新たなる人生 スナックから紳士服店へ
翌朝9時、昭は峰岸紳士服店に出社した。
長男の勝也が冗談めかして肩を叩いてきた。
「オゥ、おはよう。今日から2人で営業じゃな。お手柔らかに」
「まずは、カツ兄、寸法の取り方から教えてや」
そう言って、昭は勝也から背丈、胸周り、肩幅、袖丈、ウエスト、ズボン総丈、股下、渡り幅、肩下がりなど、スーツを仕立てる上で重要な箇所の採寸を教わった。
採寸の仕方はものの30分ほどで終わった。
いよいよ今日から営業に出るのである。
勝也と一緒に、まず向かったのは郵便局だった。
峰岸紳士服店は、四国4県の郵便局、愛媛県の小・中学校、高校の指定店になっていた。
胸ポケットにそれぞれの指定名札を付けていれば、自由に敷地内を出入りできる。
これは言わば「通行手形」のようなものだった。
特定郵便局に入っていくと、勝也は客がいるにもかかわらず、大きな声で窓口越しに局長に挨拶をした。
「こんにちはー!」
すると局長は「ああ、いらっしゃい」と言って、カウンターの横の扉を開け、スリッパを出してくれた。
勝也は、勝手知ったる人の家のように、迷いなくスリッパを履いて上がっていく。
どうしようかと戸惑う昭に、勝也は
「今日から新しく入った弟です。よろしくお願いします」と声をかけ、手招きをした。
局長も「どうぞ、どうぞ」と昭にスリッパを勧めた。
「ああ、コーヒー2つ淹れてあげて」と、局長は奥の職員に声をかけ、自分たちの分も含め3人分のコーヒーが淹れられた。
「そうかね、弟さんも洋服屋になるのかね。それはますます発展して楽しみだねぇ」
局長は昭の顔を見ながら言った。
「あんたのお兄さんは商売上手で、ついつい背広を買わされて、僕の給料が減る一方だよ」と、満更でもなさそうに笑った。
「いやいや局長、この間のあれは、柄も良かったし、軽かったでしょう?」
「うん、確かに、あの背広は評判が良かったよ」と、局長は大満足の顔をした。
「それで局長、今日は弟の初デビューで、真っ先に局長に会わせたくて連れて来たんです」
「そうかそうか、それはありがとう、嬉しいね。そやけど、今日は無理やぞ。この間買うたばっかりじゃから」
「それは分かっていますよ。
そやけど、今日は弟の初デビューやから、弟に一花咲かせてやりとうて、一番に局長のところに連れて来たんですよ。
何とか、弟の顔を立ててやってほしいと思て」
「それは脅迫やなぁ。そやなぁ、あんたがそうやって特別に一番に連れて来てくれたんやから、特別じゃなぁ、しょうがない。どれ、生地持って来てみぃ」
局長が言い終わるか終わらないうちに、勝也が昭の顔を見て合図した。
昭もその意味を察し、慌てて外の車に積んでいた風呂敷包みを持ってきた。
「この間作ったばかりやから、今度はどれにするかな?」
局長が尋ねると、勝也はすかさず言った。
「この間のは明るい紺だったから、僕はここへ来る前から局長さんに合うこの男エンジの、茶色より少し赤いこの色をお勧めしようと思って持って来たんです。
他のはもう見る必要がないと思います。
今までこの色は作ってもらったことがないから、局長会に行っても目立って良いと思いますよ」
と、立て板に水のごとく喋り始めた。
昭は、感心して口をポカンと開けて見ているだけだった。「そうじゃなぁ、あんたがそう言うんだったら間違いないじゃろう。それにするけど、いくらかね?」と圧倒された局長が尋ねる。
「これは舶来で、ちょっと値が張るんです。23万円ですけど、今日は弟のデビューなんで、特別に20万円にしておきます」
「そうか、それやったらそれでええわ。もう、寸法も何も、全部分かっとるやろ?」
「もちろんです。また、仮縫いに寄らせてもらいます」
そう言って、商談はものの1時間で成立した。
車に乗った昭は
「すごいなぁ、あっという間に決まったなぁ」と言うと、勝也は得意げに答えた。
「まあ、あの人は俺のファンじゃから、何かの時にはあの人に言うたら何とかしてくれる。
そういうお客さんを何人か大事にして捕まえておいたら、売れんかった時とか、そういう人のところで話をさせてもろうたら、また明日からの商売に弾みがつくけん、そういうお客さんを作るのが大事やぞ」
なるほど、と昭は改めて感心した。
郵便局には「四国郵政弘済会」という、
職員のための福利厚生課のようなものと、
学校の場合は学校生活共同組合が有り、職員達が、給料天引きで、分割で購入出来るシステムがあった。
