破:しょうけらの謀る夜半 (Ⅰ)
破:しょうけらの謀る夜半
(Ⅰ)
どろりと淀んだ灰色の雲を映して、海は黒々と波打っている。雪の降りしきりる海辺は、凍える程寒かった。
結子はぶるぶると震える体に熱を入れるべく、小さな影を追って必死に砂浜を駆けている。結子の前を細かく走るのは、傘を頭から被ったような見た目の下駄履きの子供。凍えそうな海風も、素足にかかる波しぶきも気にせず、歓声をあげている。
「待って、雨降りくん待って、」
子供の歓声に対して、結子は息も絶え絶えにそんな事を叫んでいる。
「お姉さん、鬼ごっこって楽しいね!」
「ちょっと、休憩。私止まるからね、止まるよ!」
ひとしきり走って、結子は立ち止まった。膝に手をついて息を整える。呼吸も苦しいが、膝が震えそうになった事で彼女は自分の年齢を感じた。頬を一筋だけ、つうと汗が伝う。折角温まってきた身体も、すぐに寒さに呑まれてしまった。
下を向いたままの結子の視界に、ずっと先を走っていたはずの下駄履きの素足がにゅっと現れる。
「お姉さん、もう疲れちゃったの?」
顔を上げると、不服そうな顔の雨降り小僧と目が合った。
「雨降りくんは今日も元気だね…」
「お姉さんが昨日もおれと遊んだって話し、本当なの?」
「うん、本当だよ。あ、今日の私はちょっと本調子じゃないけど、昨日は私の足が速すぎて雨降りくんがずーっと鬼だったんだよ!」
「そんなの嘘だよ!お姉さん足遅いもん、」
「あー、女の子をいじめちゃいけないんだー」
「悔しかったら追いついてみーだ!」
雨降り小僧は、結子に向かってベロを出すと再び走り出した。下駄に蹴飛ばされた砂が結子にふりかかる。袴についた砂も払わないままに、結子は再び駆けだした。
雨降り小僧は、海辺に暮らしている、ある妖怪のもとで召し使われている侍童であった。頭から傘を被った子供のような見た目をして、濃紺の絣の着物を着ている。素のままの足には二本歯の高下駄をつっかけて、常に冬の終わりのこの町にあっても無邪気に駆け回る。
雨降りの主人は、浜久里の懇意にする妖怪であった。海辺の家への使いを度々頼まれた結子は、すぐにその子供の妖怪とも仲良くなった。
「良かったら、雨降りと遊んであげてください。彼の相手はなかなか骨が折れますが。多少帰りが遅くなることは私から浜久里御大に伝えておきましょう。」
雨降りの主人からそんな風に頼まれて、結子は喜んだ。その日から、結子は雨降りの遊び相手になった。
「ねえ、お姉さん。おれと昨日も遊んだって本当?」
海辺の岩に並んで腰掛けながら、雨降りは結子に尋ねた。
「うん。本当だよ。昨日も一昨日もその前も!」
「本当かなあ、昨日の事を考えるとなんだか頭の中がむずむずするんだよ。お姉さんと、仲良しなのは分かってるんだ。一緒に遊んだ気もする。でも、昨日一緒に遊んだのは、うーん、なんだかよく分からないや。」
雨降りの怪訝な顔を見るのも、結子にとっては日課になっていた。
「雨降りくんは走るのが好きだって、私知ってたでしょう?」
「うん。おれは鬼ごっこが好きなんだ。でもこの辺の大人達は鬼ごっこはやらないんだ。」
「初めて遊んだ日に、雨降りくんが教えてくれたんだよ。」
「そうなのかあ」
「雨降りくん、今日は楽しかった?」
「うん、楽しかった。お姉さんの足遅かったけど!」
「ひどいなあ、…じゃあ、今日はそろそろ帰ろうか。」
身体が凍えつつある結子は、そろそろ切り上げようと立ちあがった。
「お姉さんは帰っちゃうのかあ」
雨降りは、露骨に寂しそうな声を出した。
「明日も…来るよ」
彼に明日がない事を思って、彼女の声は自然暗くなる。騙しているような気持ちがした。
「約束だよ、お姉さん。明日も一緒に鬼ごっこする」
「うん、約束。」
明日にも、結子はまたここへ来るだろう。きっと来る、彼女はそう誓っている。それでも約束が果たされる事はない。明日会う雨降り小僧には今日の記憶はない。同じ雨降り小僧に彼女は明日も会う。明日も会うけれど、その雨降り小僧は今日と同じであるが故に、別人でもあるのだ。
この世界は、そうやって回っていた。
「もしね…もし、雨降りくんが忘れちゃってたら、またお姉さんが今日のことを教えてあげる。」
「そっか…うん、それなら安心だ。お姉さん忘れないでね。おれは鬼ごっこが好きだ!」
分かっているのか、分かっていないのか、何を分かるというのか、雨降りの感覚は結子には分からない。それでも、明るい表情になった雨降り小僧を連れて、結子は海辺の家へと歩き始めた。
海岸の東の端にある岩場から、西の端にある家へと歩く。途中、町の中心を通る石段が右手に広がる。結子は歩きながら、なんとはなしにそちらに視線を向けた。真っ直ぐに浜久里邸の大鳥居までつうっと石段が続いている。
しかし、彼女の目は石段の中腹辺り、ある一点に吸い付けられた。見覚えのある山伏姿が、着物の女性と並んで歩いている。
(天狗さんだ…)
石段を女と並んで歩く天狗は、麓の海辺から見つめる結子には気づかないままに女と連れだって脇道へと消えて行った。
結子が、この町で天狗を見かけるのは稀だった。彼女は、天狗が昼間何をしているのか、その時にはまるで知らなかった。浜久里に重用されているらしい事は知っていたからこそ、気を遣って尋ねずにいた節もあった。それが今裏目に出ていた。
ちらと見かけた天狗に彼女が拘った事には、隣りを歩いていた女が大きかった。脇道に曲がる際、かすかに見えたその顔は人間のそれであった。この町に住む妖怪には、確かに人にほぼ近い見た目を持つ者は多い。女人の姿となれば尚のことだ。しかし、何故か結子にはその女が「人間だ」と思われて仕方がなかった。言うなればそれは、女の勘であった。
一瞬の内にそんな事を考えた後、ふっと結子の頭に浮かんだのは昨日の夜、天狗と交わした約束であった。
───「ねえ、結子さん。人の世もなかなか面白いよね。」
天狗は結子の部屋のソファに腰掛けて、バラエティ番組を真剣に見ている。
「最近の人は、昔ほどテレビを見ないんですよ。」
結子はベッドに一人寝転がって、タオルケットにくるまりながら、天狗とテレビとを同時に視界に収めていた。
「そうなのか。この番組面白いけどなあ。」
「テレビだけじゃなくて、色んな方法で色んなものが見られるんです。」
「すごいね、現代人。」
「そういえば天狗さん、テレビを初めて見たときには驚きませんでしたよね。でも、YouTubeとかは知らないんだ。」
天狗は心外だという顔つきで背後に寝ている結子を見た。
「馬鹿にしないで欲しいなあ。僕は少し離れたところから君たち人間を観察しているんだ。こうやってじっくり見られる事はあんまりなかったけどね。」
言い終わって再びテレビに視線を戻す。彼は映像を見るのが好きだった。
「そういえば、天狗さんって何歳なんですか?テレビも電話もないような時代の話とか、ちょっと聞いてみたいかも。」
結子は、ちょっとした世間話の体を装った。
「ううん、それがね。分からないんだ。」
「分からない、?」
「そう、僕が生まれてどれくらい経っているかとか、昔のこととかね。」
天狗はそれきり黙った。結子は少しだけ、彼の背中が小さくなったように感じた。「それは、あの町のせいですか?」という言葉を、発していいものか悪いものか、踏み込むか否か、迷っている間に、嫌な沈黙が出来上がった。
「あ、結子さん見て」
「なんですか?」
突然の呼びかけに、反射的にそう答えた。天狗に促されて視線を移した画面には、明日の番組のCMが流れていた。白い龍と、朱塗りの建物、赤い服を着た少女。綺麗なアニメーションが画面の中で踊る。
「これじゃない?ほら、画面の右上に『千と千尋の神隠し』って書いてある。」
“これ”がどれだか分からず結子は呆け面だ。
「あの、前に初めて浜久里さんの所に行ったときにさ。結子さんが一緒に見ようって言ってた映画。」
「あ…そう、そうです!天狗さん、よく覚えてましたね。」
