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囚われる  作者: 久保田ひかる
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序:天狗の誘う宵

 鈴の音が聞こえる。カラカラリ、カラリと乾いて響く。

 雪化粧の家々と、妙な風体の人間と、妖しい異形の者との間をすり抜けて鼓膜を叩く音。

 誰がために、鈴は鳴るのか。

序:天狗の誘う宵


 窓の外には、ちらちらと白い雪が舞っている。灰色の空と白んだ空気に、庭に並んだ桜の黒い肌がくっきりと浮かび上がっている。まだ硬い蕾には、今日も雪が降り積もる。桜に囲まれて、庭の中央には池が据えられている。設えてある鹿威しにも、等しく雪は積もる。水面は辛うじて、雪の降るに応じて波紋を浮かべている。

 ここでは、そんな景色が毎日毎日繰り返されている。それでも窓際の女は、今日も飽きもせずに見入っていた。特別な瞬間を永遠に再生する窓の外を眺めていると、彼女の心にはいつだって不思議な気持がした。その違和感が、この町、海市の異常性を彼女に教えてくれる。


 ──帰り道は、見失わないようにしなよ。──


 そう言った青年の熱っぽい目を思い出すと、いつも怖くなる。それが嘘ではないことを語っていたから。——同時に頬の赤く染まっていた事を彼女はもう忘れている。


 「結子、結子はどこか。」

奥の間からの呼びかけが、彼女を仕事へと帰らせた。

「はーい、ただいま」

大きく声を張り上げて、廊下を歩き出す。板張りの廊下の熱を足袋越しに感じながら、ひたひたと主人の元へ。

主人はいつも、奥の間に籠もったまま一切の外出をしなかった。御簾の奥に潜み、彼女もその姿は一度も見たことがない。それにも関わらず、大邸宅は隅々まで火が行き届き、暖かい。そのことが、彼の人の矜持と裕福さを物語るように、彼女には思われるのだった。

雪の降る中の渡殿を超えると、主のいる寝殿へと続く廊下が長く長く伸びている。この邸宅は和風建築でありながら特殊な作りをしていた。築地塀もなければ、お堀もなく、周囲との境は存在しない。そこにきて、やたらと大きな白塗りの門だけが南にむいて構えられている。稀に訪れる客人達は、どこからでも入れる家だと言うのに、主人の機嫌を損ねない為だけにその門を通る。

門を入ると、体育館のように大きな建物が一つだけ見える。僧伽藍のように見える事から、人は大伽藍と呼ぶ。この中には、客人用の部屋から、侍女達の部屋、炊事場なんでも入っており、どう見ても外見には収まらないほどの部屋と機能が詰め込まれていた。そこから一瞬壁のない渡殿を通った後、北に向かって一直線伸びるのが大廊下である。彼女の足で大体150歩ほどもかかる長大な一本道、これをやっと歩ききると、見上げるほど高い襖が現れる。襖一杯に描かれるのは、巨大な宝船。右上には変体仮名が見えるが、大きすぎる上に薄暗いせいで読むには難しい。ただし彼女はそこに書かれた歌を知っている。描かれた福の神はいつも六人で、見る度にメンツを変えるような気がした。

一直線に並んだその邸宅の、宝船の先、一番奥の寝殿に鎮座するのが、彼女の主人、浜久里氏である。御簾の奥に、いつもその男はいる。

「結子や。お前、豚の目玉はどう食べるのが好きか。」

浜久里氏の声に、彼女は首を大きく仰け反らせる。

「私は、豚の目玉は食べたことがないです。」

「お前はやっぱり田舎者だな。豚の目玉も食べた事がないとは、哀れに思えてくるほどだ。高貴なものの間では、花は桜木、豚は目玉と昔から言うのだ。覚えておけ。」

「私の田舎では、花は桜木、人は武士と教わっております。」

その返事を聞いて、浜久里氏の笑うのが聞こえた。彼女の方は無表情を崩さない。

「田舎者にしては洒落が効いている。人の中では確かに武士がなかなかイケる。筋肉質なのがいい。鍛えとらん人間はぶよぶよして食えたものではないからな。」

「豚の目玉も、武士も、太った人も食べたことがないので。私には分かりかねます。」

「じゃあ、豚の目玉を買ってこい。夕餉は豚に決めたぞ。ひとっ走り買ってきてくれ。目は多めにな。お前にも食わせてやろう。」

「私も食べるんですね、」

彼女は露骨に嫌そうな顔をした。

「ほら、早く行ってこい。」

「分かりました、行ってきます。」

主人の部屋を出て、彼女は再び廊下を歩いた。豚の目を食べなければならない事が、彼女の足取りを重くする。歩みのペースは遅くとも、しばらくの後、廊下は終わってしまった。渡り殿を超え、伽藍に入り、自分の部屋から綿入りの半纏を掴む。出入り口近くの炊事場を覗くと、炊事担当の異常に足の長い女が、腰を折るように屈めて米を洗っている。女は、米の入った桶から目を離さないままに結子に向かって声を発した。

「今日はなんだって?」

声自体は甲高いが、その声色が女のたくましい気質をよく表している。

「豚の目玉が食べたいって言ってるんですけど、いつもの比々さんのとこで買ってくれば良いですかね?目玉って普通に売ってますか?」

「豚目か~、今日は豪勢だね。とりあえず、持って帰れるだけ豚肉を買ってきてくれればいいよ。目玉は普通ついてるから、比々の豚屋で普通に買えると思うけど、一応目玉ってちゃんと確認して買ってきてくれね。」

「はーい、じゃあいってきます。タカさん」

玄関口で、買い物籠を拾い雪駄を足に引っかける。外を見やれば、やはり白い雪がのんびりと舞っている。彼女は、空いた手を傘にかけようとして、思い出したように慌てて自身の右腰を触った。布の下に、小さな球体がぶらさがっているのを確認すると、安心したように再び傘に手を伸ばす。蛇の目を広げたら、寒さに負けない強い気持ちで閾を跨ぐ。

 結子は雪に濡れた石段を、町へと下っていった。


 ***


 結子は、人の女である。

 年は25を過ぎた頃で、定職には就いていなかった。コンビニでアルバイトをしながら、特に夢もなく、かといって現実的な人生設計があるでもなく、安いアパートで慎ましく変わらない日々を過ごしていた。

 そんな彼女に転機が訪れたのは、ある春の日だった。


 深夜二時。千葉の海沿い、片田舎。道路には十数分に一回程度、ヘッドライトが通り過ぎる。そんな寂しい道沿いにあって、青白い照明を投げかけるコンビニエンスストア。

そこが、結子が週に4度夜を明かす場所だった。通路に積また段ボールから、カップラーメンを取りだしては棚に並べていく。ただ列に並べただけでは綺麗に収まらないから、円柱の容器で隙間を埋めるようにうまく組んでいく。そんな作業に、彼女はもう30分以上は熱中していた。それが許される程度には客足のないコンビニだった。店には彼女一人。誰にも邪魔されず、また誰にも褒められもしない時間を、結子は楽しんでいた。

洗い物して、カップ麺、雑誌、おかし類を補充するくらいが夜中の彼女の仕事だ。朝が来る頃には、明けてその日売る商品の準備をして、少しばかり早朝出勤の客の相手をしたら夜勤は終了。大きな価値がある仕事でもないが、責任も薄い、彼女にとって気楽な仕事。結子はこんな生活をもう、2年以上続けていた。

 カップ麺があらかた並べ終わった辺りで、入店音が鳴った。結子は棚を見たままに「いらっしゃいませー」と雑に声を張り上げる。深夜に来る客は、必要に迫られて何かを調達しに来るか、散歩半分に小腹を満たしにくるか、大体はそのどちらかだ。前者であればすぐにレジに来るし、後者であればしばらく店内を物色する。後者であれば、ぎりぎりカップ麺の品出しを終えられるか、と思っていたところで、客がレジ近くの飴だけを取ってレジに向かうのが見えた。結子は仕方なしに客の方へと急いだ。

 レジに立ったところでドキリとする。目の前に立っていたその青年の容貌のあまりの美しさに、結子は一瞬あてられた。目が合うと青年は微笑んだ。数秒の後、青年が首をかしげるまでの間、彼女はすっかり停止していた。

 不思議そうな顔をする青年を見て、結子はやっと慌てたように会計をした。彼は、棒状に包装されたミントの飴を一つだけ買って行った。彼がいなくなった後も、レジを立ち去る際に彼が言った「ありがとう」の声は彼女の鼓膜を離さなかった。

 長くコンビニにいれば、数え切れないほどの客に出会う。容姿の美しい客だってそれなりに見てきた。そんな謎の自負のある結子であっても、その青年の容貌の美しさは特別に見えた。ぼーっとしたまましばらくレジに立っていた彼女は、落ち着き初めてからやっとあるものに気がついた。レジ台の客側の方に何かが転がっている。それは根付けのような何かであった。赤い編み紐の先に金属製の球体が繋がれている。球体はスーパーボールくらいのサイズで、立体的な陰陽模様のように二つのパーツが滑らかに噛み合っていて、球体を抱くように、細かい彫り物がされた龍が巻き付いている。名のある品のようにも、土産物屋で安く売っているストラップにも見える。結子にはそれの価値が分からない、分からないなりに、素敵な品だと思った。手にとってみると、球体の中で何かが転がる気配がした。丁度鈴を手の中で転がしたような感じだが、球体には隙間がなく音は鳴らない。先の美青年の忘れ物だ、結子にはそうとしか思えなかった。店員の結子は、それを忘れものとして店で保管しなくてはならなかった。にも関わらず、彼女はそれを自身のポケットに滑り込ませた。決して盗もうと思っての行動でない。あの青年に、これを返す役は自分が良かった。

