11. 魔女と魔法使いの岸
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出来るだけ急いだ。少し駆け足気味に。でも人の姿が見えた時は歩を緩めた。
老婆らしくする必要もないとは思うのだけど、職員服姿の老女が走っていると皆目を瞠るのだもの。正直ちょっと恥ずかしい。だけど本当は、わたしは若い頃とあまり変わりないくらいに走れた。
魔法図書館の職員になると、病に冒された人も年老いた人も体に不調を覚えない。
年を取れば体のあちこちに痛みがあったりするものだけど、そんな加齢からくる不具合さえも、不死の魔法は癒してしまう。
ただ「健康」とは少し違うと感じる。食事も睡眠も必要とせず疲れることもない体は、やっぱりどこか、生きている感覚に乏しかった。
ともかくも、今は急いだ。この日に割り振られた持ち場にようやく戻った時には、随分と時間が経っていた。
眩い程の光の中にアルトはいた。金色の髪の魔法使いは、端然とした姿で本を読んでいた。
間に合った、と思ったのは一瞬だった。声を掛ける前に、アルトは席を立ってしまった。
それだけで辺りの空気がさっと変わる。
姿も物腰もまるで物語の王子様のようなアルトは、そこにいるだけでいつも注目の的だ。
あれだけ視線を集めておいて気付いていないのだとしたらそれはそれで驚くけれど、気付いていて完全な無反応を貫いているのだとしたら、それもそれで凄い胆力だと思う。
大勢の女性達にどれだけ熱い眼差しを送られても、アルトは常に平然としていた。
何百年も注目され続けてもう慣れてしまったのかしら。
複製本作りの女性達も、アルトが来た日には悲鳴のような歓声を上げる。夫と子供どころか孫までいるような人達ばかりなので(一応は)冗談半分で済んでいるけれど、もし若い女性がいたら面倒ごとになっていたのかもしれない。
アルトさえその気であれば、彼の呪いを知ってなお一緒になりたいという女性もいるだろうと思うのに。
声だけでも掛けておこうと近付くと、こちらに気が付いて、アルトが視線を上げた。その表情が少し拗ねている。
一時期程ではないけれど彼は今も忙しいらしく、図書館に来られる日は昔より減っていた。今日も後の予定が詰まっているのだろう。
わたしも話したかったのに、間に合わなかったのね……。
がっかりすると、アルトの表情が一転した。
「また来ます」
そう言った魔法使いは悲し気だった。
せめてもと扉の前まで彼を見送りながら、短い会話を交わした。
―――――――五百年、魔法図書館で沢山の人達と出会った。でも出会った人達はみんな、自らの意思か寿命が尽きて、わたしの前から去って行った。
同じ時間を歩いて来て、この先も同じ時間を歩いて行けると知った日から、アルトはわたしにとって他の誰とも違う存在だった。
それはコインの表裏のような話だった。
アルトはきっと理解しているのだと思う。
取り残される辛さだけではなく、時に押され、彼を置いて変わらざるを得ない人の辛さも。だから彼は女性を寄せ付けないのだろう。思慮深過ぎる程思慮深い、優しい人だと分かっている。
アルトの許を自ら去ったという女性はどんな人だったのだろう。
五百年以上前の話だと分かっているのに、考えるとつきん、と胸が痛んだ。
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間違いなく、リスタは高齢だった。誰が見ても。
――――――――――なのにもてた。
時間の合間を縫って二日ぶりに図書館へ行くと、魔女は既に他の来館者に捕まっていた。
初老のその来館者を、わたしは以前にも見ている――――――――つまり日時を約束してリスタに会いに来たのだろう。
在籍五百年の「魔法図書館の魔女」には歴史学者とか古文書の研究者とか、その手の人間が時々会いに来る。そして古い事柄に留まらない彼女の知識量に感嘆したりして、妻に先立たれた年輩の学者とかが、惚れ込んだりするのだ。
タウナ―は珍しい存在ではなかったのだ……。
わたしの姿に気が付いたリスタが、はっとした表情をする。
「……」
分かっている。こちらはなんの約束もしていないのだから、文句など言えない。
わたしに目配せだけしてリスタは、初老の客人を案内してどこかへと去って行った。
客人の手伝いが終われば今日の持ち場であるらしいここへ、彼女はまた戻って来る。それまで待っているしかない。リスタに以前に薦められた旅行記を自力で探し出すと、わたしは巨大な机の一隅に席を取り、その本を読んで過ごすことにした。
だがそれから二時間経っても彼女は戻って来なかった。今日は仕事の予定があって、これ以上図書館にはいられない。
―――――――――――なんだ、あの男は。
心騒めいてはいたがどうすることも出来ない。仕方なく席を立った時、ようやくリスタが戻って来た。
わたしは憮然としていたが、リスタの悲しそうな表情を見て、すぐに苛立ちは霧散した。
「また来ます」
声を落として、そっと彼女にそう告げた。
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「―――――――――――――――」
その夜、自室の本棚に買ってきた藍色の本を収めた。
何冊目だろう。
広い壁の半分を占拠している本棚を見渡すと、魔法書ではない本が増えている。
図書館で読み終えられなかった本で街の本屋で手に入る物は買うようになっていたので、以前には数冊の魔法書しかなかった筈の本棚が、いつしか随分と賑やかなことになっている。
この本棚をリスタに見せたいと思う。自室にリスタを呼べたら。
全部リスタが薦めてきた本だから、彼女が好きな本ばかりだろう。
数日に一度、数時間話せるだけ――――――――同じ時間を歩めているようで歩めていないことが、辛かった。
でも図書館を出れば、彼女は長くは生きられない。
五十年後も百年後も、共にはいられるかもしれない。
でも呪いを解かない限り、わたしの年齢も永遠にリスタに追い着けない、とも思った。