自分で言って自分で忘れていたこと、何気ない約束を天狗が覚えていたこと、彼女が赤面する理由はそれで十分だった。会話を再開させてくれた映画に、彼女は心の内で感謝した。
「明日の夜中1時からだって。結子さん、明後日はお休みだったよね?」
「はい、明日はお休みです。」
「じゃあ、一緒に見ようよ。結子さんが教えてくれた映画、僕も見たいな。」───
「ねえ、お姉さん、なんで止まってんの!」
先を歩く雨降りの声で、結子は我に返った。
「ううん、ごめん。なんでもないよ!行こう」
雨降りを追って、彼女は走り出す。頭の中にはまだ先程見かけたばかりの女と連れだって歩く天狗の姿がこびりついている。思い出す度に、彼ら二人の間は近づいて行くような気がした。
折角、憧れの男と二人、のんびり映画を見て過ごす夜が控えているというのに、とも思った。しかしそれ以上に、良いことがある時には嫌なことも起こるものだと、そんな迷信めいた事が彼女には感じられたのであった。
気がつけば、結子は雨降りの仕える主人の小屋まで辿り着いていた。屋内に入って風と雪から解放された途端、強ばっていた肩がすとんと落ちた事で、自分が寒さを忘れていた事に気がついた。
「お姉さん、暖炉見てて」
ほっと一息つこうとする結子に対して、雨降りはテキパキと働く。主人の帰りが近いのだろう。結子は言われるがままに、壁に設えてある暖炉に小枝を折っては入れ折っては入れした。
町の中でも外れの方、極めて海に近い麓に建っているこの家は、見た目には町中の他の家と変わらない。だが、内装は寒さに耐えられるよう特殊な作りになっていた。
先ず雨降りは、主人が帰宅した時に羽織るガウンのような厚手の綿入れと、分厚いスリッパのような履き物を玄関先に揃えて置いた。そのままの足で台所に行くと、薬缶のような容器に水を満たして、暖炉の方へやって来る。
「これ、お湯湧かす。」
結子にそれだけ言って薬缶を手渡すと、彼は再び台所に戻る。
結子の方は、暖炉の灰に突き刺さって立っている背の高い五徳のようなものに薬缶を載せた。沸騰した薬缶を暖炉から抜き取る時に、持ち手にひっかける火掻き棒を掴んで、手持ちぶさたに任せ、火を突きながら待つ。
茶葉を入れた急須と、三つの湯飲みを盆に載せて雨降りは戻ってきた。それを机に並べたら、小さな働き者もやっと一息つく気になったらしい。結子の隣へ、火に当たりに来た。結子は、雨降りの頭の傘に乗った雪を払ってやった。子供扱いは不服らしく、雨降りはむすっとしたが、別段抵抗もしなかった。
「あったかいねえ、雨降りくん。」
「うん。ご主人が帰ってくるまでに部屋が暖まって良かった。」
外では無邪気に鬼ごっこをしていたとしても、今の彼は立派に一人の侍童だった。
部屋には、木々の燃える音だけがぱちぱちと響いた。火を見るにも、結子の頭の中に浮かぶのは、先の光景である。今頃、あの女と天狗はどこにいるだろうか、どこかの家で暖まっているのだろうか。
薬缶の沸騰した音と、扉が開く音が、ほとんど同時だった。
「ただいま、雨降り。結子さんも今日はまだいらっしゃったんですね。」
扉を開けて入って来たのは、真っ黒の着流しに黒の羽織という出で立ちの男、雨降りの主人だった。
「おかえりなさい、ご主人!結子さんそれ薬缶取って。」
「おかえりなさい、しょうけらさん。はい、薬缶机に置くよ-。」
主人は、二人に微笑みを投げると、駆け寄ってくる雨降りに「大丈夫。君はお茶をお願いします。」と伝えた。
雨降りは、台所に駆けていき冷たい水で濡らした布巾を持って来た。まだ火から下ろされたばかりの焼けた薬缶の把手を、濡れ布巾でくるんで持ち、急須に湯を注ぐ。それでもやはり多少は熱いらしく、薬缶を置くと同時に離した手をぶんぶん振った。
そんな雨降りを見てニコニコしながら、主人は羽織を脱いで壁に掛けていた。脱いだ羽織には、暖炉の火のゆらめきに合わせて、肩から袖口にかけて白の斑点が浮かび上がる。不思議な模様をしていた。
彼の男は、名をしょうけらと言った。しかし、その見た目は結子の知るしょうけらとは違った。しょうけらと言えば、人家の屋根に張り付いた、真っ黒でぎょろ目、筋骨隆々の体躯を持ち、鋭い爪が恐ろしい四つ足の姿を彼女は石燕の画集で見ていた。目の前に立って着流しにガウンを羽織っている男は、年の頃は40ほどに見える紳士であった。色白に、少し縦に長い痩せた顔。唇は薄く、目も細い。目尻やほうれい線に入りだした浅い皺が、老いと言うよりむしろ可愛らしい印象を与える。髪は真っ黒で、前髪を全て後ろに撫でつけた綺麗なオールバック。物腰は柔らかく、それでいて結子や雨降りにも偉ぶりはせず少しの堅さを残したままに接してくれる。立ち姿、歩き姿、振る舞い。どこを取っても人に慕われるであろう男。傲慢に、無自覚に人に愛される天狗とは対照的、慇懃に、自らが向けた好意を以て人に愛されるような紳士。それが、結子が抱くしょうけらの印象であった。
「なんでしょう、結子さん。私に何か気になる事でもありますか?」
凝っと見つめてくる結子に対して、しょうけらはそんなに聞いた。
「いえ、ごめんなさい。なんでもないです、」
恥ずかしさで小さくなった結子の前に、湯飲みが差し出された。
「お姉さん、お茶だよ。ご主人、こちらどうぞ、外はさぞ寒かったでしょう。」
大人ぶってそんな風に言った雨降りに、結子は笑ってしまった。
「なんだよ、おれに何かおかしい事あったか?」
「だって、“外はさぞ寒かったでしょう”、なんて、さっきまで雨降りくん寒くないって散々走り回ってたから、」
結子は笑いながらそう言って、言ってからまた笑った。
「おれは寒くなかったけど、お姉さんは寒がってたし、ご主人は寒かったかもって思ったんだよ!おかしくないだろ!」
雨降りは恥ずかしかったらしい。慌てて怒ったように言った。
「おや、雨降り。それは、私と“お姉さん”がもう若くないから、ということかな?」
「そんなことないです、ご主人様もお姉さんもまだまだお若いに決まってます…」
しょうけらの悪戯に、雨降りの返答は消え入りそうになった。
いじらしい様子の雨降りを結子が笑うと、しょうけらも笑った。笑っているしょうけらは、上品な老紳士そのもので、妖怪とは思えない親しみがある。そんなしょうけらを見て、結子は一つ尋ねてみる気になった。
「そういえばしょうけらさん。しょうけらさんは、どうしてヒトの姿の姿なんですか?妖術か何かなんでしょうか?」
結子には彼女の質問に、しょうけらが一瞬たじろいだように見えた。あまりに出し抜けだっただろうか、と思った。それでも紳士は、すぐに穏やかな顔を取り戻し、落ち着いた動作で湯飲みを掴みながら答える。
「ふふふ、これはまたどうして?」
「突然すみません…。今日たまたま人間の女性にしか見えない人?を町で見かけて。勿論、妖怪の皆さんには見た目が人間そっくりな方もいらっしゃいますけど…、今しょうけらさんを見ていたら、もしかして見た目を自由に変えられる方も多いのかなって思ったんです。」
しょうけらはお茶を一口飲んだ。そして元々大きくはない目を細めて、凝っと結子を見つめた。結子は何かを見定められているような気になった。紳士は彼女を見つめたまま、少しずつ口角を上げていき、やっと口を開いた。
「ふふ、結子さん。あなたは今日、人の女性を見たと仰った。…どうでしょう、あなたの関心が向いているのは、女性というよりもむしろ、女性の隣りにいた色男ではないですか?」
「え、もしかしてしょうけらさんも見かけましたか?」
「いやいや、あてずっぽうに言ってみただけです。強いて言えば、あなたの顔に書いてあった、とでもしましょうか。その反応からして、外れてはいなかったみたいですね。」
結子は赤面した。天狗は彼女の返答を待たずに続ける。
「じゃあ、良いことを教えてあげましょう。あの色男の事が知りたいのなら、先ずはあなたの同僚に尋ねてみなさい。倩兮女なんかに聞けばきっと教えてくれますよ。」
「ご主人とお姉さんはさっきから何の話をしてるんだ?」
