18. 魔法使いの家
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今にも倒れそうな高齢の女性は、補助職員には見えなかった。
この女性は、まさか。
衝撃で鳥肌が立った。
踝まである濃紺のスカートに、木靴に栗色のマント。数百年前の世界からやって来たかのような姿。
アルト様の行く先を尋ねるその女性を、とにかく屋敷へと招き入れた。
こんな時間からこんな様子で、女性一人でどこへも行けはしない。
本当は横になってほしかったが取り敢えず応接室のソファに座って頂いて、女中にお茶やひざ掛けを出して貰った後、わたしは女性の向かいに立った。
「……あなたは職員の方ですか?」
確認する声が震えた。「魔法図書館の職員」と言われて、門番も女中も当然のように「補助職員」だと思っただろう。
でもこの女性は違う。
女性が答えた。掠れた声で。
「…………はい」
アルト様――――――――――――――――!
手にしていた封書を、わたしは握り込んでしまいそうだった。
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おそらくアルト様は歴史上でも有数の魔法使いだ。魔法使いが激減した現代ではもう、アルト様を超える魔力を持つ者はこの世に存在していないだろう。
四十年アルト様にお仕えして、せめてわたしが働ける間は見届けて差し上げたいと思っていた。それが孤独なあの方にわたしがして差し上げられる、ほぼ唯一のことだ。
アルト様はただ六百年死ねなかったと言うだけではない。突出した魔力はあの方の孤独を一層深めてしまっている。
誰も倒すことが出来ない「不老不死の最強の魔法使い」は、世界に恐怖を与える存在となってしまうからだ。
巨大な魔力をアルト様は決して悪用されなかった。それどころかあの方は数えきれない程多くの人命を救っている。だがそれは偏にアルト様が並外れた自制心をお持ちだったからだ。
あの方に立ち向かえる存在はなく、しようと思えばどんな悪事でも働くことが出来てしまうのだから、「恐れるな」と言っても無理な話だろう。
時折思う。呪いを受けたのが他の誰かであったなら、この世は大変なことになっていたのかもしれないと。そんなことを考えたところであの方の慰めになる訳ではなかったが。
不死を隠し、時には魔法使いであることすら隠してアルト様は生きて来られた。そのためにアルト様は、一つの場所で長く暮らされたことがない。他人との交流を避けられ、あれだけ目を引くお姿をされていても、女性も決して近付けようとはされなかった。
だがわたしの娘達を含めて、アルト様に憧れた女性はそれこそどれだけいたのか分からない。もしアルト様さえ受け容れられるのなら、わたしはアンがアルト様と一緒になってもいいとすら思っていた時期がある。アンは、随分長いことアルト様を想っていたと思う。
不老不死のアルト様と一緒になる女性が幸せになれるとは思えなかったが、それを分かっていてなお娘を送り出してもいいと思う程、気が遠くなりそうなあの方の孤独を見ていられなかったのだ。
結局アンの想いが叶うことはなく、親としてはこれでよかったと思う反面、ご自分の幸せを求めることがないアルト様の姿は見ていて痛ましかった。
アルト様はただひたすらに解呪を目指されていた。何百年も、他の何も求めず憑かれたように。
地震に見舞われた国や、賊徒に襲われた村で人の命を救いながら、ご自分自身はずっと死を目指されていた。
わたしが生まれた時には既に五百年を生きていたアルト様の孤独は想像を超えている。「もう少しで望みが叶う」と聞かされた時、なんて悲しい望みなのかと胸が苦しくなった。
だがようやく悲願を叶えようとしている方に憂い顔を見せては苦しめてしまうだろう。わたしは慶んで差し上げることしか出来なかった。
だがこの都市へ来てから、アルト様のご様子が変わった。
必要でもない限り魔法書しか読まれなかったアルト様が、ある日小説を手にされていた。
驚いたが、わたしは何も訊けなかった。
大切そうに本をお持ちになっていたアルト様の表情には憑きものが落ちたかのような明るさと同時にどこか苦し気な様子があって、無遠慮に踏み込んではいけない気がしたのだ。
それからアルト様は頻繁に本を買って来られるようになった。魔法図書館に通われていることが関係しているようには思えたが、アルト様は何も仰られなかったので、わたしも何も尋ねなかった。
ご自分の胸の内をアルト様は語られなかった。
だが少しして、わたしは魔法図書館に「魔女」と呼ばれる女性がいることを知った。
まさか魔法図書館に五百年在籍している人間がいたとは。
在籍五百年の「魔法図書館の魔女」。
――――――――――――五百年。
もしや、と思った。