 その日の朝まで、結子は彼の顔ばかり思い出しながら働いた。付け加えれば、朝にはミントキャンディを買って帰った。


 結子が、彼の名を知ったのはその初邂逅の3日後のことであった。

 その前日、結子は二人ほどの迷惑なクレーマーに絡まれ、ペースを乱された上で1万円弱の違算を出していた。お金を探して、キャッシャーの奥の奥まで覗いたが、そこには埃とどこから紛れ込んだかも分からない木の葉のようなものが押し込まれていただけで、お金は結局見つからず始末書を書く嵌めになった。

 そして明けた日、彼女はバイトのない日だと言うのに夜中の店舗に呼び出された。珍しく夜中に出勤している店長から言い渡されたはクビである。コンビニの深夜バイトなんて、そうそうクビにはならないものだとタカを括っていた彼女は面食らったが、その日店長と一緒に出勤していた新顔の若者のネームプレートに、店長と同じ苗字が書かれているのを見て大体を察した。

 諦めと、自己暗示的な言い訳を抱えて、彼女は店を出た。トボトボと歩いていると、目の前から声が飛んできた。

「あ、お姉さん!」

明るい声、ほんの少しだけ高くて軽薄にも響く、好意的な声。結子が顔を上げると、そこにはあの日の美青年がいた。

「あ、」

結子の返答は、返事と言うより鳴き声のような、身体が反射で出した音だった。彼は、いっそ無遠慮なほどに小走りで距離を詰めてくる。

「あそこのコンビニの店員さんだよね?多分、僕の事は覚えてないと思うけど、何日か前にお姉さんにレジしてもらった客です。深夜だったと思う、えっと、買ったのはー」

「ミントキャンディ、ですね?」

普段の彼女であれば、覚えていたとてこんな事は言わなかっただろう。

「そうそう!覚えてるね。ありがたいな、あの日忘れ物ってなかった?これくらいの鈴のストラップ。」

彼は親指と人差し指を使って、円を作って見せた。結子は、「やっぱり鈴だったんだ」と思いつつ、ポケットを探った。

「あれ?」

バイトに履いていくズボンのポケットに、入れっぱなしだったはずの鈴が見当たらない。しばらくまさぐってからやっと気づいた。今日はバイトのつもりで来ていないから、違うズボンを履いている。

「あ、あのー、ありました。鈴のストラップ。ありました、けど今、ちょっと別の場所にあってその、店の決まりで…忘れ物は、一度本社の方に送って管理しているもので、」

今、自分の家にある、とは言えなかった。流石に気持ちが悪い。慌ててでっちあげたために、結子の言い訳は苦しかった。

「あったんだね?」

それでも、青年は言い訳など気にせず、結子の手を掴みかねない勢いで迫った。

「はい、ありました。」

はい、の声は裏返った。

「良かった~、本当に良かった。あ、ちょっとここで待ってて」

彼はそう言うと、一人コンビニの方へ走っていった。結子はやっぱりしばらくの間呆然としていたが、頭が回るにつれて急激に自身の状況の危うさを理解し始めた。コンビニの決まりで本社に送ったと嘘をついたのに、彼は今一人でコンビニに入っていったのだ。

 彼女が慌ててコンビニに戻ろうとしたところ、青年は袋を提げて笑顔で帰ってきた。

「これ、お礼にあげる」

手渡された袋の中には、お菓子が詰め込まれていた。青年は、袋を一度結子に渡してから、思い出したように取り返すと、先日と同じミントキャンディと緑茶ハイの缶を抜いてから、再び結子に押しつけた。

「ありがとう」

遠慮することも忘れて、彼女はそれを受け取った。店で一番大きいサイズのビニール袋いっぱいのそれは、持ってみると意外に重かった。

「それで、いつだったら貰えるかな、鈴。」

「あ、明日以降だったら、いつでも。」

「お姉さんって明後日何してる?」

「明後日は、何も…あ、古物市にいます。でも、開けられますよ。」

「面白そうだね。どこでやるの?近く?」

「海沿いの、松笠公園でやってますけど」

「お姉さんは、一人が好きだったりする?」

「いや、むしろ一緒に行く予定だった友達に断られちゃったところだったりして、」

これも結子の嘘だった。

「じゃあ一緒に行こうよ。何時に行けば良い?」

「古市が10時に始まるんです。私は少し早めに9:30くらいに行って物色してますけど、その日だったら私夕方まで公園にいるので、探してもらえれば…」

「分かった。9:30だね。」

彼女の遠慮を優しく無視して、青年は微笑んだ。

「僕は、テング。」

「テングって、あの天狗ですか?珍しい苗字ですね。あ、苗字であってました?」

「そうだよ。あの天狗。苗字、でいいかな。まあ、好きに呼んでくれたら良いよ。」

「じゃあ、天狗さん。私は結子です。結わうのユイに、子供の子で結子。」

「結子さんね。うん、覚えた。じゃあ、また明後日ね。」

そういうと、彼は結子を通り過ぎてスタスタと走って行ってしまった。ややあって結子が振り返った時には、もう静かな夜が戻っていた。青年の消えた道には、どこから運ばれてきたものか。花吹雪が舞っていた。

 その夜、結子はバイトをクビにされた事なんてすっかり忘れて幸せにベッドに入った。浮かれた気分は久々。美しい貌の青年との古市デートの約束は、彼女に春を春と感じさせた。

 ただし、寝付く直前に、彼が当日鈴だけ受け取って帰るつもりかもしれない、なんて最もありえそうなパターンをやっと思いついて急に悶え出しもした。結子はそういう女でもあった。


 翌日の結子は忙しかった。大慌てで美容院を予約する。もう随分長いことお金を払って人に髪を切ってもらう事をしていなかった彼女にとって、久々の美容院はそれなりに高い心理的ハードルを持っていた。持っていたはずだったのに、気がつけば腰まで伸びていた黒髪は胸元辺りまでの長さに切られ、綺麗に整えられていた。

 家に帰ったら、鏡の前に立って服を選んだ。確か、天狗は水色の作務衣めいた服を着ていた。古風な恰好が好きなのだろうか。数年前、学生時代に好んできていた中華風のトップスに、ワイドパンツを合わせる。スカートはやめた。女性的な服装を選ぼうとも思ったが、思いとどまった。可愛らしい服を着ている自分よりも、野外の古市を一緒に楽しみやすい恰好をしている自分の方が、彼の隣には合っている気がした。それからアクセサリーは、髪の巻き方は、鞄は、靴は、迷いに迷って、部屋中にものを散乱させた。

 それから、忘れずにバイト用のズボンから、あの鈴を回収する。果たして鈴はそこに収まっていたが、ポケットを漁る一瞬は緊張した。

 そんな事をしている内に、外はすぐに暗くなる。お風呂を上がって、彼女は再び頭を悩ませる。美容院帰りに久々に買ってきたパック。どうせなら明日は仕上がった自分で彼に会いたい。隣りに立って恥ずかしい女ではない程度に…。しかしパックなど随分長いこと使っていない。もし、使った結果合わなかったら、肌が赤くなったり荒れたりしたら。しばらく悩んだ後、鏡の前に立ってみる。そこに映ったのは、うっすら乾燥した肌の女。メイクは好きだが、スキンケアは面倒だと思い続けて、二十代中盤を迎えてしまった女の顔。これからは肌にも気を使おうと心に決めつつ、結局結子はパックを使った。

 明日はどんな事を話そうか、人とゆっくり話すなんていつ以来だろうか。そんな事を想っては、期待しすぎている自分を諫める。その繰り返しを十数回もやっている内に、彼女は眠りに落ちていった。


 いっそ白に近いほどの抜けるような青空。緑が勝ち始めた桜。白地に筆文字が躍る幟の列。遊歩道の石畳が見せる焦げ茶色のモザイク。道の両側に並んだブルーシートの群。パイプのものや、アウトドアグッズのもの、様々な椅子が空のまま置かれている。一様に薄暗い色を纏った今日の店主達は、それぞれのビニールシート上の品物を念入りに並べている。

 絶好の青空市日和だった。

 結子は、春物のコートの前を、開けたままに出来る事を喜んだ。折角選んだチャイナトップスが隠れてしまわなくて良かった。肌の調子も悪くなかったし、お陰でメイクも上手くいった気がする。髪の巻き具合がうまく行かなかったのはショックだったけど、昨日切ったばかりの髪を失敗する可能性は彼女の中で想定内だった。

朝九時の公園。まだ準備の慌ただしさまっただ中のそこで、道の真ん中に立って伸びをする。朝日が心地良くて、結子は胸がつまりそうになった。

 自動販売機で買ったあったか~いお茶を一本購入して、慌ただしい市を歩く。そういえば、時間と場所こそ決めたが、公園のどこに集まるかを決めていなかった事に、今更思い至ったが、なんとなく探す必要はないように思えた。結子には根拠のない確信があった。

