ディストピアの監視者の妻を裏切ってしまった
僕の妻は“監視者”だ。
今日も部屋の壁面いっぱいに監視カメラ映像を投射してキーボードを操作している。映像は早送りで、同時にたくさん流れているので僕には妻が何を見ているのか全く分からない。でも何をしているかはわかる。
規則に違反した人を報告しているのだ。
この都市では“コンピューター”が日々膨大な数の規則を追加していく。人間を殺してはいけないという基本的なものから、不貞行為の禁止といった道徳的なもの、飼育免許なく野生動物を飼ってはいけない、高度情報を扱うエリアで写真やメモなどの記録をとってはいけない、人間の腕をカニにしてはいけない等々、とてもじゃないほどたくさんの規則が生まれては更新されていく。
もちろんそんな規則を作るのはそうしなければならない理由があるからだ。人間は想像できることなら何でもやるし、人の想像につかないこともする。そんな人間が密集している都市は思春期の女子より不安定だ。たくさんの規則とそれを守らせる“監視者”と“執行者”がいないと、たちまち都市は崩壊してしまうだろう。
そのため彼女のような一生を都市の秩序に捧げられた一部の人間が、都市中に仕掛けられているカメラやマイクを使って監視している。彼女の下半身は機械になっていて、目も特殊な虹彩の機械の目になっている。
彼女の目は大量の情報を処理して、手はすさまじい速度で報告書を作り、脳は膨大な規則を詰め込んでいるが、日常生活では全く役に立たない。
彼女の目は多くの情報を取り込みすぎて長時間普通のものを見ると吐いてしまうし、手は箸より重いものは持てないどころか箸を持てない。足がないので動き回るには車いすが必要だし、手の皮膚と神経はキーボードですり減って触ってもほとんど感じられない。まさしく都市に捧げられた人柱だ。
反対に、僕はまったく普通の人間だ。僕の仕事は彼女の介護で、彼女の日常生活の補佐を行う。これは僕たちが結婚する前からそうだった。“コンピューター”によってあらゆる要素を勘案されて僕は彼女の介護を天職とされた。“コンピューター”の判断はいつも正しく、初めて会った時から僕は彼女に魅了された。
七色に光る瞳に、細く長い繊細な指。髪の毛のような極細のワイヤーが頭から伸びて下半身の機械に繋がっている。その輝く姿はまさしく人と機械でできた未来の申し子だった。僕はその美しさに圧倒され、彼女の優しさに包まれた。
彼女は今日の分のノルマを終えて画面を落とした。僕は彼女の車いすを押して、居間に運ぶ。その間彼女は無言だった。
口数が少ないのはいつものことだったが、今日は異様なほど押し黙っている。仕事で嫌なものを見てしまったときは、彼女はこうして一人の世界に閉じこもる。そのためいつものように静かに車いすを押して触れないでいたのだが、突然彼女が口を開いた。
「…………今週の月曜日、どこに行ってたの?」
彼女は車いすに揺られたまま、こちらを振り返らずに行った。ただの雑談と違い、その言葉にはどこか寒々しいものがあった。
「なんで?」
僕はとっさに疑問の言葉を口に出してしまった。その声色で僕が何かを隠していることに感づいたのか、彼女はため息をついた。僕は心臓がバクバクと音を立てて動いているのを感じた。
僕はその日、規則を破った。
彼女は“監視者”だ。たとえ身内であっても、規則に違反した人間は報告しなければならない。刑務所の存在しないこの都市において、規則に背くことは死を意味する。
僕の目の前に彼女の細い首筋が見える。素手で簡単に手折ることができるだろう。そして彼女が報告する前に殺さなければ僕が死ぬ。無論、監視者が死んだとなればすぐに“執行者”が飛んでくるが、彼女は仕事を終えたばかりで、次の始業時間までは時間が稼げる。
しかし、一つ疑問があった。彼女はどうしてすぐに報告せずに僕に問いかけたのだろう? ことの真相なんて、後で切り落とした首を解析機にかければいい。ここで本人に聞くよりはよほど効率的だ。
「私に隠し事ができると思っているの?」
そう、まさしくこの都市で起きていることならば彼女はすべてを調べることができるのだ。わざわざ聞く必要などない。
……逆に言えばこの都市の外で起きていることならば彼女にはわからない。
僕はその日、都市の外郭に出ていた。“監視者”の配偶者である僕は“監視者”が見ている場所が分かる。大量の監視カメラを確認しているといっても、過去の履歴である以上、画角は調整できない。僕はカメラの死角を駆使して完全にバレないルートを使って外に出た。わかるはずがないのだ。もしかすると彼女はカマをかけているだけかもしれない。それに僕が過剰に反応しているだけだったのでは。
「別に、買い物をしていただけだよ」
「嘘。外郭で誰と会っていたの?」
彼女が顔をこちらに向けた。無感情な機械の瞳が僕を捉える。相手を反射しないその瞳は無垢な動物のようにも銃口のようにも見える。僕は思わず目をそらした。
