に相談したことを伝えると、

「そうか、ワシは、同じ町に住んどって、しょっちゅう顔を合わせるけん、もうええわ、と思って、この間、OKのサインして、判押したわ。」

「何でや、貰えるもんは貰わんと、お前が、ここまで店を大きくしたんじゃから」

「いや、確かに今まで、自分の子供じゃない子を五人も育ててくれたんやから、ワシはもうええわ。そやけど、お前は実の父親と母親なんじゃから、ちゃんと貰えるもんは貰えよ。」と言って、電話が切れた。

それまでに、藤子からも、「アンタだけは、絶対に貰える物は貰いなさいよ。コレは、当然の権利じゃからね。」と、何度も、言ってきた。


英一から電話があった3日後、昭が葛城商店に行くと、葛城さんがいつもの喫茶店に昭を誘って、いつものコーヒーを頼むなり、神妙な顔で、話し出した。

「昭君、実は今朝、英一君から電話があってな、お前が昭にいらん事を焚き付けてんじゃろ。弁護士に相談せぇとか、収支報告を出せとか、いらんことしよったら、商売出来んようにするぞ。と、言うてきたんや」

「えーっ、それで、どないしたん?」

「俺は、昭君には何も言うてないよって言うたら、いらん事は言うなよ。と言って、電話が切れたんや。」と、困った顔をして、打ち明けた。

昭は、コレは、葛城さんにまで、迷惑がかかるので、もう仕方ないと思い、家に帰って、直ぐに、用紙に署名して、印鑑を押して郵送した。

その事を藤子や勝也に伝えると、2人とも

「酷いなぁー、人間のやる事やないなぁ。まっ、昭、そんな金くれてやれ、そんな奴は碌な死に方せんよ。神様がちゃんと見てくれてるわ。」と、嘆いてくれた。


それから3日後に、母、英子から荷物が届いた。

小さな段ボール一杯に、新品の靴下に、何回か洗っている靴下。

その上に1通の手紙が入って、英子の字で、この度は、お父さんの事で、大変お疲れ様でした。

これは、少しですが、お父さんの形見分けです。

お父さんも色々借金をしていたみたいで、金目の物は何も無かったので、コレを送りました。

お父さんを思い出して、せいぜい大事にして履いてあげて下さい。」と、書いてあった。「何じゃコレ?

人を馬鹿にするのも程々にせぇや。」そこに洋子が入って来て、

「何コレ?酷いんじゃない?新品の靴下はともかく、履きかけた靴下送る?頭おかしいんじゃ無いの?

まっ、アナタ、変に何ももらわずに、自分達で、お義父さんを乗り越えてやりましょうよ。」

「そうやな、俺たちは俺たちで、頑張ろう。あんな、チョットの財産貰ろうても、やったやったと言われるだけ、腹立つしな。」

直ぐに勝也に電話をして、形見わけの靴下の話しをすると、「おぉ、ワシにも電話があって、形見わけに、オヤジのスーツが有るけん見にこんか?言うけん、行って着てみたら、丁度ピッタリやって、舶来の高い、エエもんばっかり3着選んだら、お袋が、それやったらカッコええわ。アンタやから1着1万5千円で、ええわ、言うけん、3着で、4万5千円で買うたわ。安かろう?」と言うので、昭は、驚いて、

「お前、お金払うて買うたんか?」

「そうよ、安うしてやる言うけん、オヤジが大事に着とったやつじゃけん。買うたわ。」「アホか、それは形見じゃ無いじゃん。押し売りじゃないか」

「まっ、それでもええわ、親父のもんやったんじゃから。」

昭も、呆れて、物が言えんかった。


一郎が亡くなって3ヶ月が経ったある日、昭は、墓参りに行った。

墓には、綺麗な花が活けられて、綺麗に手入れがされていた。

昭も線香をあげて、ふと横を見ると、何やら新しい石碑が建っていた。

良く見ると、そこには、

峰岸 英一の父 峰岸 一郎 

1987年9月11日没 享年73歳

と、赤の文字で、大きく彫られていた。

何コレ?

英一の父?

英一だけの父か?

コイツはもう気が狂ってるわ!

