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近江の轍  作者: 藤瀬慶久
十一代 甚五郎の章
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第82話 琵琶湖の鮎

 


 1868年(慶応四年) 四月六日  江戸 墨田川



「おおーい!どうしたぁ?」

 墨田川の船の上で酒食を楽しんでいた三井越後屋手代の堀江清六は、行き交う船から声を掛けられて心臓の鼓動が早くなった。


「どうしったって、何がだい?」

「いや、そっちの船は人数の割りにえらく沈んでるから、重い物を運んでるなら手伝ってやろうかとな」

 相手の船の船頭の言葉に胸を撫でおろしつつ、清六は明るく答えた。


「さっき船内に水をこぼしてしまってなぁ。ちょいっと沈んでるが大丈夫だ」

「そうか。それならいいが… 気を付けていけよ。ここらも物騒だからな」

「ありがとう。気を付けるよ」


 そう言って挨拶を交わして通り過ぎるが、内心ではビクビクしていた。



 三井越後屋が新政府に付いた三日後、旧幕府軍と新政府軍が街道の通行を巡っていさかいを起こし、ついには戦端が開かれた。

 『鳥羽伏見の戦い』

 戊辰戦争の幕開けだった。


 一月十七日に新政府に会計事務科が設置されると、三井は小野組・島田組と共に金穀出納所為替御用達に任命され、一万両の御用金を献上した。

 二月には会計事務科が会計事務局に改編され、合わせて三井ら三家の役目も御為替掛屋と変わる。


 戊辰戦争に合わせて三井は手代の堀江清六を官軍に同行させ、行軍先で兵糧や軍用金の調達に当たらせた。

 官軍は東征を続け、板橋に到着すると清六に十万両の軍用金の調達を命じた。

 混乱する江戸にあって為替を使う事は出来なかったが、それでも何とか一分銀で二万五千両を調達すると、駒込から船で墨田川を下って板橋へと向かった。


 陸路では旧幕臣や浪士が潜伏していて危険だったからだ。

 行きかう船にもまさかカネを積んでいるとは言う訳にもいかず、遊山船を装って船上で酒食を楽しみながら進んだ。


 もっとも、酒を飲んでいながらも清六は常に辺りを気にして生きた心地がしなかった。

 ここは江戸―――つまり未だ旧幕府に同情的な町であり、新政府の軍用金だとバレたら略奪される事はもちろん清六達も生きて戻れないかもしれない。


 油断なく辺りに視線を配りながら薪屋河岸まで到着すると、そこから板橋の官軍本陣まで無事軍用金を届けた。




 1868年(慶応四年) 五月  京都 三井越後屋




「これが太政官札ですか……」

「なんとも頼りないものだろう」

 三井の大番頭・三野村利左衛門は、越後屋両替店の手代と共に新たに発行された太政官札を前にただただ苦笑するだけだった。


 戦費調達に苦しむ新政府は、商人達の資本力を背景に不換紙幣である太政官札を発行し、これを貸し付ける事によって戦費を調達しようと目論んだ。

 元より不換紙幣であり、信用を背景としないカネが流通するはずはなかったが、新政府にはその事を理解できる官僚は一人も居なかった。



 通貨は信用によって名目価値を付与される。

 だが、通貨の本質的な価値である信用が付与されていない紙幣など紙屑と変わらない。

 明治維新において、少なくとも貨幣制度については江戸時代よりも大きく後退した。


 何度も見てきた通り、通貨はその価値を信用によって作るというのが大原則だ。

 兌換紙幣とはその信用を貴金属によって担保する。

 金を本位貨幣とすれば金本位制となり、銀を本位貨幣とすれば銀本位制となる。


 イギリスポンドが世界で通用するのは、ポンド紙幣を持って行けばイングランド銀行がそれと同額のポンド金貨と交換してくれるという前提があるからだ。

 そうやって紙幣にすることで貴重な貴金属を通貨として流通させることを避けられるし、イングランド銀行が信用されている限り現物としてのコインである必要はなく、ただの紙切れが通貨として通用する。


 その結果、ポンドは限りある資源である金を節約できる。

 紙幣が一度に全て金と交換される時はイギリスが滅亡する時だから、イギリスが信用されている限り金との交換は限定的になる。

 つまり、実際の金保有高よりも多くの通貨を流通させることが可能になる。


 ニクソンショック以降は兌換紙幣ではなくなったが、その代りに世界の通貨は『米ドル』を本位貨幣として使用することになった。

 要するに日本銀行は米ドルの信用力、言い換えれば世界最強国のアメリカの国力を担保として信用を発行している。


 日本銀行や世界各国の中央銀行がアメリカ国債を買い入れ、外貨準備として米ドルを保有するのはひとえにこの為だ。

 米ドルや米国債を所有することによって、その信用力を担保として自国通貨の信用を確保する。

 それ故にアメリカとの国力・経済力の差で為替相場が変動する。



 しかし、新政府が発行した太政官札は金や銀との交換は出来ない。つまり、信用を担保するものがない。

 その為、太政官札の価値はそのまま紙とインクの価値しかない。

 通貨の本質である信用による名目価値が付与されていないからだ。

 まして、薩長を主体として『借金を踏み倒す事』しかしてこなかった者には信用も何もあるわけがない。


 これら通貨の理屈を理解しているのは度重なる改鋳で理論を蓄積してきた幕府官僚たちであり、イギリスのポンド紙幣の形式だけを真似た新政府の幣制は当初からお粗末なものだった。



