第2章
雑踏は、一種の暴力だ。
けたたましいJ-POP、客引きの怒声、巨大ビジョンから垂れ流されるCM、そして無数の女子高生たちの甲高い笑い声。
あらゆる音が鼓膜を殴りつけ、香水とクレープと排気ガスの匂いが鼻腔の粘膜にへばりつく。
誰も彼もが俺の横を通り過ぎていく。
肩がぶつかっても、誰も謝罪の一つもしない。
俺なんて、この東京という巨大な生命体に巣食う、ちっぽけな細胞の一つにすぎない。
「……最悪だ」
さっきまでの感傷的な気分はどこへやら、人混みのストレスで思考がささくれ立っていく。
もっと静かな場所へ――。
そう思った瞬間だった。
ふと、視界の端に、闇が口を開けているのが見えた。
ビルのとビルの隙間に、吸い込まれそうなほど黒い、一本の裏路地。
まるで、そこだけが世界の法則から切り離されているかのように、街の喧騒が嘘のように届いていない。
なんだ、あれは。
俺は無意識に、その暗がりへと一歩、足を踏み入れていた。
途端に、世界から音が消えた。
さっきまで耳を破壊していた雑音の洪水が、分厚い壁に遮られたかのように、ぴたりと止む。
耳鳴りがするほどの静寂。ひんやりと湿った土の匂いと、どこか甘い花の香りが、俺の肺を満たした。
なんだ、この感覚……。
振り返ると、大通りの喧騒はすぐそこに見える。
人々が、光の帯となって俺の前を通り過ぎていく。
だが、誰一人として、この路地の存在に気づいている様子はない。
まるで、そこに透明な壁でもあるかのように、誰も視線を向けようともしないのだ。
俺だけ。
俺だけが、この異常な空間に囚われている。
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
だが、それ以上に、抗いがたい好奇心が俺の足を前へと進ませる。
コツ、コツ、と俺の足音だけが響く石畳の路地。
その突き当りに、ソレはあった。
周囲の無機質なコンクリートビルとは完全に不釣り合いな、赤煉瓦造りの古風な建物。
壁には青々とした蔦が絡まり、入り口の脇では、ガス灯を模したアンティークなランプが、頼りなげにオレンジ色の光を灯している。
そして、年季の入った木製の扉の上には、優雅な筆記体でこう書かれた看板が掲げられていた。
『メイド喫茶・ルナティック』
メイド喫茶?
こんな場所に?
まるで、俺の願望が具現化したかのようなタイミングで?
ポケットからスマホを取り出し、震える指でその名前を打ち込む。
検索。
……ヒット、0件。
地図アプリを起動する。
GPSは正常に作動している。
だが、俺のいるこの場所は、ただの空白地帯として表示されているだけだ。
レビューサイトにも、SNSにも、この店に関する情報はひとかけらも存在しない。
だが、それは、目の前にある。
現実として、俺の目の前に。
ゴクリ、と喉が鳴る。
重厚な木製の扉に、そっと手をかける。
ひんやりとした金属の取っ手が、汗ばんだ掌に馴染んだ。
力を込めて、引く。
……びくともしない。
押してみる。
……まるで、一枚岩のように、ぴくりとも動かない。
鍵がかかっているというより、もっと根源的に、開くことを拒絶されているような感覚。
「……だよな。そりゃ、そうか」
自嘲気味に呟き、扉から手を離す。
やっぱり、ただの夢だったんだ。
都合のいい妄想が、俺に幻を見せただけ。
そう自分に言い聞かせ、踵を返そうとした、その時だった。
――ポゥ……。
扉の隙間から、蛍の光のような、淡く柔らかな光が漏れ出した。
驚いて振り返ると、さっきまで頑なに閉ざされていた扉が、軋み一つ立てず、滑るように、すぅ……っと内側へ開いていく。
暗い店内から、淹れたてのコーヒーのような香ばしい匂いと、甘く、そしてどこか官能的な香りが、俺を誘うように漂ってきた。
ゴクリ、と再び生唾を飲み込む。
心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。
行け、と本能が叫んでいた。
この先に、お前の望んだ『夢』があると。
俺は、もう、引き返すことなんてできなかった。
誘われるままに、その暗闇の奥へと、一歩、足を踏み入れる。
カランコロン――。
来客を告げる澄んだベルの音が、静寂だった空間に、心地よく響き渡った。