33. 夜の東屋
魔力の微かな揺らぎ。
あの時どれだけ目を凝らしても存在を確信出来ない程微かにしか見えなかったもの。
今ははっきりと、陽炎のような揺らぎが方形を成しているのが見えた。
誰もいない場所をそこへ向かって歩く。
「………」
その前に立つと怒りと悔しさが込み上げた。
壁でも部屋の真ん中でもない。扉があったのは部屋の手前右寄りの、なんの変哲もない場所だった。
レベルゼの求める魔力の量に届かなければ、見ることは疎か触れることも出来ない。そこを通っても体を擦り抜けてしまう扉は、ほとんどの人間にとっては存在していないも同じだ。
幻影魔法を退けてもこれを見付けられなければ、永遠にここから出られない仕組みなのだ。
ここまで残酷になる必要がどこにある。
あの日辛うじてこれを見付けた時、レベルゼの惨さに血の気の引く思いがした。
扉は存在に気付いた者が開きさえすれば、他の人間も潜れるようにはなった。だが結局最後までわたし以外の誰も視認することは出来ず、一歩の違いで全員ここで死んでいたのかもしれないという現実は、精神的な限界をとうに超えていたわたし達を更に打ちのめした。
「―――――――――――――――――」
無言で陽炎に魔力を注ぐ。空気の揺らぎが扉の形の白い光へと変わった。
恐らく二度とここへ戻って来ることはない。あの時も戻って来られないだろうと思っていた。
もう一度部屋を見渡す。
五百七十年前、ほとんどの遺体をここに置いて行かざるを得なかった。
数の多さと損傷の激しさのために、魔法を使ってさえ連れて帰るのが困難だったからだ。だが物理的な理由だけではなかった。
「家族に見せられない」
婚約者の惨い遺体の前に膝を着き、一人が呻くように言った。きっと自分自身でも見るのが辛かった筈だ。
感情が溢れそうになり、歯を喰いしばる。
その部屋にもう一度深く頭を下げた。
そして扉に向き直った。
「――――――――進むぞ」
リスタと記憶の中の仲間達にそう告げ、触れることが出来ない扉を潜った。
ʄ
さあぁぁぁっ………
風が頬を撫でる。
幾つもの灯が蛍のように宙に浮いていた。
幻想的な光の中に浮かび上がる石段とその頂点に建つ夜の東屋。丸屋根のその建物を包み込むように背後に森が広がっている。足元の灰色の石畳はまるで森に造られた舞台だった。
そこまでの悪夢が嘘であるかのような美しい光景。
五百七十年振りの対峙。
東屋から魔道具の気配がした。
§
「迷宮の制圧ではなく迷宮からの脱出を目標とする」
幻影魔法の部屋で大隊長が決定していたことだ。だがこの迷宮で初めて遭遇した魔道具を素通りすべきなのかは判断が難しかっただろう。
大隊長は紫水晶であることと年齢相応に迷宮制圧経験が多かったことを買われて隊を任された人で、50歳を超えていた。
彼の年齢を遥かに追い越した今、部隊の三分の二を失ったあの時の大隊長はどれ程の苦しみと負い目を背負っていただろうかと思う。
しばらくの間わたし達は息を詰め、丸屋根の建物を見上げていた。たくさんの死の後だと言うのに肌に触れる夜風が心地よく、それがレベルゼの嘲笑のように思えて受け容れ難かった。
と。不意に大隊長が石段の方へと歩み寄った。
灰色の石段は頂上の白い東屋を囲み、地上まで同心円状に連なっていた。その一段目に隊長が無言で足を掛ける。
次の瞬間。
「大隊長!!」
近くにいた者が慌てて階段へと駆け寄った。
大隊長の姿が宙に掻き消えていた。
はっと声を呑んだ時には、その男の姿も失われていた。
「下がれ!!」
残された二人の中隊長達と共にわたしは叫んだ。