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今宵も星は、黙して灯る  作者: 七瀬 尚哉
11/19

新たなる人生 紳士服店 起動

初めての松山での29歳からの生活に、昭は、これから先どうしようかと悩んだ。

悩んだところで、昭自身は裁断も縫製もできず、一刻も早く裁断士や職人さんを見つけることが先決だった。

そこで、松山で唯一の知り合いである、峰岸紳士服店が昔からお世話になっていた、洋服の裏地やボタン、付属品を仕入れている葛城商店を訪ねた。

葛城商店の店主、葛城さんとは、峰岸紳士服店でたまに顔を合わせることはあったが、挨拶を交わす程度で、あまり話したことはなかった。

昭は、今回の事情をすべて説明し、葛城商店で付属品を仕入れることを峰岸紳士服店に知らせないようにお願いした。

葛城さんは

「分かっているよってに、心配せんといて。

峰岸社長は厳しい人やから、私からは絶対に言いません。でも、いずれは分かることやから、それは覚悟しといた方がよろしいですよ」と言って、約束をしてくれた。

実は、この葛城さんも、京都や大阪で紳士服の付属品を売る問屋にいたが、自分で独立して現在は松山で商売をしている社長さんだった。

昭も、松山に出てきたからには、この葛城商店で付属品を仕入れるしかないと、ここを頼ることにした。

「葛城さん、そういうわけで、どこかに裁断士さんや職人さんの知り合いはいないですか?」と尋ねると、

「そうやねぇ、みんな洋服屋さんは自分で裁断して、自分で縫ってるさかい、なかなか外注の職人さんは、いてへんから、分かりませんけど、至急探してみますわ」と、言ってくれた。

昭も焦っても仕方がないので、とりあえず「キャッツ・アイ」で稼いだお金が少しはあるため、3ヶ月くらいは売り上げがなくても生活は大丈夫だと考えた。

昼間は毎日、葛城さんに会いに行ったり、なんとか職人さんの情報を集めたりして過ごした。


夜になると、以前「キャッツ・アイ」でお世話になった古市専務の言葉が耳に残っていた。

「午前2時前には寝ないように」という約束通り、最初のうちはテレビを見て過ごしていたが、それも次第に飽きてきた。

飲みに行くことも禁じられていたので、それならせっかく洋服屋になったのだから、洋服のことを勉強しようと、本を買って毎晩読むようになった。

それによると、背広と言う言葉は、Savile Rowサヴィル・ロウと言う、イギリス・ロンドンのメイフェア地区にある通りの名前で、特に高級紳士服の仕立屋テーラーが並ぶ場所として世界的に有名な通りで、いわば「仕立て屋街」で、それが日本に入って来て、訛ってセビロから背広になったとか、

なぜ背広をしまう時に折り畳んだ中に新聞紙を入れるのか、

それは、新聞紙が湿気を取ってくれて、新聞のインクの匂いに虫が弱いからだとか、カシミヤは、ヒマラヤ山脈のカシミール地方にいる羊なので、カシミヤ山羊の名前が由来だとか、初めて知ることばかりで、毎晩が楽しくなった。


そんなある日、「こんにちはー」という声と共に店のドアが開いたので、昭が店に出てみると、そこに井下さんが立っていた。

驚いた昭は、「あれ、井下さん、どうしたん?」と尋ねた。

恐る恐る店に入ってきた井下さんは、キョロキョロと店内を見回し、

「綺麗な店じゃねー」と言って、陳列や生地を見つめていた。

「まあ、どうぞ座って」

昭が促すと、井下さんはおもむろにソファに腰掛け、一気に話し始めた。

「あれから社長が、あの話は無かったことにしてくれ、と言われたので、なんでですか?と聞いたら、細かいことは言えんけど、とにかく無しじゃ、と言うんじゃ。

俺も頭に来て、ほしたら昭君はどうなるんですか?と聞いても、それは、うちの話じゃから、あんたには関係ない、と。

益々頭に来て、昭君は家族も連れて見ず知らずの土地に行っているのに、社長は見て見ぬふりをして、あんたはそれでも父親か?

