第1章
「だから言っただろ! 昨日の『魔法少女エンジェリック☆リリナ』は、見るっきゃなかったんだって!」
放課後の気だるい空気が漂う教室に、親友のデカい声が響き渡る。
机の上に両腕を突き、興奮で顔を赤らめているのは、バスケ部所属でクラスのムードメーカー、高坂健太だ。
女子ウケのいい爽やかなルックスに反して、脳みその9割は筋肉とエロで構成されている残念なイケメンである。
「おまえの言う『見るっきゃない』は、リリナが聖なる魔力をチャージするために、ぷるんっぷるんの胸を揉みしだかれるシーンのことだろうが。物語の本筋とは一切関係ない」
対照的に、冷静な声で健太を分析するのは、椅子に深く腰掛け、黒縁メガネをクイッと指で押し上げた、もう一人の親友、相田卓だ。
成績は常に学年トップクラス。文化祭では実行委員を務めるほどの真面目人間だが、ひとたび二次元の話となると、その膨大な知識と分析力を、ひたすら「いかにヒロインがエロいか」という一点にのみ注ぎ込む、変態的インテリだ。
そして俺、天城ユウト(あまぎ ゆうと)は、そんな二人のやり取りにやれやれと肩をすくめる、ごく平凡な男子高校生だ。
茶色に染めた髪をワックスで適当に散らし、制服のシャツは第二ボタンまで開けている。
一見すると軽薄そうに見えるかもしれないが、中身は至って普通。
この二人のお目付け役兼ツッコミ担当というのが、俺の基本的な立ち位置だった。
「だーっ! あの『揺れ』が本筋だろうが! 制作会社の愛を感じなかったのかよ、ユウト!」
「感じるか。俺が感じたのは、深夜枠への感謝だけだ」
呆れながらも、脳裏には昨夜アニメの光景が鮮やかに蘇る。
銀色の長髪を揺らし、豊満すぎる双丘を恥じらいながらも差し出す魔法少女。
その柔らかな膨らみが、むにゅり、と変形し、画面越しに伝わってくるかのような圧倒的弾力……。
いかん、いかん。こいつらのペースに乗せられるところだった。
「ま、ユウトも人のこと言えないけどな」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、健太が俺の肩を小突く。
「さっき、またC組の佐々木さんのこと、目で追ってたろ? あの視線は完全に獲物を狙う肉食獣のそれだったぜ」
「ち、違えよ! あれは偶然だ! たまたま視線の先に佐々木さんがいただけだって!」
口では全力で否定しながらも、心臓がドクン、と跳ねる。
バレてたのか。
佐々木さんの、あの姿を――。
今日の五時間目、移動教室に向かう廊下で、俺は見てしまったのだ。
少しタイトな夏服のブラウスに包まれた、主張の激しい柔らかな膨らみ。
スカートからスラリと伸びる、白いハイソックスに縁取られた太ももの絶対領域。
そして、窓から差し込む西日が、彼女のうなじにかかる汗をキラリと照らし、黒髪の隙間から覗く白い肌を艶めかしく浮かび上がらせた、あの瞬間を。
……あー、クソ。思い出しただけで、下腹部が熱くなる。
「図星かよ、分かりやすいヤツめ」
「まあ、佐々木さんの破壊力はA級だからな。無理もない」
卓が冷静に分析するな。
「やっぱ理想だよなー、佐々木さんみたいな、おしとやかでスタイルのいい子!」
健太の言葉を皮切りに、話題は「理想の女の子」へと移っていく。
「俺は逆だな。ちょっと強気なツンデレが、ふとした瞬間にデレるのが至高」
「あー、それも分かる! ギャップだよな、ギャップ!」
男三人。夕暮れの教室。
話題が向かう先なんて、一つしかない。
「いっそよぉ、超絶美少女ばっかり揃ってるメイドカフェとか行ってみたいよな! 」
健太が机をバン、と叩き、身を乗り出す。
その目は、欲望という名の炎で爛々と輝いていた。
「『お帰りなさいませ、ご主人様♡』って、胸元がざっくり開いたメイド服で出迎えてくれてさ。注文したら『あーん』って食べさせてくれるんだぜ? もちろん、スプーンに乗ってるのは、俺の口じゃなくて、メイドさんのぷるっぷるの唇な!」
「それはただの変態だ。通報されるぞ」
「それだけじゃねえ! オプションで『秘密のご奉仕』とかあんの! 耳元で甘い声で囁いてくれたり、疲れたご主人様のためにって、柔らか~い太ももで膝枕してくれたり……!」
健太の暴走は止まらない。
その瞳はもはや、現実にはなく、桃源郷を見ている。
「健太、お前の言う『秘密のご奉仕』は、完全にアウトだ。風営法を舐めるな」
「硬いこと言うなよ、ユウト! 男の夢だろうが!」
うるさい。
うるさいが、しかし。
……否定、できん……!
超絶美少女が、俺のためだけに微笑んでくれる。
少し恥じらいながらも、柔らかそうな太ももに頭を乗せさせてくれる。
耳元で、吐息がかかるほどの距離で、「いつもお疲れ様です」なんて囁かれた日には――。
……ダメだ。想像しただけで、高校生の健全な理性が仕事をしなくなる。
全身の血液が、下半身の一点に猛烈な勢いで集まっていくのが分かる。
「はぁ……そんなのあるわけねーだろ。夢物語だ」
俺は、込み上げてくる煩悩を振り払うように、わざとらしく大きなため息をついてみせた。
そうでもしないと、顔がニヤけてしまいそうだったからだ。
キーンコーンカーンコーン……。
無情なチャイムの音が、俺たちのくだらない、しかし最高に楽しいバカ話の終わりを告げる。
「お、やべ。じゃ、俺部活行くわ!」
「ああ、また明日な」
「ユウト、卓、またな!」
健太と卓は、それぞれのカバンを手に教室を出ていく。
がらんとした教室に、俺は一人取り残される。
窓の外は、すでにオレンジ色の光に染まっていた。
「……帰るか」
カバンを肩にかけ、俺も教室を後にする。
校門を出て、最寄り駅へと向かう道は、同じように家路につく学生や、仕事帰りのサラリーマンでごった返していた。
ヘッドホンから流れるお気に入りのロックミュージックも、街の喧騒にかき消されそうだ。
誰も彼もが、同じような顔で、同じような毎日を繰り返している。
俺も、その大勢の中の一人にすぎない。
さっきまでの馬鹿騒ぎが嘘のように、急に現実を叩きつけられた気分だった。
佐々木さんの、あの艶めかしい姿も。
健太が語った、夢のようなメイドカフェも。
結局は、ありふれた日常の退屈さを紛らわすための、一瞬の幻想でしかない。
「はぁ……」
誰にも聞こえないくらい、小さなため息が漏れた。
ネオンが灯り始めた繁華街の雑踏の中、空を見上げる。
茜色と藍色が混じり合った、奇妙なグラデーションの空が広がっていた。
「……夢みたいなこと、起きねーかな」
ポツリと、そんな言葉が口からこぼれ落ちた。
どうせ無理だと、自分自身が一番よく分かっているくせに。
この退屈な日常をぶち壊してくれるような、とんでもない非日常が、今、この瞬間に起こることを。
それでも、願わずにはいられなかった。