第38話 丸に井桁三
1672年(寛文12年) 夏 伊勢国飯高郡松坂 越後屋
高利の長男八郎右衛門高平は二十歳になり、釘抜越後屋から一旦奉公満了としてお盆に合わせて伊勢に里帰りしていた
「父上、私も二十歳になりましたし独立して江戸に店を持ちたいと思うのですがいかがでしょうか?」
「江戸に?元手はどうするのだ?」
「江戸に奉公に出た際に持ち下った十両分の木綿は都合三十両ほどになりました。また、店に預けてある給金も五両ほどにはなります
合わせれば江戸で小間物屋を開くことはできると思います
小間物の商いを拡大し、ゆくゆくは呉服の商いをしていきたいのですが、お許しいただけましょうか?」
江戸期の商家奉公人は給金を受け取るが、それは直接渡されるのではなく店に預けて独立する時に店から一括して引き出すのが習わしだった
奉公人は修行中は店で暮らすので生活費はかからなかったし、途中での無駄遣いを防ぐ意味でも商いを志す者には有効だった
店としても即座に現金支出が出るわけではないので、預かった給金を商売などで運用して増やしてゆくことが出来る
奉公人は店が増やしてくれた給金を持って念願の開業資金に充てる
双方に利のある制度だった
もっとも、店が傾けばそのまま引き出せないということもあり、それなりにリスクもあった
「江戸で小間物屋をか… ふむ…」
高利は息子の成長に目を細めながらも内心複雑な思いを抱えていた
―――息子に言われるまでもなく、まずはそもそも自分が江戸に店を出したい
これが高利の偽らざる本音だった
重俊との約束を律儀に守り続けた高利だが、この頃『寛文文様』と呼ばれる新たなデザインが隆盛し、未だ呉服の商いを諦めきれない高利に次々と新たなビジネスチャンスを見せつけていく
高利は切歯扼腕しつつも伊勢の本家越後屋の経営を支える為に粉骨砕身していた
高平が呉服の商いを言い出したのはそんな頃だった
この頃江戸や京で相次いだ火事は住民の住居と衣服を焼き、呉服は大きな需要期を迎えていた
また、徳川将軍家から入内した東福門院和子は宮中に小袖の文化を根付かせた
和子はファッションセンスに優れた女性で、特に余白を大胆に使って大模様を際立たせるデザインを愛好した
尾形光琳・乾山兄弟の実家である雁金屋は和子に贔屓にされ、和子のファッションセンスは木版に起こされて『雛型本』という今日のファッションカタログのような機能を果たした
折しも、京・大坂・江戸の町で新たなマーケットを形成しつつあった富裕町人達は彼女のセンスを真似ながらも独自の発展を見せ始め、元禄文化に代表される町人文化の息吹を感じさせ始めていた
「ここだけの話だがな、お前に言われるまでもなくそもそも私が江戸に呉服屋を開きたいと思っている
しかし、三郎兄様と顧客を奪い合うのも拙い
顧客の奪い合いにならぬように考えるから、ともかくもお前は江戸で適当な店用地を探しておいてくれんか」
「!!…わかりました!」
父の想いを聞き、目を輝かせた高平は意気揚々と江戸へ戻って行った
高利は釘抜越後屋の江戸支配人の庄兵衛や徳右衛門・理右衛門への文を持たせ、協力してもらうように高平に言づけた
彼らならおそらく自分のやろうとしていることを理解してくれるはずだ
兄三郎左衛門と競合しないということを…
1673年(寛文13年) 夏 伊勢国飯高郡松坂 越後屋
「三郎兄様が亡くなったか…」
それは長男八郎右衛門高平の江戸出店の事情を説明したい。ついては一度会って話がしたいと書いた文の返書だった
突然のことで、それまで俊次が体調を崩したといった連絡は一切なかった
涙は出なかった
目の上のたん瘤として疎ましく思ってたということもあったが、重俊と違い長兄俊次はやりたいことをやりたいだけやって逝けたと思ったからだ
―――おそらく満足な一生だっただろう
俊次の長男俊近からは、密葬は家族で済ますが葬儀には三井本家を代表して参列してほしいと文が届いていた
暗に高利が三井本家総領であることを認めていた
これによって自らが本家である以上江戸に店を出しても『三井を割った』ことにはならないという大義名分が成り立つ
最早高利を伊勢に縛り付けるものは何もなくなった
長兄俊次の死後二カ月も経たない寛文十三年八月
高利は江戸本町一丁目の高平が見つけてきた場所に『丸に井桁三』の暖簾を出して三井越後屋を開店した
間口九尺(約2.7m)の小さな店だった
高利は五十二歳
当時で言えば隠居して家督を譲っていてもおかしくはない年齢だった
ほぼ同時に高利は京に呉服仕入れ店を構え、京の仕入れ店を長男八郎右衛門高平に任せ、江戸の越後屋は次男次郎右衛門高富を支配人に据え、自らは伊勢で越後屋の総帥として店規則の整備や監査などの経営業務に専念した
徳右衛門や理右衛門は高富に付け、江戸店の販売力を強化した
江戸に店を構えた日、高利は高平・高富・徳右衛門・理右衛門らと共にこれからの構想を語り合った