いい子に黙っていた雨降りが、そっと口を挟んだ。すかさずしょうけらが、「君にはまだ早いよ。」と遮る。声色こそ柔らかく笑いを含んでいるが、その目が一瞬だけ恐ろしく光った。雨降りはきっと口を結ぶ。すっかり上の空の結子は、そんな主従の一幕を見なかった。
「ケラさんかあ…、聞いてみます。ありがとうございます、しょうけらさん!」
「ふふ、恋心なんておじさんにはもう久しくありませんけれど、若者のそれを見ていると楽しい気分になります。また面白い事があったら聞かせてください。」
「恋心なんて、それは言い過ぎですよ。それに私そんなに若くもないので…」
「ほら、自信を持って下さい。どうか、ご自分の心に正直に」
「そうですね、…頑張ります!」
結子は小さくガッツポーズすらして見せた。しょうけらという男の器が、彼女のその子供らしい仕草に表れていた。
「じゃあ、今日は帰ります。そろそろ浜久里さんの夕飯の買い出しの時間です。」
「そうですね。長く引き留めてしまいました。楽しかったですよ、ありがとう。ほら、雨降りもきちんお礼をなさい。」
雨降りは先程しょうけらに制されて以来ずっといい子に固まっていた。やっと発言の許可を与えられたのが嬉しかったのだろうか、机に身を乗り出した。
「お姉さん、ありがとう!明日もおれと一緒に鬼ごっこしような!」
「うん、約束ね。明日もきっと来るよ。」
「雨降りの遊び相手も、いつも有り難うございます。」
微笑むしょうけらと、少し寂しそうな雨降りに、笑顔を返しながら、結子はほんの少しの痛みを感じていた。“明日も”の言葉が彼女の心に棘を立てていた。
丁度そのタイミングで、町中に「結子、結子はどこか。」と浜久里氏の声が響いた。浜久里の声は、彼の意志次第で町中どこまででも届いた。
「丁度呼ばれたので、急いで帰りますね!じゃあ、また明日。」
微笑みながらも、逃げるような気分を抱えて、彼女はしょうけらの家を出た。
半纏の胸元をぎゅっと引き締めて、一度だけ身震いすると雪の降る町を頂上の浜久里邸めがけて駆けだした。
結子が帰って行って、家には主従の二人が残された。
「雨降り。今日も楽しかったかい?」
「はい!お姉さんは良い人です。ちょっと足が遅いのと、すぐ疲れちゃうところがありますけど、人間なので、仕方ないと思います。」
「ふふふ、そうだね。…明日も約束したみたいだね。」
「はい。明日も一緒に鬼ごっこします。おれは約束を忘れちゃうらしいけど…」
「大丈夫さ。約束は、お姉さんと私が代わりに覚えておきます。さあ、雨降り夕餉の支度をお願いしますね。」
「ご主人はどうして忘れないんですか?おれも覚えておきたいです。」
「ふふ、私は特別なんですよ。雨降りも大人になったら覚えておく方法を教えてあげましょう。」
しょうけらは無感情にそう言った。
「大人かぁ…、あ、ごめんなさい。今日の夕飯には魚があります。すぐに支度します」
雨降りはぺこりと頭を下げると、台所へ消えて行った。
部屋にはしょうけらが一人残された。暖炉の火が、彼の男の底意地の悪い笑みをチラチラと照らしていた。
***
「タカさん、はい。今日のなんとか鍋の具材。イノシシ肉と白菜、ネギ、春菊にゴボウ」
「狢さんは元気だった?」
「うん、今日も尻尾しまってたよ。」
「あの人も、この町だったら隠さなくていいのにねえ。」
高女は、アハハハと笑った。
「じゃあ、出来上がったら呼んでねー、浜久里さんとこ持って行くから。」
「はいよ、ありがとう。あとイノシシの鍋は牡丹鍋さね、覚えておきな」
「はーい。」
結子は、高女のいる炊事場を出ると、自室に向かった。
今日の浜久里氏はイノシシが食べたいと言い出した。高女に聞いてみると、「苧うにの店」に行けばあるかもしれないと言う。言われた通りの店に行ってみれば、鬼女のような風体で、自身を「俺」と言う婆さんが一人でせっせと肉を売っていた。この小さな町でよくもまあこれだけの食材が揃うものだ、そんな事を結子は考えた。事実、今日までの間に浜久里が食べたいと言ったもので売っていないものはなかった。苧うには、口の荒い粗暴な老婆でこそあったが、特に困る事もないままに、結子は無事イノシシの肉を手に入れた。山の野菜は狢が売ってくれた。
部屋に戻って、半纏を脱いだ結子は腰を落ち着ける事もしないまま、再度部屋を出た。足早に向かう先は、倩兮女の部屋である。どうせ高女、倩兮女とは夕食を共にするため、大人しく待っていれば彼女は倩兮女に会えはした。しかし、夕飯までの数十分すら今の彼女には大人しく待っていられなかった。
倩兮女は、初めて会った時の印象から大きく外れることはなく、やっぱり棘々しい物言いの、性格のきつい女ではあった。それでも、結子は割に彼女を慕っている。高女がこの家の炊事を仕切っているように、倩兮女はこの家の掃除の全般を一人で担っていた。広さの割に、暮らす人間が少ないために、念入りに掃除をしなくてはならない場所はそう多くはない。多くはないが、廊下だけ拭くにしたってやっぱり広い屋敷である。倩兮女はその存在こそ妖怪であるが、身体的には人の女である結子とそう変わらない上に、別段特殊な力を持つでもない。ただ、熟練した掃除の技術と、几帳面で効率的な性格に拠って屋敷の清潔を保っている。結子は働く彼女の姿勢を見るにつけて、尊敬に近い感情をも抱くようになっていた。
未だに倩兮女は結子に嫌そうな顔を向けるが、それでも懐いてくる彼女を邪険にはしない程度の関係にはなっていた。
「やっぱりまだ部屋にはいないか。」
倩兮女の部屋は、空だった。となれば、まだ倩兮女は働いているはず。結子は彼女が夕食前に掃除をしている場所を思い出そうと記憶を探った。確か…、
「あ、」
夕食の用意が出来ると高女は自分と倩兮女を呼ぶ。呼ばれて返事をする倩兮女の声が、結子の耳に残っていた。という事は、夕食前は伽藍の入り口あたり、炊事場からそう遠くない場所にいるはず。ふわふわとした推理を元に、結子は元来た道を戻り始めた。
ヒタヒタと足袋の音を響かせて、板張りの廊下を歩く。結子には倩兮女が磨き上げた床が、自分の足跡の形に曇っていくような気がされた。子供の頃に、大人に甘えて一寸した悪戯を働いたような、そんな気分の高揚が伴われた。
伽藍の中心を縦に真っ直ぐ走る廊下を炊事場まで戻り、足の動く感覚に任せて右に折れる。伽藍の周囲を一周する入側縁を進み、再び右に折れたところで、倩兮女は見つかった。彼女は結子に背を向ける形で廊下にしゃがみ込んでいた。
「ケラさんいた!」
倩兮女は結子の声に反応して、しゃがんだまま首を捻ってうしろを向いた。
「なんだイ?」
露骨に面倒くさそうな顔を浮かべている。
「あのー、ちょっとお願いがあって。」
「浜久里さんから?」
「いえ、違います。私からなんですけど、ちょっとケラさんに聞きたいことがあって…」
倩兮女は、受けるとも断るともなく首を戻すと床を拭き始めた。結子は、いざという段になって急に恥ずかしくなってしまった。
「…あんた、黙ってるならちょっと手伝いなヨ」
「あ、はい!勿論です。」
もじもじと黙っていた結子に、倩兮女の命が飛ぶ。気恥ずかしい気分で立ちっぱなしだった結子はむしろほっとした。
「床を拭くときは後ろに下がるようにネ。腰を入れて雑巾に体重を載せて綺麗に仕上げるんだヨ。」
そう言って結子に雑巾を渡し続きを任せると、倩兮女は立ちあがって伸びをした。
「ケラさんって、いつもこの屋敷全部一人で掃除してるんですか?」
「まあ、そうさネ。流石に毎日毎日全部綺麗にしてるわけじゃあないケド」
「すごいです。広いお屋敷ですもん、さっき歩いた廊下もピカピカでしたよ。」
「本当は金持ちの男でも捕まえて、掃除婦でも雇うのがあたし向きだケド。まあ、この屋敷の掃除はあたしじゃないと務まらないだろうからネ」
「プロですね、本当に。私じゃ絶対無理です。」
「あんたはもうちょっとしっかりしないとダメサ。あたしみたいな器量好しは金持ちを捕まえればそれでいいケド。あんたはそうさネ、醜いほどじゃあないが地味でどこにでもいる女だもの。嫁修行でもしておかないと、貰い手も見つからないヨ。今も十分売れ残りだしネェ。」