そんなんだったら、俺も辞めるわ!と言うて、辞めてきたった。まだ裁断士が見つかってないなら、一緒にやろう。もう見つかっとっても、仕立ての方でもできるけん、一緒にやろう」

あまりにも突然で、嬉しさのあまり昭は

「井下さん、ありがとう。助かるわ。本当にありがとう」と言って、二人は固く手を握り合った。

すぐに不動産屋を探し、2階建てアパートの一室を契約した。

2部屋の一つを仕事部屋にし、センターにテーブルを置いて、その上に裁断用の合板を敷いた。

アイロンや必要な道具を揃え、いつからでも裁断ができるように整えた。



松山に来た当初から、学校生協や郵政弘済会の指定店になるために事務所を回り、既に指定店になっている洋服屋2店からの推薦が必要な高等学校生協でも、葛城商店の社長から根回しをしてもらい、すべての指定を取り付けていた。

これで明日からでも営業に回れる手はずは整った。


裁断室の準備と同時に、昭は店の作業に必要なボイラーを探し始めた。

電話帳で調べた一軒のボイラー屋を訪ね、値段の交渉を始めた。

最初の店の社長は、いかにも横柄な態度だった。

昭がカタログを見て「これがいいかなと思うんですが、いくらですか?」と尋ねると、「これは27万円ですねー」と答えた。

「もう少し安くなりませんか?他の店では25万円くらいなら、と言ってくれたので、もう少し安かったらいいなと思って」

この言葉を聞いた瞬間、社長の顔つきが変わり、

「それだったら、そこで買えば?うちは値引きはできないね」と、剣もほろろに言われた。

昭は「分かりました。どうもすみません」と店を出たが、

次の店に向かう車の中で、昭は笑いがこみ上げてきた。

「ここは商売がしやすい町やな。さすが城下町だけあって、大名商売じゃなー。ここだったら対抗者が少ないぞ」と思った。

なぜなら、昭の父、一郎はどこへ行っても値切ることで有名で、お堅いデパートでも、英子が恥ずかしがるのを構わずに値切り、最終的にはお得意様として金額を下げさせていた。金額の問題ではなく、少しでも安くなると、自分だけが、特別扱いなんだと言う自存心だけの事で、値引きは、100円でも良いのであった。

事実、峰岸紳士服店でも、客が値切ってくると、少しでも安くしたり、それができない場合はネクタイやタイピンをサービスで付けて、売上を伸ばしていたのを、昭は子供の頃から見てきた。

「こんな競争率の高い今、普通のやり方をしていたら取り残される」

そう思っていた昭は、自然と笑みが溢れたのである。


葛城商店では、よく売れる紺、グレー、黒の裏地と、上着の釦、ズボン釦、ズボンファスナーを一通り仕入れた。

そんな時、葛城さんから声がかかった。

「昭君、いろいろ職人さんを探してたら、うちに来る洋服屋さんからの情報で、もっと仕事が欲しいという職人さんが何人かいるみたいなので、とりあえず名前と住所と電話番号を聞いている。

行ってみますか?」

昭は当然ながら、すべての職人さんに連絡を取り、会いに行くことにした。


背広の上着を専門に縫う内山田さんと箕浦さん。

ズボンとチョッキを縫う溝辺さんと堀本さん。

そして仮縫いを仕上げる稲毛さん。

総勢5人。

以前は皆、忙しくて様々な洋服屋から仕立ての依頼があったが、既製品が世に出てきてから、オーダーメイドスーツの売上がぱったりと止まり、1着仕上げていくらの職人さん達の生活も徐々に厳しくなっていた。

そこへ、葛城商店が仕立て屋さんを探しているという声に、皆喜んで知らせてくれたのである。

渡りに船とはよく言ったもので、昭も職人さんたちも好都合で、話はすぐにまとまり、明日からでも大丈夫だと返事をもらった。

昭はすぐに井下さんに報告した。

「良かったねー。そしたら、どんどん売ってくれたら、俺がどんどん裁断するけん、明日から頑張ってやろうや」

そう言って、二人は固い握手を交わした。

翌日、朝一番で葛城商店を訪れた昭は、葛城さんと近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、心からお礼を言った。

「葛城さん、ありがとう。おかげさまで、みんなやってくれるようになりました。これで、何とか職人さんも揃って、今日からバリバリ商売できます。本当にありがとうございました」

「いやいや、ちょうどタイミングが良かったんや。オーダーの洋服屋さんが既製品に押されて辞めていく店が増えて、職人さんも困っていたところだったんで、お互い様や。

その代わり、仕事、切らさんように、せいだして、きばってや」そう言って、我が事のように喜んでくれた。


昭は葛城さんに別れを告げ、最初の営業先として、松山でも少し山の方にある特定郵便局へ向かった。

そこは集配局で、配達員も何人かいる15名ほどの局だった。

昭が窓口で「こんにちは、郵政弘済会の指定店で、テーラー峰岸ですが、局長さんにお会いしたいのですが」と言うと、窓口の女性が名刺を見ながら「ああ、局長さんね。じゃあ、外へ出て、裏の集配から上がって」と言われた。