 露店には様々に古びた品々が並ぶ。光を浴びて、青く煌めいている湯飲み。赤茶の急須は、どこにでもある見た目だがその色がブルーシートの上に映えている。黄ばんだ紙に、まるまると太って、頭頂部の禿げた男だか女だか分からない人が二人描かれた掛け軸。天狗らしきものが描かれたものもある。鳥にしか見えないそれが天狗であると、結子は石燕の画集から知っている。

 彼女の足は、自然とある店の前で止まった。その主人は、珍しくブルーシートではなく、小さな木製の机に品物を並べている。しかし、彼女を惹いたのはその店構えの珍しさではなかった。木製に机に並べられたのは、小さな根付け達。その中に混ざった鈴を、今日の彼女は無視できない。

 その鈴たちは、勿論彼の男とはなんの関係もないものだが、結子は一つ一つ手にとって眺め出した。

 下半球にT字の隙間の開いた、一般的なもの。玉全体が複雑な網目模様を成しているもの。上半球が蛇の蜷局の形に作られているもの。紐が赤と白で編み込まれた飾り紐のようで華やかなもの。見比べてみれば、鈴にもいろいろな種類がある。店主に許可を取って、揺らしてみれば、音にも差がある。高いもの。鈍いもの。かさかさと、葉の擦れるような音のするもの。結子はすっかり鈴に見入っていた。

「──これなんか素敵だね。」

突然の声と共に、視界の右側に手がすっと入ってきた。その手は、机の上の鈴の一つ、大きな鳥が球を抱いているような意匠のものを摘まむ。そして、身体の方へと引き寄せて、右耳の側で揺らした。端正な顔の横で鈴の揺れる様に、彼女はすっかり見惚れてしまった。

「やあ、おはよう。結子さん。」

鈴を机に戻しながら、天狗は結子に向かって微笑んだ。すると丁度その時、公園のスピーカーが古市の始まりを告げる。

「おはようございます、天狗さん。」

「ねえ、時間ぴったりだったよ。僕遅刻癖がひどい方なんだけど。やれば出来ちゃうみたいだ。」

結子は何か言葉を返したが、すっかり上の空だった。昨日も呼ばれたはずなのに、彼の放った「結子さん」の音だけが何度も何度も頭の中で響いていた。

「結子さんは、鈴好き?」

「あ、いや、あんまり詳しくはないんですけど。並んでいるの見たら素敵だなあって。」

結子の言葉に頷きながら、彼は再び視線を机に戻した。

「そうか、そうだよね。鈴もこれだけ美しい品だと、歴史とか種類とか作者とかあるんだろうね。僕も大好きだけど、全然詳しくないんだ。詳しくなろうとも思ってなかったな。古市が好きな人だと、やっぱりそういう所も面白がれるのか、いいね。」

真剣な顔をして頷いている天狗の姿が可愛らしく見えて、結子は吹き出して笑ってしまった。

「じゃあ、今日の私たちの基準は好きか嫌いか、素敵かどうかですね。」

「うん。やっぱり、好きだなって思えるものが一番だよ。」

彼はその後もしばらく熱心に鈴を見ていた。「これは少し小ぶりすぎるな」と呟いているのが聞こえた。彼にとって鈴は大きさも大事らしい。ゆっくり見定めてから、やっぱり最初の鳥の意匠のものを取り上げると、店主に何やらカルラがどうなど尋ねている。店主が分からないと返すと、首をかしげながら「これはカルラだと思うんだけどなあ。よく似ているし。」ともごもごと喋っている。結子はそんな天狗をのんびり眺めていた。先程までの緊張は吹き出した時に消えたらしい。

「ねえ、結子さん。これ見て、この鳥、やっぱり羽と別に二本の腕あるよね?」

彼は突然結子に話を振ると、身体を寄せるようにして彼女の顔の前に鈴を持ってきた。

「そうですね。本当だ。確かに、腕がありますし、なんでしょう、左の手で何か持ってますね。」

彼の感触を感じながら、結子は必死に鈴を観察した。

「うん、うん。そうだよね。これ多分笛だと思うんだよね。足が鳥の姿のカルラってあんまり見ないけど、多分そうだと思うんだよな。」

「カルラってなんですか?聞いた事はあるけど、神様?」

「そうそう、鳥と人の間みたいな見た目で、インドの神話とか仏教とかそういう方面の神様で。ほら僕って天狗だからさ。そう言う意味じゃ遠縁の親戚みたいなものかな。」

まるで、自身を妖怪の天狗そのものとでも言わんとする口ぶりに、結子はまた笑ってしまった。

「それで、その鈴。天狗さんは気に入ったんですか?」

「うん。これはなかなか気に入った。これいくらですか?」

天狗は店主に向かって問うた。1500円と言われて、天狗は素直に1500円を支払っていた。結子には多少ぼったくりのように思われたが、この鈴の価値を見極める知識があるでもないので、彼が納得した値段に口を挟むことはしなかった。


 根付け売りの露店を出た二人は、公園をフラフラとあるいてベンチに座った。

「天狗さんって、面白い人ですね。」

「そうでしょう?僕は大抵の事はうまくやるからね。会話だって得意だよ。」

「自信家なんですね。羨ましいです。」

「まあ、天狗だからね。天狗の鼻は高く高く伸ばしておくものさ。でも、結子さんも面白いよ。僕の話を聞いて面白いって言うんだから見所もあるし。」

自信家の美青年は、結子の事をよく褒めた。決してへりくだる様子もなく、いっそ傲慢なまでに自信に満ちた口ぶりで話ながらも、嫌みなく素直に人を褒められる天狗のことが、結子は少し羨ましかった。

「私は全然ですよ。面白いこともなく、だらだらと日々を過ごして。最低限穏やかに暮らせていると思ってたのに、25にもなってコンビニのバイトすらクビになっちゃったし。…あ、ごめんなさい。関係ない暗い話をしました。」

「なに、首になっちゃったの?じゃあ、もうあのコンビニに行っても結子さんには会えないんだ。あんまり不真面目な人には見えないけど、またどうして?」

結子の自虐半分の愚痴にも、天狗は真剣な顔で聞いてきた。

「そうですね。まずは、1万円弱の超高額の違算を出しちゃって…、」

結子の頭には、店長の身内らしき新人の話が用意されていたので、違算の話は軽い前菜程度のつもりだった。しかし、天狗は妙な反応を示した。結子に真面目な視線を向け続けていたその顔を、突然反対に逸らすと、片方の手で額を覆った。そのままの恰好で彼がこう尋ねる。

「あのさ、もしかしてその日、お札の代わりに葉っぱとか見つけなかった?」

「え、どうして。そうですね、確かにレジの奥から葉っぱの屑みたいなものが出て来たような気がします。」

「そうかあ、まさかあの日も働いているのが君だったとは。うん。僕が迂闊だった。うーん。分かってはいたんだけど、こう目の前にその人がいると思うとなかなかきついね。」

天狗の要領を得ない発言に、結子は不思議な顔をした。

「あの、どういう事でしょう。どうして天狗さんが凹んでいるんですか?」

天狗はしばらくの間、沈黙を守った。顔は背けたままなので、結子にはその表情を窺い知ることは叶わない。

「そうだなあ、あのさ。結子さん、妖怪って好き?」

「妖怪、ですか?多分、好きな方だと思います。あんまり詳しくはないんですけど。」

だしぬけな天狗の質問だったが、結子はむしろ自分の好きなものに話題が飛んだだけに曖昧に答えた。

「うん、そうか。そうだね、うん。案外これも良いかもしれない。」

結子の食いつきに対して、天狗は余計に暗い声になりながらそう呟いた。

「結子さん、ちょっと歩こうか。君に着いてきて欲しい場所があるんだ。まあ、百聞は一見に如かずだからね。」

「はあ、どこですか?」

「まあ、良いからさ。」

天狗は立ちあがった。そして、結子はあるモノを思い出した。

「あ、あのこれ。忘れないうちにお返ししておきます。」

彼女が鞄から取りだしたのは例の、龍が絡んだ鈴だった。

「それは君にあげるよ。僕からのちょっとしたお詫びさ。さあ、着いておいで。結子さん」

何も飲み込めていない結子を尻目に、天狗はふっと空を見上ぐように顔を上げて、颯爽と歩き始めた。

 少し歩くうちに、結子は不思議なことに気が付いた。 目の前を歩く天狗の背がどんどんと遠ざかっていく。確かに、男女で歩いている時、歩みのペースが合わないということはそう珍しくもない。それでも、結子は歩みの早いほうである。過去に交際した数名の男と歩くときは、むしろ結子が速度を緩めていた方だった。加えて、天狗の歩行スピードはそう早くも見えない。歩幅も、まあ身長からして結子より少しだけ大きいくらいだろう。試しに彼の足と同じ速度で自身の足を動かして、さらに歩幅も広げてみる。しかし、二人の距離は徐々に広がっていく。公園を出たころには、彼女は小走りになって天狗の背を追いかけていた。

背後で聞こえる、結子の乱れた息遣いに反応して、天狗は振り返った。

「あ、ごめん。結子さん。」

結子の疲れた姿を見、そう言うと彼は結子に向かって手を差し出した。なんの気負いもなく、 自然で必要なことを処理するように左手を伸ばした。結子にとっても断る理由はない。さっとズボンで手の平を拭って、天狗の左手を右手で取った。