その日の勝也のノルマが達成されたので、勝也は、
「今日の仕事は終わり、お茶でも飲みに、茶店に行こうや。」と言って、昭を喫茶店に連れて行った。
2人のコーヒーが運ばれると、昭が、
「勝兄い、まだ時間がタップリあるぞー。次行こうや。」
そう言うと、勝也は、
「昭、毎日、毎日売れるもんと違うけん、今日1日売れたら、それでええんじゃ。親父もそれで喜ぶし、明日は明日で頑張ったらええんじゃ。先は長いけんのう。明日売れんかったら、親父に怒られるし、例えば、1日に2着売れたら、親父への報告は、1着にして、明日売れんかったら、今日の分を明日に報告したらええんじゃ。そうせんと、身体が付いていかんじゃろが。」と言って、コーヒーを、すすった。
なるほど、親父からの月給制でやってる者には、1日1着のノルマが有るから、そうでもしないと、大変なんだ。
昭は、勝也の処世術が読み取れた。
翌日から、本格的に、営業に回り始めた。
まず、午前中は、特定郵便局を周り、昼の12時前には、高等学校の職員室に入って、先ずは、教頭先生に、挨拶をして、昼休みに、営業をさせて貰う許可を貰い、職員室で、先生達の昼食が終わるのを見計らって、話しかけやすそうな先生を見つけて、話しかけるのである。
勝也曰く、昼ご飯が済んだところで、直ぐに行ってはダメで、お茶をひと口飲んだ時が、人間ホッとする瞬間だから、そっと近づいて、話しかけるのだそうだ。
遠くから、勝也の営業の仕方を見ていると、なるほど、弁当を食べて、器を下げてから、ゆっくりと、お茶を持って来て、腰をおろして、一杯飲んでから、一息をつく。
このタイミングで、勝也が、そっと、先生の目線と同じ高さに、立膝をついて、
「こんにちは。峰岸紳士服店です。今日は、皆さん静かですねぇ。」と、話しかける。
すると、同じ高さに目があるので、自然に返事が来る。
「そうですねぇ、今日は、差し当たって何も、行事が無いので、みんなそれぞれ、リラックスしていますので。」と、答えてくれる。
そこから、「先生、そろそろ新しい洋服如何ですか?」
「イヤー今は、間に合っています。」と、言う訳で、その人に脈が無ければ、すぐに次の先生に話しかける。
何様、昼休みの1時間しか無いので、時間との戦いである。
その日の高等学校では、背広が売れず、学校を出ると、又特定郵便局周りである。
その後、夕方の4時になると、今度は中学校の職員室に入って、再び、教頭先生か、校長先生の許可を得て、職員室にいる先生方に話し掛けるのであるが、ここも、5時くらいになると、部活に出掛けるので、この1時間が、勝負になるのである。
小学校、中学校は、水曜日は職員会、金曜日は、学年会と決まっているので、職員室には入れない。
なので、水曜日と、金曜日には、大きい郵便局の普通郵便局の集配業務の人達が、集配から帰って、仕分けが終わるのを待って、話しかけるのである。
見ていると、中々、営業も大変な仕事で、昭は、これは、毎日が、戦場のような仕事だなぁ!と、先行きを思うと、身が引き締まる思いで、反面、自分の努力次第だと感じ、やる気も出てきた。
オーダーメイドの洋服で最も重要なのは、仮縫いだ。
昭は勝也に何度も付いて行き、しつけ糸で縫い付けた服を客に着てもらい、不具合な箇所をピンで留めて修正する方法を叩き込まれた。
まず、ズボンからだ。
ウエスト、太もも、裾幅。
そして、出尻か扁平尻かを見極める。
外国人のように出尻なら良いが、日本人に多い扁平尻は、尻に余計なシワができる。
そこをピンで摘み、完璧なラインに修正していく。
次は上着。
袖丈や肩幅は比較的簡単だが、最も難しいのは、後ろの首から肩にかけてできるシワ、通称「釣りジワ」だ。
これがあるままだと腕が上がりにくくなる。
アームホールの大きさも重要だ。
これらの修正を全てピン打ちで行い、裁断師に直してもらう。
この作業がきちんとできなければ、洋服屋失格だと勝也は言った。
昭は、その技術を頭に叩き込んだ。
昭の営業第一号は、普通郵便局に新しく入った高卒の若者だった。
友人の結婚式のために黒の礼服が必要だという話を聞き、彼のために一着仕立てた。
これが、昭にとって記念すべき紳士服販売の第一歩となった。
その勢いに乗り、2ヶ月目には5着を売り上げ、そして、見習い期間最後の3ヶ月目、勝也と昭の売り上げが、525万円になり、ついに目標の月間500万円を突破した。