 結局、新政府は今まで経済の第一線で戦って来た商人達に頼らざるを得なかった。




 1868年(慶応四年) 八月  京都御所



 小石川三井家の当主・高喜は、大坂の豪商『加島屋』の広岡久右衛門と話し込んでいた。

 広岡家には久右衛門の兄・広岡信五郎に高喜の妹である浅子が嫁いでいたが、広岡浅子は勝気な性格で夫である信五郎や当主である久右衛門にも遠慮なく物を言った。


「これは広岡さん。浅子はご迷惑をおかけしておりませんか?」

「主人が商売の事を分かっていないのはおかしいと、帳簿や算術などを奉公人達から聞きまわっておりますよ」

「それは… なんともお恥ずかしい」

「いえいえ、さすがは三井家の子女と感心しているところです」


 心底恥ずかしそうに項垂れる高喜に対し、久右衛門は逆に本心から感心したような顔で笑っていた。



 半月前の七月十七日

 江戸は東京と改称され、この八月には天皇の東京行幸が発表された。

 三井、広岡は共に行幸に伴う金穀出納係として指名されていた。


 今回の東幸に関しては三井・広岡の他にも小野・島田・鴻池・長田・殿村などの京・大阪の豪商達がその任に指名されている。


 東幸に当たって政府は太政官札を積極的に使う事で流通を図ろうとしたが、そもそも根本的に欠陥を抱えた紙幣がまともに流通するはずはない。

 結局は豪商達に金を出してもらうしかなかった。


 新政府はそれ以外にも二分判金などを鋳造して財源に充てようと画策するが、政府鋳造の二分判金はそもそも品質が悪く贋金づくりが横行した。

 二分判金の信用が下がったことで逆に太政官札に信用力が出て来るという奇妙な現象を起こしながら、新政府官僚たちはようやく貨幣の仕組みという物に真剣に向き合うようになっていった。




 1868年(明治元年) 十二月  近江国八幡町




「それじゃあ、行ってくる」

「気を付けて」

「元気で勤めを果たしてください」


 近江の八幡町では、新たな時代の旅立ちを迎えていた。

 二十二歳の青年、伊庭貞剛は師である西川吉輔の後を追って京都へと旅立つ所だった。

 見送りに出ていたのは二十歳になった西川甚五郎と、十二歳の西川貞二郎だった。


 三人は共に西川吉輔の元で学んだ同門であり、甚五郎は山形屋十一代目、貞二郎は北海道開発を行った近江商人・住吉屋西川傳右衛門の十代目だった。



 戊辰戦争も主戦場は東北地方へと移り、近畿は平穏を取り戻していたが、幕府が倒れた事で今までの幕府御用金や大名貸しはすべて貸し倒れとなり、幕末不況の影響もあって八幡商人もその多くが破産していた。

 山形屋は度重なる御用金や幕府への弓代金の売掛が全て焦げ付きとなり、住吉屋も正に今北海道で戦端が開かれようとしている最中にある。

 天正年間から続く商都八幡町と言えども今や風前の灯に見えた。



「行ってしまいましたね」

「ああ。貞二郎も戦争が収まったら北海道へ行くんだろう?」

「ええ、やっぱり住吉屋は北海道を開発しなければなりませんから」

 貞二郎のにこやかな笑顔に甚五郎は一抹の寂しさを覚えた。


 ―――みんなバラバラになってしまうな


 甚五郎自身、来年には東京と名を改めた江戸へ行かねばならない。

 東京の店も心配だし、明治維新で被った被害から立ち直るために改めて商売の仕組みを整えなくてはならない。

 落ち込んでいるヒマは無かった。


 貞剛は十歳下の貞二郎を良く可愛がり、甚五郎もそんな二人と共に遊ぶのが何よりの楽しみだった。

 三人で居る時だけは山形屋当主としての重圧から解放され、年相応のやんちゃ仲間として泥だらけになって遊んだものだ。



 彼ら三人はやがて明治を代表する実業家へと成長していく。

 彼らだけでなく伊藤忠兵衛・外村与左衛門・山中兵右衛門などの著名な近江商人達は、近江を飛び出した事で実業家として大成していった。

『琵琶湖の鮎は外に出て大きくなる』という格言の通り、若き鮎達は日本の暮らしを豊かにするために近江を飛び出して全国へ散っていく。


 山形屋初代仁右衛門の歩いた轍は、ついに世界を舞台としてその先に進み始めた。



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