裏に回ると、郵便車やバイクがたくさん停まっていて、どうすれば良いか分からずキョロキョロしていると、

「何や、洋服屋か?ここから上がってや。局長ー、洋服屋さんが来てるよー」と指差して教えてくれた。

言われた通りにプラットフォームを上がって奥に行くと、人の良さそうな背の低い局長さんが座っていた。

昭は早速名刺を渡し、「こんにちは、今度初めて郵政弘済会の指定店になって、郵便局を回らせてもらうようになりました峰岸です。よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。

「そうか、初めてですか。それで、この局は何軒目?」と聞かれたので、

「私が松山に来て、初めての郵便局です。よろしくお願いいたします」と答えた。

「そうか、初めてか。ここもようけ、洋服屋さんが来るけど、なかなか売れてないよ。ところで、あんたは若いけど、自分でやってるの?」とじろじろ見つめてくる。

「そうです。親父や、兄が別の町でやっていて、今度僕が洋服屋をやりたいと言ったら、兄弟喧嘩になってもいかんから、お前は別の町でやれ、と言われて松山に来たわけですが、松山は全然知らなくて、長戸の方に店を出しているんですが、帰り道は松山城を目指して行かないと、帰りの道も分からない状態です」

昭の言葉に、局長さんは大笑いした。

「そうかそうか、そりゃあ大変じゃなぁ。そしたら、一番に来てくれた記念に1着作ろうか?なぁ代理、あんたも付き合わんか?」そう言って、隣に座っていた少し太った局長代理に話しかけた。

局長代理も、ニコニコ笑いながら、

「そうですねー、それは私も、その記念に乗っからないと、後々まであの代理はケチだったと言われるのも何だから、せっかくの局長さんのお勧めなので、お付き合いしますかね」と言ってくれた。


まさかの展開に、昭は嬉しくなり、走って車に積んでいるたくさんの生地が入った風呂敷包みを2つ持って、ハァハァ言いながら局長さんの前に置いた。

2人が手に手に生地を持って品定めをしだした。

二人が「ああでもないこうでもない」と悩みながら話しているのを見て、昭はすかさず言った。

「今日は初日で、局長さんから気持ちのいいお言葉をいただいたので、特別にこちらの舶来の生地をお安くしますので、こちらから選んでください」

そう言って、別の風呂敷包みを開けた。

局長さんと代理さんがその生地を見ると、

「おおー、やっぱり舶来物は柄が違うなぁ。俺はこれにするよ」「じゃあ、私はこちらに」二人が生地を肩に掛けて

「ところで、いくら?」と聞かれたので、昭は値札を見せた。

「おおー、やっぱり舶来は高いなぁ」と、少し諦めがかった声で顔を見合わせたので、昭はすかさず言った。

「この生地は舶来でも一流の生地で、どちらも1着23万8千ですが、私も初日で、あまりにも局長さんの心意気に感動しましたので、国産の最高級クラスの金額になりますが、18万円でいかがでしょうか?その代わり、他の洋服屋さんには、絶対に内緒にしておいてください。お願いします」

そう言うと、二人は顔を見合わせて

「いいんかいなぁ。悪いなぁ。そしたら、それでやってや。」

と、決めてくれた。

昭も、その代わりちょくちょく寄らせてもらいますので、よろしくお願いします」と言って、局を後にした。

こうして、昭の松山での初めての商売が成立した。


その日の昭は、嬉しさのあまり、店に帰るなり井下さんに報告した。

「井下さん、売れたよー。2着も!舶来やー!」

「えー、すごい、すごい!さすが昭君。いや、社長と呼ばなアカン。早速持って帰って裁断するわ」そう言って、井下さんは売れた2着の生地を抱えてアパートに帰っていった。

昭は、葛城商店へ行って、売れたことを報告した。

「そうでっか、それは良かった。これから、どんどん売って気張りなはれや」と、葛城さんは我がことのように喜んでくれた。

しかし、次に葛城さんは顔を曇らせた。

「実は今日、お兄さんの英一君から連絡があって、裏地やら、釦やら付属品を売ってくれんか、と言うてきてな。それも月末締めの翌月末払い、と言うてきたんや。うちも峰岸の社長には世話になってるし、知らん仲やないけん、ええよ、と。