最終的な合計金額を聞いた一郎は、「ようやったなぁ!よっしゃ、ほしたら約束通り、みんな九州旅行に連れて行ってやる」と快く承諾した。
こうして、「キャッツ・アイ」の店じまいをしてから、家族と従業員全員で別府温泉や阿蘇山を巡る旅行に旅立った。
一方、昭が紳士服の修行をしていた3ヶ月間も、「キャッツ・アイ」は変わらず連日満員御礼だった。
今月一杯で店を閉めるという最後の月は、特別に大流行りとなり、てんてこ舞いの日々が続いた。
ほとんど毎日顔を見せてくれた専務の古市さんが、最後に昭にこう言った。
「マスター、お疲れさんでした。最後に、僕の言うことをよく聞いてほしいんだけど、新しく紳士服店を出したら、2ヶ月間は、毎日絶対に午前2時前には寝ないこと。
それと、2ヶ月間は、一歩も夜飲みに出ないこと。
これを守ってください。」
「飲みに行かないことはわかりますけど、午前2時前まで寝ないで、何をすれば良いんですか?」と昭が尋ねると、専務は少し考えてから言った。「うーん、別に何もしなくてもいいですよ。テレビを見るのもいいし、本を読むのもいいですよ。それは、君の自由だから」
分かったような、分からないような言葉に、昭はとりあえず「わかりました。頑張ってみます」と答えた。
「キャッツ・アイ」も、大繁盛の途中で辞めるのはもったいないと、跡継ぎをさせてくれという者が何人か現れた。
昭は、全てのお客さんのボトル、機械設備(カラオケの機械も含めて)、そして顧客情報も全てを、ある夫婦がやりたいと言うので、彼らに引き渡した。
2日後、昭は一郎に呼ばれた。
「ところでお前、洋服屋はどこでするんぞ。
知っての通り、ここには、ウチもあるし、英一の洋服屋もある。
そやから、お前が、ここで同じ洋服屋をするのは、客の取り合いになるけん、それは、ワシが許さん。
そやから、どっか他の街でやれ。分かったな」
「うん、それは、俺も分かっとる。
そやから俺は、松山でやろうかと思うとる。それやったら、ここからも遠いし、ええやろ?」
昭の言葉に、一郎は安心したのか、ニコニコしながら言った。
「そうか、それはええわ。松山は、大きいし。ところで、誰か裁断士はおるんか?裁断士がおらんかったら、売っても、洋服ができんぞ。
そうや、うちの井下を連れて行け。
うちはもう一人おるけん、井下は独身やし、自由がきくけん、井下を連れて行け。それがええわ」
一郎のその言葉に、昭は心底助けられた思いだった。
「親父、ありがとう。それは助かるわ。松山へ行って探そうと思うとったんじゃ。
縫う職人さんは、向こうへ行ってから探そうと思うとったけん。
裁断士はなかなかおらんけん、よかったわ」
これでとりあえず何とかなる、と昭は安堵した。
昭は翌日から松山へ行き、不動産屋をあたった。
西長戸町の街道沿いに新しく建った2階建ての建物で、1階が店舗付きの3DKの住宅を、月8万円で賃貸契約を結んだ。
それから、店舗改装、引っ越しなどで約1ヶ月が掛かり、看板にも新しく、現代的に「テーラー峰岸」と書いて、やっと落ち着いた。
昭は一郎に報告するため、峰岸紳士服店に帰った。
店には英一がいた。
「昭、ちょっと話があるけん、2階に来い」そう言って、英一は昭を2階に連れて行った。
「お前、松山で洋服屋をするらしいけど、峰岸の名前は名乗るなよ」
唐突な英一の言葉に、昭は驚いて聞き返した。
「何でや」
「あのな、お前の店は、ここの支店じゃないんじゃ。間違うてもろたら困るんじゃ。そやから、峰岸の名前は出したらいかん」
「何でお前にそんなこと言われんといかんのじゃ。俺は峰岸昭じゃ。自分の名前を出してどこがいかんのじゃ」
「何、コラ、くらすぞー!」そう言って、英一は横にあった籐の枕を投げつけてきた。
昭は咄嗟に交わしたものの、枕は昭の腕時計に当たり、腕時計が外れてしまった。
頭に来た昭も、「お前に俺の名前をとやかく言われる筋合いは無いわ」と言い返したところへ、一郎も上がってきた。「お前ら、何しよんぞ。喧嘩はやめんか」
「そやけど、一郎兄いが、峰岸の名前を出したらいかん言うし、お前、元ボクサーが手を出したら凶器になるの知らんのか?アホか?」
「なにー!」
「まあ待て、一郎も、昭も」
一郎が二人の間に入って止めに来た。
しかし、一郎の次の言葉に、昭は愕然とした。
「それからな昭、この間の、裁断士の井下の話は、無かったことにせい。井下は、ダメじゃ」
「えっ、何で今更!