「よし。これで大丈夫。歩くよ、結子さん。」

彼と手をつないで歩き始めた瞬間、彼女の視界は歪んだ。いつも通りに歩いているにも関 わらず、周囲の景色が車か電車にでも乗っているような速度で背後に流れていく。すっか り訳が分からなくなって、結子は頭のぼーっとするのを感じた。酔いそうになって、せめて視線を足元に落としてみたら、そこにはもっと不思議な光景があった。自分の足が動く下、コンクリート敷きの道路が灰色の川のようだった。コンクリートの細かい凹凸も、黄色や白の表示も速度の中に溶け去って、そこにはただ黒っぽい灰色で塗られた流れだけがある。

「あの、天狗さん、これなんですか、何が起こっているんでしょう」

喋ってみてまた気持ちが悪くなった。結子は恐ろしいスピードで歩いているにも関わらず、発した声がクリアに耳に響く。そういえば、風を切るような音がなかった。

「僕は天狗だからさ。これくらいはお手の物だよ。」

天狗は、視線を真っすぐ前に向けたまま、当たり前のようにそう答えた。

「それ、天狗って天狗って事ですか? あの天狗?」

「うん、僕は天狗だよ。そう言っているじゃないか。ほら、そこ右に曲がるよ。」

その言葉と同時に、天狗の体が右側に立つ結子の方へぐいっと迫ってきた。そのまま彼女の手は右側に引かれ、恐ろしい速度と滑らかさを持って右折する。

そんな調子の天狗に呑まれたまま、結子は時間にして5分ほど、体感での時間はまるで見当のつかずに歩いた。

やっと天狗が速度をゆるめたとき、結子の眼前で形を取り戻した世界は、白竹で組まれた竹垣と、枝折り戸だった。隙間の空く格子状に組まれた竹垣の奥には、葉桜が幾本も並び、その奥に建っているであろう住居の姿は窺い知れない。家は見えないが、彼女はその庭を知っていた。彼女のアパートから徒歩で数分の距離にある大邸宅のものだった。

天狗は繋いでいた手を放し、両手を自由にすると彼女の方を見てニヤニヤした。そして 慇懃な態度で、一度その枝折り戸を開け、ジェスチャーで奥を見るように促した。閂の類は かかっていないようだ。結子は促されるままに奥を覗いてみたが、もともと隙間のある竹垣である。戸が開いていようがいまいが景色に大きな変わりはない。結子が不思議な顔から、いっそ不審な顔をし始めたのを見て、天狗はくつくつと人の悪そうに笑った。

「さあ、結子さん。世紀の大イリュージョンと行こうか。さっきの鈴、出してくれるかな?」

最早言われるがままの結子は、鞄から龍の鈴を取り出すと、天狗が差し出した手の平に載せた。

彼はその鈴を、両手を使って持った。上半球を右手の人差し指と親指で、下半球を左手の同じ指で摘まむ。するりと捻じると、綺麗に噛み合っていた陰陽模様は、滑らかに割れた。天狗は紐を摘まみ上げ、鈴を静かに目の高さまで掲げると、大きく揺らした。


──カラカラリ、カラリ──


乾いた陶器のような鈴の音が静かに響く。天狗は鈴を掲げた手はそのままに、反対の手 で再び枝折り戸を開いた──


ふっと、冷たい風が結子の顔を撫でた。冬、雪の降る日の、濡れたような冷気が彼女の体を包む。それは目の前の開け放された戸から漏れていた。

とても不思議な光景だった。

視界の両脇には、変わらずに明るく澄んだ青空と、緑と花の入り混じる桜が、春の終わりを告げている。しかし、目の前に開かれた枝折り戸の先では、空は重い灰色の雲に覆われ、薄暗い景色にはしんしんと雪が降り積もっていた。まるで、コラージュした写真のように、晩春の中に一枚、真冬の世界が広がっている。

呆然としたままの結子をよそに、天狗は鈴を捻って閉じている。「はい。」と言って結子に返す始末である。

「どう?驚いた?」

天狗の笑顔はおさまることを知らない。今度は、サプライズの成功を喜んでか、爽やかな笑いを浮かべている。

「えっと、驚いてます。これは本当にお願いなんですけど、何が起こっているか教えてください。私にもわかるようにお願いします。」

「うん。勿論だよ。ここまでは、見せてからの方が早いと思ったから言わなかっただけ。ちゃんと説明するけど、まあ見て分かる通り、結子さんが素直に受け入れられるような事はこの先にはないよ。うーん…、そうだな。だから一応訊いておくね。どうする?行く?帰る? 行きは好い好い帰りは怖い、と言いたいところだけど。行きもどうかなあ、君次第。“好きか嫌いか、素敵かどうか”だよ。」

結子の頭には、天狗の言葉の意味などほとんど入ってこなかった。しかし、“好きか嫌いか、 素敵かどうか”のセリフが、先ほどまでの古市で感じていた天狗への好意を一気に蘇らせた。結子は、彼の連れて行ってくれる場所が見てみたい、と思ってしまった。

「行きましょう。天狗さん。連れて行ってください。あ、でも、手を繋ぎましょう。そうしましょう。」

「この先は、そんなに速足で歩くことはないんだけど、でもいいよ。結子さんがそれで落ち着くなら。僕の手くらいは貸してあげよう。」

天狗の方では、 自分ほどには手を繋ぎたいと思っていないような返事に聞こえた。こんな に異常な景色を目の前にしながら、しっかり乙女になっている自分が面白くて、結子の心 にはほんの少しだけ笑う余裕が出来てきた。

差し出された天狗の手を固く握ると、彼の眼が自分を凝っと見ている事に気がついた。なんだか測りがたい熱を帯びた視線。


──「帰り道は、見失わないようにしなよ。」──


彼のあまりに真剣なその眼差しに、結子は言葉に詰まり、ただ頷いた。

二人はそっと、枝折り戸の中へと足を踏み入れた。


結子が一歩境界を跨ぐと、途端に新たな不思議が起こった。それまで着ていた衣服が一瞬のうちに、まるでヒーローか魔法少女の変身シーンのように変化した。真っ白な白衣と、オレンジがかった鮮やかな赤色の行燈袴、つまり巫女服と呼ばれるもの。彼女は知らぬ間に纏っていた。驚いて、隣の天狗を見ると、彼の姿も先ほどまでとはまるで違っていた。

「うん、良かった。やっぱりその衣装なんだね。巫女装束、よく似合っているよ。でも少し 寒そうだね。」

「あの、これはなんでしょう。これも天狗のイリュージョンか妖術みたいなものですか?」

「いやいや、これは僕の趣味じゃないよ。僕だったら結子さんにはもっと別に似合いそうな衣装を誂える。僕だって、こんな面倒な衣装着たくはないんだ。一応は天狗だからさ。山伏衣装ってやつだね。でも、この町で山籠もりの修行なんてしないから、邪魔な飾りばっかりだよ。あと何よりもこの頭襟、僕はこれがどうも似合わないんだ。」

頭に被っていたものを、手元に降ろして不満を垂れる天狗は、相変わらず気の抜けた感じで話している。

「そうですか? 可愛くて似合ってますよ。 七五三みたい。」

「七五三で山伏の衣装は着ないよ。結子さんテキトーな事言ってるでしょう。」

「天狗さんに言われたくありません。それで、えーと…じゃあ、今服が変わったのが天狗さんのせい、天狗の仕業じゃないとすれば、これは一体誰の仕業なんでしょうか。」

「いい質問だと思うよ。これはね、この町の主、浜久利さんの力さ。まずは、君を浜久利さんの所へ連れて行こう。」

「ハマグリさん? この町の主ですか。」

「うん、ちょっと気難しいけど、まあ怒りっぽいおじいさんだと思えばいいよ。性格はそう悪い人じゃないからね。浜久利さんに何か言われてもめげちゃダメだよ。」

「あれですね。湯婆婆みたい。」

「湯婆婆って何だい?」

「あ、知りませんか。今度一緒に映画見ましょう。」

「いいね。すっかり緊張も解れたようじゃないか。」

「違います。容量がギリギリなので、違う話をしたいんです。」

天狗は軽く笑って返答とすると、彼女の手を取って歩き出した。両脇をまだ咲かない桜の木が囲む道。それが数メートル続く。秘密の花園にでもたどり着けそうな雰囲気がある。その道を少し歩くと、すぐに開けた場所に出た。視界の奥には、お寺のような見た目の、木造りの巨大な家が建っていた。建物手前の庭には池が設えてあり、水面に雪が落ちるに合わせて小さな波紋を複雑に重ねている。建造物に対する知識は不要、結子にも一目見ただけ大金持ちの棲み処だと分かった。

「これが、 浜久利御殿だよ。まあ、目の前に見えている大伽藍には浜久利さんは住んでい ないんだけどね。ほら、右側を見てごらん。伽藍から廊下がずーっと長く続いているでしょう。浜久利さんはその先の寝殿に籠もってる。とりあえず寒いから、伽藍に入ろうか。」

結子は天狗に手を引かれて、惚れ惚れするほど壮大な伽藍に見とれたまま、その入口へと回 った。歩きながら、さっき入ってきた枝折り戸は、この家の勝手口のようなものだと教えられた。

