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聖女ですが世界を一時間で救ったので、素敵な旦那様と婚前旅行に行って参ります!

作者: 風嵐むげん


 生まれ育った神殿が呆気なく崩壊する様は、絶望を通り越して爽快でした。

 見上げると首が痛くなるくらいに高い天井、石造りの冷たい壁、荘厳なステンドグラス。幼い頃から過ごしてきた場所が、もはや跡形もありません。

 あまりの事態に、私は自衛のために防御魔法を展開するだけで精一杯でした。


『異世界からよくぞいらっしゃいました、勇者さま。私はエリン。エリン・フィオナ・ルヴェマリアと申します。ルヴェマリア王国の第一王女であり、人々を救う役目を担う聖女です。平和を取り戻すため、どうか我々に力をお貸しください』


 ……と、あらかじめ何度も練習していた挨拶が頭の中を流れます。流れるだけで、残念ながら実際に声に出すことは出来ませんでした。

 悪夢のような存在感に、一歩たりとも動けなくなってしまっていたのです。


「ここは……地上か? 何故、我がこのような場所に」


 召喚魔法陣を踏み砕き、神のご加護が宿る神殿を巨大な体躯で破壊した暗黒の竜。夜よりも暗く、冬よりも冷たく、闇と破滅を生み出した邪悪の化身。

 それは、世界を生み出した創造神と対なる者。神話の存在である邪神竜が、目の前に降臨したのです。

 私が、喚んでしまったのです。


「あ……は、ひぇ」


 上手く、息が出来ません。瓦礫が落ちてくるかもしれないのに、身動きがとれないのです。

 恐怖という表現は生温い。見えない手に心臓を鷲掴みにされているかのような絶望感に、いっそラクになってしまいたいとさえ考えてしまいます。


「人間よ」

「……ぅ、あ」

「貴様か、我を呼んだのは。我に何の用だ」


 地鳴りのような低い声に、全身の血が凍りつくよう。少しでも機嫌を損ねれば、瞬きをする間も無く殺されるでしょう。


「何のつもりだ、と聞いている」


 繰り返される問いかけは、自害することすら許しません。


「わ、私はルヴェマリアの……王女であり、聖女……です」


 頭の中が暴かれ、答えが無理矢理に引きずり出されます。圧倒的な恐怖は人間を支配し、操るのだと思い知りました。


「私は魔王を打ち倒すために、異世界から勇者さまをお呼びしようと……でも」


 上手く出来ませんでした。夜が明けて、日が昇り、沈んで、また夜になっても私の召喚に応じてくれる方は現れなかったのです。

 召喚魔法の難しさは、修行を積んだ聖女でも命を落とすことがあるほど。私も意識が朦朧としていました。

 丸一日、飲まず食わずで魔法陣に魔力を注いでいたのですら、生きているだけでも奇跡だと言っていいでしょう。

 ……でも、そうやって自分を奮い立たせようと集中を切らしてしまったのが、最大の失敗でした。

 邪な、それはそれは聖女らしからぬ邪なことを考えてしまったのですから。


「…………がいいな、と」


 声が出せなかったのは、邪神竜への恐怖のせいだけではありません。つい先ほどまで全身が凍えていたのに、今は羞恥のせいで顔が熱い。

 いえ、これは駄目。お墓まで持っていくべき秘密ですもの。


「おい、聞こえなかったぞ。もっと大きな声で言え」


 あろうことか、邪神竜が追求してきました。僅かに苛立つ声色は、口を閉ざすことも誤魔化すことも許さないようです。

 ええい、もうどうにでもなってください!

 私は隠していた願望を投げつけるように、悲鳴じみた声で叫びます。


「どうせお供をするなら、長身で黒髪のイケメンがいいなって考えてしまったんですうぅ!」


 山のように大きな体躯を見上げ、全力で叫びました。月まで届くのではと思いましたが、魂からの叫びは夜風にさらわれて呆気なく消えました。

 残るのは、静寂。というより沈黙。耳が痛いくらいの無音に耐えられず、恐る恐る邪神竜の様子をうかがってみます。

 すると、銀色の瞳と目が合いました。


「……聖女よ。イケメン、とは何だ」


 邪神竜の声から、苛立ちが消えています。それどころか、イケメンとは何か気になって仕方がないと言った様子です。スルーして頂きたいのに、どうしてそこを掘り下げようとするのでしょうか。


「え、えっと、お顔立ちが綺麗な男性のことです、はい」

「なるほど。お前は顔が綺麗な男が好きなのか」


 笑い飛ばされるでも、蔑まれるでもなく。淡々と受け入れられてしまえば、今までとはまた違った種類の羞恥が湧いてしまいます。

 同時に、温かさを増す輝きの銀色に、恐怖が溶けていくのを感じます。


「ところで、先ほどからなんだか美味そうな匂いがする」

「匂い、ですか?」

「うむ。悠久の末に忘却していた我が食欲をそそる、甘酸っぱい匂いがする」


 きょろきょろと辺りを見回す邪神竜に、私は反射的に後ろを見ます。

 異世界からやってきた勇者さまがお腹を空かせていたら大変だと思って、色々な軽食を用意していたけれど。ほとんどが跡形もなく吹き飛んだり、瓦礫の下敷きになってしまいました。

