黄昏の断片・別の世界の話
そこは森の中だった。木々は鬱蒼と茂って太陽を覆い隠し、暗く湿った空気を作り出している。
昼夜の感覚など既に失い、この森に現れてからどれほどの時間がたったのか、彼女にはわからなかった。だが人間が飲まず食わずで生きられる時間というのは比較的有名だ。およそ三日。全身の力が抜け、動く気力を失いつつある今、きっと死のタイムリミットが迫っているのだろうと、微睡の中で彼女の意識は途絶えた。
感じるのは、温もり。これは、何の暖かさ?
眼を開けると、目の前には少女の顔があった。こちらを見つめ、妖しげな笑みを浮かべながら笑いかける。
「おはよう。名前は『紅葉』でいいの?」
華奢で可憐。その言葉がふさわしい少女であったが、顔を見ると同時に得体のしれない恐怖が紅葉の身体をふるわせる。左目だけを隠す黒髪の隙間から、ちらちらと見える光。黒い右目とは全く違う紫色の瞳が見えるたびに、なぜか恐怖を抱かずにはいられない。人の身では理解の及ばない何かがそこにはある。だが、そう気づける者さえ少数で、大半は紅葉のように謎の恐怖を覚えるだけである。
「……。答えてくれないの?」
顔に気を取られ何も言葉を発しなかった紅葉に対し、不機嫌そうな様子で語りかける少女。
「あっ、うん。紅葉だけど……。」
答えながら周りを見渡せば、自分がベッドに寝かされていたことがわかる。大きな部屋だが、どうやら家具はベッドしかないようだ。壁に窓はあるが光は差し込んでいない。床に自分のかばんが落ちているのを見れば、この少女に助けてもらったのだろうと考えが及ぶ。
「紅葉、懐かしい響きね。もう遠い昔の話ではあるけど。とてもきれいな名前だし、大事にね。」
「う、うん。」
「で、とりあえず紅葉のことを聞かせて。なんでこの森にいたの?もしも私が見つけなかったら、間違いなく死んでたよ?」
「私、気づいたらいつもと違う場所に……あ、いや何て言えばいいのかな……。」
言葉に詰まるのも無理はない。幼馴染と一緒に通学している途中、ふと眠気を感じた次の瞬間にはもう、森の中だったのだから。幼馴染ともはぐれてしまい、森の中をさまよい続け、もう力尽きる寸前の場所でこの少女に助けられたというのが一連の流れである。
「うん、まあ大丈夫。おおかた予想通りの解答だもの。本来ならこの世界にはいないはずの存在。それが紅葉ね。あなたの持ち物はこの世界には存在しえないものだから。それに、名前を隠すこともしていない。ほかの場所ならともかく、この森でそれはありえないわ。」
「えぇと……。」
情報量が多すぎる。話を聞く限り、どうやら目の前の少女は紅葉の状況に気付いているらしい。この世界の人間ではないことさえも。
「とりあえず、急いで偽りの名を決めましょう。……『楓』がよさそう。最初は違和感を感じるかもしれないけど、すぐに慣れると思うし……どう?」
どうと問われても返答に困る。いや、それ以前に一つの大きな疑問が紅葉の、いや楓の口をついて出る。
「ねえ、貴女は私の世界を知ってるの?」
少女は再び怪しげな笑みを浮かべながら答えた。
「さあ、どうでしょう?」
僅かに恐怖が増したように感じるかえdだった。
「さあ、楓。貴女がどんな存在にせよ、この世界で生きていくのなら、まずは学ぶ必要があるわ。とりあえずは私と一緒に生活しましょう。いろいろ教えてあげる。」
「え、でも私……友達を探さないと。」
「そう……。でも、それなら楓はどうやって生きていくの?この森から出ることもできないのに。」
「そ、それは……。」
「それに、この世界は平和な場所じゃないわ。森の中でも戦わなきゃいけないかもしれない。森の外に出れば間違いなく戦いに巻き込まれる。友達を探すのも良いけど、まずはこの世界のルールを知っておきなさい。」
「わ、わかりました。」
「うん、素直でいい子ね。それじゃあ……。」
そういって少女が取り出したのは、文様の描かれた灰色の板。見た目から何でできているかはわからず、ただ不思議な文様が一面に彫られているだけである。
「まずは楓に魔法を授けましょう。ここは魔女の住む森。楓はこの森に惹き付けられた。だから楓は魔女として、この世界で生きることを勧める。……まあ魔法が使えると便利だもの。持っていて損はしないから安心して。」
そう言って紅葉の右手を板の上に乗せる。彫られた文様の一部が輝き始め、新しく光の文様を生み出す。
「これは……『檜と月桂樹』。楓にふさわしい文様ね。」
そのまま文様は右手の甲に吸い込まれ、消えていった。
「楓の魔法は『花魔法』。あらゆる花を咲かせ、その『花言葉』を魔法として操るもの。当然、使い手は楓一人。私と生活する間に、使いこなせるようにしないとね。」
続けて、一本の棒が手渡される。
「これが楓の杖。そして魔女たる証。楓が魔女でいる限り、その杖を手放してはいけないわ。あと、誰かと会うときには、しっかりと先端をもう一方の手で握っておいてね。『敵対の意思はありません』って証明だから。そうしている限り、この森で襲われることは無いし、罠にかけられることも無い。むしろ、楓に危害を加えたのなら、その魔女は魔法を失い、魔女ではなくなる。」
ふと、紅葉が気になったことを少女に問う。
「あの、貴女はなんて呼べば……?」
少女は笑って答える。
「私は『黄昏の魔女』。この森では、『イヴ』って呼んでくれたらいいかな。もちろん嘘の名前だけど。」
イヴ。自分を助けてくれた少女の名をしっかりと記憶に刻み込む。それが偽りの名だとしても、自分と少女をつなげる大切な縁である。
「大事なルールはあと一つ。さっきも言った名前の話。魔女は『魔女の名』を持つの。『イヴ』もそうだし、『楓』もそう。私たちの魔法はこの名前によって創り上げられている。だから、決して『本当の名前』を明かしてはいけない。本当の自分は何も持っていないのだから、魔法は使えない。相手が『楓』はこんな魔法を使ってくるのかもと思うその力が、この世界では大きな力になる。」
「うん、わかった。」
うなずきながら考える。紅葉の居た世界では『紅葉』と『楓』が指すものは同じである。これは偶然だろうか。その割には何か狙ってつけているようにも思えてくる。もしかすると幼馴染が気づいてくれるようにといったことを考えたのかもしれない。自分のすべてが、髪に隠された紫の左眼に見透かされているような、そんな気がして仕方ない。あの瞳は、隙間から見えるたびにそんな不思議な感覚を与えてくるのだった。
こうして紅葉の、魔女としての生活が始まる。
「今宵はここまで。もしも再び、黄昏の中でお会いしたのなら、彼女が駆け抜けた大きな物語を、お話ししましょう。」