「これからは庶民が呉服の顧客層になる。そのためには今のように呉服が一部の高級品であっては駄目だ
高平は江戸店からの注文如何に関わらず、値が安くなった時や値打ち品などを積極的に買付けよ」
「しかし父上、それでは釘抜店同様に在庫の山を抱えることになりませんか?」
「心配するな。私に秘策がある」
高利は不敵に笑う
徳右衛門・理右衛門も同様だった
高利が若き江戸支配人だった頃、さんざん話し合ってきた商法だった
「しかし、いささか元手が足りませぬな」
「また伊勢で出資を募らねばならんか…」
高利は苦笑した
しかし、今までの大名貸しの為の出資を募るわけではない。自分に出資してくれと頼むのだ
年甲斐もなく活力に満ち満ちていた
1673年(延宝元年) 秋 蝦夷国夷人地オショロ
『住吉屋』西川傳右衛門はアイヌとの交易が再開されると、オショロ・タカシマを商業知行地に拝領していた松前藩家老の下国安芸守の御用を願い出て、漁場の開発に当たった
シャクシャインの戦いで中断されていた定置網漁を再開し、引き取ったアイヌの兄弟を中心にアイヌ人を現地雇用して住吉屋の従業員として働かせ、一定の食料供給を約束した
昔ながらの自分働き(自前で漁をして交易する)も認めたが、住吉屋の手代として働けば松前藩からも同族のアイヌからもうるさいことを言われなかったので、自ら望んで手代に加わる者も増えた
「まず人は食わねばならん。食う物に事欠かぬようになってから、自分働きをすると良い」
「デンエモン様。しかし、米の交換比率はマツマエ様に決められているのではないのですか?」
「自分働きならそれに従わねばならんな。だが、住吉屋の手代ならば支払う給与は私が決めるのが筋だ。
なに、心配は要らぬ。ご家老の下国様からは私に一任するとの覚書を頂いておるのでな」
傳右衛門は知行主である下国安芸守から知行場の一括請負を行っていた
今までは交易は知行主の領分であり、商人はあくまで手数料を得てその代行をするという立場だった
傳右衛門は知行場の運営を請負う代わりに毎年一定額の運上金を知行主である下国安芸守に献上した
後年の蝦夷開発のスタンダードである『場所請負制』の走りだった
知行主にしても交易の成果は常に一定ではない
それどころか江戸や上方の需要次第では思うように売れないこともあった
それに比べて一括請負ならば毎年一定の額が契約によって手に入る
知行主にとっても旨味のある話だった
一方、定置網の登場で和人だけでは手が足りなくなり、漁には現地アイヌ人の労働力が不可欠になってくる
雇用に伴う労務管理と販売相場を意識した産物の収穫等、漁場の経営のような高度に商業的な事案は武士の手には余る事だったのも制度の普及を後押しした
アイヌ達は安心して住吉屋で働くようになった
傳右衛門が持ち込んだ越後の定置網は今までの刺し網よりもはるかに効率良く漁が出来たため、漁獲量自体も上がって行った
傳右衛門の着想はまるっきり西洋式の大規模農園の発想だった
生産資材を持ち込んで現地人を労働力として雇用し、収穫物を本国へ持ち帰って利益を上げるという方式はそのまま植民地経営の産業資本家の行動に当てはまる
つまり江戸期の日本においても植民地経営は行われていた
ヨーロッパでは万里の波頭を超えた先で農園を経営したが、日本では津軽海峡を超えた目と鼻の先で漁業を経営した
違いと言えばそのくらいだった
そもそも、ヨーロッパにおいても初期の植民地投資は純粋に利潤のみを追求したものではなく、未開の先住民に対して文明化によって生活水準を向上させ、取引相手としての『市場』を創造するという大義を持っていた
実際、植民地経営で成功した事例は実は意外に少なく、通常は先行投資や行政の整備、駐在員のケアなどの莫大な経費によって赤字経営に陥ることの方が多かった
傳右衛門は彼らを奴隷ではなく貴重な開発の人的資源として活用することを目論んでいたので、その意味でも本来の大義としての植民地経営を行った
彼は元々蝦夷の特産だった塩鮭を中心に上方へ持ち下ったが、同時にニシンを新たな特産品にするべく知恵を絞った
本土では干鮭よりも脂の乗った塩鮭の方が喜ばれたので、高値で売れる塩鮭を加工品の中心に据えた
また、たまに北前船に乗って上方へ行く機会があると上方の文化の動きをつぶさに観察した
―――今はもう米だけを食う時代じゃない
これからは多様な食の要望が出るはずだ
ニシンも肥料ではなく食料としての市場開拓を考えた方がいいかもしれん
干したカズノコはもうすでに食品として流通し始めている
しかし、身の方は現状捨ててしまっている
干して肥料にとも思ったが、身も干して食品として持ち下ってみるか
まだニシンに関しては試行錯誤が続いていた
ともかくも蝦夷の産物を全てカネに変える仕組みを作れれば、アイヌの生活の向上に繋がるはずだと傳右衛門は考えた