倩兮女はすらすらと、明け透けにそんな事を言った。彼女の物言いにも慣れてきている結子ではあったが、今回ばかりは「あはは」と笑って濁してしまった。
「そこ雑巾まがってるヨ。斜めになると拭き残しが出来ちまうから気をつけナ」
「はい!」
指示をされて働く分には気が楽だった。彼女は目の前の作業に救われると共に、少しずつそちらに意識を持っていかれ始めていた。そして、そんな結子の心を読んだかのように倩兮女が再び口を開く。
「…で、あんた。頼みってのはなにサ。あたしは別に、あんたがこのまま雑巾がけを代わってくれるってんならそれでも構わないケド、何か聞きたくて来たんだろう?」
「ええと、実は…、天狗さんのことなんです。」
「それ、あたしがあの男のこと嫌いだって知ってて聞いてるんだろうネ?」
結子は、自身の背中に向けられている視線がきつくなったのを感じた。
「今日、しょうけらさんから、ケラさんに相談してみたらどうかと勧められたんです、」
「しょうけら、ネェ。あんたは本当に男を見る目のない女だヨ。あんたの周りはろくでもない奴ばっかりサ。」
「え、しょうけらさんもそんな感じなんですか?」
「どうだろうかネェ、あたしでもまだ尻尾が掴めないやり手サ。でもきっと嫌な男だヨ。あたしの勘は女の中でも特別製だからネ!」
「そうかあ、ケラさんはしょうけらさんも天狗さんもダメなのかあ、」
結子はすっかり気落ちしてしまった。倩兮女が天狗の名前にいい顔をしない事は想定済みであったが、しょうけらからの紹介といえば何とかなるのではないかと踏んでいた。根拠の方は、倩兮女を薦めたしょうけらの口調に、なんとなく親しみが込められているような気がした、なんてその程度のものではあったが。
「…まあ、いいサ。あんたも、天狗についてもっとよく知った方がいいってのはあたしも賛成サ。あんたの手に負えるような男じゃないって次期に気づくだろうよ。」
倩兮女は、すっかり肩を落としてしょげている後輩が少しだけ可哀想になってきたらしかった。
「本当ですか?」
言いながら結子は肩を上げた。嬉しそうなその様子が、倩兮女をほんの少しだけ苛立たせた。
「そんなに知りたいんだネエ、あんな気味の悪い男の事。」
「ケラさんが、天狗さんの事を私よりご存じで、その上で止めてくれているのは重々承知なのですが…、どうかよろしくお願いします!」
「ケラケラケラ…、あんたそんなに元気な顔もするのカイ。ブスだネェ。ああ、そう勘違いしてるから教えてあげるケド。あたしはあの男の事はよく知らないヨ。知っていたような気もするけど、うまく思い出せなくて。この町の事じゃよくある話さネ。」
倩兮女は、意地悪い顔でそう言った。
「それは、そうかもしれませんけど、…何かあるから教えるって言ってくれたんじゃないんですか?」
「まあ、ないって事もないサ。」
わざと勿体ぶるように、倩兮女は大仰な間を取った。結子の持っている雑巾は、もうしばらくの間仕事をしていない。
「夕飯出来たわよ―。」
沈黙を破ったのは、結子の声でもなければ倩兮女の声でもなかった。甲高い呼び声は、高女のものである。
「とりあえず、夕飯が先さネ。」
「えー、教えてくれないんですか?」
「あんた、浜久里さんのとこに牡丹鍋を早く持って行かないと。あの人、飯が遅いと癇癪を起こすの、よくしってるだろうヨ?」
「はい…、でも食べたら絶対教えてくださいね!」
結子は、後ろ髪を引かれつつも一旦は引き下がった。
「分かった、分かったヨ。ほら、早く行きナ」
「あ、これどうしましょ?」
結子はまだ掴んだままの雑巾を思い出した。
「置いていけばいいヨ、早く行きナって」
「ありがとうございます、あの、お邪魔してすみませんでした…」
急に、自分が倩兮女の仕事の時間に割り込んでいった事を思い出して、結子は小さくなった。
「本当に、迷惑な小娘だよ全く。」
そう言いながら結子の置いた雑巾を拾って片付けに行く倩兮女の背中が優しく見えた。
結子は、くるりと反転すると、炊事場さらには寝殿をめがけて小走りに歩き出した。
***
「どうだ結子。イノシシはうまかったろう。」
浜久里はその日も、高い所からそんな風に言った。膳を下げるとき、その日の夕餉について感想を述べるのは、すっかり結子の日課になっている。
「イノシシ、美味しかったです。ジビエ、ああ、山の動物のお肉ってなんとなく臭い印象がったんですけど。確かに独特の臭いはありましたけど、思ってたような嫌な臭いじゃなかったし。あと、イノシシって甘いんですね。」
今では夕飯を食べながら、その日浜久里に伝える感想をまとめる癖までついていた。食材の好き嫌いに関わらず、言葉数が増えると浜久里は喜んでくれた。
「そうだろう、そうだろう。流石は田舎の娘、山の獣の味は血が覚えているのやもしれぬ。今日のイノシシはそうさな、うりぼうと呼ぶほどではないが、まだ幼い頃だったのだろうよ。大人のイノシシはもう少し、イノシシの旨味が強い。癖はあるがな。」
機嫌の良いときの浜久里は饒舌だ。
「うりぼうって聞いたら、急に可哀想な気になってきました。でも、大人のイノシシは少し美味しそうで、なんだか複雑です、今の気持ち。」
結子の言葉に、浜久里はカカカと笑った。
「人間らしい感想だ。連日イノシシとは儂の気分が乗らんが、まあ大人のイノシシもうりぼうも、いつか食わせてやろう。今日食べた牡丹鍋の味はよく覚えておけ。」
「ははあ、有り難き幸せ」
結子は少し巫山戯て額を床に着けてみたつもりだった。浜久里はただ「よいよい。」と言うのみ。こんな風に頭を垂れても意に介さない浜久里とは、自分の予想より更に高貴な方なのかもしれない。結子は今日も一つ小さな学びを得た。
「では、本日も失礼致します。」
「うむ。お前は…、明日は休みか」
「はい、明日はお休みです。」
「お前もここで暮らせばいいものを。ここはお前の欲しいモノが全て揃う夢の世界だというのに、天狗め面倒な契約をさせおって…。まあ、精々楽しい夜を過ごすと良い。」
殆ど独り言のように、浜久里はぶつぶつぼやいた。
結子には掴み所があるような、ないようなその呟きにそそられはしたが、彼女には何ぶん時間がなかった。倩兮女も待たせているし、帰ってからは天狗と映画を見る準備がしたい。後ろ髪を引かれる思いはありつつも、「おやすみなさい。」と言って彼女は寝殿を辞した。
結子はもうほとんど走るようにして、大廊下を戻った。渡り殿を過ぎ、伽藍に入ったら真っ直ぐに倩兮女の部屋を目指す。しかし、その部屋はまたしても空だった。「どこだろう…」と呟きつつ、伽藍を歩く。とりあえずは高女に聞いてみようと、炊事場へ向かった。
「ねえ、タカさーん。ケラさん知らない?」
洗い物をしていた高女に届くように、暖簾の隙間から声を張り上げた。
「んー?ケラなら部屋か、そうじゃなきゃどっかで掃除してるさね」
「だよねー。」
虱潰しに探すかと思った所で、結子の背後から「あたしならここだヨ!」と声が飛んできた、
「あ、ケラさんいた。タカさんありがと!」
声のした方に走って行ってみれば、なんてことはない。倩兮女は、先程も話した入側縁で床を拭いていた。
「あ、ケラさんまだお仕事中だったんですね、私さっき邪魔しちゃってすみません…」
「別にいいサ。それにあんたまた邪魔しに来てるンだろう?そういうときは謝罪より礼を言いナ。」
倩兮女は背後の結子には目もくれず、床を拭く手を動かしたままそう言った。
「あ、あの、先程もありがとうございました。それから、さっき途中だった話、聞いてもいいですか…」
「あの嫌な狗の話だろう?ええと、なんだっけ…。そうそう、あたしはあの男の事は、嫌な奴だって覚えてるくらいサ。細かいことはぼやけちまってとんと思い出せない。だから、あたしからも別のやつを紹介してやるヨ。」
倩兮女は振り向いた。嫌そうな顔を作ってはいるが、口元がにやついていた。