 信じられないことに、なぜか私が作ったアップルパイだけは無事です。瓦礫と化したテーブルの上

で、奇跡的なバランスを保つそれを持ち上げ、クロッシュを取り外し邪神竜に見せてみます。


「えっと……もしかして、これですか?」

「うむ、それだ! とても美味そうだ、お前の手作りか?」

「は、はい」

「お前は器用なのだな、このような心躍る香りは何千年ぶりだろうか。これだけでも地上に来たかいがあった」


 鞭のように長くしなやかな尻尾が、びたんびたんと左右に激しく揺れます。なぜでしょう、先日街で見かけた子犬と重なってしまいます。

 ……もしかして、お腹が空いているのでしょうか。


「よければ、どうぞ」

「いいのか?」

「はい。最初から私の召喚に応じてくれた方に、差し上げるつもりでしたから」


 私がそう促すと、前後不覚になるほどの暗黒に飲まれます。

 それがただ、相手が屈んだだけとわかった時には、邪神竜はぺろりとアップルパイを完食していました。


「うむ、美味い! 本来、我に食物など不要だが、これならばいくらでも欲しいくらいだ」

「き、気に入っていただけてよかったです」


 邪神竜って、アップルパイがお好きなようです。究極と言ってもいいくらいのギャップにくらくらしていると、またもや暗黒に飲まれます。

 先程よりも近い位置で、じっと見つめてきます。


「ああ、気に入ったとも。聖女よ、名前を教えてくれないか?」

「名前って、私の? エリンと申します」

「エリン……冥界の主たる我を求めし聖女よ。絹糸のような金髪も、海より碧い瞳も、全てが愛おしい」


 一体何が起こったのか、すぐにはわかりませんでした。突如吹き荒れる黒い風に、お皿ごと身体が吹き飛ばされそうになって。


「きゃあ!?」


 反射的に目を瞑り、何かに掴まろうと手を伸ばします。誰かが私の手を掴み、温かな胸元に引き寄せられて。


「お前の望みは何だ? その全てを我が叶えてみせよう」


 ボサボサで埃っぽい髪を一房取られ、口付けが落とされます。温かで、くすぐったくも甘い感触に、思わず目を見開いて。

 その顔を、姿を、間近で見てしまいました。


「だから、エリン。我の妻になってくれないか?」 


 頭一つ分高い位置にある、整った顔立ち。妖艶な銀色の瞳は、私の姿が映るほど澄んでいます。

 さらりと揺れる髪も、その身に纏う衣装も漆黒なのに、今までのような恐怖はありません。

 頭上に広がる夜空のような、優しく落ち着いた色でした。


「……えっと。邪神竜……いえ、邪神竜さま、ですか?」

「うむ、そうだ。エリンが言っていたイケメンとやらに擬態をしてみたぞ。どうだ?」


 ニンマリと意地悪く口角をつり上げる表情に、心臓が爆発するかと思いました。いえ、爆発しました。

 夜な夜な寝る前に妄想していたとおりの……いえ、それ以上の超絶美形が、目の前に居るんですもの!

 それも王道の爽やか王子さまではなく、人を惑わし駄目にするタイプの悪役!

 この瞬間、私は恋に落ちました。


「そうです! 私は正義のヒーローではなく、悪役に性癖を狂わせられたタイプの聖女です! 物語でいつも悪役に沼っては、その非情で痛ましい生い立ちに苦しみ悶えているのです!」

「性癖……沼……? よくわからんが、つまりはお前の好みに添えたということでいいか? 我と結婚してくれるか?」

「はい。しましょう、結婚」

「ちょ、ちょっと待った! 何一つ解決していないというのに、全部終わったかのような雰囲気になるな!!」


 これから星空の下で結婚式を始めようと思ったのに、雰囲気をぶち壊す不躾な声。

 聞き覚えのある声にはっと我に返るものの、邪神竜さまの腕から抜け出せずに、そのままで声の方を見ます。

 伝統的で豪華な装束を着込み、重そうに裾を引きずりながらえっちらおっちら瓦礫を乗り越えている中年の男性。


「まあ、お父さま。そんなに血相を変えてどうなさったの?」

「どうなさったの、はこちらのセリフだ!」


 お父さまがぜえはあと肩で息をしながら、私と邪神竜さまを交互に見やります。


「我が国の大切な神殿が跡形もなく吹き飛んだ上に、その中心で娘が見知らぬ男に抱き締められているのを見て血相を変えない国王兼父親が居るか!?」

「貴様がエリンの父か。我は邪神竜。エリンの呼び声に応じて参上した、一生大事にするゆえ娘は我が頂く」

「何だと!? こんな瓦礫だらけの散らかった場所で求婚とは、どういう神経をして……え、邪神竜? 今、邪神竜って言った?」


 唖然としながら、私たちを見比べるお父さま。竜から人の姿に擬態した影響か、心臓が押し潰されるような威圧感はかなり抑えられています。

 私の心臓は鷲掴みにされちゃってますけどねっ!