「ねえ、どうして黙ってるの?」
時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。その時計は僕が彼女のために買ったものだ。
僕は彼女を愛していた。いや、今でも愛している。都市に決められた恋人とはいえ、彼女に一度も不満を抱いたことはなかった。
彼女は“監視者”という都市の最高峰の職に就いているにも関わらず、決して驕ることはなかった。介護されている時も礼を忘れず、式典の時に車椅子と彼女の両方を抱えて階段を上る間、ずっと申し訳なさそうにしていた。食事の介助の負担を減らすために仕事中に点滴で栄養を取るようにもしてくれた。
しかし外に出るたびに幸せそうに休暇を過ごす家族連れが目に入る。仲良く公園を散歩する夫婦、風船を追いかける子供、親子で釣りをして、それを見守る母。そのすべてが僕たちにはありえないものだ。
“監視者”はVIPだ。あらゆる人間の恨みを買っているためそう簡単に外には出られないし、そもそも機械に繋がれた彼女とはできることも限られる。彼女の体は皮膚こそなめらかだが大半が機械に置き換えられている。触っても人のぬくもりは感じられない。冷たい肌に冷たい瞳。点滴のチューブに繋がれ画面を見続ける彼女は人間というより機械に近くなっていた。一緒にいても孤独に感じるようになった
僕は彼女を裏切ってしまった。
「すまない」
僕の言葉に彼女は目を閉じた。それは機械となって流せなくなった涙をこらえているようにも見えた。
「どうしてなの……?」
彼女の声は微かに震えていた。機械のような彼女にわずかに垣間見える感情の動きに僕は胸を締め付けられた。彼女がすぐに報告しなかったのは僕を引き渡したくなかったからだと気づいた。彼女はずっと僕のことを思ってくれていた。
「私の何がいけなかったの?」
「……君は悪くないんだ。僕が全て悪い。“執行者”を呼んでくれて構わない」
僕には彼女を殺して逃げることはできない。“監視者”である妻を裏切り、その栄誉ある職を追われた僕はきっと凄惨な刑に処されるのだろう。僕はそうなるのが当然の悪人だ。
「…………相手は誰?」
彼女がぞっとするほど冷たい声を出した。
「…………」
あの子を売るなんてことはできない。僕が悪いのだ。彼女というものがいながら魅了された僕が。柔らかく包み込むような感触の皮膚、愛くるしい濡れた瞳、聞くものすべてを魅了する声、短い手足。僕にはそのすべてを鮮明に思い出すことができた。
「この家でも会っていたでしょう? 連れてきて」
僕は息を呑んだ。僕は彼女が仕事でスクリーンに向かっている間、あの子とひそかに会っていた。なんという裏切り。しかしあの子の目で見つめられると拒めなかった。
「……できない」
「あの泥棒猫を連れてきて!!」
彼女がそう叫ぶと玄関を蹴破る音が聞こえた。複数の黒服たちが突入してくる。“執行者”たちだ。
“執行者”たちは僕を取り押さえた。そして彼女の前に跪かせる。彼女は僕の顔を覗き込んだ。僕は咄嗟にあの子の隠れていない方に目をそらした。その浅はかなふるまいを彼女は笑った。
「あそこね」
彼女があの子が隠れているところを指さす。“執行者”の一人がそのクローゼットの前に立った。
「待ってくれ! 僕がすべて悪いんだ! その子は見逃してくれ!」
僕の魂の叫びを彼女は一笑に伏した。
「開けて」
“執行者”がクローゼットを開く。そしてあの子の首根っこを掴んだ。
「にゃー」
一匹の黒い猫が黒服に引っ張り出された。それを見て彼女は呆然としていた。
そう、僕は規則を破った。免許もないのに猫を飼育してしまった。外郭で歩いている黒猫に僕は目を奪われた。酷く痩せて腹をすかせたかわいそうな子猫に僕は餌を与えてしまった。猫はとてもおいしそうに食べた。それを見て、自分を律することができなくなってしまった。必死にご飯にかぶりつくその姿は、かつて点滴を打ち始める前の僕の手でご飯を食べる彼女の姿に重なった。
僕はすぐにその子猫に入れあげてしまった。そして危険を冒してまで連れ帰ってしまったのだ。彼女は猫が苦手だった。ほとんど動けない彼女は全く予測できない生物が恐ろしくてたまらないのだそうだ。だから言い出せなかった。
「すまない……すまない……」
うなだれる僕を彼女は半目で見た。
「ごめんなさい、“執行者”さん。もう帰っていいです。猫は私が飼育免許を持っているので問題ありません」
そういって彼女は“執行者”に頭を下げた。“執行者”たちは猫をひと撫でして帰っていった。
僕は彼女に土下座した
「本当にすまなかった! 僕は君だけを愛すると誓ったのに……僕は裏切ってしまった!」
彼女は目を細め微笑んだ。
「もういいのよ。別に猫を飼うくらいどうってことないわ。今はあなたがいてくれるから」
「ありがとう……愛してる」
「ええ、知ってるわ」
その翌日、子猫は仕事中の彼女のキーボードに飛び乗って数名の無実の人間を“執行者”のもとに送った。