「別の方、その人は天狗さんの事をよくご存じなんですか?」
「ケラケラケラ…、まあ行けば分かるサ。あんただったら多分、その妖怪の名前を聞けばなんとなく分かっちまうだろうから。場所だけ教えてやるヨ。あとは行って確かめるのがいいサ。」
「場所、その方のお家ですね。名前を聞けば…、どなたでしょう。」
倩兮女は立ちあがって結子の目の前に立った。聞き耳をそばだてているものなどいようもない屋敷のなかで、女はその口をそっと結子の耳元に近づけた。
***
夜の町は、昼とは違った顔を見せた。
石段には点々と石灯籠が並び、雪に濡れた道をゆらゆらと照らしている。それに、火を纏った妖怪たちがまるで明かりの役割を果たすかのようにフラフラと浮遊している。口から火を噴いて歩くのは狐火、厳めしい親父の顔が叢原火、家の軒先にぶら下がってるのは釣瓶火、燃える怪鳥ふらり火、焦点の合わない眼で笑う姥が火。恐ろしい勢いで結子の脇を走り抜けていったのは火車。賑やかで華やかな夜だ。
倩兮女が教えてくれた店は、坂の割と上の方、浜久里邸からもすぐだった。少しばかり石段を下り、右側の脇道三本目で「野寺坊の店」を目印に折れる。曲がったらそのまま西へ真っ直ぐ行った突き当たり。言われた通りの場所に、明かりの点いた家があった。看板には「覚の店」の文字。覚といえば、人の心を読むと有名な妖怪である。有名な妖怪の名に胸をときめかせつつ、彼女は店の戸を開けた。
「いらっしゃい。あら、また今夜は面白い客が来たわね。一応、聞いておくけど。はじめましてで良いのかしら。ああ、良いみたいね。座んなさいよ。」
カウンター越しに艶々した野太い声が出迎えた。店に立つのは、けむくじゃらの猿めいた妖怪。身体が大きく毛深いが、肩や胸元のラインにはどこか女性的な印象も受ける。唇には鮮やかな紫色のルージュ。目には濃い色のサングラスをかけて、顎を引くようにしてそのレンズの上から結子に視線を投げている。
「こんばんは、あの、そうです。初めまして、お邪魔します…。」
彼女の想像していた覚とは少々違った様子の獣に驚きつつも、結子は席につくことにした。カウンターには5つの席が設けてあり、左から二つ目の席に大柄な着物の女、カウンターに覆い被さるようにして座っていた。もう既に酔っているらしい。結子が一つ間をとって、右から二番目の席に座ると、大女は黙ったままぎょろりと目だけを動かして彼女を一瞥した。
「あんた、何飲む?」
カウンター越しに覚が尋ねる。
「私、下戸なので…、お酒じゃないものってありますか?」
結子は酒が弱かった。一滴も飲めないほどではなかったが、今夜は酔って帰る訳にはいかない。
「あら、下戸がこんな店来てどうすんのよ。まあ良いわ。お茶でも出してあげるから待ってなさい。」
覚はカウンターの奥にある水屋箪笥から急須と湯飲みを出して、湯を沸かし始めた。
「あ、覚ママ。ついでに私に燗つけてよ。あっついやつね。」
大女がそんな風に言った。酒やけのしたしゃがれ声だった。
どう切り出したものか、そんな事を思いながら結子は静かにお茶の出るのを待った。
「はい、お茶どうぞ。あとこれお通しの豚汁ね。」
「お姉さん、それママの夕飯の残りよ。」
「あんたさっき美味しい美味しいって食べたじゃない」
覚と大女はそんな会話をしてゲラゲラと笑った。すっかり完成された空気の中で、結子はなんとも言えない居心地の悪さを感じながら「あはは」と控えめに笑った。
「あなた、アレでしょう?浜久里さんとこの新人で人間の女っていう。」
大女がそんな風に話しかけてきた。
「そうです。はじめまして。結子と言います。」
「ゆいちゃんね。よろしく。あたしは文車妖妃。好きに呼べば良いわ。」
「あら、あんた。いつもの名乗りやりなさいよ。」
覚はカウンターの奥にゆるりと腰を預けて、腕組みしながら文車を煽る。煽られた大女は結子に向き直って声を張り上げた。
「ママに言われちゃしょうがないわね。ゆいちゃん、よく覚えておきなさい。恋文に詰まった愛と憎悪、清らかなる思いから妄執に囚われ歪んだ思いまで全てを飲み込み愛する町随一の恋愛マスター、文車妖妃とは私の事と心得なさい!」
結子はその迫力に萎縮を通り越して怯えている。
「うるさいわねえ。」
「ママがやれって言ったんじゃない」
覚の投げやりな感想に、低いトーンで文句を返しつつ、文車は体勢を戻してカウンターに覆い被さった。
「あの、よろしくお願いします…」
すっかり居心地の悪い結子には、気の利いた文句など浮かばなかった。
「あんたのせいで、結子が怯えてるじゃない。」
覚はなおも文車に絡む。結子はここしかないと腹をくくって、口を開いた。
「あ、でも、実は今日は、私の好きな人の事を相談したくてきたので、妖妃さんからも是非アドバイスをいただけると…。」
二人が食いついてくれるようにと選んだ「好きな人」という言葉、言ってから急に恥ずかしくなった。
「あら、好きな人ねえ、良いじゃない。あんたちょっと話してみなさい。」
「ママ、この子のお茶代は私につけといて良いわ。人間の恋バナなんて、ワクワクしちゃうわね。」
二人の視線が一度に結子に集中した。謂わば、彼女の狙いは当たりすぎた訳である。一瞬のうちに、宴席の主役の座についていた。
「ええっと、あ、そういえば。覚さんだったら私の考えてる事って分かったりするんじゃないですか?」
覚は小さくため息をついた。妙に色っぽく見えた。
「結子あんた、あたしに読ませようっての?あんたが隠したい事から何から何まで、人に見せられないような恥ずかしいところも余さず丸裸にしちゃうけど?“俺”に操を捧げる気があるっての?」
覚は色硝子越しにじっとりとした目線で結子を舐める。この雄だか雌だか分からない生き物が、一瞬だけ“漢”の声を出したものだから、結子は思わず唾を飲んだ。
「ママ、ゆいちゃん泣いちゃう」
覚と文車はまた二人でゲラゲラ笑った。
「冗談よ、結子。そんなに怯えないで。教えといてあげるわ。この色眼鏡はちょっと特殊でね。これかけてると、あたし殆ど何も見えてないのよ。ほら、なんでもかんでも見えちゃうのもつまらないから、ね。」
覚は元の艶っぽい声色に戻った。そして、一瞬だけ顎を引いて、ちらりと目を見せると結子に向かってウィンクをしてみせた。
「あたしは女よ。まだぶら下がってるけどね。ちなみに好みのタイプはあたしより強くて太い男。」
覚りがそんな事を言い出すものだから、結子はまた怯んだ。覚の言葉は、丁度結子が考えていた事に対する返答と取れた。
「あの、もしかしてさっきウィンクしたときに私の心の中読みましたか…?」
「そういう事。まあ、いきなり男か女か聞いてくる客もいる中で、あんたは思っても黙ってただけいい子ちゃんね。」
「ママ、あたしそろそろゆいちゃんの恋バナ聞きたいんだけど、いいかしら?」
「ええ、ええ。結子、話してご覧なさい。お姉さん二人が相談に乗ってあげるわ。」
「じゃあ、えっと今日あった話と、覚さんへのお願いなんですけれども…」
結子は訥々と話し出した。──
「──と言うわけで、本当になんでもいいので、天狗さんのことを教えていただけないかと…」
「へえ、狗ねえ。あんたもまだ子供ね。あんなひょろいガキのどこが良いのかしら。」
結子の説明を聞き終えるなり、覚はそう言った。先程まではあれだけ結子の外側で盛り上がっていた二人だが、結子の言い訳混じりの長ったらしい相談は、最後まで黙ったまま、熱心に聞いてくれた。
「ママは確かに好みじゃないかもしれないけど、あたしは好きよ。天狗ちゃん、何より顔が良いわね。本当整ってるわ~」
「そうですよね!文車さん!」
「ゆいちゃん、あたしの呼び方決めかねてるわね。いいわよ、妃ちゃんって呼ばせてあげる。」
「妃…ちゃんが、分かってくれて嬉しいです。いや、私ももう25ですし、恋だどうだって盛り上がる歳ではないので…。これが恋心なのかは難しいというか、そこまで色々求めるつもりもないのですが…、天狗さん妖怪だし。でも、この町のみんなが『天狗はやめておけー』って言うから、私ちょっと悲しくなってたんです。天狗さん、かっこいいですよね?妃ちゃんもそう思いますよね?」
