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第3章

 カランコロン――。

 澄んだベルの音が、まるで異世界へのファンファーレのように響き渡った。

 

 一歩、足を踏み入れた瞬間、俺は息をのんだ。

 さっきまでの、古びた喫茶店という印象は、脳のシナプスから綺麗さっぱり消し飛んでいた。


「……なんだ、ここ」


 そこは、常識が創造することを放棄した、幻想の空間だった。

 

 まず、天井が存在しない。

 いや、あるのだが、それは寸分の狂いもなく完璧な星空を映し出す、巨大な瑠璃色のドームだった。

 プラネタリウムなんて陳腐な言葉では表現できない。

 時折、本物の彗星かと見紛うほどの、青白い光の尾を引く流星がきらめき、そのたびに店内に柔らかな光が満ちる。


 壁は黒曜石のように艶やかで、そこをまるで生命の脈動のように、魔法陣と電子回路を融合させたかのような幾何学紋様が、青白く、そして時に赤く明滅しながら走っていた。

 光源は、ふわりと宙に浮かぶ無数の水晶。

 それらが互いに共鳴し合うように、プリズムの光を店内に乱反射させ、影という概念をこの世から消し去っているかのようだ。


 そして、客は俺一人。

 磨き上げられた黒檀のテーブルと、ビロードが張られたアンティークチェアが、まるで王の帰りを待つ玉座のように、静かに佇んでいる。


 路地で感じた、淹れたてのコーヒーの香ばしい匂いと、夜に咲く花のような甘い香りが、より一層濃密になって俺の肺を満たしていく。

 その香りを吸い込むだけで、思考がとろりと、とけてしまいそうだった。


「いらっしゃいませ、ご主人様♡」


 その声は、全ての音を過去にする、絶対的な存在感を持っていた。

 銀の鈴を溶かして蜂蜜で練り上げたような、とろけるほどに甘いソプラノ。


 声のした方に目を向ける。

 店の奥、光のカーテンの中から、ゆっくりと歩み出てきたのは――あまりに完璧すぎる美貌を持った、一人のメイドだった。


 腰まで届く、月光そのものを紡いだかのようなプラチナシルバーの長髪が、歩くたびにさらり、と流れる。

 吸い込まれそうなほど大きく、非現実的なまでに赤い瞳は、最高品質のルビーを埋め込んだかのようだ。


 雪のように白い肌、その上でほんのりと色づく桜色の唇は、濡れて艶めかしい光を放っている。

 神が気まぐれで地上に落とした、最高傑作の人形。

 俺の貧相な語彙力では、もはやそうとしか表現できない。


 そして、その非現実的なまでの美貌を包むのは、どうしようもなく倒錯的で、扇情的なデザインのメイド服だった。

 

 生地はシルクだろうか、光を吸い込むような漆黒のワンピース。

 だが、その胸元は、豊満すぎる双丘の、その深い谷間を惜しげもなく晒け出すほど、危険な角度でカッティングされている。


 きつく締められたエナメルのコルセットが、ありえないほどのくびれを強調し、その下から爆発するように広がるフリルたっぷりのミニスカートは、もはや「仕事着」ではなく「誘惑装置」と呼ぶべき代物だった。

 

 何より、男の理性を直撃するのは、その麗しい脚を包む純白のニーハイソックス。

 スカートとの間に広がる、眩いばかりの柔らかな太ももの肌色。

 その境界線には、黒いレースのガーターベルトが食い込み、絶対的な支配領域を主張していた。


「お待ちしておりました!」


 俺が、その破壊的な情報量に思考を停止させていると、銀髪のメイドさんは、ぱあっと顔を輝かせ、子犬のようにタタタッと駆け寄ってきた。

 そして、次の瞬間。

 どむっ、という生々しい衝撃と共に、俺の視界は白と黒の甘美な暴力に支配された。

 

 顔面に、信じられないほど柔らかく、温かく、そして生命力に満ち溢れた極上の肉塊が押し付けられている。

 シャンプーの甘酸っぱいフルーツの香りと、ミルクのように清廉で、それでいてどこか煽情的な彼女自身の肌の匂いが、俺の理性の防壁を真正面から粉砕しにかかってきた。


「はじめまして、運命のご主人様!  わたくし、エリナ=ルクレシアと申します!  エリナは、ずーっと、ずーっと、ご主人様だけをお待ちしておりました!」


 俺の顔を自らの胸の谷間に埋めたまま、エリナと名乗った女神は、心の底から嬉しそうな声を上げる。

 

 柔らかい! 熱い! いい匂い! なんだこの多幸感は!

 ダメだ、思考がまとまらない!

 これが、健太の言っていた桃源郷……!

 いや、そうじゃねえ! しっかりしろ、俺の理性!


「ご主人様は、特別なお客様なのです♡ さあ、エリナからの、最初のご奉仕です!」


 名残惜しくもエリナがそっと身体を離すと、今度は俺の耳元でとろけるように囁いた。

 吐息が直接耳にかかり、ぞわぞわと鳥肌が背筋を駆け上がっていく。


 そのまま、彼女は俺の腰に華奢な腕を回し、ぴたりと身体を密着させながら、奥のテーブル席へとエスコートする。

 歩くたびに、彼女の豊かな尻が俺の腰骨にむにゅり、むにゅり、と官能的な感触を伝え、その都度、俺の心臓は「これ以上は危険だ」と警告のビートを刻んだ。


 席に着くと、エリナはメニューを差し出してくる。

 

「こちらが当店おすすめの『純潔のオムライス』です♡ ご主人様のためだけに、エリナが愛をこめて、ケチャップでとろとろの魔法をかけますね!」

 

 そう言って、テーブルにぐっと身を乗り出す。

 そのせいで、メイド服の胸元から、今にもこぼれ落ちそうな巨大な双丘が、重力に従ってタプン、と生命的に揺れるのが丸見えだった。

 白い肌の谷間に、吸い込まれそうな深い影が落ちている。


 思わず、ごくりと喉が鳴る。

 視線が、そこに釘付けになってしまった。


「あ、それとデザートには、この『初恋のショートケーキ』もいかがですか? このイチゴ、すっごく甘くて、みずみずしいんですよぉ」

 

 今度は、ケーキを指さそうとして、その仕事をする気のない短すぎるスカートが、椅子の肘掛けにふわりと引っかかった。

 

「あっ……♡」


 エリナが小さく声を上げるのと同時に、その純白のフリルで過剰に装飾された、愛らしい下着が、俺の網膜に焼き付いた。

 彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめるが、隠すそぶりもない。

 むしろ、潤んだルビーの瞳でこちらを上目遣いに見つめてくるその表情は、もはや「どうぞ、ご覧ください」と言っているようなもので、確信犯としか思えなかった。


 こ、このメイド……とんでもねえぞ!

 天然なのか、計算なのか。

 その一挙手一投足が、小学生の頃から築き上げてきた俺の理性を、ブルドーザーのようにゴリゴリと削り取っていく。


 とんでもない店に来ちまった……!

 だが、最高だ! 最高すぎるじゃないか!

 健太、卓……見てるか? 夢物語じゃなかったぞ!

 楽園は、実在したんだ……!


 俺が、嬉しい悲鳴を心の中で絶叫させ、昇天しかけていた、その時だった。


「――その汚らわしいオスから離れなさい、エリナ」


 店の奥から響いてきたのは、今の今まで満たされていた甘美な熱を、一瞬で凍てつかせるかのような、絶対零度の声だった。

 

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