昭は、驚いて勝也に電話をすると、勝也も、石碑の事は、全然知らず、驚いていた。

あまりにも馬鹿げた行いに昭も、もう、呆れ果て、コイツは気が狂ったんだとしか思え無くなって、もう、怒る気にもならなかった。

それから1週間後、勝也から電話が有り、「オイ昭、相談があるんじゃけど、チョット聞いてくれ。」

「何?」

「昨日英一から言われたんじゃけど、峰岸紳士服店の事じゃけど、英一が社長になって、ワシが専務でやってくれんか?と、言うんじゃけど、どうじゃろか?」と、信じられない相談を、嬉しそうに話すので、思わず、

「お前はアホか?お前が長男じゃぞ!何で歳下の弟が社長で、長男のお前が、専務なんじゃ、しっかりせえよ。

それで、アイツは背広も売れん、結局売るのは、アンタ1人じゃろう?専務言うたって、お前と英一2人しかおらんのやぞ。」「そやけど、専務になったら、給料も、上がるし、どうやろ?」

「あんな、よう聞けよ。その専務の給料は、お前の売り上げで出来るんやぞ。その上、何もせん社長にも給料払うんかいな?バカも休み休み言えよ。」と、あまりの人の良さに、昭は、捲し立てた。

翌日更に勝也から電話が掛かってきた。

「昨日英一に話したら、確かに勝兄いの世間体もあるじゃろうけん、それやったら、お前が社長で、この峰岸紳士服店をやってくれ。その代わり、お袋を相談役にして、毎月50万円やってくれんか?それやったら、後の残りは、全部勝兄いのもんじゃ。と言われたんじゃけど、ええ話やろ。ワシもコレだったら、肩書きも社長で、売ったら売るだけ自分の物になるけん、ええ話じゃと思うんじゃけど、どうじゃ?」

昭は、又々呆れ果てて、

「あんな、しっかりしてくれよ。お前、50万円言うたら、売り上げの50万円と違うんじゃぞ。利益の50万円じゃぞ、ほしたら、ナンボ売らんといかんのか分かるか?それも、毎月じゃぞ?

ええか、お袋に50万円言う事は、何もせんアイツらに、毎月、25万円ずつ小遣いを渡してるのと同じ事じゃぞ。

それやったら、悪い事は言わんけん、アンタは、今まで親父と一緒に峰岸紳士服店をやって来たけん、その看板を守りたいのは分かるけど、いずれは、英一が乗っ取るつもりじゃ。

それやったら、アンタも松山に出てきて、自分で商売したらどうじゃ?」と言うと、突然の昭の提案に、

「松山か〜。チョット考えさせてくれ、明日また電話するわ。」と言って、電話が切れた。

翌日、早速勝也から電話が掛かってきた。「昭、確かにお前の言う通りじゃけど、ワシには、家族もおるし、生地を仕入れる金も無いし、、アパートを借りる敷金礼金も無いし、もうチョット、こっちで頑張ってからじゃ無いと無理じゃわ。」

「そんな事いよったら、英一にええように利用されるぞ。ホントに、松山に出てくる気が有るんじゃったら、生地は、ワシが持っとる分半分使うたらええわ。

それから当面の金じゃったら、貸したるわ。取り敢えず、100万有ったら何とかなるじゃろう。どうや?」

「ほうか、それじゃったら何とかいけそうじゃのう。嫁とも相談するけん、明日返事するわ。」

嬉しそうな声で、勝也が電話を切った。

翌日、嬉しそうな声で勝也から、松山進出の返事が届いた。


勝也は、早速、松山市内のマンションの1階3LDKの部屋を借りて、勝也夫婦と、娘2人の4人で住むようになり、テーラーキングと言う名前の名刺を作り、洋服屋を始めることにした。

落ち着いたところで、殆ど毎朝、昭と勝也は、喫茶店で、モーニングコーヒーを飲む事が習慣になった。

そこで、コレからの商売のやり方の取り決めを話し合った。

同じ地域で、同じ商売で、販売する所も、小中学校、高等学校、郵便局と、同じ組織での販売なので、テリトリーを決めておかないと、兄弟でも、客の取り合いで喧嘩になるので、そこは、ハッキリと線引きをしていないといけない。

まず、郵便局は、四国全体で、職員の移動も四国内なので、お互い、協力し合って、一緒に商売する事。

高等学校と、小中学校は、東予地方と中予地方に分ける事、南予地方は、2人で商売に行く事。

それから、一般の、2人共通のお客さんは、売り上げを2人で折半にする事。などを取り決めて、早速、四国の各県の郵便局を2人で回るようにした。

香川県、高知県、徳島県など、四国4県を、山奥まで隈なく周り、2人で行くと、片方が話をしている間に、誰かが、「そんなん、いらんいらん。辞めとけ。」と、邪魔をする人が居ると、昭か勝也のどちらかが、その人に話しかけて、邪魔をされないように、気を付ける作戦。

この、タイミングは、慣れてくると、阿吽の呼吸で、その場の雰囲気で行動出来るようになった。

お互いが良きライバルになって、郵政弘済会では、勝也の売り上げが、四国の洋服指定店でトップになり、昭は、3番手。高等学校生協では、愛媛県で、勝也が2位、昭が3位。

小中学校生協では、愛媛県で、昭が、ダントツ1位で、独走状態になった。









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