左手に向かってずっと歩き、そこから壁沿いに一度折れると入り口があった。


「やあ、お邪魔しますよ。」

天狗はなじみの店にでも入っていくような感じで、気安く伽藍の引き戸を開けた。結子も自然そのあとについて屋敷に入った。屋敷の中は外とは打って変わって暖かい。

天狗は入ってすぐ、入り口近く右手の部屋にまず立ち寄った。その部屋は暖簾で仕切られていたものだから、先ほどよりさらに馴染みの客の振舞だった。

「こんにちは、タカさん。鮑の間を借りるよ。出来れば熱いお茶でももらえないかな。」

奥からは「あーい、任せておきな。」と妙に甲高い声が帰ってきた。結子はその部屋には入らなかったが、通り過ぎざまにちらと暖簾の隙間を覗いてみた。中は厨房のような部屋で、異様に床が低い。そしてその低い床に立ってなお、天井が低くて困ると言わんばかりに気味の悪いほど背中を丸めた、やたらと背の高い、縦に長い女が一人、お茶の支度を始めようとしていた。

「あの、天狗さん、先ほどの方は?」

「ああ、今のはタカさん。もうずっとここの厨房に立っているおばちゃんさ。」

「タカさんっていうのは、」

「高女だよ。高女のタカさん。」

「ですよね!あの暖簾の波模様と言い、完全に石燕の高女でしたもん!」

突然はしゃぐ結子に、天狗は意外な顔をした。

「結子さん、そこは興奮するんだね。」

「さっきは誤魔化しちゃいましたけど、私、妖怪大好きなんです。あんまり詳しくないのは本当で、そんなに表で言うことはないですけど。でも、妖怪が本当にいるなんてなったら、それは一大事です。あ、一大事って言うとなんだか良くないことみたいですね。とにかく、高女に会えるなんて…、感動してるし嬉しいです。」

「じゃあ、結子さんはきっとこの町を気に入るよ。」

そんな会話をしながら、二人は鮑の間へと入って行った。部屋は、二人が入った時には既に明かりが灯されており、不用心なほどに赤い炭を湛えた火鉢も据えてあった。

 天狗は慣れた動きで押し入れを開け、座布団を二枚取りだした。「結子さんこれ使って。」と言いながら、一枚を結子に放って投げる。結子が上半身を大きく使ってそれを受け止める。運動音痴の結子は、てっきり天狗に笑われるかと思ったが、彼は妙に真面目な顔をして、押し入れからちゃぶ台のようなものを引っ張り出していた。窓際にちゃぶ台を置き、その前に自分の座布団を敷いて座る。窓を細く開け、ちゃぶ台に肘をつきながら窓の外を見つめると、それっきり天狗は黙ってしまった。懐からミントキャンディを取りだし、口に入れて転がしながら何やら考え事をしている。

 急に居心地の悪さを感じつつ、結子は部屋の端、天狗の視界の外に小さく正座した。今になって、自分がたった一人の、それも出会ったばかりの男を頼りに異界に訪れているらしい、という事実が冷静に理解されてくる。結子は寂しそうに天狗の背中を見つめた。

 そんな膠着した状況がしばらく続いた後、襖が2度静かに“ノック”された。

「ありがとう、タカさん。いいよそこ置いておいて。あんた中入るの大変だろう。」

天狗はぶっきらぼうにそんな返事を投げる。すると、扉の向こうから「ケラケラケラケラケラ…」特徴的な笑い声が聞こえてきた。

「なんだ、ケラさんか、入って入って。」

扉はズルリと勢いよく開け放たれた。そこにはなんとも形容しがたい顔をした女が立っていた。美人か醜女かと問われれば、誰もが「美人だ」と答えた後に、「本当に美人か?」と自問してしまうような顔。顔を見ている間は、可愛らしく惹き付けられる魅力があるのに、ひとたび目を伏せて頭の中で描いてみると途端に醜く思えてくる顔。大きな唇に真っ赤な紅を形良くさして、笑っているその姿を総合すると、どうにも劣情を誘うような魅力のある女。それが、高女の代わりに部屋にやってきた者だった。

「やあ、ご無沙汰だね。ケラさん。」

「どうもどうも天狗サン。あんたは私に靡かないからネ。詰まらないから誘わないのサ。」

ケラさんと呼ばれた女はちらりと結子を見て、露骨に嫌な顔をした。世間一般に言う、女の嫌みなところを煮詰めたような表情だった。

「なァーんだ。人間を連れてきたって言うから見に来たのに。まァた女かい。」

女の文句を無視して、天狗は結子に女を紹介した。

「結子さん、その人は倩兮女のケラさん。性格が悪いから気をつけた方が良いよ。ケラさん、こっちは結子さん。あんまりいじめないであげてね。」

「性格が悪いなんてどの口がいうのかネ。ここで一番腹黒い男の癖に。よろしく、結子ちゃん、あんたもこの男に騙されないように気をつけナ。お茶ここ置いとくから、後は好きにどうぞ。」

倩兮女は、ケラケラと笑いながら帰って行った。結子は、倩兮女が開け放したままの襖を静かに閉め、茶の乗った盆を天狗がいるちゃぶ台へと持って行った。

 赤茶色の急須を傾けて、薄緑色の湯飲み二つに茶を注ぐ。緑茶の深い甘い香りがした。彼女が湯飲みをふうふうと冷まして一口茶を啜ったところで、天狗は静かに長く息を吐いた。ガリッと飴を噛みつぶす音と共に、意を決したように立ちあがると、彼はわざわざ結子の目の前に正座をした。

「結子さん、よく聞いてください。あ、お茶ありがとう。」

「あ、どういたしまして。」

天狗の放つ緊張感にあてられて、結子まで膝を正した。

「あのですね。あなたがクビになった理由の、お金が合わなかった話ですが、」

天狗は再びそこで沈黙を作って息を吐いた。

「…それは私のせいです。人間の使うお金を持っていなかったのに、この飴が欲しかった私が木の葉を使って騙しました…、後々葉っぱに戻るとは分かっていましたが、まさか翌日も君が働いているとは思わず…。」

天狗は正座のまま、「ごめんなさい」と勢いよく頭を下げた。それでも、手は床につかなかったし、勿論額だってある程度の高さまでしか下げていない。それになにより、頭を下げた勢いそのままに頭を上げた。

 結子としては、特に謝罪を欲してはいなかった。仮にあの違算が彼女のクビの全理由だったとしても、それは変わらなかったと思われた。

「あの、クビになった理由は違算だけじゃありませんし、あと、一万円札って本当はレジの中から定期的に抜かれて移してあるはずなので、あそこで違算が出たのは私含めたうちの店の怠慢でもありますし、うーん、まとめれば私は別にあなたを責めませんよ。お陰で、高女にも倩兮女にも会えましたし。天狗さんのお陰で久々に楽しい日を過ごせていますし。むしろ、感謝しているくらいです。」

それなりに、感謝の気持ちと好意とを込めて放った言葉だった。それも、相手に押しつけすぎないように、そんな事を考える程度には結子の頭ははっきりしていたが、言ったそばから、果たしてその通り出来ていたかと思い直して恥ずかしかった。

 しかし、天狗の反応は結子の予想の外にあった。彼の耳は彼女の許しの言葉だけを掬い取っていた。途端に調子を取り戻したらしい。ぐにゃりと足を崩して、仰け反るように後ろ手で身体を支える、傲慢を全身で表すようなポーズを取った。

「あ-、良かった良かった。うん。結子さんに嫌われてなかったみたいだ。僕が頭を下げる事なんて滅多にないからね。貴重な経験をしたと思って良いよ。」

目の前の傲慢の塊のような“天狗”が、それまで以上に上から目線の言葉を投げかけているというのに、結子は「結子さんに嫌われてなかったみたいだ。」の一言にドキドキしてしまっていた。

「あ、でもね。結子さん、朗報があるよ。」

「朗報ですか?」

「うん。いやあ、本当は怒った君にお詫びとして提供しようと思ってたんだけど。結子さんは、今無職だね?」

「はい。無職です。」

「妖怪が好きだね?」

「はい、好きですよ。」

「じゃあ、良い仕事があるんだ。結子さん、浜久里さんの所で、というかここで働こうか。」

「もしかして、その為にここまで連れて来たんですか…?」

「うん。勿論だよ。僕が結子さんの仕事を奪ったなら、その代わりをあげなきゃ。天狗が人間に借りを作ったままなのはまずいでしょう?」

「今日、今が一番天狗さんが天狗だって実感した気がします。」

「うん。ずっと言ってるじゃん。僕は天狗だよ。」

訳の分からないことに巻き込まれているという自覚は確かにあった。しかし、と結子は考える。断ったとして、自分に残るのは寿命を浪費していくだけの生活だ。それに何より、目の前で自信ありげに微笑むその青年との交流を、彼女はもう少し楽しんでみたかった。

「じゃあ、折角なので。よろしくお願い致します。」

天狗への皮肉を込めつつ、彼女は丁寧に指と額をついて頭を下げた。

「良かった。それが良いよ。」

彼は自然な動作で軽く結子の頭に触れた。結子は無論ドキリとした。彼女が感じたのは、不快感ではなく、かといって喜びでもなかった。人に(天狗ではあるが)頭を撫でられたのはいつ振りだろうという思いと、人の手の平の滑らかな凹凸であった。