あれから井下さんにも会うて、井下さんもその気になって、喜んで、付いていくと言うてくれたのに」
「いかん事はいかん事じゃ」
「そやけど今更そんなこと言われても、もう店も借りて改装もしたし、洋子も洋昭も、もう、向こうに引っ越してしもうとるし、今更そんなこと言われても、俺も、商売ができんや」
昭がそう訴えているところへ、英子がどこからともなく現れて言った。
「そりゃあんた、お父ちゃんが何言うたか知らんけど、仮にも人様の職人さんを連れて行く言うのは、あんた、泥棒と一緒やろ。
誰にでも聞いてみてみ?どこに人様の職人さんを連れて行く人間がおるんよ。いい加減にしなさいよ」
「そやけど、親父から連れて行け言うけん俺はその気で準備してきて、明日からでも商売できるようにしてきたのに、なんやそれは」
昭は、悔しさのあまり、涙を溜めながら叫んだ。
「もうええわ。今日限り、親でも兄貴でも無いわ。こっちから縁切ったるわ!」
そう言って、昭は店を飛び出した。
たまたま店にいた勝也が驚いて、昭の後を追いかけてきた。
「昭、まあ待て。ちょっとそこの喫茶店に行こう」そう言って、勝也は隣町の喫茶店「ジロー」に昭を連れて行った。
喫茶店「ジロー」のテーブルに座るなり、勝也が尋ねた。
「どうしたんぞ」
昭から事の一部始終を聞いた勝也は、深く頷き、悔しげに顔を歪めた。
「そうか、それは、お袋の入れ知恵じゃ。そうじゃないとおかしかろう。英一より、お前の方が、何をしても上手いこといくけん、邪魔をしたいんじゃ。腹立つのう」
勝也もまた、目に涙を浮かべた。
そして、昭の窮状を見かねて言った。
「そやけど、お前、それじゃあ困るやろ。
ちょっと待っとけ、井下さんにも聞いてみるわ」
「いや、それはいかん。井下さんにも迷惑がかかるけん」
昭は慌てて止めた。
父の性格を考えれば、井下を巻き込むことはできない。
「そやけど、井下さんも、その気になって準備しよるかも分からんけん、とりあえずチョット待っとけ」
勝也はそう言い残すと、喫茶店「ジロー」を飛び出した。
昭が不安な面持ちで待つこと10分ほど。
勝也が、裁断士の井下さんと、職人の近藤さん、山下さんを連れて戻ってきた。
「どういうことや昭君」
井下さんが、到着するなり昭に問いかけた。
「まあ座ってや井下さん。この間の話、無かったことにしてや。
親父が、アカン言うて、英一兄いも、お袋もアカン言うて、俺も今、家飛び出してきた所や」
昭は、これまでのいきさつを、絞り出すように話した。
すると井下さんは、昭の言葉を聞き終えるや否や、怒りを露わにした。
「そんな無茶な、一方的すぎるわ。
それやったら俺は店辞めて、昭君の所へ行くわ。腹立つわ」
井下さんの言葉に、昭は慌てて首を振った。
「いや、それはいかん。親父のことじゃから、松山の全部の洋服屋に連絡して、我々を締め出そうとするけん。
勝兄いの時もそうだったやろ?新聞に載せたり」
昭の言葉に、井下さんは涙を流しながら言った。
「そうじゃな。あの人は何をするか分からん人じゃ。俺が無理について行ったら、昭君にも迷惑がかかるか…」
そう言うと、横にいた近藤さんも、山下さんも、目に涙を浮かべながら昭に語りかけた。
「昭君、悔しいけど、頑張ってや。
何かあったら、いつでも言うてや。
もし、職人さんが見つからんかったら、こっちへ、生地を送ってや。
ワシらが何とかするけん」
5人は、泣きながら喫茶店のテーブルで、互いの手を握り合った。
男5人の異様な光景が、喫茶店の片隅で繰り広げられていた。
しかし、そこには、血の繋がりを超えた、確かな絆と、昭への深い思いやりが満ちていた。
昭は、一人ではない。
この温かい支えが、彼の新たな挑戦への大きな力となることを、この時、強く感じたのだった。