あなただけを
セレスティアに嫌われることは、フェリクスにとって、最も恐れていることに他ならない。
「……少し、屈んでもらえますか」
セレスティアに言われるがまま、フェリクスは、背中を丸め、膝を少し曲げた。
「あの……目を閉じていてください」
逆らう訳にはいかない、と、彼は目を閉じた。
セレスティアの柔らかな両手が、フェリクスの顏を挟む。
彼女は何をするつもりなのだろうか──そう思っていたフェリクスは、自分の唇に、何か柔らかく暖かいものが触れるのを感じた。
薄らと目を開けてみたフェリクスは、目の前にセレスティアの顔がある──そして、彼女の唇が、自分の唇に触れているのに気付いた。
これが、接吻というもので、ごく親しい間柄の者同士が行う行為であるというのは、彼も知識としては知っていたし、他人同士のものであれば、実際に目にしたこともあった。
と、閉じられていたセレスティアの目が開き、彼女の顔が、ゆっくりと離れた。
「目を閉じていてって、言ったのに」
耳まで赤くなったセレスティアが、恥ずかしそうにつぶやいた。
「……引きこもっていた時期、『ばあや』が私の為に、色々な本を差し入れてくれました。その中には、男女の恋を描いた物語も沢山あったから……愛しい人には、どんなことをするのか、私だって、少しは知っています」
まだフェリクスの顔を挟んだままの、セレスティアの手が震えている。
ひどく緊張していたのだろう。
「私が、こうしてもいいと思うのは、あなただけなのですよ。初めてだから、上手くできなかったかもしれませんけど……」
フェリクスは、セレスティアの言葉を理解するのに時間がかかった。しかし、何度も反芻するうちに、彼女の言葉が、どれほど重い意味を持つのかが徐々に分かってきた。
愛しい相手に行う接吻という行為、彼女が、そうしてもいいと思うのは自分だけ……心拍数が跳ね上がり、全身が熱くなるのを感じて、フェリクスの思考が停止した。
無意識のうちに、フェリクスはセレスティアを抱きしめていた。いや、しがみついていたと言ったほうが正確かもしれない。
「……フェリクス、少し、苦しいです」
セレスティアの声で、フェリクスは我に返った。
「す、すまない」
彼は、慌てて、セレスティアを抱きしめていた腕の力を緩めた。
「……胸が苦しくて、身体中が熱くて、頭が、ふわふわして、一人では立っていられないんだ。もう少し、こうしていてくれないか」
半ば呻くように、フェリクスは言った。
「私も、同じですよ」
そう言って、セレスティアも、フェリクスの背中に腕を回した。
「私……最初は、あなたのことを、冷静で賢くて物静かで、大人っぽい方だと思っていました」
「……思っていたのと違って、がっかりしたということか?」
彼女に幻滅されたのだろうか──と、フェリクスは眉尻を下げた。
「いいえ……思っていたよりも、ずっと、可愛らしい方だったんだなって。そして、あなたも、やきもちを妬くことがあると分かって、安心しました」
セレスティアは、フェリクスの顔を見上げて、くすりと笑った。
可愛らしいと言われて意外に思いつつも、フェリクスは、彼女の言葉が肯定的な意味のものだと理解した。
「嫉妬されるのは、嫌なことではないのか?」
「それだけ、あなたは私のことを考えてくれているのでしょう? でも、心配しないでください。私は、あなた以外の人のものになるつもりは……ありませんから」
頬を染めながら言うセレスティアを見て、フェリクスは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
それは、苦痛ではなく、不思議な甘さを伴うものだった。
誰にも触れさせたくないとまで思った相手から、あなた以外の人のものになるつもりはないと言われる──これ以上のことが、あるだろうか。
そして、自分の醜い部分を見せてしまったにも拘わらず、全てを受け入れて貰えたという安心感は、フェリクスの不安を、綺麗に拭い去った。
「俺も、こうして触れ合っていたいと思うのは、君だけだ……その、嫌なことを言って、すまなかった」
先刻の自分の態度を思い出し、恥ずかしくなったフェリクスは、素直に詫びた。
「誰にでも、そういう時は、ありますよ」
「君も、嫉妬することなどあるのか?」
「ありますよ?」
フェリクスが問いかけると、セレスティアは赤くなって答えた。
「わたしが、やきもちを妬いたら、嫌ですか?」
「嫌ではないが……君が、やきもちを妬かなくて済むように気を付ける」
「……ようやく、いつものフェリクスに戻りましたね」
セレスティアが微笑むのを見ながら、あれほど、ささくれ立っていた心が、いつしか暖かいもので満たされているのに気付いて、フェリクスは不思議な気持ちになった。