「じゃあ、雇い主に会いに行こう。」

天狗は膝に手をついて勢いよく立ちあがった。ずっと外したまま、部屋の隅に置かれていた頭襟を拾い上げて、頭に載せた。文字通り襟を正すという事だろうか。

 天狗に連れられるまま、結子は鮑の間を出た。廊下を北に向かって歩き、ほんの一瞬だけ渡り殿を通る際に外に出る。外の景色は変わらない。重たい曇り空、緩やかに舞う雪の花、まだ咲かない桜の木。右側には池の端が見える。先は見えなかった左を見れば、石の並ぶ庭があった。渡り殿はほんの数メートルで終わる。そして、新しく入った建物で彼女は驚いた。それはどこまでも細長く続く廊下だった。

「この大廊下はね。僕の歩幅だと大体140歩なんだ。結子さんもあとで数えてみるといいよ。」

歩きながら、天狗は脈絡のないことを雑多に口走った。どの話題も少し語っては口を噤んでしまう。しばらく歩いた所で、結子は彼の手が自分の手に何度もぶつかっている事に気がついた。揺れる手を捕まえてみたら、天狗は少しびくっとしてからまた饒舌に中身のない事を口走り始めた。それでも、二人の手は繋がれたままだった。

やがて、廊下にも終わりが来る。終点には巨大な船の画が描かれた襖が立ちはだかっていた。

「いいかい。結子さん。浜久里さんに怖じ気づいちゃダメだよ。」

「天狗さんこそ、私の手を強く握り過ぎですよ?」

「うん、その意気だ。同じような軽口を浜久里さんにも叩いてやれ。…ごめん、やっぱり今の嘘ね。」

「じゃあ、行きますね。」

緊張している天狗を見ていると、結子はすっかり落ち着いて楽しくなってしまっていた。それに雇ってもらいたい相手への挨拶だ。自分から働きたい姿勢を見せていかないでどうする。

 襖の前で「失礼します」と声を張りあげると、一息に巨大な襖を引き開けた。

 目の前には、これまた巨大な部屋が広がっていた。体育館ほどもあるだろうか。随所に松明が焚かれてはいるが、先程の伽藍ほどには明るくない。てっきり、浜久里さんとやらがいるものと思っていた結子は拍子抜けした。その部屋には何もいなかった。

「どうも、こんにちは。浜久里さん。」

天狗が大声を張り上げた。

 すると、部屋の奥、それも遙か上空から声が降ってきた。

「天狗か、久しいじゃないか。」

結子は慌てて、状況を再確認した。目の前の部屋の奥、壁だと思っていたものはどうやら簾のようなものらしい。そして浜久里氏はそうとうな大きさ、もしくは、かなり高い位置にいるようだ。

「ご無沙汰をしております。本日出向きましたには、人の女を一人連れて参った次第です。これは、名を結子と言う人間で、是非とも浜久里さんの元で下働きをしたいと申しております。」

天狗は格式張ってお辞儀をした。

「珍しいな。その女を、“雇え”と言うか。」

返答は変わらず空から降ってくる。結子には浜久里の言葉が、何か訝しげというか意味深長な感じに聞こえた。

「ここで、働かせて下さい。」

そう言って勢いよく頭を下げたのは結子である。湯婆婆へのお願いの仕方は、映画でよく心得ている。

「あやかしの町にて人を飼うというのも、風情があるやも知れぬ。儂は働くものであれば歓待しようとも。」

「流石は浜久里御大。あやかしの町を統べるお人です。人を飼うとはこれまた高貴なあやかしにこそ許されし遊びですな。」

天狗は大仰に笑った。御簾の向こうからも、浜久里の笑い声が降ってくる。結子は「飼う」という言葉に多少尻込みした。

「よいよい。そこの女、結子や。お前は今日から儂の元で使うとしよう。安心しろ、例え人間のお前であっても、働きさえすれば、飯も寝床も衣服も、困らない程度にはやろうとも。」

結子には、浜久里が天狗の言っていたような人物には思えなくなってきた。話しぶりからして、偉い妖怪で、権力者で、下々とは違った感覚で生きていそうだとは思うが、働きに対する報酬を気前よく約束してくれて、自分を雇うことも即決してくれる。彼女にとって、これ以上なくありがたい雇い主に見えた。

「では、契約を済ませよう。」

御簾の向こうから、二羽のウグイスが飛んできた。一羽は、足に丸めた紙を。もう一羽は棒状の白木を抱えている。天狗は手を伸ばして、二羽のウグイスから荷物を受け取った。足の空いたウグイスは、二羽とも天狗の肩に落ち着いた。

「はい、結子さん。」

天狗は、結子に白木を手渡した。受け取ってみるとズシリと重い。薄暗い中、目をこらしてみると、継ぎ目がある。引いてみれば継ぎ目は音もなく割けて、中から銀色の刃が顔を出した。

 小刀を持って腰がひけている結子の横で、天狗は紙を広げてしげしげと眺めている。

「よし、問題はなさそうだ。結子さん、拇印をここに。」

「あの、拇印ってこれで親指を切って押すアレですか?」

「勿論だよ。契約だもん。…ああ、もう人間は血で判を押さないのか。こっちおいで、結子さん。それから、その小刀貸して。」

いつの間に用意されたのか、二人の前には丁度立った人間の臍ほどの高さの一本足の机がある。天狗は、そこに紙を置いて、小刀を鞘から抜き出した。

「左手出してくれる?」

結子は一つ深呼吸をして、目を瞑って息を止めたまま左手を差し出した。

 左手を、下から包むように天狗の手が触れた。と、親指に何か冷たいものが触れる感触があった。一瞬の後に、指の上を温かい液体が覆った。天狗の手際の問題か、結子が覚悟した痛みはなかった。

「さあ、ここだよ。」

天狗に促されるままに、彼女は拇印を押した。結子は、契約書を読みもしなかった。

 結子の捺印が終わるとともに、三匹目のウグイスが飛んできた。ウグイスは、足に持った包帯を机に置くと、契約書を掴む。天狗の肩に乗っていた二匹も、飛び上がり、その内一匹は小刀を抱えた。三羽のウグイスたちは御簾の向こうへと戻っていった。

 まだじんわりと出血している結子の左の親指には、天狗が包帯を巻いてくれた。

「では、浜久里さん。僕はこれから彼女に屋敷を案内してきます。また、後ほど顔を出しますので、諸々はその際に。」

「なんだ、気遣いか?狗にしては珍しい。」

「僕はいつだって色男ですよ。」

浜久里と天狗は、またも二人で笑った。結子には、天狗の態度が先程とは違うように見えたが、それを尋ねるような気力は尽きてしまっていた。

「さあ、結子さん。お暇しようか。」

されるがままの結子の手を握って、天狗は元来た方へと歩き始めた。部屋の閾を跨ぐすんでの所で、結子は立ち止まって踵を返す。

「これから、どうぞよろしくお願いします。」

大きく頭を下げた。きちんと挨拶をしなければならないと、結子は直感的に感じた。しかしそれは、社会の常識や、礼儀のようなものから来た感覚ではなくて。何故そう思ったのか、彼女自身の中に靄のかかった答えはあれども、うまく言葉に換える事が出来なかった。


 二人は鮑の間に帰ってきた。

「お疲れ、結子さん。最後のお辞儀かっこよかったよ。僕は頭を下げるのは基本的に嫌いだけど、かっこよく見えるお辞儀ってあるんだね。びっくりしちゃった。」

天狗は、何やら感心した顔でそんな事を言っていた。結子は緊張と緩和の連続した一日にすっかり気疲れして、もうろくに返事も返さずに呆けていた。

「大丈夫?そうだ、飴上げるよ。」

「飴、いただきます」

天狗に渡されたミントの飴が、なんだかとても苦く感じた。

 しばらく休んでいる内に、結子は眠っていたらしい。温かい布団に包まれて、彼女は目を覚ました。寝て起きても、やっぱりそこは鮑の間だったし、窓際の座布団に座った天狗が見えた。

「起きたかい?」

「私、寝てたんですね。ごめんなさい、これ布団、天狗さんですか?ありがとうございます」

声がしゃがれていた。温かい部屋で無防備に寝たために、結子は喉が渇いてた。

「うんうん、良いよ。結子さんは寝ても良いくらいには今日よくやっていると思うんだ。」

天狗はそれだけ返して、結子の意識がはっきりと目覚めるのを待った。

 結子は温かい布団を抱きながら、のそのそと上半身を起こした。すると、起こしたところへ、天狗が机から湯飲みを取って這ってきた。手渡された湯飲みの温度を手で確かめてから、一息に飲み干す。もうぬるくなったお茶が、寝起きの身体に染み込んでいくようだった。

「結子さん。起きたら、もう少しだけ付き合ってもらうよ。送り方々、一番大事な仕事を、教えておこうと思うんだ。」

天狗は、妙に優しく微笑んだ。


 ***


 雪に濡れた石段を、細心の注意を払って下りていく。もうほとんど毎日のように、この石段を上り下りして二ヶ月が経つが、結子は未だにびくびくしていた。浜久里の扱いにも慣れ、仕事も覚え、町の空気も分かってきた今、一番に怖いのは石段で転ぶことだと言えた。