「え、ええっと……邪神竜って、神話に出てくるあの邪神竜?」


 信じられない、という目でお父さまが邪神竜さまをジロジロ見ます。どうやらイマイチ信じられないようです。


「ううむ、よくわからんが……とりあえず、エリンの召喚に応じたのなら、勇者として魔王を倒して来て欲しいのだが」

「は? なんだ貴様、我に指図するとはいい度胸だな」

「ひいい!!」


 不機嫌を露わにする邪神竜さま。低いお声は、耳にするだけでも生物の心臓を凍らせるほどに恐ろしい。

 ガクガクと生まれたての子鹿のように震えるお父さまに、慌てて助け船を出します。


「えっと、聞いてください邪神竜さま。私は聖女として、人々に平和を取り戻すために魔王を倒さなければいけないのです。召喚魔法に挑んだのも、そのためなのです」


 決して忘れていたわけではありません。タイミングが悪くて言い出せなかっただけです。


「魔王? そういえば、さっきそんなことを言っていたな。エリンは魔王を倒したいのか?」


 振り向いた邪神竜さまの目がお優しい。私だけに優しくしてくれているのだと思うと、嬉しくて仕方がありません。


「はい。聖女の役目は、人々の平和を守ることですから」


 これだけは忘れてはいけないことだし、譲ることも出来ません。

 聖女としての使命。使命を果たすために、私は召喚魔法に挑んだのですから。


「ふうん、あれを滅すればいいのか……そういうことなら、早く言えばいいのに」

「え、それってどういう」

「では、とっとと済ませよう」


 邪神竜さまが指を鳴らすと、足元に淡く紫色に輝く魔法陣が浮き上がりました。

 それほど大きくないそれは、私と邪神竜さまを囲うように展開され、ぐるぐると回転し始めます。


「え……これってまさか、転移魔法ですか!?」


 対象を一瞬で移動させる転移魔法は、召喚魔法と同じくらい難しいはず。

 私が同じことをしようものなら、すぐに魔力切れで倒れるか、反動で身体がズタズタになるかのどちらかなのに。


「そうだ。魔王を倒しに行くのだろう?」


 何を今更と、邪神竜さまが不思議そうな目で見てきます。まるで夕食でも食べに行くのかのようなノリです。


「ではエリン、ひとっ走り行こう」

「ひとっ走り!? 待ってください、まだなんの準備も出来てな……きゃああああ! ふわっとしますううぅ!!」


 言い終わる前に、視界が暗転します。内臓を持ち上げられるかのような浮遊感が気持ちが悪くて、思わず邪神竜さまの胸元に縋ってしまいます。

 しかし、不快な時間は長く続くことはなく、すぐに上下左右の感覚が戻ってきます。恐る恐る目を開くと、全く知らない景色が広がっていました。

 言うまでもなく、魔王城です。

 ルヴェマリアの白亜のお城とは全然違う、禍々しい黒いお城。お花の一輪も咲いていない景色は、とても寂しくて寒々しいです。


「む……少々位置がズレたな。本来ならば、魔王の玉座の前に降り立つはずだったのに。人に擬態しているせいか、どうも勝手がわからん」

「でも、周りの魔物や魔族の皆さんには、そのお姿でも邪神竜さまだっていうことは伝わっているみたいですね」


 一目散に逃げていく魔物や、失神している魔族の兵たち。邪神竜さまはもちろん、私が聖女であることにも気がついているようですが、果敢に挑んでくる気力はないようです。


「むう、面倒だ。城ごと吹き飛ばすか」

「そ、それはちょっと……さらわれた人とか、奪われた宝物とかがあるかもしれませんし」


 どうしましょう、想像していた魔王討伐と全然違うのですが! 

 本来であれば、勇者さまと助け合って、大変な思いをしてここまで辿り着く予定だったのに。

 少なくとも、こんなふわふわした気分で来る場所ではないと思うのですが。


「そうか? エリンが望むならばそうしよう。魔王を絞め上げて、身ぐるみを剥がすのだな」

「そ、そこまでするつもりはないです」

「心配するな、我が必ずお前を守るとも。さあ、行こう」


 凄い、実家を超える圧倒的安心感。差し出された腕をお借りして、私たちは魔王城の中へと足を踏み入れました。

 まるで結婚式に望む新郎新婦ですが、魔王を討伐しに来た邪神竜と聖女です。


「そう言えばエリン、お前は聖女であると同時に王女でもあるのだろう?」

「はい、そうですよ。ルヴェマリア王族の女は、聖女の血を受け継いでいるので。私は物心つく頃に神殿へと入り、今日に至るまで修行をして参りました」

「神殿……創造神を崇拝する場所だったな。そこでの修行ということは、さぞ退屈な日々を過ごして来たのだろうな」


 口に合わないものでも食べたかのように、嫌悪感を露わにする邪神竜さま。確かに、彼の言うとおりです。

 私は王女でありながらお城ではなく、ずっと神殿で過ごしてきました。外出の自由はなく、一日の予定から食事のメニューまで全て決められていたのです。


「確かに厳しい生活でした。でも、本だけは好きなものを読むことが出来たんですよ。聖書はもちろん、魔法書や歴史書、旅行記に動植物の図鑑など何でも読みました。ですので、こうして外の世界に出るのがとても楽しみだったんです。魔王城も、伝記にあった通りの禍々しさで、感動しています!」