そやけど、遠いから、いちいち来るのも大変やろうから、運送便で送ることにするわ、と言っといたけん。

向こうの町の付属屋さんが売り上が悪うて辞めてしもうたらしいんで、うちも商売やから、しょうことなしに売ることにしたんやけど、昭君のことは一切言わんから、安心してや」

昭は、葛城さんが上手く取り計らってくれたことに感謝しながらも、

「そやけど、支払い、大丈夫やろか?葛城さん、一回でも支払いが遅れたら、現金仕入れじゃないとアカン言うて、断らんといけませんよ」と釘を刺した。

「分かっとる。うちもその辺はキッチリしとくわ」と葛城さんも念を押した。


翌日昭は、井下さんが裁断した生地と、付属の毛芯や肩パットを持って、仮縫屋の稲毛さんのもとへ届けた。

「あれまっ、もう売れたんかいね!すごいなぁ。この調子で売ってちょうだい。私もバリバリ縫うけん。

2着あるけん、明後日の朝にはできとるけんね」そう言って、生地を持って奥へ入っていった。


昭は、昼休みに高等学校へ入っていった。

まず職員室で教頭先生に挨拶をすると、

「ああ、どうぞどうぞ」とあっさり許可をもらえた。

勝也が教えてくれた通り、まだ今年教員になったばかりくらいの若い先生が、昼食を終えてお茶を一口飲んだのを見計らい、中腰で横に座って声をかけた。

「先生、こんにちは。お疲れ様でした。」

何事か?という顔で昭を見つめる先生に、「高等学校生協指定のテーラー峰岸ですが、先生、スーツは何着お持ちですか?」と尋ねた。

「あっ、スーツは3着あります」と、自慢げに答える先生に、「そりゃあすごい、それだけあったら何とか、差し当たっては凌げますねぇ。そしたら当然、礼服もお持ちでしょうね?」と続けた。

「礼服ですか?いや、礼服はまだ…」

「えー、持ってないんですか?それは早急に揃えないと。教員になられたら、同僚や、こんなことがあったらいかんのですが、もし生徒さんのご家族に御不幸があれば、先生、礼服を着ていかないといかんでしょう?

それだったら、こうやって勧められる時じゃないと、思いつかないと思いますので、うちだったら、金利無しの分割で、給料天引きで行けますよ」

「金利はつかないんですか?」と驚く先生に、「生協は金利は全て業者負担ですから大丈夫ですよ」と答えると、「それじゃあ、お願いします」と、この日も礼服が売れた。


その後、放課後に中学校へ行き、同じく職員室で校長先生に挨拶をして、色々な先生に声をかけると、遠くの方から「おおー、洋服屋さんが来てるんか?ちょうど良かった、今度の大会で勝ったら優勝やから、紺ブレが欲しいんやけど、有るかいなぁ」と、明るい顔の先生が声をかけてきた。

「はい、ありますよ!」と喜んで言うと、「実はワシ、サッカー部の顧問しとるんやけど、今度勝ったら全国大会なんや。

その時にテレビのインタビューがあるんで、紺のブレザーが欲しいんやけど、なんぼくらいするん?」

「そうですねー、8万円くらいですが、どうせだったら、王冠のエンブレム付けて、釦も金釦にした方がいいと思いますよ」

「エンブレムかー、ええなぁ、そやけど、そんなん付けたら高うなるやろ」

「エンブレムもピンキリで、安いのは薄っぺらでペラペラですわ。

そやけど、ええ奴は、台紙もしっかりしてて、錦糸の刺繍で、厚みもあって、2万円します。それと、金釦も、前のダブルの釦4個と、袖釦6個で、8千円ほどするんで、全部で10万8千円するけど、せっかく声掛けてくれたんやから、全部で10万円でいかがですか?」

「そうか、そしたら、現金で払うから、もうちょっと安うならんか?」

「先生、学校生協指定店だから、分割で金利なしで、給料天引きだから、そっちの方が得ですよ」と言うと、「そうか、そりゃあその方が得やな。そしたら、そうするわ」と喜んだ。