 この町は、浜久里邸を頂に据えた斜面に位置していた。麓には海が位置し、扇形に広がる小さな町である。扇は、浜久里邸から真っ直ぐに降っていく石段の道を中心に形を作り、麓でも端から端まで20分もあれば歩ききれてしまう。そんな土地に、さながら温泉街の如くに土壁瓦屋根の家がひしめきあっている。常に冬の終わりのこの町では、家々から立ち上る湯気がまた、景色に風情を加えてた。

 町は名前を、「海市」と言った。ただし、その名を町で聞くことはまずない。この世界には他に町はないのだから、“町”とさえ言えば良かった。

 この町では、どこへ行っても不思議に出会えた。

「こんにちは、結子さん。」

石段を登り来ながら、そう声をかけてくれたのは、山精だった。今日も海に出たらしく、好物の蟹の入った網を肩にかけて一本足で器用に階段を跳ねている。

「こんにちは、山精さん。今日も大量ですね。」

山精はにこやかに笑って軽く会釈すると、通り過ぎていった。この挨拶を、彼女は毎日毎日繰り返している。

 山精を通り過ぎると、少し下の方で網剪と窮奇がじゃれている。どちらも鋭利な身体を持った妖怪だから、初めのころは見ていてハラハラしたものだが、数ヶ月も毎日見ていると、日常になった。

 今日の結子の目的地はその喧嘩場所の更にもう少し下だった。【比々の店】の看板が下がった小さな店。豚が欲しいときは比々の店だが、目玉もあるだろうか。

 結子が店の前で蛇の目を閉じていると、地面にいったん置いておいた買い物籠がすっと浮いた。「しまった!」と思った時にはもう遅い。目玉が無数についた左手が買い物籠を掴んでいる。異形の手の女、百々目鬼は恐ろしい勢いで石段を降って逃げていった。結子は百々目鬼が、この辺りでスリをする事をすっかり忘れていた。初めて来た時にも全く同じ手口でやられていたのに、豚の目に意識を取られすぎていたと反省する。がっかり肩を落としていると、目の前を大禿が間抜け面で通り過ぎて行った。いつもだったら、その大禿が百々目鬼の被害にあっている、今日は大禿が平和に過ごせただけ良しとしよう、結子は己にそう言い聞かせた。

 金はあとで持ってくると言えば、比々は豚を売ってくれるだろうか。一度戻ってそれからだと夕食は多少遅くなる。浜久里氏は、金をスられても何も言わないだろうが、夕食の遅いことには癇癪を起こすことがあるし、それにタカさんも夕飯が遅いと不機嫌になる。比々は、結子がこの町で喋った妖怪達の中でも、かなり面倒な方だった。まあ、遺恨が残るわけでもなし、ダメ元で頼んでみる事にした。

「こんばんは、浜久里さんのお使いできました、結子です。」

「ああ、いらっしゃい。結子さん、何にしましょう?浜久里さんは何が食べたいと?」

比々は、机越しに毛むくじゃらの手を揉みながら結子を歓迎した。比々の店、というかこの辺りの店にはショーケースのようなものはない。食材でも、他の品々でも、扱っている商品は店の中に、それぞれの妖怪の趣味に合わせて置いてある。寒さと町の仕組みがうまく作用して、生の食材も食べられる程度に保存されているが、衛生と言う概念はほとんどの妖怪が持っていなかった。

「あの、いつもの豚肉と、あと豚の目って入ってますか?」

結子は、これから見るであろう比々の態度を想像してげんなりしつつ、尋ねた。

「勿論ですとも!新鮮な目が揃ってますぜ。確かここに…」

比々は、店の奥を漁って、毛むくじゃらの掌に目玉を十も載せて見せてきた。タカさんには良く洗ってから料理してもらおう、結子は心の内で固く誓った。

「その目、あるだけ下さい。あと、それから…店の前で財布をすられまして。お金は後から持ってくるなんて、出来たりしませんでしょうか…?」

結子が遠慮がちにそう言うと、比々は豚の目を載せた掌をさっと引っ込めて、嫌みな本性を顔中で現した。

「結子さんね、いや浜久里さんのとこの結子さんだから、信用してないって訳じゃないんですよ?信用してないって訳じゃあないが、妖怪だからって舐めてもらっちゃ困るね。俺たちはこの町でルールに則って生きてるんだ。妖怪だって金は大事さ。いくら町の長の使いといえども、ルール違反は許されちゃあいけないと思うんだけど、結子さんあんたー、それを分かって頼んでるってことでいいのかい?」

比々は一息にそこまで捲し立てた。結子はほとんど全て、比々の言葉を聞き流した。

「そこを何とか…、お金はこの後絶対に持ってきますから!」

結子が手を合わせて再度頼むのを聞いてなお、比々は険しい顔をして、結子を凝っと睨みながら黙っている。やはり一度帰るしかないか、と彼女が思い始めた頃に、比々はやっと口を開いた。

「浜久里さんのお使いに、それだけ頼まれちゃこっちも多少譲歩してやらねばなるまいか…、じゃあ、こういうのはどうだい。あんたが金を持って戻ってくるって証拠に、抵当を置いていくってのは。」

「抵当、ですか?でも私何も持ってないからなあ、蛇の目かこの半纏くらいしか…、」

「あんた、その腰にぶら下がってるのはなんだい?見せてくれよ。」

比々が顎でさしているのは、結子の右腰の辺りだった。どうやら、比々が凝っと結子を見ていたのは、金目の物を探していたようだった。

「これですか、」

結子は少しだけ躊躇した。右の腰に下げてあるのは、天狗から渡されたあの龍の鈴だった。

「そう大切に隠されちゃ見たくもなるってもんさ。それにあんた、金もないのに肉をくれって言ってるんだよ?いやいや、金を払うつもりがあるってのは承知さ。でもほら、誠意ってものをさあ、見せてくれないと。そうだなあ、俺は商売において、金を大事にもしてるが、誠意ってのはもっと大事だと思ってるんだよ。あんたが、今その大事なものを預けてくれれば、信じて肉を売ってやろうとも、ああ売るさ。おまけしてやっても良い。でもなあ、誠意を見せてもくれないってんなら、後で金を持ってきたからって売ってやるかどうかは、難しいところだよなあ?」

本当によくもまあ、舌の回る男だ、毛むくじゃらの癖に。結子は心の中で毒づいた。

「とりあえず、それちょっと見せてくれよ。ほら、気になっちゃったんだ。あんたが隠すからさ。」

「…はいはい。」

結子は半纏の下に手を入れて、腰に下げている鈴の紐を解いた。比々は、鈴を結子の手から引ったくった。

「はあー、こいつはまた大層な美品だ。龍の彫り込み、鱗の一枚一枚まで丁寧に仕上げてあるじゃねえか。こいつはなんだい?鈴かい?」

比々は毛むくじゃらの手で鈴をベタベタと触りながら、その細部を観察した。耳元に持って行って振ったりしてみている。

「はい、鈴です。でも、やっぱりそれは、」

「こいつは、音の鳴らない鈴なのかい?でも中で何か揺れてるね。」

比々は、結子の動揺を楽しむように、その言葉を自身の言葉で遮った。ここで結子、閃いた。

「そうです、そうです。鈴なんです。普段は閉じていて、ちょっと手を加えると隙間が出来て。とっても風雅な音で鳴りますよ。」

「手を加えるってぇと?」

「それは、…鈴の上と下を摘まんで、捻るんです。」

結子は諦めたような、そんな風を装った。比々は興味津々と言った顔で、言われた通りに鈴を捻った。陰陽模様の鈴は力を加えればするりと開く。

 比々は、わざわざ揺らさないように慎重に耳元に運んでから、大きく鈴を振った。


──カラカラリ、カラリ──


 乾いた音が店に、町に響いた。

「案外地味な音がするね。」

詰まらなそうな顔をして、比々が鈴を覗き込んだ所だった。結子の背後でガラリと戸の開く音がした。

「やあ、比々。お邪魔するよ。」

戸を開けて現れたのは、天狗だった。

「あら、天狗の旦那じゃないですか。豚屋に天狗とは珍しい。」

「うん、君が苦手だからあんまり来ないけど。でも僕は肉も食べるよ。」

結子は、天狗が手に持ったものを見て「あ!」と驚いた。

「これ、結子さんの?さっき拾ったんだ。」

天狗が持っていたのは、先程百々目鬼にすられた金の入った買い物籠だった。

「そうです、そうです。ありがとうございます。」

「うん、どういたしまして。」

天狗はそれしか言わなかったが、彼がわざわざ、それも一瞬のうちに百々目鬼から取り戻してきてくれたのだと言う事が、結子には分かっていた。天狗は、微笑みを消すと比々に向き直る。

「それで、これは一体どういうことかな。君の手にあるその鈴。僕がこちらの結子さんに贈った大事なものなんだけど。なんで、君が持ってるんだい?」

比々の顔が引きつっていくのを見て、結子は内心ニヤニヤした。彼女の気はそれで十分に晴れたので、助け船を出すことにした。

「違うんですよ、天狗さん。比々さんが見せて欲しいって言うので、ちょっと貸してあげたんです。いつも親切な比々さんの事ですから、乱暴に扱ったり、ましてや盗もうとしたりなんてするはずがありません。ほら、ちゃんと返してくれますよね?」