 本当は、この足で世界を旅することも楽しみにしていたのですが……邪神竜さまには、黙っておきましょう。

 そんな話をしている内に、私たちはあっという間に魔王の玉座まで辿り着いていました。言うまでもなく、一度も戦っていません。

 回復魔法とか、補助魔法とか、たくさん練習してきたのですが……。


「ゲエエエ!? 部下が怯えて逃げ出すから何事かと思えば、邪神竜サマではないですか! どうして、こんな場所に!」


 燭台の青い炎が照らす玉座に、魔王が居ました。

 鳥の頭蓋骨と羊の黒い角、ぎょろりとした血色の瞳。豪華な衣装と王冠を見る限り、魔王で間違いないでしょう。

 玉座から転げ落ちたまま、ガタガタと震えている姿は直視出来ないくらいに居た堪れないのですが。


「我が妻との輝かしい新婚生活のために、貴様を始末しに来た。魔王よ、大人しくその首を差し出せ」

「つ、つつ妻ァ!? 妻って、まさかその聖女のことですか!? 何があって、そんなことに!」


 私と邪神竜さまを交互に見比べながら、意味がわからない! と魔王が嘆いております。

 そんな魔王から視線を外して、邪神竜さまが綺麗な笑顔を向けてきました。


「エリン、こいつをどう滅すればいい? 火炙りか? 血祭りか? それとも生け捕りにしてルヴェマリアの城門前に吊るそうか?」


 どうしましょう、もうどっちが悪党なのかわからなくなってきました。


「え、ええっと……本来の勇者さまは、聖剣で魔王と戦うはずなのですが」


 そういえば、瓦礫の下敷きにしたままでした……聖剣。


「聖剣? ああ、創造神が作った金ピカのあれか。流石にあれを我が使うことは出来んのだが……要するに、剣ならばなんでもいいだろう」

「べ、別に剣にこだわっているわけでは」

「我に任せるがいい。エリン、下がっていろ」


 有無を言わせずに私を下がらせ、邪神竜さまが右手を前にかざします。すると、足元から凄まじい量の闇色の靄がぶわりと噴き出しました。一瞬で温度が下がり、肌がピリピリと痛むほどです。

 靄は邪神竜さまの手に集まり、真っ黒な一振りの剣になりました。禍々しくも流麗な刃は、聖剣にも引けを取らない名剣であることが素人目にも明らかです。


「こんな感じでいいだろう。では、早速試し斬りといこうか」

「え、邪神竜サマちょっと待って」

「お前は用無しだ、消えるがいい」


 見惚れてしまいそうな笑顔で、邪神竜さまが剣を軽く振ります。剣技自体は初心者丸出しで、その場から動かずに上から斜めに振り下ろしただけですが、その一撃は凄まじいものでした。