「分かる分かる、あとはやっぱり謎めいた男、悪い男ってゆーのは良いわねえ。あたしもそういう恋したいわあ。あ、ママ、燗もう一本」
同意を示しながらも、文車は天を見つめていた。結子からは赤く染まった横顔が見えた。
「あんた、まだ飲むのね。…それにしても結子、あんたは天狗によっぽどハマってるのねえ。急によく喋るし、それに、そこの酔っ払い妃様と同じ顔の色してるわよ。酒も飲んでないのに。」
覚はなんだか少し、気持悪いものでも見るような口調で言った。
「え、本当ですか。私赤いですか。」
「冗談よ冗談。あ、でも、やっぱり赤いわね。」
言いながら、カウンターから身を乗り出して結子の顔を見る覚。結子には、覚の視線に反応して自らの顔が熱くなるのが分かった。
「ああ、そうそう。あんたの頼みだけどねえ、」
「お願いします、天狗さんの事知りたいんです!」
「最後まで言わせなさいよ。狗は確かにウチに来る客の中にいると思うけど、今は細かいことは何も覚えてないわ。」
「やっぱりそうですよね、どうしてケラさんはこのお店を紹介したんでしょう…」
結子は肩を落とした。
「ゆいちゃん、ママはね。“今は”って言ったのよ。」
文車の横やりの意味を、結子は掴みかねた。
「だからね、ママは覚で、飲み屋のママだから。サングラスを外したママの力と話術を以てすれば、ママ相手に隠し事が出来る妖怪なんてこの町にはいないわけ。天狗がこの店に来た日なら、ゆいちゃんの知りたいことぜーんぶ簡単に分かるんだって。」
「…確かに、あ、でも覚さんも今日の事は明日には忘れちゃうわけだから…じゃあ、えっと私が毎日このお店に来て、覚さんにお願いして、夜もう一回寄ればいいのか」
結子は、店に寄る時間を捻出しようと必死に計算を始めた。
「ねえ、結子あんた。」
覚が、低い真面目な声を出した。
「あたしは、まあそれなりにお節介な女よ、うざったいから認めたくないけれどね。だからあんたの頼みは聞いてあげても良いし、多分寝て起きたあたしだって同じ事を言うでしょうよ。でも、それで良いの?あんた、狗に自分で聞けばいいんじゃない?」
そう言った覚の目が色硝子の奥で優しくて、結子は顔を伏せた。
「それは、そうなんですけど。…勇気がなくて、」
結子は、色硝子越しの目を前に、嘘は言わなかった。それでも、自身の内側に向いていく思考からは目を逸らそうとした。
「ママ、女の子はね。臆病で良いのよ。いい女ってのは直接動かないの。外堀を埋めて、男を絡め取ってこそよ。…それと、あたしのお酒はまだかしら?」
文車がむしろ冗談めかして、真面目に言った。
「そう。…あんたたちが良いなら、あたしはいいわ。燗だっけ?すぐつけるから待ってなさい。」
覚は結子に向けていた目をそっと逸らし、銚子を一本、お湯を張った鍋に着けた。
「そういえば、ゆいちゃん。さっき言ってなかった?今夜は約束があるけど、その前に店に寄ったって。時間は大丈夫?」
「そうです、そうです!じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
天狗が帰ってくるのは夜中と決まっている。時間はまだ20時。余裕はあったが、結子は店を出ることにした。覚の優しさから、逃げてしまいたかった。
「あら、あんた帰るの。お代は、おばさん持ちで良いんだっけ?」
「酷いわあ、おばさんじゃないわよ。でもお茶代はあたしが出すわ。良いもの聞かせてもらえたしね、あたしも若返っちゃうわ、若いけど」
「そんなしゃがれた声でよく言うわ。結子気をつけて帰んなさいね。」
「はい、ありがとうございました。覚さん、明日からもよろしくお願いします。妃ちゃん、ご馳走様です。」
結子は、覚の店を後にした。
石段を登って、浜久里邸の勝手口を目指す。頭の中では先程の光景が繰り返し繰り返し再生される。「あんた、狗に自分で聞かないの?」そう言った覚の目の優しさは、何を含んでいたのだろうか。覚の言葉を信じれば、あの時の色ガラス越しの目は結子の心理には届いていないはずだった。それなのに、まるで自分でも分からない奥深くまで見透かされたようなそんな気がされた。
──踏み込むって、こんなに怖いことだったっけ。…映画までに、心の重荷を少しでも軽くしたくて動き回ったのに、半日かけて荷物を背負い直したような気がするだけ。──いじけた思いを振り切るように、彼女は町を飛び出した。
***
「良かった。結子さん起きてた。」
ドアを開けるなり、作務衣姿の美青年は微笑んだ。
「おかえりなさい。天狗さん、私いつも起きて待ってますよ?」
結子は、微笑まれただけでほだされ、口角の上がってしまう自分が歯がゆかった。
「ただいま、って言うの、やっぱり慣れないな。結子さんの家だしね。」
「殆ど毎晩ここで寝てるんですし、私も歓迎してますから。自分の家くらいの気でいてくれて良いのに」
「でも、人に借りを作るのは良くないんだよなあ、天狗的に。」
天狗はドアを開けたままにぶつぶつと呟いている。
「とりあえずは、お家に入りましょうか天狗さん。虫が入ってしまいます。」
「そうしよう。僕も虫の羽音は気が散って苦手だな。ああ、そうだこれ、買ってきてみたんだ。」
天狗は、コンビニのビニール袋を結子に渡した。中身は、大きな袋のポップコーン、いつものミントキャンディ、それに緑茶ハイの缶と1.5Lのコーラのペットボトル。中を確認する結子に、彼は得意げな顔をして言った。
「今夜は結子さんと、映画を見る約束だったからね。僕も少し勉強したんだ。コーラとポップコーンってそれだろう?」
「あはは、実はですね。私もポップコーンとコーラ用意してました。」
冷蔵庫に入ったコーラと、その前にビニール袋のまま置かれたポップコーンを取りに行って、靴を脱いでいる天狗に見せながら、結子の頭の中は忙しかった。やっぱり、ちゃんと料理でもつまみでも作っておけば、変に自棄にならないで用意すれば良かったとも考えた。それに考えずとも浮かんでくる、今日見た女に映画について教わる天狗の姿は必死にかき消した。
「じゃあ、ポップコーンもコーラもたくさんあるって事だ。沢山あるって事は良いことだよね。」
「準備はばっちりです。映画まではあと30分ありますけど、どうします?シャワーでも浴びてきますか?」
「うん、借りようかな。ありがとう、結子さん。」
天狗はシャワーを浴びに脱衣所へ入って行った。彼の“借り”の基準はふわふわと掴みづらい。
結子は天狗が買ってきたコーラと緑茶ハイを冷蔵庫にしまって、ポップコーンを開ける紙皿と紙コップを用意した。天狗が浴室に入っていく音を確認してから、脱衣所へ入ってバスタオルを一枚取り出す。
「タオルここ置いておきますねー。」
「ありがとう。」
天狗の礼を聞いて、いつも通りベッドに座る。テレビではよく分からない通販番組が流れている。画面右上に表示された時刻は12時33分、夜中の映画は1時から。十分間に合う、良かった、そう思った途端だった。突然彼女の心に虚しさがすり寄った。
天狗がシャワーと寝床を求めて部屋に来るのも、彼が買ってきたものをしまうのも、彼が身体を拭くバスタオルを用意してあげるのも、いつもの事だし、それは結子が望んでやっている事だった。天狗から先に頼んできた事はほとんどない。全て全て、天狗への好意から結子が勝手にやっている事で、更に言えば結子の好意に対して彼はきちんとお礼を述べてくれた。だと言うのに、全ての行為が突然に虚しくなってしまった事が、そしてその理由がはっきりと分かっていることが、更に言うなら自身が天狗に求めていたものの大きさが、その全てが一時に理解されてしまって訳が分からなくなった。
結子の眼を涙が潤した。