昭はすかさず、「それだったら背広も一緒にどうですか?僕みたいな裏地をつけたら、かっこいいですよ」と言って自分の裏地を見せた。

虎が歩いている模様の裏地を見て、「ほうー、すごいなぁ、俺も、そんなんが欲しいわ」と言って、もう1着注文してくれた。

その後、体育教官室へ行き、他の体育の先生たちも紹介してもらい、その日は4着のスーツと1着のブレザーが売れた。合計72万円の売上になった。


昭は、古市専務の言葉を思い返していた。

毎晩2時まで寝ずに何かをしろと言われ、背広についての本を読み漁ったことが、今になって強力な武器になっている。

知識が顧客との信頼関係を築き、売上を伸ばす原動力になっていた。

各学校の先生たちと仲良くなるにつれ、結婚している多くの先生が「ちょっと待って、買っていいかどうか、帰って女房に相談するわ」と言うことに気づいた。

これは奥さんにも良い印象を与えた方が話が早いと考えた昭は、スーツを買ってくれた先生全員に、その人の誕生日と奥さんの誕生日を聞くことにした。

「なんで女房の名前と誕生日まで調べるの?」と聞かれることもあったが、昭は正直に答えた。

「旦那さんの背広だけ売りつけて、と思われると、僕もも肩身が狭くなるので、奥さんのお誕生日に、御礼の手紙だけでも贈りたいんです。よろしくお願いします」と。

自分の立場を考えていると知ると、皆、快く教えてくれた。

昭はハンドタオルを大量に購入し、葛城商店に持ち込んで、買ってくれた先生方の夫婦に1枚ずつ、片隅に、それぞれの名前だけ刺繍してもらった。

そして、それぞれの誕生日には、誕生カードと名前の刺繍入りのハンドタオルを送ることにした。

すると、各学校を回っていると、

「峰岸さん、この間、女房にまで名前入りのタオルを贈ってくれてありがとう。

女房もすごく喜んで、今度作る時は家に連れて来てちょうだい、御礼が言いたいから。と言っていたので、今度うちに寄ってください」と言われるようになった。

そうなれば、家に行くと必ず奥さんが購入を快諾してくれ、ついでに奥さんのコートやジャケットまで購入してくれるようになった。

商売が順調に伸びて、井下さん一人では裁断が間に合わなくなった頃、葛城さんから声がかかった。

「昭くん、実は、君も知っての通りの、松山でも大きい銀座屋洋服店が、もう跡取りもいないので閉めるらしくてな。そこの専属の裁断士が職を探しているらしく、テーラー峰岸の話をしたら、ぜひ雇ってほしいと言ったから、今度会ってみるか?」

銀座屋洋服店といえば、松山でも超一流の洋服屋さんで、金額も高いけど、仕立ては最高級、裁断が素晴らしいことで有名だった。

早速、昭は裁断士の今野さんに会い、その日から職人さんの仲間になってもらった。

そんなある日、いつものように葛城商店へ行くと、近くの喫茶店で葛城さんが切り出した。

「昭くん、困ったことが起きたんやけど、実は英一君が裏地代の支払いのお金がないから、ちょっと待ってくれ、と言うてきてんやけど。知らん仲でもないし、どうしようかと思って」と、困った顔で打ち明けた。

昭は、「やっぱりそうか。葛城さん、これは商売やから、絶対に甘い顔したらアカンよ。とりあえず、今の売掛金を払ってもらうまでは、もう商品を渡さないこと。

それと、これからは現金と引き換えじゃないと取引はできんと、はっきり言わんと。

僕や、親父のことは気にせんといてください」

「そうやなぁ、やっぱりそうやなぁ。うん、分かったわ。はっきり言うわ」葛城さんも決心した。


それから3ヶ月後、昭の店に「こんにちは」と言って誰かが入ってきた。

昭の店は営業での販売がほとんどで、店に客が来ることは滅多にない。

洋子が「いらっしゃいませ」と店に出た。

朝早かったので、昭はキッチンでコーヒーを飲んでいたが、洋子が慌てて来て、「あんた、お父さんが来られたわよ」と言った。

「親父?」昭も半信半疑で店に行くと、照れくさそうに一郎が立っていた。

「なんや、何しに来たん?俺は今からお客さんと約束しとるけん、出かけるわ」そう言って、昭は葛城商店へと出かけた。

あの一件以来、ずっと頭に来ていた昭は、葛城さんに会って、今日親父が来たが飛び出してきたことを話した。

「昭くん、親父さんもよっぽどのことで来たんやと思う。

あんたが腹を立てているのは分かるけど、ここは、あんたも大人になって、いっぺん、家に帰って、何しに来たかくらい聞いてもバチは当たらんのと違いますか?

悪いことは言わんよってに、帰ってあげなはれ」

その言葉を聞き、腑が煮えくり返る思いで、昭は家に帰った。









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