第8章
世界の全てが、スローモーションになる。
紫色の、ぬらぬらとした触手が、エリナの白い首筋に迫る。
その先端にある、吸盤のようなものが、下品な音を立てて開くのが見えた。
やめろ。
スズネとマリーの、悲鳴のような声が聞こえる。
やめろ。
俺の身体は、恐怖で縫い付けられたかのように動かない。
やめろやめろやめろやめろやめろ!
動け、俺の足! 守るって、決めたんだろうが!
俺の脳が、必死に命令を下す。
だが、身体は鉛のように重い。
その、絶望が思考を塗りつぶす寸前、俺の頭の中に、今日一日の出来事が、灼けつくような閃光となってフラッシュバックした。
――『いらっしゃいませ、ご主人様♡』
太陽みたいな、屈託のないエリナの笑顔。
――『なっ、ありえない……!?』
自爆して、顔を真っ赤にして震えていた、不器用で、本当は脆いスズネの素顔。
――『大変ですぅ~』
何もかもを許してしまいそうな、マリーの、無垢で、純粋な眼差し。
そして。
――『いてくれるだけで、いいんです』
俺の存在そのものを、肯定してくれた、あの聖母のような、エリナの微笑み。
ああ、そうか。
俺は。
めちゃくちゃな出会いだったけど。
エロくて、クールで、ドジで。
最高に、めちゃくちゃで。
――この場所が、好きなんだ。
ぶちり、と。
俺の中で、理性のタガが、派手な音を立てて外れた。
「―――ッッ!!」
声にならない雄叫びを上げ、俺はマリーの防御結界を突き破り、エリナの前に立ちはだかっていた。
目の前に迫る、醜悪なインプの触手。
その背後で、ぎょろり、と愉悦に歪む、五つの赤い瞳。
「ごちゃごちゃうるせえんだよ……!」
腹の底から、絞り出す。
恐怖は、もう感じなかった。
あるのは、この聖域を汚す、不快な侵入者への、燃え盛るような怒りだけ。
「異世界だの、鍵持ちだの、責任だの……! 理屈なんて、どうでもいいんだよッ!!」
そうだ。
難しいことは、分からない。
俺は、ただ。
「俺は……! エリナが、スズネが、マリーがいる……こいつらのいるこの場所が、失われるのを見たくない!!」
俺が守りたいのは、エリナ個人だけじゃない。
スズネやマリーだけでもない。
この、めちゃくちゃで、温かくて、俺が初めて「いてもいい」と思えた、このカフェという『居場所』そのものだ!
俺の絶叫に呼応するように、右手甲に刻まれた紋様が、焼印のような激しい熱を発した。
「―――ッ、がああああああああっ!!」
力が、身体の内側から溢れ出す。
俺自身の意志とは関係なく、膨大なエネルギーが、奔流となって世界に顕現する。
その力の源は、俺の背後。
俺が最初に開いた、あの古びた木製の扉だった。
ゴゴゴゴゴゴゴ……!
扉が、地鳴りのような音を立てて、ひとりでに開いていく。
だが、その向こう側に見えるのは、店の外の路地じゃない。
そこにあるのは、全ての光を吸い込む、純粋な『白』。
まばゆい光の渦が、扉の向こう側でとぐろを巻き、凄まじい吸引力で、店内の全てのものを引きずり込もうとしていた。
「キ、キヒィイイイイイイイッ!?」
インプが、初めて恐怖の声を上げる。
その醜悪な身体が、抗いがたい力で、光の渦へと引き寄せられていく。
壁や天井に張り付いて抵抗しようとするが、無駄だ。
触手が、腕が、脚が、光の中に吸い込まれ、聖なる光に焼かれて、塵となって消えていく。
「キヒイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!」
最期の断末魔を残し、インプは完全に光の奔流に飲み込まれた。
そして、光が収まった後。
そこには、何事もなかったかのような、静かなカフェが広がっていた。
破壊されたテーブルも、割れたランプも、全てが元通りになっている。
ただ、俺だけが、全ての力を使い果たしたかのように、その場に膝から崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁっ……ぜぇっ……」
肩で、息をするのがやっとだ。
右手が、ジンジンと痺れている。
「……ユウト、様……」
マリーの、呆然とした声が聞こえる。
スズネが、信じられないものを見る目で、俺を、いや、俺の背後の扉を、見つめている。
そして、エリナが、涙で濡れた瞳で、俺の名前を呼んだ。
「ご主人……様……」
その瞳には、もう恐怖の色はなかった。
ただ、驚きと、安堵と、そして、熱を帯びた何かが、宿っていた。
静寂が、落ちる。
その沈黙を破ったのは、スズネだった。
彼女は、ゆっくりと俺に歩み寄ると、いつもの冷たい口調とは違う、どこまでも真剣な声で、告げた。
「……どうやら、あなたはただの『鍵持ち』ではないようですね」
その紫色の瞳が、俺をまっすぐに見据える。
「あなたのその力は、良くも悪くも、この世界の運命を左右する。……覚悟を決めなさい、天城ユウト」
彼女は、はっきりと、俺の名前を呼んだ。
「あなたの日常は、今日、完全に終わったのです」
その言葉は、不思議と、すんなりと俺の胸に落ちてきた。
俺は、自分の右手を見つめる。
さっきまで紋様が浮かんでいた場所は、もう、何ともない、ただの高校生の手の甲に戻っている。
だが、分かっていた。
俺の、そして俺たちの戦いは、今、始まったばかりなのだと。
カランコロン――。
心の中で、新たな始まりを告げる、戦いのベルが鳴り響いていた。