 魔王城が空気ごと大きく揺れ、私の元まで届く衝撃は立っていられないほど。


「う、うわあ……すごい、けど」


 石造りの床を抉り、魔王の玉座を木っ端微塵にし、背後の壁を突き破ってしまいました。


「むう、外したか。剣とは難しいものだな、踏み潰す方が遥かにラクだ」


 邪神竜さまが不満そうに自分の剣を見やります。今のが果たして剣での戦いと言えるのか疑問ですが、試し斬りでこの威力だなんて……人間離れ、という言葉すら生温い。

 災害です、この方。


「ひい、ひいぃ……もう、ムリ」


 恐怖を通り越して、魔王は放心状態です。魔族の頂点としての全ての力を振り絞り、邪神竜さまの攻撃を避けられたようです。

 辛うじて生きてはいるものの。長年に渡って人間を恐怖を与えてきた魔王が、もはや見る影もありません。

 流石に、可哀想かも。私は邪神竜さまの隣に立って、裾を軽く引っ張ってみます。


「あ、あの……邪神竜さま、一つ質問なのですが。人間と魔族の争いって、元は創造神さまと邪神竜さまの争いなんですよね?」

「うむ、そうだな」

「両者の争いはいつしか、人間と魔族の争いに移り変わっていった。創造神さまは勇者を、邪神竜さまは魔王を生み出した」

「エリンは勉強家だな、偉いぞ。よしよし」


 ぽんぽんと、大きな手が頭を撫でてくれます。優しくて温かい。嬉しくて、でも同時にくすぐったくて気持ちがほわほわしてしまいます。

 ……って、違う違う。


「ということは、魔王って……邪神竜さまのお子さんってことでは」

「……は?」


 ぽかんとする邪神竜さま。でもすぐに、ぶんぶんと顔を左右に振りました。


「ち、違うぞ! 確かに魔王は我の手先だが、子供ではない。こんなものは、泥と石とその辺に落ちていた鳥の頭蓋骨を練り込んで作った人形だ。子供などではない!」


 邪神竜さまがぶんぶんと首を横に振ります。必死です。凄く必死に弁解し始めましたよ。

 そもそも、魔王って子供の泥遊びみたいな方法で生み出されていたとは……初耳です。


「決して、何者かと愛し合った末に出来たものではない! 我は生涯独身だった! 我の初恋も愛も、全てはエリンに捧げているぞ!」

「くうぅ! どう見ても悪役なのに、ストレートに口説いてくるギャップで心臓が痛い!!」


 また爆発するのでは、と思うほどに激しく鼓動する心臓に胸をぐっと押さえます。

 美しくも禍々しい見た目の反して、言動が純粋で、ギャップが凄い! でもそれが可愛い!


 ……ではなくて。


「ええっと、要するにその……魔王をご自分の手で生み出したのなら、愛着とか父性愛みたいなものは」

「ない」

「食い気味に否定するほどですか」

「エリンが滅ぼせというのなら、我は魔王だろうが創造神だろうが闇に沈めてみせるぞ」

「そ、そんなぁ……我々はただ、邪神竜サマのために人間を支配しようと思ってただけなのにぃ」


 断言する邪神竜さまに、魔王が情けない声を上げます。

 うーん……ここまで思って頂けるなんて、今すぐ叫びたいくらい嬉しいのですが。


「……邪神竜さま。魔王が居ないと、他の魔族が好き勝手に暴れ出しちゃいますよね」

「そうかもしれんな。わかった、全て滅ぼそう」

「うわあ、目が本気だ。でも、ちょっと待ってください」


 もう一度魔王を見ると、私に縋るような目を向けてきています。

 争う気力がないのなら、このまま滅ぼしてしまうのは胸が痛みます。


「あの、魔王……さん? 二度と人間を困らせたりしないと約束してくださるのなら、私たちはこのまま帰りますけど」

「なぬ?」

「ほ、ほほほ本当ですか聖女サマ! します、約束します! 魔族は二度と人間に手を出したりしません、我々の領域から一歩も出ません!!」


 一瞬で私たちの足元まで駆けると、魔王さんがその場で平伏してしまいます。あれだけ身構えていたのに、決着は秒でついてしまったのでした。

 それも、邪神竜さまの力で人間に平和がもたらされるという、誰もが予想しなかったであろう形で。



 魔王から降伏の証として杖を受け取ると、私は邪神竜さまと共にルヴェマリア城へと帰還しました。

 常軌を逸するあれこれを上げたらキリがありませんが。私たちが魔王城へ出発してから一時間で勝利を収めたという事実に、人々は大いに喜びました。祝杯を上げる準備すら出来ていなかったけれど、ありあわせのものでパーティーが開かれました。

 楽しかったし、ほっとしました。想定していた形とは異なるけれど、再び平和を取り戻したのです。

 達成感は微妙ですが、二人とも怪我を負うことなく、最善の形で勝利を収められたのです。文句などつけようがありません。

 聖女としての役目も、これで終わりです。あまりの呆気なさに寂しさというか、虚しさはあるけれど。明日からは王女として、忙しい日々が始まるのでしょう。でも、邪神竜さまと一緒ならば平気です。

 そう思っていたのに、夜が明けると事態が一変しました。

 人間の兵士が取り囲み、あろうことか邪神竜さまに手枷をつけたのです。


「邪神竜さまになんということを!」

「なんだ、これは。邪魔だな」


 私が兵士を止めるよりも先に、邪神竜さまは手枷を壊してしまったけれど。三回も壊してしまったけれど。

 最終的に、「お茶でもお菓子でも、聖女様の愛読書でもなんでもお持ちしますので!」と説得されて、地下牢に入れられてしまったのです。経緯が残念でも、この仕打ちは納得出来ません。

 私はすぐにお父さまへ謁見を申し込み、直談判しました。


「邪神竜さまは、私たち人間を救ってくださったのですよ!? どうして恩を仇で返すのですか!」

「落ち着け、エリンよ。勇者であれば、もちろん我々は歓迎したとも。だが、あれは邪神竜だ。破滅を生み出す冥界の主なのだぞ」

「ああ、なんて恐ろしい……エリン、あなたはなんという恐ろしいことをしてしまったの。あらゆる邪悪の根元が地上に現れただなんて、どんな厄災を撒き散らすつもりなのか」


 お父さまは冷静ですが、隣のお母さまは可哀想なくらいに青ざめています。二人の様子に、私は改めて自分が置かれている状況を思い知らされました。

 でも、


「邪神竜さまは厄災を撒き散らしたりしません! あの方はいい人です! そして、とてつもなく顔がいいです!!」

「それは確かに」


 お母さまの表情がスン、と澄ましたものに変わります。なんて話がわかる人でしょう。


「ええい、だからなんだと言うのだ。所詮は外側だけを取り繕っているのだろう。見た目がどうであれ、あれは邪神竜なのだ。ならば、早急に冥界へ送り還すべきだ!」


 話がわからない石頭め。

 ……間違えた、お父さまめ!