頬を流れそうになるすんでの所で涙をこらえた。その日、結子は二人でゆっくりと過ごす夜のために、シャワーを浴びてからうっすらと化粧をしていた。崩さないように、ティッシュを一枚抜き取ると、丁寧に潤んだ目から涙を拭いた。訳の分からない頭の中にも、そんな計算を働かせる不思議な理性が残っていた。
自分の表情が少しでも隠れるように、結子は部屋の電気を消した。
「あれ、結子さん寝た?」
タオルを頭に被って、先と同じ作務衣を着て天狗は脱衣所から出て来た。
「起きてますよ?映画は暗いとこで見るものなんです。」
喋ってみたら鼻声で、結子は慌てて咳払いをした。
「そうなんだ。暗いと何か変わるのかな、楽しみだな。結子さん、声が眠そうだね。」
「元気ですよ、私も映画楽しみにしてたんですから。」
「うん、でもあんまり無理しちゃダメだよ。」
彼が純粋な優しさと気遣いからそう言ってくれている事くらい、結子の理性は重々承知している。それでも、「寝られたら寂しい」だとか、そんなセリフが欲しかった。天狗は、彼女の心中には気づかずに机に置かれた紙皿と紙コップを見ている。
「あ、それポップコーンと飲み物用です。…コーラと緑茶ハイ冷蔵庫から出してもらえますか?」
「うん、任せて」
天狗は気の良い返事をして、スタスタと冷蔵庫まで歩いた。ほんの数メートル先の冷蔵庫から飲み物を取ってくるだけの作業である、天狗が嫌がるはずはなかった。それでも、自分が座っていて、取りに行ける状況なのに天狗に頼み事をするのは、彼女には珍しい事だった。
「結子さんはコーラでいいのかな?」
天狗は、取ってきたコーラと紙コップを持って、結子の顔を覗き込んだ。
「はい。ありがとう」
「うん。…結子さん、なんだか疲れた顔してるね。あ、もしかしてお風呂まだだった?」
「どうして?」
「目元がキラキラしてる。メイクってやつでしょう?」
天狗は相変わらず美しい顔で微笑んでいる。
「えっと、今日はちょっと忙しくて。実は、シャワーも面倒で…ダメですね。でも元気ですよ!…メイクだけ落としちゃおうかな。」
彼女は先程わざわざ施した軽いメイクを、シートを使って拭き取った。天狗に何かを察して欲しかったはずなのに、気づいてくれた天狗を目の前に、一人で空回りしか出来なかった。
「はい、これだよね。結子さん、疲れたら寝ちゃって良いからね。そうしたら、僕は今夜ちゃんと見ておくから、あとで結子さんの元気な時に映画の話をしよう。」
優しい目の美青年はメイク落としシートを結子に渡すと、視線をテレビに戻した。彼はミントキャンディを一つ自分の口に放り込んで、緑茶ハイのプルタブを開ける。缶に口をつけて一口飲んでから、思い出したように紙コップを持って酒を注いだ。
映画の始まるまで、天狗はテレビで紹介されているマッサージチェアのことを雑多に尋ねた。結子は努めて丁寧に答えたし、天狗は結子の答えを真剣に聞いた。
映画が始まると、沈黙が増えた。
「女の子が結子さんで、さっきまでいた男の子が、僕?」
千尋が湯婆婆の元へ行くシーンを見た天狗が尋ねる。
「そうです、あとこの後出てくる頭の大きいお婆さんが浜久里さん」
「ふうん。でも、ハクって男。つまんない顔してるね。」
「そうですか?かっこいいと思いますけど。」
天狗は、多少不服そうな目をしている。画面の光を浴びる横顔は憂いを帯びて見えた。
「この婆さんが浜久里さん?」
「そうです。湯婆婆、この温泉?を仕切っている人で、怖いけどやり手の婆さんです。」
「確かに、迫力は浜久里さんに似てるね。でも、ううん結子さんの言いたいことは多分分かるけど、でもちょっと浜久里さんとは違うかな」
「と、言いますと?」
天狗の感じた違いに、結子は興味を持った。
「そうだな。このお婆さんは店主だよね。だから、厳しいし店のために働く。海市で言えば、町で暮らす妖怪と一緒かな。浜久里さんはそうじゃない。あの人が町で何かするのは全て趣味だし娯楽なんだ。あの人は、町の神みたいなものだから。」
「神、ですか?まあ、確かに浜久里さんの地位は、なんでしょう。圧倒的というか、そんな感じしますけど。」
「そういえば、結子さんには言ってなかったか。でもどうだろう。君ならもう気づいてるのかな。浜久里さんが、どんな妖怪か、分かるかい?」
「やっぱり、浜久里さんも妖怪なんですね。まあ、海市、ハマグリ、石燕風の世界とくればある程度は予想してましたけど、」
「そうだよね。妖怪と石燕が好きな結子さんなら分かるだろうけど、浜久里さんの妖怪としての名前は『蜃気楼』。螭の流れを汲む、幻影と水の大妖怪であり、自然現象。」
天狗は、顔を更にテレビの方に傾けた。結子からはその顔が見えない。
「じゃあ、海市って言うのは。」
「うん。浜久里さんが生み出した幻影の町さ。あの町では有りざるものが姿を成す。有り得たものは霞んでしまう。偽物が生きる夢の町…浜久里さんはあの町を取り仕切る長みたいなフリをしているけど、あの町にあっては文字通りの神様なんだよ。」
「神様…ですか。」
結子の脳裏には、牡丹鍋の感想を言うあの声と、寝殿の御簾が浮かんでいた。浜久里の正体については、ある程度推測があった以上、天狗の種あかしはそう驚きではなかった。それでも、実際に明らかにされた浜久里の正体と、その存在の強大さは、彼女の知っている面倒で可愛げのある老人としての浜久里には、どうしてもそぐわなかった。
「まあ、浜久里さんはそう怯える必要のある人ではないけどね。でも、やっぱり神様は神様だからさ。」
「はい、まあ、普通に接していれば優しい人ですよね。」
天狗は答えるまでに少し間を置いた。
「…そうだね。結子さんがそう感じるなら。間違ってはいないさ。」
含みのある言い方だが、結子はそれ以上掘り下げるのをやめた。少しずつ、眠気から頭がぼんやりしてきている。気の利いた返しは出来そうもなかった。
天狗が何事か呟いたのが聞こえた気がして、結子は一瞬目を覚ました。テレビ画面の中ではハクと千尋とが手と手を取り合って浮いていた。天狗に何か尋ねようとしながら、彼女は再び眠りに落ちていった。
テレビの音。結子の薄い寝息。エアコンの送風音。静かな部屋のカーテンが揺れる。レースがひらりと小さくはためくと、窓の外に黄色い光が二つ。
***
──カラカラリ、カラリ──
休みの日だと言うのに、結子は枝折り戸をくぐっていた。夏の日差しにじっとりと焦がされた肌に、町の冷気が心地良い。
目を覚ました時、部屋には彼女一人だった。時計を見ると、11時。机の上には空になった紙皿と紙コップが並んでいて、結子の頭の中に昨日一日の出来事が駆け回った
結子には10日に1度程度、浜久里の気分で休日が渡される。高女と倩兮女にはどうやら休日の概念はないらしい。普段の結子は休日を殆ど一日寝ていたり、家事を丁寧にやってみたり、配信の映画を見たり、生活の中で消耗されるものを買い出したり。そんな風にしてダラダラと過ごしていた。彼女の生活は、浜久里氏から天狗経由で渡される給料で回っている。家賃を払って、消耗品を買って、休日食べるものを多少買って。普段は浜久里邸で一日中過ごしているし、そこでは食事も出ているから月の出費はほとんどない。
その日、家に一人で過ごす気分でもなかった結子は、海市へと行くことにした。覚の店にも顔を出したい。仕事のないのに町へ行くのは、思い返せば初めてで、少しだけ気分が上がった。
机の上の昨夜の残滓を片付けて、雑に着替えとメイクを済ませた。どうせ、町へ一歩入れば装いは変わる。家を出たら、まず近所のコンビニに立ち寄った。ATMに、何故か天狗伝いに渡されている給料を振り込む。渡されているお金が、一体どんなお金なのか、彼女は正確には知らないし、聞くこともしなかった。ただ分かっているのは、このお金がATMで問題なく認識されるということ。そして、いつも思い出すのはいつかの春の日、コンビニのレジの奥から出て来た木の葉だった。それでも、事実として彼女の口座には今までには見た事のなかった、ちょっとした貯金が出来ていた。
石段を降って、覚の店へ向かう。さて、開店時間を聞かなかったが、果たして店はやっているだろうか。飲み屋のママは、お昼時に起きているだろうか。時計を見ると時間は12時半を少し過ぎた頃だった。