結子が笑顔で差し出した手に、比々が鈴を戻した。比々の顔は笑ってこそいたが、誰が見ても分かるほど引きつっていた。

「あ、比々さん。天狗さんがお金取り戻してくれたので、お肉買えます!」

「ああ、へへ、いいよ。良い品を見せてもらったから、そのお礼だと思って、タダで、タダでいいよ。ほら、肉、詰めるから、籠貸してくださいな。」

結子は、わざわざ籠の底から札入れをゆっくり抜き取って、それから比々に渡した。比々は籠をひったくると、すごい勢いでもって肉を詰めだした。

「目玉!忘れないでくださいね!」

「あ、あいよ!」

ほんの数秒で、籠の中には笹の葉でくるまれた肉がいっぱいに詰まった。

「それ重そうだね。僕が持つよ。ありがとう、比々。」

「ごちそうさまです。」

天狗が籠を持った。結子は肉をタダでくれた比々に丁寧に頭を下げて店を後にした。


 二人は連れだって、雪の石段を登って行く。

「もう、初めて結子さんが呼ぶものだから、僕も焦ったよ。」

「すみません、でも緊急事態は緊急事態でした。買い物籠まで取り返してもらって、本当にありがとう。」

天狗は少しだけ不満そうな顔をしており、結子はヘラヘラしていた。

「天狗さんって、怖い人なんですか?」

「ん、そうだけど、どうして?」

「否定はしないんですね。天狗さんなら助けてくれるだろうとは思ってたんですけど、比々さん予想外に怯えていたので。」

「まあね。僕は…強いからさ。それにしても、比々の顔は傑作だったなあ!」

不満そうだった天狗が吹き出した。

「ちょっとやりすぎたなって反省してます。天狗の威を借りすぎました。」

「うんうん、反省は良いことだと思うけど。でも大丈夫だよ。比々は次の今日には、また今日のことなんか忘れて嫌な親父に戻ってるから。」

「あ、今日しかないのに、どうして比々さんは天狗さんが怖いって知ってたんですか?」

「どうやら、前の今日の事は、記憶に強い靄がかかるような感じらしいんだ。感覚とかそういうものはうっすら残る、らしい。」

「難しいですね。昨日も明日もないってどんな感じなんですかね。」

「この町に呑まれる、という事さ。」

二人は少しの間黙って歩いた。

「あ、結子さん。その鈴、もう人に渡しちゃダメだよ。絶対に。」

「善処します。」

「鳴ったのになんでもなかったら、僕も少しくらい怒るよ?」

「でも、この鈴が鳴ったら助けにきてくれるんでしょう?」

「うん。勿論。いつでもどこでも行く。」

結子は自分で相手の答えを誘っておきながらも、赤面した。

 天狗の渡した鈴について、結子は二つの意味合いを教えられていた。「この町の出入り口、例えばあの枝折り戸の前で鳴らせば、門が開く。鍵みたいなものだね。それからもう一つ。その鈴の音はどれだけ遠くにいても僕の耳に届く。だから、どうしても困った時は鳴らすと良いよ。」天狗はそう言った。結子は、この数ヶ月そこまで緊急事態に陥った事はなかったので、二つ目の使い方をしたのはこれが初めてだった。

 話していたら、浜久里邸の門まではすぐだった。

「じゃあ、僕はここで。」

「天狗さんは、ご飯食べていかないんですか?豚の目、ありますよ?」

「今日はまだ、仕事が残っているからね。あと、僕は豚の目はそんなに好きじゃないよ。」

「お忙しいんですね。天狗さんは豚の目はあまり好きではない、覚えておきます。」

「因みに、結子さんは豚の目好き?」

「これから初めて食べるんです。」

「じゃあ、あとで感想聞かせてね。今夜は遊びに行くよ。少し遅くなるかもだけど。」

「分かりました。待ってます。」

「じゃあ、また。」

いつのまにか天狗の背中には、黒い羽が一対現れている。天狗は悠々と羽ばたいて、雪の曇り空の中を、海の方へと飛んで行った。

 彼の背をしばらく見守ってから、結子は浜久里邸の門をくぐり、暖かい伽藍に入った。

「タカさん、ただいま-。」

「はいおかえり、目玉買えたかい?」

「買えた買えた、見てこれ。比々がおまけしてくれた。」

「比々が、?ハア、珍しいこともあるもんだ」

高女は、やっぱり腰をかがめて買い物籠を受け取った。

「あ、目玉、よーく洗ってから料理してください!」

 夕餉が出来上がるまでの間は、部屋で暖まって待っていよう。結子は自分に割り当てられた小部屋へと向かった。


「どうだ。結子、豚の目はうまかっただろう?」

結子が浜久里氏の部屋に、夕餉の膳を下げに行ったら、そんな風に訊かれた。

「うーん、田舎者の人間には難しい味でした。」

正直な所、結子はその獣臭さとどろりとした食感が受け入れられず、口に入れて飲み込まずに吐き出していた。同じ席にいた高女と倩兮女から、「勿体ない!」と散々文句を言われもしたので、おそらく二度と食べる事はないだろうとまで思っている。

「ふうむ、そうかそうか。そうだな。儂のように高貴なものだからこそ分かるあの味。小娘には早かったか。」

結子を小馬鹿にしたような口ぶりではあるが、その声色は心から残念そうだった。なんとなく面倒で可愛い爺さんといった感じの浜久里氏を、結子は気に入っていた。

「舌を磨こうと思います。」

「そうさな。これからも、お前が食べたことのないようなうまいものを、儂が思い出す毎に食わせてやる。有り難く思って励むと良い。」

「どうも、有り難う存じます。それでは、本日はこれにて失礼致します。」

「うむ、おやすみ。結子。」

浜久里氏は、飯が終わったら眠る。夕餉が終われば、結子は帰宅する時間だった。

 浜久里氏の部屋を出る際、宝船の襖を力一杯こじ開けて全開にする。これが、この家での彼女の、一番重要な仕事だった。


 ***


「結子さん。起きたら、もう少しだけ付き合ってもらうよ。送り方々、一番大事な仕事を、教えておこうと思うんだ。」

天狗は、妙に優しく微笑んだ。

「一番大事な仕事ですか?」

「そう。結子さんの仕事の中で一番重要だし、この町にとっても、かなり重要な仕事。」

 

目覚めた結子は、天狗に連れられて廊下に出た。天狗は、先程浜久里氏の部屋に向かった時と同じ道を辿って行く。大伽藍を出て、渡り殿を超えて、長大な廊下をずーっと進む。やがて見えて来るのは先程と同じ巨大襖。先の時よりは余裕があった結子は、しげしげとその絵を眺めた。

「これって、宝船、ですか?」

「流石、愛読書が石燕なだけあるね。『ながき世のとをのねぶりの』宝船だね。」

「これだけ大きいとすごい迫力ですねえ…。」

宝船を見入っている結子を尻目に、天狗は「失礼致します」と声を張り上げた。

 がらりと襖を開けて、天狗は寝殿に入った。結子も「失礼します」と言いつつ後に続く。天狗は浜久里に、夕餉は済んだか尋ねた。目の前には既に空いた膳がある。浜久里は済んだと返した。

「では、“開き”まして、そのまま結子を送ってまいります。」

「よいよい。なんなら、お前も今日はそのまま退がっていいぞ。密談は明日にでも持ち越そう。お前には考える時間を多少与えた方が面白い。」

「お言葉に甘えさせたいただきます。面白い話をよくよく練っておきましょう。では、おやすみなさい。」

「うむ。」

二人の会話が終わったところに、結子は慌てて「おやすみなさい」と頭を下げた。


 そして、天狗に教えられたのが、“開き”だった。

 寝殿、大廊下、渡殿、大伽藍。それらを結ぶ直線上の戸を全て完全に開ききる。“開き”はそれだけの単純な作業であった。

「開けたら寒くないですか?」

「ここはいつも暑いほど火が焚いてあるよ」

「危なくないですか?」

「この町にあって、この家を襲撃する妖怪なんていないさ」

「どうして開けるんですか?」

「浜久里氏の持つ、気を町中に放つためだよ。」

「気、ですか。」


 ***


「タカさん、ケラさん、じゃあ私帰りますからー、おやすみなさーい。」

「おやすみー」

「気をつけて、帰るのよ。」

伽藍を出る前、最後に同僚の二人に挨拶する。

土間で雪駄を突っかけて、大伽藍の戸を開けきって。その日も彼女の仕事は終わった。帰宅の時間だ。

屋敷の周囲を回って、池を迂回したら、黒々とした桜の木が作る小道へ入っていく。枝折り戸の前に立って、腰に吊った鈴を解く。慣れた動作で、その球体をするりと回し、自身の前の高さまで掲げて、揺する。

──カラカラリ、カラリ──

枝折り戸を一歩出ると、体中をじんわりとした熱気が包み込んだ。身に纏った服も、巫女装束からTシャツとジーンズに変化している。

 大きく伸びをしてから、結子は自分の家へと歩き始めた。

 今夜も天狗がくるらしい。彼が来る前にシャワーは浴びておこう。どうせ今夜も何もないけれど。

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