「残念ですが、それは無理です。召喚魔法陣は神殿ごと破壊されましたので」


 この世界と冥界を繋ぐのは、召喚魔法陣だけです。それが失われた以上、邪神竜さまを力づくで還す方法はありません。

 それなのに、お父さまは譲りません。何かを決心したかのような目で私を見ました。


「邪神竜は創造神の対となる超常的な存在だ。魔法陣などなくとも、冥界に還る方法を持っているはずだ。それにエリン、お前も聖女ならば、あの男に思うことがあるだろう?」

「あんなに格好いいのに、アップルパイがお好きなんですよ。可愛い方ですよね」

「違う、そうじゃない!」


 お父さまが、オーガのような顔で喚いています。そのお顔の恐ろしさと言ったら、脳内邪神竜さまの麗しさが引き立ちますね。

 やれやれ、仕方のない妻だ。脳内邪神竜さまに頭を撫で撫でしてもらっていると、オーガから人間に戻ったお父さまが重々しいため息を吐きました。


「よいかエリン、しっかり聞け。聖女は創造神の遣いであり、人を救うために存在する。どれだけの脅威が目の前にあろうとも、その身を賭して悪を打ち払うべきだ」

「あ、あなた……それは、まさか」

「安心せよ。お前の兄弟たちは健やかに育っているし、聡明だ。聖女としての役目を果たしたお前を誇り、ルヴェマリアを守り強く生きていくだろう」


 お母さまが口元を手で押さえ、泣きそうなお顔でお父さまを見ています。でもお母さまはそれ以上、口を挟むことはしませんでした。

 お父さまの言いたいことは、わかります。つまり、命を捧げてでも邪神竜さまを冥界に還らせろと言いたいのでしょう。

 聖女の義務をかざされれば、何も言えません。国王として、情を削ぎ落とした冷酷な目に耐えられず、私は逃げ出すしかありませんでした。

 向かう先は、邪神竜さまが囚われる地下牢。


「邪神竜さま!」

「おお、エリン。やっと来たか、待ちくたびれたぞ」

「邪神竜さま、ずっとお会いしたかったです……なんか、思っていた以上にくつろいでいらっしゃいますね」


 地下にある牢屋は、薄暗くてかび臭くて息が詰まる場所……だった筈なのですが。


「髪や肌がべたつくと不快だし、床に何も敷かずに座ると腰が痛くて耐えられんからな」


 邪神竜さまはふかふかのソファに深く腰掛け、長い足をゆるりと組み、本を片手に優雅に紅茶を飲んでいます。

 魔法を使っているのでしょうか。空気が絶えず循環しているおかげで、ここが地下だということすら忘れてしまいそうです。

 さらりと髪を払って、邪神竜さまが不機嫌そうに見張りの兵士を見ました。


「おい見張り、茶が無くなったぞ。エリンのものと一緒に待って来い、急げよ」

「は、はいぃ!」


 兵士さんがドタバタと走り去って行きました。邪神竜さまは牢屋の中だというのに、完全に支配者です。囚われている、という自覚は無いのでしょう。

 本気を出せば簡単に脱獄できるので、囚われて頂いていると言うべきなのでしょうが。

 ……邪神竜さまは、こんなにもお優しいのに。


「……どうした、エリン。何か、怖いことがあったのか」


 いつの間にか邪神竜さまがカップを置いてソファから立ち上がり、私の前まで歩み寄ってくれました。そして格子の隙間から手を伸ばし、私の目元をそっと撫でます。

 いつの間にか泣いてしまっていたようです。


「邪神竜さま、私……」


 温かい手に促され、これまでのことを全て話しました。邪神竜さまに冥界へ還ってもらうこと、そのためならば手段を選ばないということ。

 意外にも、邪険に扱われていることに関して邪神竜さまが機嫌を損ねることはありませんでした。


「ふむ、そうか。泣かなくてもいいぞ、エリン。お前の父が言うように、我は自由に冥界を行き来することが出来る。お前が望むなら、いつでも還ろう」

「で、でも。私たちは、あなたに何もお礼をしていないのですよ? それどころか、恩を仇で返す真似をしようとしているのに」


 みっともなく涙声で訴えるも、邪神竜さまは優しく笑ってくれました。


「お礼と言われてもな……人間の金や地位を貰っても、我にはどうしようもないぞ」

「それは……確かに、そうなのかもしれませんが。それなら、私はあなたに何をお返しすればよいのでしょう」


 富や名声が無意味なら、どうすれば彼に恩を返すことが出来るのでしょう。

 何も返すことが出来ないなら、私もお父さまと一緒です。泣きたくもないのに溢れてくる涙に、自分の弱さを思い知らされます。


「お返しか……元々、我は創造神の対として発生した悪意の化身だ。ゆえに我が望みは創造神を滅ぼし、この世界の全てを破壊することのみ。だが、それも飽きた。疲れたと言ってもいい。だからこそ、エリンの呼び声が聞こえたのかもしれん」