店はまだ暗い。結子は試しに戸を叩いてみた。
「すみませーん、覚さん、こんにちはー、結子です」
店の奥で、何かが動く音がした。しばらく経って、扉が開いた。
「あらぁ、結子おはよう。店はまだ開いてないわよ。」
野太い声と共に、戸を少し開いて顔を出した覚は、唇が濃い茶色をしていた。それでも、サングラスは忘れずかけている。どうやら、自分の事を客としては覚えているらしい事が分かって結子は安心した。
「突然すみません、覚さん。あの、説明すると長いのでサングラス外してもらえませんか…?」
それは、毎日記憶がぼやける覚に、その都度説明するには骨が折れると思った結子が閃いたやり方だった。
「サングラス、あたしは別にいいけど。あんた分かって言ってるのね?」
「大丈夫です。覚さんから、忠告は受けていて。その上でのお願いです。」
「そう。…じゃあ、外すわよ。」
サングラスを取った覚の前に立って、結子は昨日店で話した事を一通り回想した。結子が「以上です」と心の中で唱えると、覚はサングラスをかけ直した。
「ふうん、そんな事があったの。いいわよ。狗が来たらちゃんと聞いておいてあげるけど。…会えたとして、あたしが聞いて良いのね。」
「はい、よろしくお願いします」
昨日は、色硝子越しに問われて答えた質問。その時の結子の心中が、今は覚に知られていた。隠そうとすると言う事は、心に浮かぶという事。覚の忠告が、サングラスの意味が、結子には身に沁みて理解された。
「じゃあ、また夜にでも顔出しなさい。それから、あたしはいつも昼八つあたりに起きるから、次はもうちょっと遅くきなさい。」
「すみません…。それに、ありがとうございます、覚さん。」
「それにしても、不思議な気分ね。思い出そうとすると、ぼんやりと掴めないけど。あんたの記憶によればあたしにもはっきりした“昨日”があったみたいねえ」
「はい、昨日も覚さんは優しくて、有り難かったです。」
なんと答えたものか、言葉を選びながら濁している結子を見て、覚はゲラゲラと笑ってみせた。
「いいのよ。あたしはどうせ過去は振り返らない主義だから。じゃあ、もう一眠りするわ。あんたに邪魔されてなきゃ寝てる時間よ、まったく」
「すみませんでした…、失礼します。おやすみなさい。」
どこまでも優しく気を使ってくれる覚に、結子は最後まで申し訳ない気持になった。
覚の店を後にした結子は、もう一つの約束を果たすべく、海辺へと向かった。
彼女は石段をのんびり下りながら考えてみた。昨日、覚から「あんた、狗に自分で聞かないの?」と言われた時、自分の胸の内にあったのは何だったのだろうか。それは先ず弱さだと言いかける。いや、狡さだったかもしれない。いやいや、弱さも狡さも逃げた言葉だ。もっと直接的な細かい感情があっただろう。
自身の嫌な顔を、思いを知っておきたいと思った。掴みきれない不安はいくらでも肥大化していく事を彼女は知っていた。それでも、彼女はそれをうまく言語に変える事が出来なかった。覚には読めたのだろうか。あの優しい目は何を見た結果のものなのだろうか。
脳裏に浮かぶ覚の優しい目はもう一つ、ひっかかっている事を呼び出した。覚には、この町には、やはり昨日はないのだ、そして結子が店に通うという事はそれを嫌というほど覚に刻みつける行為であるのだ。この町に住む妖怪達は、それを極自然に受け入れている。町ではそれが当たり前として回っている。自分という異分子が、その事実が“異常”である事を彼らに思い出させる。そんな風に考えるのは、一つには結子が疲れているせいもあっただろう。
そういえば、やっぱり覚は自分を客としては覚えていた。関係性のようなものは引き継がれるらしい。雨降りも、倩兮女も、高女も、それに食材を買いに行く店の妖怪達も、結子を覚えているし、彼女がどんな人間かもある程度は覚えている。しかし、昨日どんな事があったか具体的な事になると何も覚えていない。
浜久里の産んだ町は、やはり霞の中にあった。
「偽物の生きる夢の町」、天狗が昨夜言っていた言葉が思い出される。町について彼は他にも何か言っていたはずなのに、眠気に飲まれつつあった彼女はそのセリフしか思い出せない。代わりに呼び出されるのは、彼女の目が辛うじて残した一瞬。暗い部屋、眠い眼で見た天狗とテレビ画面。夢か現かも分からない記憶の中で、天狗が口を開く──「そうか、彼は思い出せたんだね。」
結子自身にも、聞いた覚えのないセリフ。それでも思い出された画はくっきりと鮮明で、そこに靄はかからなかった。
何を考えようとしても、別のことに結びついてしまう。考えるべきことの多さだけが分かって、何一つ答えが掴めなかった。
結子は、肩に乗った雪を静かに払った。
海まで降って、右に折れたらしょうけらの家がある。
休みの日でも約束を守れた事が、これから見られるであろう雨降り小僧の笑顔が、結子の煮詰まった頭を少しだけ晴れやかにした。
そういえば、この町にあって昨日を覚えている妖怪がもう一人いた。結子は、まだ直接に確かめた事はなかったが、その物言いからどうやらしょうけらが昨日を覚えているらしい事に気がついていた。確かめた事がないと言うのは、聞いた事がないという訳ではない。前に確かめてみたら、結子も気づかない内に話題をずらされてしまった。その時の彼女にとっても興味があっただけで、無理に掘るような話題ではなく、誤魔化された事を繰り返し訊くことはしなかった。
そういえば、この間もしょうけらが人の姿である理由をはぐらかされてる事に結子は気がついた。老獪で優しげな紳士を、彼女は好いている。そんな彼もまた天狗と同じほどに謎の多い人物であった。
今日は、家にいるだろうか。結子は扉の前に辿り着いた。
「あ、お姉さん。」
扉を開けると、部屋を掃除していた雨降りが出迎えてくれた。どうやらしょうけらは留守らしい。
「こんにちは、雨降りくん。今日も遊びにきたよ」
「今日も?でも今おれ忙しいんだ。お姉さん遊んでる暇があるならちょっと手伝ってよ」
雨降りは働き者の顔をしている。声変わりすら迎えていない少年の声と、そのセリフのちぐはぐさに、結子は笑ってしまった。
「何笑ってるのさ。ほら雑巾。おれが掃き終わってるとこ拭いて!」
彼は不服そうな顔で言いながら、雑巾を持って近寄ってきた。
「ごめんごめん、うん。手伝うね!」
結子は、部屋の奥から雑巾がけを始めた。しゃがみ込んで、後ろに下がるように床をなぞる。雑巾が斜めにならないように気をつけないと。倩兮女の教えを思い出した。
──「まあ、こんなもんかな。お姉さん、雑巾がけうまいね。」
まるで老齢の使用人のように腰をそらせて、綺麗に磨かれた床を眺めながら雨降りはそう言った。
「そうでしょう、まあお姉さんだからね。」
結子は大げさに胸を張って見せた。
二人がかりであれば、ほんの15分ほどで小さな家の掃除は終わった。
「お姉さんは、おれと遊びにきたんだっけ?」
「うん。昨日ね、私雨降りくんと約束したんだ。一緒に遊ぶって。雨降りくんの大好きな鬼ごっこしようよ!」
「鬼ごっこか!おれ鬼ごっこ好きだ。お姉さんとやった事あったかな。」
雨降りは首をかしげる。
「本当だよ。昨日も一緒に遊んで、今日も遊ぶって約束したの。雨降りくんが鬼ごっこ好きだって、自分で教えてくれたんだよ。」
「約束したって本当か?なんだか、昨日の事を考えると…頭の中がむずむずするよ。」
頭がむずむずする、雨降りは“昨日を考える”ことを毎日決まってそう表現した。
「ほら、雨降りくんが鬼ね!私逃げるから」
結子は雪の降る外へ駆けだした。
「あ、お姉さんずるい、鬼はじゃんけんで決めるんだぞ!」
背後から怒った雨降りが追いかけて来る。少し走る内に、追ってくる彼の声が楽しげに変わっていくのが分かった。今日はどれくらい逃げ切れるだろうか、昨日を知らない雨降りにせめて楽しい今日を過ごして欲しい。結子は必死に砂を蹴った。