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第7章

「……いや。来ないで……お願い……もう、いや……」


 エリナの、絞り出すような悲鳴。

 その華奢な身体が、小刻みに震えている。

 

 俺は思わず彼女の肩に手をかけようとした。

 

「エリナ、どうしたんだ!?」


 俺の声が、彼女に届いているのかいないのか。

 そのルビーの瞳は、今はもう俺を見てはいなかった。

 

 スタッフルームの扉の、その向こう側。

 闇に包まれた店のホールを、ただひたすらに見つめ、怯えている。


 その、瞬間だった。


 ドガァァァァンッ!!


 轟音と共に、店の入り口を固く閉ざしていたはずの、あの重厚な木製の扉が、内側に向かって木っ端微塵に吹き飛んだ。

 破片が、キラキラと輝く水晶のランプを割り、火花を散らしながら床に突き刺さる。


 そして、破壊された扉の向こうから、ぬるり、と『ソレ』は現れた。


「……な、んだ……ありゃあ……」


 それは、俺が今まで生きてきた中で目にした、あらゆる醜悪なものをかき集めて練り上げたような、冒涜的な姿をしていた。

 

 身長は、1メートルほどだろうか。

 ずんぐりとした体躯に、ぬらぬらと粘液で光る、紫色の皮膚。

 腕とも足ともつかない、不規則に生えた六本の肢で、蜘蛛のように天井や壁を自在に這い回っている。


 そして、何よりもおぞましいのは、その顔。

 裂けた口からは、長すぎる舌がだらしなく垂れ、黄色い涎を滴らせている。


 その顔面に不規則に配置された、五つの真っ赤な瞳が、ぎょろり、ぎょろりと、品定めするように店内を見回していた。

 その瞳に宿っているのは、純粋な悪意と、そして、ねっとりとした、粘着質な『欲』の色だった。


 腐った卵と、硫黄を混ぜたような、吐き気を催す悪臭が、俺たちの鼻腔を突き刺す。


淫魔インプ……! なぜここに!?」


 いつの間にか俺の隣に立っていたスズネが、忌々しげに吐き捨てる。

 その手には、先ほど失ったはずの、真新しいメイド服がいつの間にか装着されていた。

 

 今はそれどころじゃないが、どういう原理なんだ。


「ユウト様、エリナちゃん、危ないですぅ!」


 続いて現れたマリーが、俺と怯えるエリナの前にさっと立つ。

 彼女の、いつもは眠たげなエメラルドの瞳が、今は強い意志の光を宿していた。

 

守護結界プロテクション!」


 マリーが両手を前に突き出すと、俺たちの目の前に、エメラルド色の、蜂の巣のような六角形の模様が浮かぶ光の壁が出現した。


「スズネちゃん! お願いします!」

「言われなくとも!」


 スズネは、まるで女王のような威厳で前に出る。

 その指先に、再び紫電が走り始めた。

 

「穢れは、塵に還りなさい! 紫電のライトニングアロー!」

 

 彼女の指先から、十数本の紫色の光の矢が放たれ、インプへと殺到する。


 だが、インプは「キヒヒッ」と甲高い笑い声を上げると、天井に張り付き、アクロバティックな動きで全ての矢を回避した。

 光の矢はインプがいた場所の壁に突き刺さり、派手な音を立てて爆発四散する。


 ガンッ! ガンッ!

 

 インプは、今度は壁を蹴り、弾丸のような速さでマリーの張った結界に突撃してきた。

 凄まじい衝撃に、光の壁がみしりと音を立てて軋む。


「こいつ……速い!」


 スズネが悔しげに歯噛みする。

 インプは、スズネやマリーの攻撃など意にも介していないようだった。


 その五つの赤い瞳は、ただ一点。

 俺の後ろで、恐怖にうずくまっているエリナだけを、じっとりと、舐めるように見つめていた。


 キヒィッ!


 インプが、再び甲高い鳴き声を発する。

 すると、その五つの瞳が、禍々しいピンク色の光を放ち始めた。


 その光は、マリーの結界を易々と透過し、エリナの身体を包み込む。


「―――っ、あぁあああああああああああああああっ!!」


 エリナが、絶叫した。

 物理的な攻撃じゃない。


 これは、精神攻撃……!


「や……やめて……信じてたのに……どうして……!?」


 エリナの瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。

 その表情は、絶望と、深い悲しみに染まっていた。

 

「身体だけじゃなくて……心まで、弄んで……楽しい……? もう、いや……! 誰も信じられない……!」


 その悲痛な叫びに、俺はハッとした。


 エリナの、あの過剰なまでのご奉仕。

 エロ暴走。それは、ただの性格じゃなかったんだ。


 過去に、人間に裏切られた。心を弄ばれた。

 そのトラウマから、愛されることに、信じることに、臆病になっていたんだ。


 だから、自分から尽くすことでしか、人との繋がり方が分からなくなっていたんだ。

 あの、屈託のない笑顔の裏に、こんなにも深い傷を隠していたなんて。


「エリナっ!」


 俺は叫ぶが、声は届かない。


「くっ……この外道が!」


 スズネが、連続で魔法を放つ。

 だが、インプは攻撃の全てをいなしながら、着実にこちらとの距離を詰めてくる。


 マリーの結界も、度重なる衝撃で、ヒビが入り始めていた。


 俺は、何もできない。

 ただ、歯を食いしばり、震える拳を握りしめることしかできない。


 鍵持ち? 責任?

 クソの役にも立たないじゃないか!


 女の子たちが、身体を張って戦っている。

 エリナが、目の前で心を壊されかけている。


 なのに俺は、ただ、その背中に隠れているだけ。

 無力感が、胃の腑の底からせり上がってくる。


「はぁっ、はぁっ……くっ……魔力が……!」


 スズネの肩が、大きく上下し始める。

 連続での魔法行使に、消耗が激しいようだ。


 その、一瞬の隙を、インプは見逃さなかった。


 キヒヒヒヒヒヒヒッ!


 下品な笑い声と共に、インプの体から、ぬらぬらとした粘液質の紫色の触手が伸びる。

 それは、蛇のようにしなり、マリーの結界のヒビをこじ開け、一直線に――うずくまるエリナの、白い首筋へと迫った。


「エリナ!」

 

 スズネとマリーの、悲鳴のような声が響く。


 このままじゃ、エリナが!


 俺の思考が、絶望の赤色に染まっていく。


 触手の先端が、エリナの柔らかな肌に触れる、その寸前。

 世界の全てが、スローモーションになった。

 

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