「私の、声が」

「争いを終わりにしたい。多少の邪念があったとはいえ、お前の思いはとても強いものだった。そして、我が願うものでもあった。我が敗北するという腹立たしい結果ではあるが、お前が傍に居てくれるのならば、辛酸を舐めるのも悪くない」


 邪神竜さまの指に、私の指が絡め取られます。囁かれる声と温かさに、私の強張った心が溶かされていきます。


「我が望むのはエリン、お前だけだ。お前が傍に居てくれるなら、他に何もいらない」

「邪神竜さま……」


 この人の言葉はひたすらに真っ直ぐで、底抜けに甘い。全てを包み込むほどの優しさに、迷う必要などなかったのだと知りました。


「……と、お前の愛読書である『姫と騎士の恋物語〜許されざる愛〜』を参考に口説いてみたが、どうだろうか。少しは響いたか?」

「だろうと思いました! 先ほど読んでいたのは私の愛読書だったんですね! 恥ずかしいのでやめてくださいっ」

「ふはは! 今のうちにお前の趣味嗜好を知っておこうと思ってな」


 空いている方の手で持っていた本を、どこかへとしまい込んでしまいます。

 またあとで読む気なのでしょうか、恥ずかしいので止めて欲しいのですが!

 でも、おかけで涙はすっかり止まりました。気持ちもすっきりして、心も決まりました。


「どうだ、エリン。我と一緒に、冥界に来てくれるか?」

「もちろんです。邪神竜さま、私はあなたをお慕いしております」

「そうか。嫌だと言われたらどうしようかと悩んでいたが、杞憂だったようだな」


 邪神竜さまの手を握り返します。こうやって触れ合っているだけでも、幸せで溶けてしまいそう。

 彼と一緒ならどこへでも、それこそ冥界だろうとついて行きます。もう二度と、迷うことはないでしょう。


「あー……ただ、困ったな」


 今度は邪神竜さまが表情を曇らせます。


「冥界には何も無いからな……きっと、お前を退屈させてしまう」

「そうなんですか?」

「あそこは我の巣でしかないからな。せめて、リンゴの種でもあれば、お前にアップルパイを作ってもらえるのに」


 しゅん、と肩を落とす邪神竜さま。そんなに気に入ってくれたのは嬉しいのですが。


「邪神竜さま、リンゴだけではアップルパイは作れませんよ」

「そうなのか?」

「ええ。他にもバターと卵、あとは小麦粉も必要です。もちろん道具も」

「うぐ。バターと卵というのは、確か動物が産み出すものだったな。小麦は植物だったか。まいったな、冥界には本当に何もない」

「思ったんですけど、地上のものを持ち込むことって可能なんですか?」

「不可能ではない。だが、植物ならまだしも動物は餌や飼育場などが必要だろう? 模倣するにも、一度この目で見ないと難しいな」


 確かに、種や苗を持ち込めても、土や水がなければ育てることは無理です。家畜も邪神竜さまの言うとおり、設備や知識がなければ難しいでしょう。

 ……それなら、


「邪神竜さま、私と婚前旅行に行きましょう!」

「婚前旅行?」

「そうです。冥界へ帰る前に色々な街や村へ行って、色々なものを見て、たくさんお買い物をしましょう。冥界でもアップルパイが作れるように準備するのです!」


 それは、私が何よりも望んでいたことでした。色々な町や村を旅して、ダンジョンを冒険して。海を渡って、山にも登ってみたいです。

 邪神竜さまとなら、絶対に素敵な旅が出来るに違いありません!


「婚前旅行か、いいな。行こう! いつ行く、明日か?」

「今すぐ行きましょう! 私、権力を振りかざして鍵を奪ってきますね!」

「いや、それに及ばん。エリン、離れていろ」


 邪神竜さまから手を離し、脇に避けます。次の瞬間、物凄い勢いで牢屋の扉が吹っ飛びました。

 金属の格子が、足元で嘘のように粉々になっています。邪神竜さまの牢屋だけ飴細工で出来てるのかしら、と疑ってしまいます。


「では行こうか。このまま外に行けばいいか?」

「そうですね。とりあえず、私がご案内しますので」

「なんだ今の音は……う、うわあああ!? 邪神竜が牢屋から逃げ出したぞ!!」


 悲鳴に振り向くと、ティーセットを手に戻ってきた見張り番が尻餅をついてガタガタと震えいます。

 城内に響き渡る悲鳴に、兵士や使用人たちが集まってきます。わらわらと集まってくる人間たちに、邪神竜さまが目を細めます。


「鬱陶しいな……よし、殲滅するか」

「だ、駄目です邪神竜さま!」


 瞬く間に剣を抜いた邪神竜さまを、腕にしがみついて止めます。

 気持ちはわからなくないのですが、ここで手にかければ彼が無用な罪に問われてしまいます。

 牢屋を破壊したことに関してはもう手遅れだけど、そこは邪神竜さまを投獄した件で帳消しにしてもらうからいいでしょう。

 ここは地下牢。出入り口は限られている上、集まってきた人達で塞がれてしまっています。彼らを押し退けて行くのは不可能です。力づく、はお城が神殿の二の舞になるのが見え見えなので論外です。

 なので、方法は一つしかありません。


「邪神竜さま、魔王城へ行った時のように、転移魔法でお城の……いえ、城下の外へ出られませんか?」

「出来なくはないが、我はこの辺りの地理に詳しくない。勘で転移してもいいが、運が悪いと魔物の巣や屋根の上や見ず知らずの他人の家の風呂に降り立つかもしれんぞ」

「構いません、どこへでもお供します!」


 紫色の魔法陣が浮かび上がり、転移が始まります。最初は気持ちが悪いと感じた浮遊感にも、だいぶ慣れました。

 皆が遠くなり、視界が完全に閉ざされる寸前。お父さまとお母さまが、私の名前を呼んでいたような気がしましたが。確かめるつもりは毛頭ありませんでした。

 視界がすぐに開けます。明るくなり始めた空が見えるということは、無事に外へ出られたということです。

 ……ただ、


「きゃああ!?」

「エリン!」


 魔王城へ行った時とは違い、地面が遠かったのです。咄嗟に受け身を取ろうとするも、それよりも先に邪神竜さまの腕に抱えて頂き事なきを得ました。

 地面に激突することは避けられたけれど、代わりに色とりどりの花弁が舞い上がります。


「大丈夫か? すまない、やはり転移は勘でやるものではないな」

「はい……えへへ、でも無事に外へ出られましたね。知らない人のお風呂へお邪魔することにならなくてよかったです」


 邪神竜さまの腕から降りて、辺りを見回します。見渡す限りのお花畑に、一瞬天国かと思いました。

 景色的に紛らわしいのですが、ここはルヴェマリアの城下と、次の街の中間にある丘です。

 魔物も少なく、旅のスタート地点としてはぴったりでしょう。甘くて柔らかい空気をたっぷり吸い込みます。


「エリン、これからどうする?」

「とりあえず、次の街に向かいましょう。大きな街なので、旅の準備はバッチリ出来る筈です」

「そうか。お前が言うなら、そうしよう」

「はい! あ、邪神竜さまはどこか行きたい場所は……」


 言いかけて、ハッとしました。今更ですが、とても大事なことに気がついたのです。

 どうして、こんな大切なことに今まで気が付かなかったのでしょう!


「あ、あの……邪神竜さま、ごめんなさい。私、まだ邪神竜さまのお名前を聞いていませんでした。今更ですが、教えて頂けますか?」


 おずおずと、邪神竜さまのお顔を見上げます。こんなにも助けて頂いておいて、お名前を知らないだなんて!

 しかし、さらなる衝撃が私に伸し掛かります。


「名前? 我に名前などないぞ」

「え、名前がないって……ど、どういうことですか?」

「名前とは、集団の中で個を区別するための記号であろう。我は邪神竜、この世界に唯一の存在だから、必要ないのだ」

「な、なるほど」


 確かに、邪神竜さまの言うことは間違っていないとは思います。

 ……でも、


「それってなんだか、寂しいですね。私は聖女や王女と呼ばれるよりも、エリンという名前で呼んで頂いた方が嬉しいです」

「そういうものか?」

「はい。確かに、個人を区別するための記号かもしれませんが……大切な人に名前を呼んで貰えるだけで、心がぽかぽかするのです」


 だから、私もこの嬉しい気持ちを差し上げたい。

 彼の手を取り、両手で包み込むようにして握り締めます。


「邪神竜さま。これからは『ホシカゲさま』とお呼びしてもいいですか?」

「ホシカゲ?」

「はい! 最初にお会いした時から思っていたのです。あなたの瞳はまるで、旅人を導くお星さまのように明るく、綺麗だなって」


 いえ、違いますね。私にとって彼は、お星さまそのものです。

 神殿を破壊し、私を聖女や王女という檻から引っ張り出して、導いてくれたのですから。


「ホシカゲ……ふっ、我に名を与える人間が居るとはな」

「い、いやですか?」

「そうではない。驚いただけだ」


 ホシカゲさまが、手を握り返してくれます。


「それに、なんというか……確かに、名前を呼ばれるというのは、嬉しいものだな」


 頬が少し赤くなっているのは、朝焼けのせいでしょうか。思わず、笑みがから零れます。

 彼が喜んでくれた。それが私にとって、何よりも嬉しいのです。


「では行こう、エリン」

「はい、ホシカゲさま!」


 手を繋いで、私たち二人は歩き出します。聖女と邪神竜という、一つも共通点のない二人だけれど、だからこそ何でも出来てしまいそうな気がしてきました。

 これが幸せいっぱいな婚前旅行の、記念すべき始まりとなったのです!




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